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第5章「静寂の冬」
(5)
エドゥアールがラヴァレの谷で春を迎えるのは、これが二度目になる。
だが、去年と今年では決定的に違うことがひとつある。去年はまだ、谷の冬を経験していなかった。
雪に埋もれた家に閉じこもり、かじかんだ手を暖炉にかざしながら、まるで穴モグラのように息をひそめる毎日。うなり声をあげて吹き抜ける嵐に、かすかな春の予兆をかぎ取ろうとする。微睡みのうちに緑の草原を裸足で駆け、花の香りに包まれて深呼吸する光景を夢見る。
その長い陰鬱な日々がなければ、本当の春の喜びを知ったことにはならないのだ。
今年最初の雪割り草が伯爵家の庭に顔をのぞかせた日、朝のお茶を運んできたロジェに、エドゥアールは目覚めそこねた顔で、ぼんやりと言った。
「なんだか、皮膚のあちこちがむずむずする」
「さようですか」
「自分の意志とは関係なしに、手足が踊りだしそうだ。力が行き場をなくしたみたいに、腹の中をぐるぐる回ってる」
「なるほど」
「いったい何が起きてるんだ」
「ついに、春が来たのでございますよ」
白髪の執事は、にっこりと少年のような笑みを浮かべた。
「もうそろそろかと思っておりました。若旦那さまが鉄砲玉のように外に飛んで行かれる前に、館じゅうの窓を開け放たなければなりませんな」
使用人たちは、その日のうちに総出で、領館の窓という窓の鎧戸を、屋根裏から地下の天窓に至るまで開け放った。
暗い館の中にさっと白い光が射し込み、部屋のすみずみまで明るく照らし出した。さすがにまだ冷たい風が廊下を駆け抜けたが、誰も寒いと首を縮める者はいない。メイドたちはきゃあきゃあと笑いながら、床の隅に隠れていたひと冬の埃を見つけては、特大の箒で外に掃き出した。
シャンデリアはゆらゆらと揺れながら、柄長のモップで埃をはたき落とされ、扉や窓の蝶番には、新しい油がたっぷりと塗られた。
下働きの女たちは、外の洗濯場いっぱいに水を張り、歌いながら分厚いカーテンを足で踏んで洗った。
窓のカーテン揺らすのは 春の風
あの娘の裳裾揺らすのは 誰の手?
女たちの戯れ歌を耳にしたソニアは、モップを動かしていた手を止めた。
(ああ、いいなあ)
去年は自分も、あの輪の中に混じって一緒に歌っていた。せっかく、あこがれていたメイドになれたというのに、なぜ昔をなつかしく思ってしまうのだろう。
慣れた水仕事は、つらかったけど何も考えずにすんだ。今は、いくら手落ちのないように気を配っても、先輩たちに怒鳴られてばかり。いっそのこと、下働きでいたほうが幸せだったのかもしれない。
(ああ、いけない。また休んでいたら怒られる)
水の入ったバケツとモップを両手に提げて、掃除を終えた部屋から廊下に向かう。風が強いので、扉はあっと言う間に閉まってしまう。お尻を突き出して扉を押さえながら、なんとかすり抜けようと試みていると、閉まろうとする扉がふわっと開いた。
「はい、どうぞ」
誰かが扉を押さえてくれているのだ。
「あ、ありが……」
振り向いて礼を言おうとしたとき、ソニアは驚愕した。
「わ、わ、若旦那さま!」
「あれ、ソニアじゃないか」
この館の若き当主は、古い友人のような親しげな笑みを最下層のメイドに向けた。
「メイドになれたんだね。その服すごく似合ってるよ」
ソニアはあわててバケツとモップを床に置いて、頭を深く下げた。頬が熱く火照り、首筋から湯気が上がってくるような気がする。
「お、お、お礼申し上げます。わたくしなどをメ――メイドに、ご推――挙くださいまして」
「決めたのはアデライドだ。きみがもっと上の仕事にふさわしいことは、みんな知ってる」
「そ、そんな――」
「しばらくは大変だろうけど、頑張れよ」
頭に暖かな感触があった。顔を上げたとき、伯爵の後姿は階段を上がっていくところだった。
(若旦那さま――)
ソニアはしばらく、呆けたようにその場にたたずんだ。
そして、くるりと振り返って、今からモップをかけるべき長い廊下をにらんだ。
先ほどまで感じていた疲れも気だるさも吹き飛んでしまっている。全身に力がみなぎってくる。
ソニアは腕まくりをして、廊下に向かって叫んだ。
「待ってなさい。今ぴかぴかにしてあげるわ」
家令のオリヴィエが書斎に入ると、主はお気に入りのおもちゃに囲まれた少年のように、水車小屋の設計図を机の上に広げていた。
「地面の雪も融けたし、十分な材木もそろった。明日からでも本格的に水車小屋の建設にとりかかってくれ」
「承知いたしました。さっそく大工の棟梁たちに申し伝えます」
「これで、この領内の水車は十一基になるな」
「はい」
「ちょうどいい機会だから、この際、水車小屋を伯爵家の資産から外して、村々にゆだねようと思ってる」
「は?」
信じられぬことばに、オリヴィエは目を剥いた。
エドゥアールは椅子から立ち上がると、どっかと机の上に腰かけた。
「村長を集めて、各村からひとりずつ代表を選んで組合を作らせる。水車の管理、粉挽きの順番決め、小麦商人との交渉は、すべて、組合が執り行なうってことだ」
「お、お待ちくださいませ」
「なんだよ。文句でもあるのか」
「もちろんでございます。そんなことをすれば、この伯領の小麦売買は大混乱に陥ります」
「少なくとも、水車小屋の管理人の不正はなくなるはずだけど?」
エドゥアールは、含みのある言い方をした。あれほど命じられていたのにも関わらず、昨年の小麦の収穫時期にも、粉挽き場での賄賂は公然とはびこり続けた。
一度甘い汁を吸ってしまった人間の権益への執着は、それほどまでにすさまじい。そのことを後で知ったオリヴィエ自身が、ぞっと肝を冷やしたほどだ。
従来の仕組みをばらばらに解体しなければ、収賄の構造は根絶できないのかもしれない。
「おまけに」
一枚の表を渡された。
「大麦と小麦の卸値は、領内でもこんなにも差がある。水車小屋ごとに複数の買付けの商人とばらばらに交渉しているから、管理人によっては思い切り足元を見られてやがる。それから」
まだ二十歳にもならぬ伯爵は、次々と驚くべき手札を繰り出してくる。
「ラヴァレの谷から全国に出荷された小麦の抜き打ちの検査結果だ。一袋あたりの重さが表示より少なかったものが三割を占める。これでは、信用されねえのは当たり前だ」
「こんなことが……」
家令の手は、驚愕と怒りのために、ぶるぶると震えている。「商人たちめ、姑息なまねをしおって」
「組合がラヴァレじゅうの麦をいったん一か所に集め、自分たちの手で量って袋詰めしてから、商人に売る。そうすりゃ、質のそろった正確な分量の麦が出荷される。肝心なのは、ラヴァレの名のもとでは、決して不正は行われないという信用を勝ち取ることだ」
「百五十年続いてきた伯爵家の今までのやり方では、それはできないと?」
「できねえな、悲しいことに。人間は、権力を笠に着る者にはへいこらするが、同じ立場の者が得をするのは絶対に許さない。村が互いに平等な権利を持つ組合ならば、不正はやりにくくなる――皆無ではないにしろな」
(なるほど)
この方はやはり、エルンストさまの息子だ。身分は貴族だが、骨の髄まで共和主義者でいらっしゃるのだ。
(共和主義を憎むプレンヌ公が、ラヴァレ伯爵家を見過ごすことは、この先永劫あり得ぬだろうな)
憂鬱な思いから無理やり自分を引き戻したオリヴィエは、エドゥアールに対して深々と腰を折った。
「承知しました。さっそく村長たちを集め、組合の設立を計らせます」
「ああ、頼む」
「ところで」
オリヴィエは、こほんと咳払いする。
「プランケット夫人がお帰りになる折りには、あれほど物腰も高貴で、涼やかな言葉づかいでいらしたのに、わずか二日で、どうして元の黙阿弥になってしまわれたのでしょうか」
「ああ、飽きた」
エドゥアールはぼさぼさに乱れた髪を掻きながら、平然と答える。
「ほう。お飽きになった」
「上品な振る舞いってのは、退屈このうえない。ああいう生活を続けてると、また病気になりそうだ」
「……恐れながら、今度はわたくしのほうが病気になりそうです」
「上品なのも、ほどほどにしといたほうがいいぜ。おまえに倒れられると俺が困るからな」
部屋を退出した家令は、口の中で悪態をつきながら厨房に向かった。
特大のすりこぎを貸してくれと言うと、コック長のシモンに大笑いされた。
「お嬢さま、大変でございます」
にわとりが絞め殺されるような叫び声をあげて、侍女のジルが部屋に飛び込んできた。
「まあ、なんなの。けたたましい」
「ラヴァレ伯爵さまのご使者という方が、今玄関においでに」
ミルドレッドは、膝の上に乗せていた刺繍を取り落とした。木枠が床に当たり、かたんという音を立てる。
ジルがあわてて刺繍を拾い、脇の丸テーブルに置いた。「お嬢さま、すぐに降りてくるようにと旦那さまがお呼びです」
「ご使者は、前にいらしたことのある騎士さま?」
令嬢は平静を装って、髪型を気にするふりをする。
「いいえ、プランケット夫人とおっしゃる、とても美しい貴婦人です。エドゥアールさまの家庭教師をなさっておられるお方とか」
エドゥアールの名前を聞いて、ずきんと体のどこかがきしんだ。
だめ。とても耐えられそうにない。
「やはり、行かないわ」
のろのろと椅子に座りなおす。
「お嬢さま?」
「お父さまがお話を聞けばよいこと。もう私には、何の関係もない方なのだから」
「もしかして、復縁の話かもしれませんよ!」
「そんなことありえない。だって――」
仮にもプライドのある男なら、頬を叩くような女を誰が妻にと望むだろう。
「お願い、お断りして。気分が悪いの」
ジルはおろおろと迷っていたが、部屋を飛び出していった。ミルドレッドはぐったりと椅子の腕に顔を埋めた。もう涙さえ出てこない。
自分が取り返しのつかない過ちを犯していたことを、この数カ月間、何度悔んだことか。
貴族令嬢たるもの、家のために親に決められた相手に嫁ぐのが当然だと思っていた。結婚相手など誰でもよい。好き嫌いなど自分の意志でどうにでもなる。
それは、とんでもない間違いだったと思い知る。心ほど、どうにもならないものはない。
どんなにあきらめようとしても、新たな心持ちになろうとしても、思い浮かぶのは、たったひとりの面影だけなのだ。
扉ががちゃりと開き、その音に睫毛をもたげたミルドレッドは、はっと飛び起きた。
そこに立っていたのは、背が高く黒いドレスを着た見たこともない婦人。扉の外には、ミルドレッドと同じ年くらいの少女が控えていた。
「お嬢さま。イサドラ・プランケットでございます。いきなり上がりこんだ非礼をお赦しください」
片膝をかがめて優雅な挨拶をすると、使者は顔を上げた。
輝くばかりの気品を備えた美しいレディだった。女のミルドレッドでさえ一瞬、見惚れてしまう。
「使者として、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵の招待状を持参いたしました」
「招待――状?」
「子爵ご一家をラヴァレ家の領館にご招待したいとのことでございます」
エドゥアールさまが、私たちを――私を、領館に?
一瞬、有頂天になりかけたミルドレッドだったが、それを戒める負の感情もまた強かった。
「まいりません」
「おいでにならない?」
「はい。わたくしは、もうラヴァレ伯爵の婚約者でもなんでもありません。そんな女が領館にずかずかとお邪魔しては、ご迷惑をかけるだけですわ」
「どうして、そんなことをお思いになるの? 来てほしいと頼んでいるのは、彼のほうなのですよ」
「会う理由がありません」
もし、理由があるとすれば、たったひとつではないか。彼はわたしに復讐したいのだ。噂に名高い格式ある領館に招き、二十万ソルドの借金を裏書きしてくださった恩をいやというほど知らしめるため。そして、わたしが娼婦にも劣る女であることを――。
「いい加減におし!」
とんでもない罵声が響き渡った。
信じられないことに、目の前の淑女が片脚を高々と上げて、彼女の座っている椅子の傍らにどかりと乗せる。黒いドレスの裾はまくれ上がり、網タイツが丸見えだ。
「いつまで、いじいじ考え込んでんだい。エドゥアールがあんたを招待したいと言ったら、理由はあんたに会いたいからに決まってるじゃないか」
「あ、あ、あなたは」
ミルドレッドは間近にぐいと近づいた妖艶な女の顔を呆然と見つめた。
「騙して悪かったね。あたしは家庭教師でもなんでもない。ポルタンスの娼館【イサドラの店】の女将だよ」
「娼館――」
それでは、エドゥアールが育ったという娼館の経営者。
「ああ、そうさ。あの子は私が育てたようなもの。だから自信をもって言える。あの子は、あんたのことが好きで好きでたまらないんだよ。恋焦がれて病気になっちまうほどにね」
「エドゥアールさまが、ご病気に?」
イサドラは、令嬢が顔をそらさぬように、その華奢な顎をぐいと手で捉えた。
「あんたたちが、どんな喧嘩をしたか、詳しくは知らない。けど、もう一度じっくり話し合ってみることはできないのかい」
「……無駄ですわ。もうあの方のお気持ちは、はっきりわかっています」
ミルドレッドの薄茶色の目に涙がにじむ。「わたくしを軽蔑しておられるのです。政略結婚で自分の家の借金を押しつけようとしているわたくしを、娼婦と同じだと詰(なじ)られたのですから――」
「娼婦と同じ? ふーん」
イサドラは彼女から手を放すと、あきれたような吐息をついて、ミルドレッドの額を人差し指ではじいた。
「あいたっ。な、何をなさるのです」
「賢いお嬢ちゃんかと思えば、案外とおばかさんだね。あの子は娼婦に育てられたんだよ。娼婦と同じと言ったら、それは軽蔑のことばになるのかい?」
「……え?」
「あの子にとっては、王侯貴族も農民も、医者も水夫も娼婦も、同じ人間。裏町の暮らしの中でそう教わったことが、体に染みついているんだよ。あんたを傷つけるつもりなんか、きっとこれっぽちもなかったのさ」
ミルドレッドは、あのときの彼のことばを必死で思い出そうとした。
『俺にとっては、娼婦だろうと貴族だろうと同じ女だ。同じ感情と同じ誇りを持つ人間だ。何も違わない』
「わたくし――おっしゃりたかったことを誤解していたのね」
「飲み込みが早いね。やっぱり賢い子だ」
イサドラは脚を降ろしてドレスの裾で隠し、彼女の前にひざまずくと、優しい声で諭した。
「ねえ、お嬢さま。確かにあの子は変わっているよ。貴族だけど中身は貴族じゃない。根っからの令嬢のあんたには、きっと理解できないことばかりだろうね。そのことに気づいて、あの子は自分から身を引いたんだよ。心のつぶれそうな思いをしてね」
「……」
「でも、あたしは貴族と平民の壁は壊せるものだと思ってる。自分がその壁に負けちまったもんだから、なおさらそう思いたいのかもしれない。あんたがもし、ちょっとでもあの子のことを想っててくれるなら、ラヴァレに行ってみないかい。そして、もう一度ふたりで試してほしいんだ。壁を壊せるかどうかをね」
娼館の美しい女主人の目から、はらはらと滴がこぼれ落ちる。
「あの子をお願いするよ。見た目以上にヘタレだからね。あんたから無碍に断られたりしたら、どうなるかわからない。きっと――あはは」
笑い声をあげながら、手の甲で涙を拭いとる。「どうせあの子のことだから、周りの女がほっとかないだろう。誰も愛せないまま蝶のように花から花へと遊び回って、稀代の女たらし伯爵として悪名を馳せちまうかも」
「そ、そんな」
ミルドレッドの頬がすっと蒼ざめて、卒倒しそうになる。それを見たイサドラは勝利を確信し、内心ほくそ笑んだ。
「あの子を救ってやっておくれ。手遅れになる前に一刻も早く」
最後にぎゅっと彼女の両手を握りしめると、彼女は部屋を出て行った。ミルドレッドはへなへなと椅子の背に寄り掛かる。
入れ替わりに、外で待っていた可愛い少女が、おずおずと入ってきた。
「お嬢さま、あの――」
「あなたは……」
「エディが言ってたんだ。いっしょにラヴァレの谷を歩きたい人がいるって。――あんたのことだよ。お嬢さま。あたし、必死に誘惑したけど……あんたにはかなわなかった」
少女はドレスのひだをぎゅっと握りしめると、ぺこりと頭を下げた。
「エディを幸せにしてあげてください。あたしの分も」
部屋に夕闇の気配が忍び寄るころ、入口からおそるおそるジルが顔を出した。
「お嬢さま。あの――使者の方が、つい先ほどお帰りになりました」
ミルドレッドは、その言葉にはっと起き上がると、ものすごい勢いで部屋を飛び出し、階段を駆け降りた。
「お父さま、お母さま!」
「ど、どうした。ミルドレッドや」
「伯爵さまの招待をお受けします。ラヴァレの領館にまいります」
母親のダフニが悲鳴をあげた。「どういうこと。あなたがあんなに嫌がっているから、もうお断りの返事をしてしまいましたよ」
「すぐに訂正の使者を立ててください。お願いします。私はどうしてもエドゥアールさまに……いいえ、だめよ。ジル、急いで支度をして!」
「落ち着きなさい、ミルドレッド」
「お嬢さま、そんなにあわてなくても。明日になってから――」
「いいえ」
ミルドレッドは、ぎゅっと両足を踏ん張って床を踏みしめ、狼狽している両親と侍女に言った。
「明日では間に合わないわ。私、今夜発ちます」
「若さま」
背後からユベールが近づいてきたかと思うと、肩にふわりと毛織の部屋着が掛けられた。
「夜風は体に毒です。またお風邪を召してしまいますよ」
「ああ。ありがとう」
エドゥアールは柔らかく笑みながら、バルコニーの縁から上半身を乗り出すように背筋を伸ばした。「でも、気持ちがいい夜だ。山も森も、村々も、何もかもが生命の息吹を感じさせる」
「そう感じ取る力が戻ったのは、重畳なことです。さしずめ死人が生者の世界に戻ってきたというところでしょうか」
「相変わらず、痛烈な皮肉だな」
「わたしも、遠慮なく皮肉が言える幸せを噛みしめているところです」
伯爵と騎士は、並んで夜空を見晴らした。山の端に沈む前の半月が、光る雲のゆりかごの中で安息にたゆたっているように見える。
モンターニュ家への使者となったイサドラたちは、そろそろ王都へ着く頃だろうか。
「不思議だな。状況は何も変わっていないのに、何かが変わったような気がする」
「はい」
「どんな結論が出ても、きっと受け止められる――そんな気がする」
「はい」
金髪の騎士は、主人以外には滅多に見せたことのない心からの微笑を浮かべた。
「もし、受け止められなかった場合は、遠慮なく泣きついてください。そのために、わたしがいるのですから」
「おまえに泣きつくのだけは、やめておく。一生からかわれそうだ」
「ふふ。よくおわかりですね」
エドゥアールは、部屋着のぬくもりに顎を埋めて、目を閉じた。
自分は幸せだと思う。
愛する故郷があり、命を懸けて守りたい領民がいる。夢にまで見た父と暮らし、心から慕ってくれる使用人たちにかしずかれ、生涯を通じて信じられる友が隣にいる。それにもうひとつ付け加えようと言うのは、きっと強欲の罪に値する願いなのだ。
だから今は、こう祈るだけにとどめよう。
(ミルドレッド。どうか幸せになってほしい――たとえ、もう互いの道が交わらなくとも)
早馬の使者がラヴァレ領館の門を激しく叩き、モンターニュ子爵の馬車が今こちらに向かいつつあることを告げたのは、明くる日、うららかな春の陽が中天に昇るころだった。
第五章 終
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