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第6章「生命の春」
(3)
「親父、俺たち結婚するぞ」
息子のいきなりの宣言に、伯爵は飲んでいた水を吹き出し、執事のロジェは、持っていた水差しを落としそうになった。
エドゥアールは食卓の席に腰を下ろすと、驚きのあまり固まっている隣のダフニ夫人やその向かいの子爵に、とろけるような笑顔で笑いかけた。
「いろいろ心配させて、すまなかった。そういうことになっちまったから」
「……そ、それは願ってもない」
「あ、ついでに他人行儀な敬語も、このあたりで止めていいだろ? だって俺たち、もう親子も同然だし。これから俺のことは名前で呼び捨ててくれ。俺も、親父さま、おふくろさまと呼ぶことにする」
「こ、光栄ですわ」
子爵夫妻が娘に助けを求める視線を送ると、ミルドレッドは頬を染めて、微笑で答えた。
ふたりに何か良い進展があったことは、すでに館じゅうの誰もが知っていた。
嵐も上がり、雨に洗われた空を夕陽が鮮やかな赤金色に塗り替える頃、馬に乗って帰館したふたりを見た馬丁やメイドたちは、仰天した。
「だって、馬から降りたあと、若旦那さまが差し出した手に、ミルドレッドさまはご自分から腕を組まれたんだよ」
「玄関に入るまでに、少なくとも三回は見つめ合っていらしたってば」
「ミルドレッドさまをお部屋に送り届けた後、若旦那さまは宙を歩いているような足取りで廊下でお歩きになっておられたわ」
夕方のてんてこまいするほど忙しい時刻にもかかわらず、彼らの詳細な証言が館の隅々にまで届けられるのに、二十分とはかからなかった。
だが、まさか結婚ということばが、その夜の晩餐の席で宣言されるとは。
口元をナプキンで拭いながら、父伯はわざと重々しい口調で言った。
「ずいぶんと急な話なのだな」
「ああ、別に今日や明日ってわけじゃない。本当はすぐにでも村の教会に飛び込もうかと思ったんだけど、さすがに貴族ってやつは、結婚式にまで王宮の許可状がいるらしいし」
「あやういところで踏みとどまってくれて、うれしいぞ」
伯爵と執事の主従は、苦笑いを交わしている。
「以前、オリヴィエに聞いたことがあるんだ」
エドゥアールは、少し神妙な顔になった。「貴族同士の結婚には、領地や財産の相続に関する細かい取り決めや面倒くさい手続きがあるらしいな。おまけに、王都の決められた聖堂で式を挙げなきゃならないし、貴族たちへのお披露目には山ほど金を使うって」
「結婚は、当人たちだけの問題ではないのだ」
エルンストは厳しい表情を崩さない。「おまえたちの決断には、双方の家族や使用人ばかりではない。ラヴァレ伯領と、モンターニュ子爵領の領民たちの未来がかかっている。そのことを、ゆめおろそかに考えるではないぞ」
「はい」
「肝に銘じます」
エドゥアールとミルドレッドは深々と頭を下げた。
大伯爵はそれを見て、ようやく顔をほころばせた。
「いずれにせよ、めでたいことだ。準備には相応の時間がかけたい。双方の関係者たちを過労で寝込ませたくはないからな。来年の春……いや、この秋に挙式ということで、異存はありませんかな。パルシヴァルどの。奥方」
「もちろんです」
「よしなにお取り計らいくださいませ」
子爵夫妻も目をうるませながら、うなずく。
晩餐の席は、ただちに祝いの宴となった。
ロジェはとっておきのシャンパンを威勢よく抜き、それぞれのグラスに注いだ。コックのシモンが、どんな魔法を使ったものやら、短時間で見事なケーキを焼いて食卓に饗した。
使用人たちにも特別な御馳走やワインがふるまわれ、その夜遅くまで館に歓声が響いた。
「あら」
階段下の倉庫の隅に明かりが点っているのに、メイド長は見回りのときに気づいた。
「あ、アデライドさん」
ロウソクの小さな光の中で顔を上げたのは、メイド見習いのソニアだった。
「何をしているの」
「シーツの縫い目がほころびていたので……すみません、もう少しで消しますから」
「ソニア」
初老のメイド長は、一日の疲れのたまった腰に手を当てながら、積んである長持ちにゆっくりと座った。
「休み明けから、あなたには正式にリネン室に入ってもらいますよ」
「えっ。でも見習い期間は、あと――」
「少し早目だけれど、昇格とします。あなたの働きぶりは申し分ありません。それに、これからミルドレッドさまのお輿入れで、お屋敷はとても忙しくなります。特に、花嫁のお使いになるリネン類は、全部新調が必要です。あなたにぜひ加わってほしいのよ」
「ありがとうございます。せいいっぱいお勤めさせていただきます」
「同じ忙しさでも、うれしい忙しさね。奥方さまがお亡くなりになってから消えていた灯が、ようやくまた領館に灯るのだわ」
「……はい」
ソニアは、手元のロウソクをぼんやりと見つめた。
若旦那さまが花嫁をめとられる。この伯爵家にとって、このラヴァレ領にとって、何よりも喜ばしい知らせ。ソニアの村の者たちも、明日になればこのことを知って、大騒ぎをして祝うはずだ。
やさしい若旦那さまと美しいミルドレッドさまは、国じゅうのどこを探してもいないお似合いの夫婦になるだろう。これは、おとぎ話の最後に必ず訪れる、誰もが願っている結末なのだ。
「娘や」
アデライドは、彼女の膝に手を置いた。「ご主人さまの幸せを願って働くことが、私たち使用人の何よりの務めですよ。いつも笑顔で。泣いてはなりません」
言われてはじめて、ソニアは自分が泣いているのに気づいた。
「はい。わかっております」
メイド長の温かい手に両手を乗せて、ソニアは何度も何度もこっくりとうなずいた。
ノックの音がしたので、てっきり就寝前のお茶が運ばれてきたのだと思い、客間の扉を開けた子爵家のメイドは仰天した。
そこに立っていたのは、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵その人だったからである。
「夜分にすまない。入ってもいいか」
「だ、旦那さま。奥さま!」
メイドの悲鳴に、モンターニュ子爵夫妻があたふたと出てきた。「これは、伯爵さま。どうなさいました」
「ああ、俺のことは呼び捨てでいいって言ったのに」
エドゥアールは、ずかずかと部屋の中に入ると、真剣なまなざしで夫妻に向き直った。
「親父さま、おふくろさま。実は考えれば考えるほど、どうしてもわからないことがあって、悶々として寝られそうにないんだ」
「わたしでわかることならば、何なりと」
「ミルドレッドがいれば、絶対にわかることなんだけど」
そのとき、奥の扉が開いて、夜衣にガウンを羽織った当の本人が出てきた。エドゥアールを見るなり、「まあ」と口を押さえる。頬紅も引いていないのに、その透明な肌は見るも美しい薔薇色に染まった。
「ああ、よかった。まだ寝てなくて」
エドゥアールは彼女の手を取ると、甲に軽く接吻した。それを見たパルシヴァルとダフニは、心の中で驚嘆する。
(言葉も下品で、行動は突飛。常識はずれの、とんでもない伯爵さまだが、ときどき見せる仕草の優雅さは並ではない。いったいどこで学ばれたのだろう)
「ミルドレッド。訊きたいことがある」
「いったい、何でしょう」
「今日、俺たちキスをしたよな」
居合わせた子爵夫妻も、メイドたちも、思わず「ひ」と息を飲んだ。
ミルドレッドは戸惑いも見せずに、にっこりと微笑んだ。「はい、していただきました」
「そのとき、俺は目をつぶってたか」
「まあ」
「さっきからいくら考えても、どうしても思い出せないんだ。どうだろう。俺は目をつぶってたか?」
「それが……わたくしも目をつぶっていたので、見ておりませんの」
「……だろうな」
エドゥアールは弱り果てたように頭を掻いていたが、ぽんと拳を打った。
「そうだ。もう一度、ここで再現すればいいんだ」
「ええっ」
誰も止める暇すらなかった。若き伯爵は婚約者を引き寄せ、背中と顎に手を添えると、幾度も角度を変えて、長く甘い接吻を味わった。
「どうだった」
ミルドレッドは軽いため息をひとつ吐くと、恍惚の中にいる印のうわずった声で答えた。
「あの……やはり、こんな状況では目を開けていられません」
「だよな。俺も目を閉じていたような気がする」
彼は、真面目くさった顔で振り返った。「な、親父さまもおふくろさまも見てただろ。閉じてたよな?」
夫妻は、一斉にかくかくとうなずいた。
「やっぱりそうかあ。これでユベールに自慢ができる」
エドゥアールは誇らしげに子爵たちのもとに近づき、彼らの手をかわるがわる握った。
「俺はあなたたちを親御さまと呼べることがうれしい。仲のいい両親のいる温かい家庭に、ずっとあこがれていたんだ。俺もミルドレッドと将来そういう家庭を築くために、あなたたちを良き模範としていきたい」
「伯……エドゥアール」
「エドゥアールさま」
ことばは悪いが、世辞や偽りではない心からの告白に、子爵夫妻は感激のあまり涙ぐんだ。
「よろしく頼むな」
「こちらこそ、娘をよろしくお願いします」
エドゥアールは、ひらりと身をひるがえすと、扉から出る寸前に言い残した。
「あ、一晩寝たら忘れると思うから、明日の夜もまた来る」
「おやすみなさいませ」
ミルドレッドは閉じた扉に向かって礼をすると、くすくす笑い出した。「まったくあの方は、よくこんな悪ふざけを思いつかれるものだわ」
「まるで、小さな男の子がそのまま大きくなったよう」
ダフニ夫人がソファに座りこんで、扇子でぱたぱたと火照った顔を煽いだ。
「さもなければ、たいした大物だ」
父親のパルシヴァルが、満足げにパイプをくわえた。
ミルドレッドは、朝食を取ったあと、陽光に誘われるようにして館の外に出た。
ラヴァレ伯爵家の庭は今、百花繚乱の季節だった。
下生えの草のつつましい小花から、あでやかに咲き誇る大輪の薔薇まで、光と風は平等な祝福を与えている。
決して観賞用だけの庭ではなく、お茶や料理に入れる種々のハーブは、毎朝ここから摘み取られていくのだった。ミルドレッドはひとつひとつを時間をかけて眺め、葉をつまんだり花に頬を寄せては香りをかいだ。
ふと気付くと、あずまやの中でエルンスト・ド・ラヴァレ伯爵が、杖を手に彫像のように座っているのが見える。
「おはようございます。伯爵さま」
あわてて、ドレスの裾をつまんで挨拶をすると、
「よく眠れたかね」
灰色の髪の伯爵はゆったりとした微笑みを返しながら、そばに来るよう手で合図を送った。
「はい、こんな時間に起き出すなど、お恥ずかしゅうございます。王都にいる頃は昼まで寝ていたものですから」
「田舎暮らしは、朝が早く寝るのも早い。王都と違って、夜の楽しみがないものでね。さぞ退屈だろう」
「とんでもございませんわ」
ミルドレッドは、ひんやりした大理石造りのベンチに優雅に腰をかけ、庭に目をやった。
「宝石やドレスより何倍もすばらしいものを、見せていただいております」
「あなたが来てから、園丁たちが張り切っている。妻が病床に伏せって以来もうずっと、あなたのように庭を愛でてくれる人はいなかったからね」
伯爵は、慈しむように彼女を見つめた。
「息子が何か突拍子もないことをして、困らせていないかね」
「困るだなんて、とんでもない」
ミルドレッドは、力いっぱい否定した。「確かにときどき驚かされますが、それは深いおもんばかりがあってのことだと、わかってきました」
「ほう?」
「昨夜も部屋においでになり、わたくしの両親とお話しなさいました。本来なら子爵である身分の者が、伯爵さまを名前でお呼びすることなど適いませんのに、いつしかすっかり打ち解け、親子のような気分にさせていただきました」
「親父さま、か。わたしもいずれ、あなたからそう呼ばれたいものだ」
「お、お戯れを」
「はは」
伯爵は、目じりの皺を深くし、さも楽しげに笑った。
「あなたがこの家に来てくれることを、わたしがどんなに心待ちにしていたかを、ぜひ知ってほしかった」
「もったいない仰せでございます」
「古いやり方に囚われずに、エドゥアールとともに新しいことを行なってほしい。この庭にも、好きな花を植えて、自由に作り変えてくれればいいのだ」
「そんな。わたくしのようなものが、奥方さまの遺された庭を変えてしまうことなどできませんわ」
「いや、亡き妻も喜んでくれよう。あれは、あなたがこの庭に立つ姿をよく想像していたのだ」
「えっ」
ミルドレッドは驚きのあまり、つつましく伏せていた顔を上げた。
「あなたは覚えておるまいが、エレーヌはずっと以前に王宮であなたに会ったことがあるのだよ。子爵ご一家があなたの命名の儀に上がった折りで、妻は兄王陛下を久しぶりに訪れた帰りだった」
木々のそよぐさまを眺めながら、伯爵の横顔は、遠い思い出に微笑んでいた。
「妻は、まだ赤子のあなたを見て、『このような可愛い子を、わが子の妻に迎えられたら』とひそかに心の中で想ったそうだ。だから、あなたが社交界にデビューするとき、わたしがエスコート役を買って出たのは、妻の望みでもあったのだよ」
「そんな……なんと畏れ多い」
ミルドレッドが王宮で命名式を受けたのは生後一年のとき。すでにエレーヌ姫は、死産で御子を亡くしておられたはずだ。
亡きわが子のために妻に迎えることを夢見ておられたとは、なんと哀しいお心だろう。
血のつながらない庶子であられるエドゥアールさまに嫁ぐことで、はたして天界におられる奥方さまのお心は多少なりとも慰められるのだろうか。
「おしゃべりだな。親父は」
突然の声に振り向くと、エドゥアールが、あずまやの屋根から垂れ下がった野ぶどうの実をちぎって、むしゃむしゃ食べながら、父親を睨みつけていた。
「ミルドレッド。そいつのそばにあんまり近づくなよ。若いころは女遊びで有名だったらしいぞ。……な、ユベール」
背後にいた金髪の騎士は、控えめに笑んだ。「わたくしの父から、いろいろ武勇伝は聞かされております」
「それは、心外だな」
と、エルンストは苦笑いしてみせる。「生き証人はもういなくなったと安心していたのだが」
「娼婦に子を産ませるくらいなんだから、息子の嫁に手を出しても不思議じゃないだろ」
エドゥアールは、ぐいとミルドレッドの手を引っぱって立たせると、もの言いたげな視線を父親のもとに残し、「ユベール、あとを頼む」と言って歩きだした。
「あの、エドゥアールさま?」
ずんずんと館の玄関に向かっていく気配の婚約者に、ミルドレッドは手首をつかまれたまま訊ねた。
「怒っておられるの?」
「もちろん、怒ってるさ」
すぐに、不機嫌な答えが返ってくる。「今は、俺以外の男という男が、あんたに近づいただけで気に入らねえな」
「でも、あなたのお父上ですのよ」
「昨日は、あんたを乗せた牡の馬にさえ腹が立ったくらいだ」
「まあ」
ミルドレッドはとうとう体を折って笑い出した。
「あなたったら、本当におもしろい方」
「俺は、しごく真面目なつもりだけど」
「でも、ご自分のことを棚に上げては、よろしくありませんわ」
「自分のこと?」
「あなただって、たくさんの女性をそばにお置きになっていたくせに」
ミルドレッドの冗談めかした口調の中には、ちょっぴり本音の恨みごとが混じっている。
エドゥアールはぐっと言葉に詰まると、彼女の手をふたたび引き、今度はもう少し歩みをゆるめた。
階段を昇り、窓のない暗い廊下を進み、突き当たりの扉の前で立ち止まる。
若き伯爵は、上着のポケットから鍵を取り出して、扉を開けた。
「この部屋は?」
「【伯爵の部屋】。ラヴァレ家の当主だけが入ることを許された部屋だ」
「え、それではわたくしは」
「いいんだ。入ってくれ」
招き入れられた部屋に入ると、朝だというのに中は暗い。北向きの鎧戸から漏れる薄明かりで、かろうじて手元がわかる程度だ。
ミルドレッドは、ぎくりと身をこわばらせた。背後で扉に鍵をかける音が聞こえたからだ。
(ま、まさか、エドゥアールさまは)
肩にそっと両手が置かれ、うなじに吐息がかかる。
「ミルドレッド」
「いやあ」
令嬢は悲鳴を上げて首をすくめ、顔を覆った。「だ、だめ。エドゥア……さま、結婚まで、わたくしは」
頭にコツンと何かが当たった。
「あのな」
おそるおそる指のすきまから振り向くと、間近に婚約者のむくれたような顔が見えた。
「やっぱりあんた、俺をすごく好色な男だと思ってるだろ」
「ご、ごめ、違、違うんです。てっきり」
「てっきり、たくさんの女と遊んでたと思ってるんだろ」
「……はい」
正直な告白に、エドゥアールはふうっとため息をついた。「まあ、無理もないよな。娼館育ちだって聞かされちゃ」
「そうですわ。誰だって普通そう思います」
「キスは昨日がはじめてだったって、あれほど言ってるのに?」
「だって、すごくお上手でしたもの……」
「一応、物陰からの観察と研究だけは怠らなかったからな」
エドゥアールは火打石を取って、蜀台のロウソクを灯した。光が照らしだしたのは、壁に掛けられた6枚の肖像画だった。
「代々のラヴァレ伯爵の肖像だ。これだけ祖父さんやひい祖父さんに囲まれた場所じゃ、悪いことをしたくてもできねえよ」
「まあ、この方たちが」
最初おののくような気持ちで近づいたミルドレッドは、女性らしい観察眼で一枚一枚を熱心に見つめた。
「みなさま、凛々しく、若々しくていらっしゃるわ。この方などは、まだ本当にお若い」
「六代目の祖父さんだ」
壁のランプに火を入れながら、エドゥアールが答えた。「23歳のとき、北の馬賊との戦いに出て戦死した。親父がまだ3歳のときだ」
「まあ」
「うちの先祖は、代々若死にする宿命にあるらしい。長生きしてせいぜい40歳か、45歳ってとこだ」
そっけない調子で、エドゥアールは続けた。「ラヴァレ伯爵家には呪いがかかっているという奴もいる。だからみんな当主になると、できるだけ早く肖像画を描かせるそうだ。もちろん親父も、とっくに用意している」
「……」
「結婚式の準備には時間をかけたいと言いながら、今年の秋と言い直したのは、春まで自分が持たないかもしれないと考えたんだろうな」
「――お元気そうでいらっしゃるのに。それほどお悪いのですか」
「腹のしこりは小さくなっているが、なくなってはいない」
彼らしくない、消え入りそうな声だった。「いつまた再発するかわからないそうだ。そうなると、病魔の進行はもう止められない」
ミルドレッドは、胸がふさがれる思いだった。いつも何ものをも恐れぬ自信に満ちた態度で、軽やかに楽しげに動き回っているお方は、本当は痛々しいほど、肉親の死に対する恐怖におびえているのだ。
「今日、きみをここに連れてきたのは」
エドゥアールは気を取り直したように、語気を強めた。「この机の引き出しを開けたかったからだ」
「引き出し?」
彼は、大きな書きもの机に蜀台を置くと、椅子に腰をかけた。
「伯爵の称号を持つ者しか開けられない引き出しだそうだ。親父が何を俺に託そうとしているのか――とうとう今まで開けられなかった」
「わたくしのような者が、いっしょに拝見してよろしいのでしょうか」
「頼む」
エドゥアールは力なく微笑んだ。「そばにいてくれ。ひとりじゃ見る勇気がない」
扉と同じ鍵を差し込むと、鍵穴はコトリと重々しい音を立てた。
ミルドレッドは息を呑みながら、引き出しが開けられるのを見つめる。
まず目についたのは、羊皮紙の巻物だった。
「これは……」
「建物の見取り図ですわ」
机の上に広げられた羊皮紙は相当に古く、褐色のまだら模様の上に、赤黒く変色した直線や曲線が浮き上がって見える。
それは、間違いなくこの領館の見取り図だった。しかも、この館の隠し通路や隠し部屋が全て記してある。まだ戦乱が収まらぬ頃から、突然の敵の襲撃に備えて、城の主のみにひそかに伝えられてきたものだろう。
「すごい。こんなところに小部屋が」
「この裏手から、誰にも知られずに一階に降りられるのですわ」
冒険心をくすぐられたふたりは、頭を突き合わせ、興奮に時を忘れて地図に見入った。それは戦争の陰惨な遺物というよりは、ラヴァレ家の遠い先祖が若い世代に遺した、秘密の贈り物のようだった。
引き出しからは他にも、たくさんの骨董品が見つかった。鍵の束。短剣。王の下賜品の数々。ラヴァレの紋章を刻印した鎧やベルトの金具や銀細工。羊皮紙を綴じた書類の束。何やら由緒のありそうな異国風の塗り箱。
その塗り箱の中には、一通の封筒が入っていた。
明らかにまだ紙のつやも新しい封筒は、ラヴァレの紋章の谷ユリではなく、王冠をかぶった獅子と薔薇の花の蜜蝋で封印されている。
その印を使うことが許されているのは、王家ファイエンタール家の姫君のみ。つまり、エレーヌ・ファイエンタール・ラヴァレ夫人だ。
封筒を取り上げるエドゥアールの手が、かすかに震えた。
だが、意を決してそれを開くまでに、そう長い時間はかからなかった。
まだ見ぬわが子へ
あなたを産んだことは、エルンストとわたくしの罪であるのかもしれません。
孤独に泣く生を、あなたに与えてしまったのかもしれません。
ですが、どうしても知っておいてほしいのです。
わたくしたちは、どんなに離れていても、いつもあなたとともにいました。
そして、これからも、あなたとともにいるつもりです。
わが子よ。あなたを愛しています。
たとえ死によって遠く引き離されても、エルンストとわたくしのあなたへの愛だけは、決して変わることはありません。
「おかわいそうに。エレーヌ姫さま」
彼の背中越しに手紙を覗きこんでいたミルドレッドは、視界が涙でにじんで続きが読めなくなった。「生まれてすぐお亡くなりになったお子さまを、これほどまでに慕っておられたのね」
そうつぶやいてからエドゥアールを見たとき、彼女は驚き、うろたえた。
手紙を前に、祈るように組んだ両手に瞼を押し当てて、彼は声を殺して泣いていたのだ。
止めようもなく、深く激しく。
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