伯爵家の秘密


第6章「生命の春」


(1)

 園丁見習いのティムは朝からずっと、領館の一番高い木の上に陣取っていた。
 親方がいくら「仕事をしろ!」と怒鳴ろうが、わめこうが、降りるつもりはなかった。
 昼どきに厨房から運ばれてきたライ麦パンのサンドイッチとエールを、親方や外働きの仲間たちの目を盗んでひったくると、また急いで幹を登った。飲んだエールはもちろん、養分として枝葉にたっぷりと降りそそいでやったのは言うまでもない。
 彼の13年間の人生で――実際にはティムはまだ13歳になっておらず、ラヴァレ家の使用人の中では一番若い――こんな名誉な務めを果たせる機会は今まで一度もなかった。
(さぼってるんじゃない。若旦那さまのためだ)
 このお屋敷に若旦那さまがやってきてからというもの、ティムは朝起きるのが苦痛ではなくなった。
 まだ暗いうちに家畜小屋の二階のわらの寝床から這い出し、お部屋の真下でうろうろと待つ。もちろん毎日とはいかないが、暖かい季節ならたいてい夜明けごろ、若旦那さまはバルコニーに出ていらっしゃるのだ。
 口に指を入れて鳥の鳴きまねをすると、ひょっこり顔を出して、「おう、ティム」と手を振ってくださる。
 ときにはバルコニーの縁を乗り越え、樋を伝って身軽に降りて来られる。ふたりで家畜小屋の温かいわらに潜りこむと、若旦那さまはポケットから魔法のようにビスケットや砂糖菓子を取り出して一緒に食べながら、見たこともない南の港町の話をしてくださるのだ。
 わくわくする内緒のひととき。親方に知れたら、きっとひどく叱られる。
『あの方は、このお館の当主さまだぞ。おまえなど、お言葉をかけてもらうことはおろか、影を踏むことすら許されねえ』と。
 けれど、それを言うと、若旦那さまは決まって笑いながら首を振るのだ。
「人間に尊いも卑しいもない。あるのは役割の違いだけだ。それだって、これからの歴史の中でいくらでも変わる」
 そう熱っぽく話すときの若旦那さまは、講壇の神父さまよりもりっぱな方だと思う。
 若旦那さまの笑顔が見られるなら、どんなことでもするつもりだ。だから、絶対に他の誰にも、この役目を渡したくなかった。何と言っても、この館で木登りが一番得意なのはティムなのだから。
 梢から伸びあがるようにして、谷を見晴らす。日の光が強くなり、目にじんわりと涙がにじんできても、まばたきをできるだけ我慢した。
 遠くで、きらりと光るものが見えた。
 陽炎の立つ丘の道を、埃を蹴立てて二台の馬車が駆け降りてくる。
 逸る心をなだめながら、ティムは目の回りに指で輪っかを作り、じっと見つめ続けた。先頭の馬車の御者台のすぐわきで、なびいている旗の模様を見極めるまで。
「よし!」
 ティムは、幹の分かれ目に両手をかけると、するすると下まで一気にすべり降りた。
 そして、柔らかい若草の上を、裸足で一目散に駆け出した。
 玄関番をたまげさせる勢いで領館の正面に向かって走りこんでから、ぐるりと周囲を回り、南に面したバルコニーの下に立つと、
「わかだんなさま――っ」
 肺も裂けよとばかりの大声をあげた。
「子爵さまご一家の馬車が、谷にお着きになりました!」


 谷を駆け抜ける馬車の窓から景色を見つめながら、ミルドレッドは不思議な思いに囚われていた。
 来たことがないはずなのに、どこかなつかしい。四月のかぐわしい風が、丘のみずみずしい樹影が、青い麦穂の揺れる畑が、村々の赤い屋根が、彼女を両手を広げて迎えているような心地がする。
 モンターニュ家の所領は、峻嶮な山のふもとにあり、どこか他人を寄せつけないよそよそしさがあるのに対して、この谷は訪れる人すべてを包みこむ懐の深さを持っている。
 それとも、想い人の故郷というだけで、すべてが違って見えるのだろうか。
「見えてきましたわ。ほら、あの丘」
 ダフニ夫人が、甲高い歓声を上げた。「なんと素晴らしい。王城のような領館だと噂には聞いてはいましたが、まあまあ、本当にうちのとは大違い」
「少し落ち着きなさい。そんなに駕籠を揺らすと、馬まで興奮して足並みを乱してしまうよ」
 夫のパルシヴァルは、代々受け継いだ子爵家の領館を愛妻にけなされたため、ちょっぴり鼻白んだ様子でパイプをもてあそんでいた。
「それより、こんな素晴らしいお屋敷に一週間もお世話になるのに、土産はたったこれだけでよかったかね。ダフニ」
「あなた、今さら何をおっしゃいますの。一番のお土産はミルドレッドじゃありませんか」
「な、なるほど。そうだったな。ははは」
 両親の会話に、ミルドレッドはすっかりげんなりした気分になって、レースのハンカチで口元を押さえた。
 ラヴァレ伯爵からの招待を受けると愛娘が叫んで以来、子爵夫妻は死の淵から生き返ったように部屋じゅうを踊り回り、執事やメイドたちの尻を叩きながら一晩のうちに旅の支度を整えた。
 無理もない。一度は破談になった名門伯爵家との結婚話が奇跡的に復活しようというのだから。
 だが、両親の無邪気なはしゃぎようとは逆に、ミルドレッドは次第に落ち込んでいく自分を感じていた。
 すっかり舞い上がって、なりふり構わぬ激情に燃えて王都を出発したはずなのに、二日の旅のあいだに冷静さを取り戻すにつれ、どんどん不安が募ってくるのだ。
(甘いことばに釣られてあたふたと駆けつける私は、物欲しげで安っぽい女に見えるに違いないわ)
 今さら、彼のことを本気で好きだと言っても、誰が信じるだろう。これは愛情のない政略結婚だと宣言したあげく、彼を罵って頬を叩いたのはミルドレッド自身なのだ。
(私がどんなに心から彼を慕っていても、回りから打算だと疑われる。だって結局私は、伯爵家の富と庇護を当てにしている貧乏貴族一家の娘に違いないのだもの)
 そう思うと、彼に会いたい気持ちでいっぱいなのに、今すぐ回れ右をして逃げ出したくなる。
「どうしたの。ミルドレッド」
 気がつくと、母が覗きこんでいる。「気分でも悪いの?」
「それはいけない。どこかで馬車を止めようか」
「いいえ、お父さま、お母さま」
 彼女は、しゃんと背筋を張った。「ようやく目的地に着いたので、少し気持ちがゆるんだだけですわ」
「それならよいが、一番きれいなおまえの姿を、伯爵さまにお見せしなければならないのだからね」
(少しでも、高く『売れる』ように?)
 ミルドレッドは騒ぐ気持ちを抑えて、両親の前でにっこりと微笑んでみせた。「本当にだいじょうぶ。ご心配なさらないで」


 ラヴァレ家の領館には、ナヴィルの王城のようなきらびやかさはない。古い城砦の持つどっしりとした剛健さ。その上に新しく建て増された居住階の、木と土の香りのするような素朴さ。
 その全てが周囲の豊かな緑と調和し、歴史を静かに刻みながら佇む。
 馬車を降りたとたん子爵一家は、彼らを包み込む春の空気が、着なれた服のように心地よく肌になじむのを感じた。
 樹々の清々しい香りも、花壇で咲き乱れる花の柔らかな色も、ラヴァレの谷を吹き抜けてくる湿気を含んだ風も、すべてが訪れる者を歓待する。
 館の玄関に並んでいた使用人たちの中には、家令オリヴィエや近侍の騎士ユベールなど、何人も見知った顔がいた。
 恰幅のよい家令は、うやうやしく腰を折った。
「ようこそ、はるばる遠くまでお越しくださいました。モンターニュ子爵さま、奥方さま、ご令嬢さま」
「しばらく厄介になりますぞ」
「はい、どうぞこちらへ。主が中で待ちかねております」
 ミルドレッドは一瞬気持ちがひるむのを感じたが、母がそっと背中に手を当ててくれた。それで意を決し、ライトブルーのケープつきドレスの裾をきゅっとつまんで歩み出した。
 父の肩越しに人の姿が見える。陽光にあふれた屋外と比べれば薄暗い大広間は、吹き抜けの円天井の縁窓から注ぎ込む淡い光にゆらめいて、幻影のようだ。
「よくおいでくださいました。モンターニュ子爵」
 広い部屋に反響する、低いが張りのある声。ことばは貴族の作法にのっとっているし、下町訛りも以前ほどは気にならない。
 ミルドレッドが彼と会うのは、まだこれが四度目だ。
 一度目は、王宮での王妃主催の舞踏会で。二度目は闘技場の地下で。そして三度目は子爵家の居館で。
 だが、今日の彼ほど彼らしい姿は、今まで見たことがなかった。
 胸元を編み紐でゆるく結んだシャツとキュロットだけの軽装。黒く長い髪は、風に吹かれてなびくままをリボンに捕えられたようだ。
 このラヴァレの谷が、これほど似合う人はいないだろう。
 子爵夫人と挨拶を交わしたあと、エドゥアールは、うっとりと彼を見つめるミルドレッドに向き直った。
 瞳は濃い蒼だが、本当はその奥に春の空のような水色が広がっているのを彼女は知っている。その視線を浴びた瞬間、ミルドレッドは痺れるような感触をおぼえて、思わず体をすくめた。
 激しい恥じらいに翻弄され、とっさに顔を伏せてしまう。完全な拒否とも見える反応に、エドゥアールはあるかなきかの微笑で応えた。
「またお会いできてうれしい。ミルドレッド嬢」
 彼の義務的で他人行儀な挨拶を聞いたとたん、体の底がすとんと沈んだ。
(たったそれだけなの?)
「――お招きにあずかり光栄です、伯爵さま」
 こわばった顔のまま、ドレスの裾をつまんで膝を屈める。
(だめだわ。せっかくのお招きなのに、こんなよそよそしい態度では)
 だが、これ以上のことばが出てこない。どんなに努力しても、笑みすら浮かべることができないのだ。
 場が静まり返っているのがわかる。父と母は弱り果てているし、居並ぶ伯爵家の使用人たちも、さぞかし呆れているだろう。
 ミルドレッドは想像もしていなかった。待ち望んでいた再会がこんな最悪の状態で始まってしまうとは。


 晩餐のときを迎えても、事態は何ら変わることはなかった。
 昼間は大事を取って休んでいたエルンスト・ド・ラヴァレ伯爵は、夜には賓客を歓迎するために降りてきて、ともに食卓につき、子爵夫妻と会話を楽しんだ。
 コック長のシモンの工夫を凝らした料理と伯爵家の地下貯蔵庫から選び抜かれたとっておきのワイン。終始和やかな雰囲気の中で晩餐は進んだ。
「ああ、ミルドレッドさまも若旦那さまも、全然しゃべらないわ」
 コック見習いや厨房付きのメイドたちは、扉のすき間からこっそり様子をうかがっては、やきもきと身をよじっている。
「コック長。召しあがるだけで、お気持ちが元気になるような料理はないんですか」
 シモンはローストした仔牛肉にソースをかけながら、むっつりと答えた。「コックの仕事は、どんな場面でも最高の料理をお出しすることだ」
「いっそのこと、媚薬でも入れちゃいましょうよ」
 コック長はじろりと若者たちをにらんだ。「媚薬など入れて、うちの大旦那さままで、隣のご婦人に惚れてしまわれたらどうする」
 コックたちは恰幅のよい子爵夫人を見て、一斉にぶるぶると首を横に振った。
 廊下では、メイドたちが一列に勢ぞろいしていた。
「ベッドメイクは完璧?」
 メイド長が矢継ぎ早に質問する。
「はい。シーツは丁寧にアイロンをかけ、絹のような肌触りです」
「枕の中にはバラの花びらを入れました。クッションはほどよく叩いて、ふかふかにしておきました」
「よろしい。寝る前のお飲み物は」
「ミルドレッドさまのお好きだというカモミレ茶に、マスカットワインを数滴垂らしてお持ちします」
「数滴と言わず、ガバッとお入れなさい」
「ガバッとですか?」
 アデライドは細い肩をそびやかし、不敵な笑いを浮かべた。「あの方は、少し箍(たが)を外してさしあげたほうがよろしいでしょう」
「じ、じゃあ若旦那さまのほうも」
「ロジェが、ブランデーをじゃんじゃん入れていると思います」


 ノックがあり、応対に出たジルが、ティーセットをささげて戻ってきた。「お嬢さまのお好きな、カモミレ茶ですわ。うーん、いい香り」
 メイドは就寝前のお茶を淹れたカップを差し出した。そして毎夜の習慣どおり、鏡台の前でお茶を飲む令嬢の美しい髪を、丁寧にくしけずる。
「このお屋敷の調度は、聞きしにまさる見事さですね。ほら、この鏡台の装飾と言ったら! こんな透かし彫り、王都でも見たことがありません」
 ちらちらと鏡の中の浮かない顔を見ながら、ジルはなんとか主の気を引き立てようと努めた。
「私……何のために、ここへ来たのかしら」
「まあ。お嬢さまったら、おとといの勢いは、いったいどうなさったんです」
「今回のお招きは、やはりエドゥアールさまのご意志ではなかったのだわ。大伯爵さまや家令に説得されて、いやいや迎えておられるのよ」
「そんな、まさか」
 ジルはあわてて否定した。「照れておられるだけですよ。男は人前では必要以上に照れるものなんです」
「おまえのいい人も?」
「ええ。トマなんか、人前ではいつも私をブス呼ばわりですから」
「ふ……ふふ」
 ミルドレッドはうなだれて、桜色に染まった頬に両手を添えた。「それは、『この人は僕のものだ』という周囲への宣言なのよ。いいわね。私もそんなふうに罵られてみたい」
「お、お嬢さまをブス呼ばわりできる方なんか、天使の中にだっておりません!」
 驚いたことに、ミルドレッドは声を殺して泣き始めた。
 ジルは心の中でため息をついた。(この恋の病は、重症だわ)


 翌朝、園丁はまだ朝露のついた瑞々しいバラを大きな花束にし、当主の心づかいとして子爵一家の客間に届けた。
 メイド長が調えた目覚めのお茶は、濃いめのペパーミントティーだ。ゆうべのマスカット酒入りカモミレ茶のせいで夢も見ずにぐっすり眠った令嬢は、豪奢なベッドの中でその甘い刺激を味わいながら、お盆に添えられた一輪のバラをぼんやりと見つめた。
 御者は馬車の中を徹底的に掃除し、馬丁が毛並みに艶が出るまでブラッシングした馬を、ぴかぴかに磨き上げた真鍮の馬具でつないだ。
 その日、モンターニュ子爵一家はエドゥアールの案内で、ラヴァレの谷を馬車で一周した。
「東の山はシャテニエ、西はエトル。ふたつの山地にはさまれたこの谷には、十二の村と三つの湖とひとつの川があります」
 若き伯爵が自分の領地を紹介するときの愛情あふれる眼差しは、まるで一目ずつ心をこめて織り上げたタペストリーに触れているかのようだった。
「中央を流れる川はクレール川と言い、五本の小さな支流に分かれて谷全体を潤しています。ここに九千人を超える人が暮らしています」
「なんと豊かな」
「これほど大きな谷は見たことがない」
 子爵夫妻は感嘆して叫んだ。
「氷河の流れが山を押し削り、このような平らで広い谷を作ったと聞きます」
 陽春のラヴァレ谷は、まさしく生命にあふれていた。緑は目に痛いほど鮮やかに輝き、いつもは遠く紫に煙っている山々さえ、手を伸ばせば届きそうなほど近い。
 蝶やミツバチが花の上を忙しく舞い、ヒバリは天空をついばみながら飛び回る。大麦畑の青い穂は風に揺れ、農夫の色とりどりの帽子が波間に浮かんでいるように見える。
(なんて、美しいの)
 窓外の景色も、それを誇らしげに見つめるエドゥアールの横顔も。
 この方は、ご自分の領地を心から慈しんでおられるのだ。ミルドレッドはモンターニュの領地に愛着など持ったことはなかった。都会の華やかさから遠く離れた、退屈で貧しい土地だと恥ずかしく思っていた。
(いったい私は、子爵家の娘として何を愛し、何を誇りにして生きてきたのだろう)
 胸が痛み、目を伏せる。馬車の中でエドゥアールの視線が時折、彼女を捉えているのにも気づいてはいなかった。
 谷の道をぐるりと駆け抜けた馬車は、太陽が中天にさしかかる頃、館に戻ってきた。
「お疲れになったでしょう」
 執事のロジェが玄関に迎え出た。「昼食の用意が整っております。どうぞお庭のほうへ」
「おお、すっかり喉も渇いておるぞ」
「そう存じまして、冷たく冷やした白ワインもご用意いたしております」
 あずまやに向かっていく両親を見送りながら、ミルドレッドは胸のつかえを感じて立ち止まった。
 両親は招待客というよりは、もうすっかり伯爵家の姻戚としてふるまっているように見える。
 もし、ふたたびこの縁談をお断りすると言ったら、父も母もどれほどがっかりするだろうか。それでも、結論を先延ばしにして傷口を広げるよりはいい。
「ミルドレッド」
 我に返ると、エドゥアールが少し離れたところで待っていた。
「昼食の席に行かないのか」
「あ、あの、私――あまり食欲が」
「気分が悪い?」
「い、いいえ。ただ、あまり動いていないのでお腹がすかなくて。ごめんなさい」
「じゃあ、少し動いてみるかい?」
「え?」
 彼女の視線をかわすように背を向けると、エドゥアールは歩きだした。
「もう一か所、案内したいところがある。道が悪いから馬車では行けない。馬には乗れるね」
「あ、は――はい」
「ソニア!」
 ちょうどそこへ通りかかった若いメイドが、びっくりしたような顔で走ってきた。
「はい、若旦那さま。御用ですか」
「厨房に行って、スモークハムのサンドイッチと梨のシードルを用意するように、シモンに言ってくれないか。それからアデライドに頼んで、女ものの乗馬用のコートとブーツを」
「し、承知いたしました」
「もう一度、繰り返そうか?」
「大丈夫です。若旦那さまとお嬢さまが遠乗りに行かれるお支度とお弁当ですね」
「よくわかったな。えらい」
 エドゥアールは笑いながら、メイドの頭にぽんと手を置いた。
 ミルドレッドはそれを見て、言い知れぬ不快な思いが湧きあがってくるのを感じた。
(あんな笑顔、私の前では見せてくださったことがないのに)
 身分の低い使用人のほうが話しやすいということなのだわ。――やはり、平民としてお育ちになった方。貴族の生活しか知らない私とは、どこまでも相容れない。
 火のような怒りが燃え上がり、あふれる涙までが熱かった。彼女はものも言わずに、くるりと踵を返した。
「わたくし、疲れました。やはり部屋に引き取らせていただきますわ」
「ミルドレッド?」
「どうせ、わたくしなど、いてもお邪魔でしょうし」
 次の瞬間、手首をぐいとつかまれ引き戻された。振りほどこうとしたが、強靭な力にびくともしない。
「何をなさるの!」
「いいかげんにしろ」
 エドゥアールは激しい熱情をこめた瞳で、彼女を見ていた。
「これ以上わけのわからねえこと言うと、縄でぐるぐる巻きにふん縛って、連れてくぞ!」






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