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第6章「生命の春」
(5)
家令のオリヴィエは、裏からひどい匂いが漂ってくるのに気づいた。
建物を回ってみると、お下げ髪をしたひとりのメイドが、裏庭で焚き火を熾し、その上にかけた鉄鍋をしきりにかき混ぜている。
「おい、何をしている」
「ひゃあっ」
メイドは突然の声に飛び上がった。顔を見れば、エドゥアールの部屋づきメイドのひとりだ。確かナタリアとかいう名前の。
「これは何だ」
異臭を放つ赤黒い液体を見て、オリヴィエは顔をしかめた。
「わ、若旦那さまのご命令で、持病のお薬を煎じています」
「持病? 何の」
「さあ。わたくしは存じません」
「言わんか!」
「は、はいっ」
ナタリアは、あっさりと白状した。「生まれつき血が足りないので、これを飲むのだとおっしゃってました」
「血が足りない? 血の気が多い、の間違いではないのか」
解せぬ様子のオリヴィエだったが、あまりの臭さに根を上げ、「わかった。続けろ」と鼻をつまみながら立ち去った。
(あの無駄に元気な若旦那さまに限って、何かの病気をお持ちとは考えられぬが)
確かに、オリヴィエがひそかに驚嘆するほど、エドゥアールの毎日は激務の連続だった。特に子爵一家が滞在しているこの一週間は、日中に賓客たちを見物に案内したり、クロケット遊びやお茶をともにしたりするので、早朝や深夜をもっぱら執務時間に充てておられる。それゆえ、このところランプの油の減りが極端に早いのだ。
(今は、人生の最良の時。どのような苦労も苦労とはお感じになっておられぬであろうがな)
にやつく口元を押さえる。おのれの立場を忘れるつもりはないが、それでもラヴァレ伯爵家に訪れた春を素直に喜べないほど、オリヴィエはプレンヌ公爵の犬になりはてているわけでもないのだ。
(王都へ行かれるついでに、一度フロベール医師の診察を受けるようにお勧めしたほうがよいかな)
そう考えながら足を速める家令の手には、王宮の使いから受け取ったばかりの召喚状が握られていた。
月に一度の、フレデリク三世との謁見の日が近づいているのだ。
「ああ、忘れてた」
召喚状を渡されたとき、エドゥアールは心の底から嫌がっている顔をした。
「来週は、領地での用事が目白押しだってのに、あんな退屈な都に行って、あいつの暇つぶしにいちいち付き合ってられるか。なあ、オリヴィエ。国王の謁見を黙ってすっぽかしたら、どうなる」
「若旦那さまはともかく、家令であるわたくしの首が、胴体から永久に離れますな」
「そのときは、村の仕立て屋を呼んで、丁寧に縫い合わせてやるから安心しろ」
「お情け深さに涙が出ます」
「お洋服のお話ですの?」
ふわりとドレスの裾に風をはらませながら、ミルドレッドが庭から大きな花束を抱えてテラスに上がってきた。未来の伯爵夫人のために、園丁たちが庭の最上の花々を切り取って、われ先にとささげたのだ。
「あ、そうだ!」
エドゥアールは名案を思いつき、がばっと寝椅子から跳ね起きた。
「ちょうどいいや。明日帰るんだろ。子爵家の馬車にいっしょに乗っけてってもらえるかな」
「まあ、エドゥアールさまも王都においでに?」
ミルドレッドの目が喜びに輝いた。別離の悲しみが一転して、めくるめく幸福な時間への期待に変わる。
一方オリヴィエは、「それでは、話が逆ではありませんか」と言わんばかりの渋い顔だ。
「謁見の日まで一週間も向こうに滞在することになりますぞ」
「うれしいな。俺、王都が大好きなんだ」
「領地でのお仕事が、目白押しだったのではないのですか」
若き伯爵は、オリヴィエの肩をぽんと叩いて、にんまり笑った。
「全部まかせる。うちには、ちゃんと首と胴体のつながった信頼できる家令がいるからな」
翌朝、モンターニュ子爵一家は伯領での一週間の滞在を終え、すべての使用人たちの見送りを受けて帰路についた。
令嬢の婚約者、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵も同行する。だが、さすがに四人でひとつの駕籠に乗るのは狭いということで、結局、伯爵家の馬車との二台仕立てで王都に向かうことになった。
近侍のユベールは、居館の使用人たちに主の突然の訪問の準備をさせるため、一足先に早馬で王都に向かっている。
子爵夫妻は子爵家の馬車に、エドゥアールとミルドレッドは伯爵家の馬車に、それぞれ乗り込んだ。
いつもは退屈きわまりない二日間の山越えの旅が、甘い蜜月の空間に変わった。車窓の外を過ぎる変哲もない景色が、このうえなく貴重な風景画に変わる。
峠では、一面青紫のムスカリの絨毯が迎えてくれた。見る者もほとんどいないであろうに、せいいっぱい着飾っている春の草原を、ふたりは馬車を降りて一時間も飽かずながめた。
二日後、子爵家にミルドレッドを送り届けたあと、居館に降り立ったエドゥアールをユベールが出迎えた。
「旅はいかがでした」
と訊く騎士に、エドゥアールは「ああ」と気のなさそうに答えた。
「そう言えば、道中でひとつ、大切な人生の教訓を学んだ」
「なんでございましょう」
「揺れる馬車の中でキスをすると、歯が当たって痛い」
ユベールはくるりと背中を向け、呼吸困難を起こした人間のように、しばらく体を折り曲げて笑っていた。
王都の歩き方も、ひとりとふたりでは変わる。
エドゥアールは今までもしばしばナヴィルの都をめぐって歩いたが、その行き先はと言えば古書店めぐりや、水夫が船の棹を休めるラロッシュ河の橋のたもと、行商人のたまり場といった胡散臭い場所ばかりだった。だが、ミルドレッドのお伴をして歩くようになってからは、都の別な面を見られるようになった。
「エドゥアールさま。もう一軒寄っていってよろしい?」
上流階級向けの仕立屋や帽子屋が立ち並ぶ通りを、くるくると舞う蝶のように軽やかに行く婚約者の飽くなき探究心には、感心せずにはいられない。
初めはどうやって欠伸をこらえるかを思案しながら、延々と後をついて歩いていたエドゥアールも、店構えや店主の客あしらい、いかにレディたちを買う気にさせるかという駆け引きの技に、次第に興味が湧いてきた。
娼館に暮らしていた頃は、他人のお下がりで済んでいたし、伯爵になってからも服を自分で買うことなどない。こういう種類の店に客として入ることは、生まれてはじめての経験だったのだ。
社交界の花とたたえられるミルドレッドのことを知らぬ者は、この通りには皆無。どこへ行っても大勢の注目を浴び、下へも置かぬもてなしを受けた。
店の奥の貴賓席でお茶を飲みながら、いとしい女性が目を輝かせて次々と美しいドレスに袖を通す姿は、何時間でも眺めるに値するものだと感じる。ときどき「どう?」という目でこちらを見る彼女に、「すごくいい」、「さっきのほうが良かった」などと、こちらも目だけで合図を返す。
それだけのことが無性に楽しい。他愛のない秘密遊びが、もっと大きな命がけの秘密を抱える恋人たちに、無邪気な喜びを与えてくれるのだ。
ふとエドゥアールは、テーブルの上に置かれた、たくさんの小さな額縁のような木の枠に目を留めた。手に取れば、鮮やかな色の生地見本がはさみこんである。
「店主」
「はい、旦那さま。なんでございましょう」
「これ、すべて絹だよな」
「はい。北からの最高級品ばかりにございます」
「絹ってのは、暑い国の産物だという気がするが」
「おそれながら、そうとも限りません。蚕のエサとなるマルベリーがよく育つのが春から夏にかけてでございますので、蚕もおおよそ5月から9月の暑い時期に糸を吐き、あとは繭の中で冬を越します。温度にさえ気をつければ、むしろ雪深い国のほうが上質の絹を産すると言われます」
「ふうん」
若き伯爵は、その話にひどく関心をそそられたらしく、立ちあがって店のあちこちを歩き回り始めた。
「あの店先の印は、どういう意味だ」
彼は訊ねた。入り口の鴨居に何枚かの札が貼ってあるのだ。そこに描かれた丸や十字といった簡略な絵は、明らかに何かの符丁に見える。
「はい。あれはエタン侯爵さまのおしるしでございます」
「エタン侯爵? なぜ」
「この通りはすべて、侯爵さまの手厚い保護を受けております。そのため、わたくしどもは絹ひと手幅につき、5ソルドを納めさせていただいており、あれは納付したという証拠の印紙でございます」
「なんだって? じゃあ、あっちは」
「この上にお屋敷のありますジョリエさまのご家紋で、やはり布一反につき20ソルドを納めております」
「冗談じゃねえ。そんなにあちこちから税金を何重にも取り立てられてるのか?」
「それが、ここ王都の古くからの慣習でござります、旦那さま」
仕立屋の店主は、能面のような笑みを貼りつけて答えた。今さら事を荒立てたくないという気持ちがありありと表われている。
エドゥアールはそのまま絶句した。王の膝元である都の通りという通りは、貴族たちの権益のクモの巣と化している。ナヴィルに住む商人や庶民たちはその網に絡められ、品物を売ったり運んだりするたびに、稼ぎを吸い上げられているのだろう。
そして、おそらくその害毒が及ぶ範囲は、都だけにはとどまるまい。
聖マルディラ孤児院を訪れるのは、王都へ来る折りの楽しみのひとつだった。
ここだけは、人のことばの裏を読んだり、巧妙に隠された悪意を警戒する必要がない。
「若さま!」
大勢の子どもたちが、ブランコと木陰のベンチとの間をブーメランのように行ったり来たりしている。そのブランコは、先月の訪問の後にエドゥアールが大工に頼んで新しく作らせたもので、子どもたちは新しい遊具を得た感謝を、こうやって体いっぱいに表しているのだ。
「みんな、大喜びですのね」
ベンチの隣では、ミルドレッドが慈愛の微笑をたたえて、彼らの様子を見つめている。
「ああ」
「どうなさったの。なんだか、あまり気分のすぐれないご様子ね」
「俺ってさ、つくづく偽善者だと思って」
エドゥアールはベンチの上で片膝を立てて、顎を乗せた。「遊び道具を寄付することで、わずか一ヶ月に一度の訪問の埋め合わせをした気になっている」
「何もしないより、ずっとましですわ」
「でも昔の俺はもっと、助けを必要とする誰かのために必死で頭と体を使っていた。下働きで一文無しだったからな。今はやろうと思ったことは、大抵かなえるだけの富を持っている。けど、それは俺が稼いだ金じゃない。貴族が民衆から搾取した金だ」
「搾取だなんて。エドゥアールさまは公正で寛大な方です。おまけに夜も寝ずに、領民のことに頭を悩ませていらっしゃるのに」
「この国全体が、貴族に度の過ぎた富と権力を許している。その腐敗の構図が変わらない限り、俺は同罪だ」
「あなたは」
ミルドレッドは、それ以上反論することもなく、静かに問うた。「あなたは、もしかして王となってこの国を変えたいと思っていらっしゃるの?」
「そんな大それたこと、考えちゃいない」
エドゥアールは、驚いたように答えた。「俺はラヴァレ領の領主というだけで十分だ。それ以上の荷を背負う力はない」
「それなら、あまりご自分を責めないで。あなたは、あなたにできるせいいっぱいのことをなさればいいのよ」
「ミルドレッド」
エドゥアールは、晴れた日の湖のような水色の瞳を細めて、幸せそうに微笑んだ。
「隣に座って話を真剣に聞いてくれる人がいるって、なんて素晴らしいことだろうな」
令嬢は、くすぐったそうに答えた。「わたくしには、それしかできませんのよ」
「うわあ。見つめ合ってる!」
「若さま、もうすぐチューをするんだよ!」
子どもたちがぴょんぴょん跳ねながら、ベンチのふたりを囃したてた。
「なんだか、普段と様子が違うな」
フレデリク三世は、王家の庭のあずまやで、いつもの寝椅子に目を閉じて横たわりながら訊ねた。「無口で、ときおりニヤニヤとあやしげに笑い、いかにも腹に一物あるという顔をしている」
「しみじみと無上の幸福にひたる顔、と言ってくれないかな」
エドゥアールは紅茶をすすり、ほうっと満足げな吐息をもらした。
「なぜ俺が幸せそうなのかを、訊かないのか」
「他人が幸せな理由をとくとくと聞かされるほど、鬱陶しいことはない」
「ちぇっ。それでも、『民の父』と国歌に歌われる国王陛下か」
それでも王がどこ吹く風という様子をしているので、エドゥアールは、そばに侍っている侍従長のギョームに懇願するような視線を送った。
「わたくしでよろしければ、お伺いいたします。伯爵さま」
一礼しながら、侍従長が答える。
「さすがだな、ギョーム。この国が安泰なのは、あんたのおかげだ」
ちらりとフレデリク王のほうを見やってから、エドゥアールは声をひそめた。
「実はな。結婚することになった」
「それは、おめでとう存じます」
「結婚には王宮の許可状が必要だと聞いた。またあんたの手をわずらわせることになるけど、よろしく頼むな」
「かしこまりました。して、王国一幸運な花嫁はどなたでいらっしゃいましょう」
「モンターニュ子爵令嬢ミルドレッドだ」
「その話は破談になったと、余の耳には漏れ聞こえてきたが」
フレデリクは、ゆっくりと身を起こした。
「そういう人の弱みにつけこむような話題は、ちゃんと仕入れてるんだな」
エドゥアールは横目でにらんだ。「確かに一度、破談になった。元のさやにおさまったのは、王妃さまのおかげだ」
「王妃の?」
「俺たちを最初に引き合わせてくれたのは、王妃さま主催の舞踏会だし、別れることを決めていた俺の気持ちを揺るがせたのも、『ふたりを茶会に招きたい』との仰せだった」
さらに、そのあとの呟くようなひとこと。
『わたくしは、このひと月ほど陛下にお会いしておりません』
そう言ったときのテレーズの瞳はひどく寂しそうで、その瞳の中に彼は、恋の痛みを背負っている者同士の悲しみを見たのだった。
「なあ、フレデリク」
エドゥアールは王をまっすぐに見た。名前を呼ばれたとき、クライン国王は肩をぴくりと震わせた。
「愛する人がそばにいて話を聞いてくれるというのは、いいもんだぞ。忠実な家臣や信頼する友が聞いてくれるのとは、また何かが違うんだ。魂の深いところが満たされるような感覚がする」
フレデリク三世は、顔をそむけた。「ふん。おしつけがましい」
「幸福ってのは、自分の意志に関係なく洪水のようにあふれだして、近くにいる者に誰彼なく分かち与えたくなるものなんだ」
「不愉快だ。出ていけ」
エドゥアールは椅子から立ち上がり、テーブルの上に一枚のカードを置いた。
「あんたのすぐそばに、きっと待っている人がいると思うぜ」
そして、王室の作法にのっとって拝跪したあと、あずまやから立ち去った。
侍従長は、すぐにテーブルに近寄ると、若き伯爵が置いていったカードを国王にささげ渡した。
それは、ラヴァレ伯爵の紋章の入った儀礼用の名刺だった。
『エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵と
その婚約者ミルドレッドは
王の庭にて開かれる
国王王妃両陛下主催の茶会への招待を
謹んでお受けいたします』
「なんだ。これは」
フレデリクは目を見開いて、侍従長を見た。「こんな茶会があるのか」
「聞いたこともございません」
ギョームもとまどって、しきりに首をひねった。
しばらくして侍従長の耳に、王の忍び笑いが届いた。
「茶会を開いて、自分たちを招待しろということか。図々しい小わっぱめ」
ギャラリー・ホールで見張らせていた従者が、ラヴァレ伯爵を連れ戻ってきたとの報告がもたらされると、セルジュ・ダルフォンスは即座にソファから立ち上がった。
「おまえは下がっていろ。あとでまた呼ぶ」
それまで彼の愛撫を受けていた女性は、黙ってうなずくと、奥の扉から出て行った。
欲望のかたまりのような父親と自分とは違うという絶対の自負が、セルジュにはある。
それゆえに、時おり女性を部屋に呼んで確かめたくなるのだ。女の肌に惑わされず、終始、完璧な冷静さを保てる自分を。
娼婦の腹から出た下賤な伯爵をかまいたくなるのも、それと同じ理由なのだろう。『わたしは、父のように醜い嫉妬の感情をまき散らす愚かな人間ではない』ことを証明するため。
「リンド侯。お久しぶりです」
エドゥアールは、この前見たときよりもさらに貴族の正装が板についていた。無能で無知でおどおどした男という皮を一枚ずつ剥がし、見るたびに存在感を増していく。
「ラヴァレ伯。きみは嘘をついたな」
「は?」
「領地にひきこもると言っていた。あれは嘘だったのか」
彼はごまかすように照れ笑った。「嘘ではありません。陛下が月に一度の謁見にお飽きになれば、いつでも谷にひきこもるつもりです」
「このあいだは、父をハイエナ呼ばわりしたそうだな」
「ことばが過ぎたと反省しています」
「誤解するな。父に面と向かって、そんなことを言える男が貴族社会にいるのかと感心したのだよ」
セルジュは、鷹揚に微笑んだ。「陛下も内心は小気味よく感じておられるはず。だから、きみを好んで、みもとに召しておられるのだ」
「そういうわけでは」
「ここには居場所がないと言いながら、いつのまにか王宮の奥深く入り込んでいる。きみの狙いは何だ」
「買いかぶりすぎです、リンド候。俺には狙いなどありません」
飽くまで目を伏せたまま答える年下の伯爵の前を、金髪の侯爵はゆっくりと歩いた。
「もうすぐ戦争が起きるぞ。ラヴァレ伯」
エドゥアールは、顔を上げた。「戦争?」
「聞いているだろう。カルスタンとリオニアの国境で、ずっと小競り合いが続いているのを」
「……はい」
「カルスタンの使者が、頻繁に父のもとを訪れている。我が国がカルスタン側に与し、ともにリオニア共和国に宣戦布告することを要求してきた」
エドゥアールの目が、じっと床の絨毯の模様を凝視している。まだ国王さえ知らぬ最高機密だ。事態がそこまで進んでいたことは予想もしていなかっただろう。
「要求を飲めば、クライン・アルバキア同盟の連合軍は、すぐにでもリオニアに出兵を命じられる。ふん、すでに属国扱いではないか」
セルジュは苦い笑いを口元に刻んだ。
「出兵には、反対なのですか?」
伯爵は、ひどく用心深い調子で訊ねた。
当然だろう。カルスタン王国とプレンヌ公爵との間の強いつながりは、下働きの子どもでも知っている。その嫡子であるセルジュが父親にひそかに反対しているなどと、誰が本気で信じるだろうか。
「反対だね。我が国の国力は、カルスタンはもちろん、リオニアにさえ劣る。もし、リオニアをつぶしてしまえば歯止めはなくなり、カルスタンは唯一無二の強大国として、我が国に過大な要求を次々と突きつけてくるだろう」
そして、肩をすくめた。「敵は敵として存在してくれたほうが、なにかと都合がいいのだよ。国同士の関係も――もちろん、人間もね」
「俺に何をしろとおっしゃるのです?」
エドゥアールの表情に、さっきまでは決して見せなかった厳しさと考え深さが加わっている。
――そうだ。本性をあらわせ。わたしは、それが見たかったのだ。
「わたしと手を組まないか」
セルジュは彼の耳元に口を寄せ、低い声で言った。
「父の手の内は、わたしが全部知っている。そして、きみは国王陛下の覚えがめでたい。ふたりで力を合わせれば、国王を説き伏せ、カルスタンの干渉を防ぎ、このクラインをどの国にも負けぬ強国に育て上げることができる」
もちろん失敗したときの方策も考えてある。カルスタンと父公の憎しみを買っているこの男なら、格好の捨て駒になるだろう。どちらにしても、セルジュに損はない。
「それとも、ハイエナの子はハイエナだと思うかね」
エドゥアールはしばらく考えこんでいたが、口を開いたときは驚くほど余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「獅子かハイエナかなんて、今はどうでもいいことです。いずれ歴史書を書く側に立ったときに、書き換えればすむのですから」
「では、歴史書の編纂は、きみにまかせることにしよう」
目論見どおりになったことをほくそ笑みながらも、相手の機知に富んだ受け答えに、セルジュは一抹の不安を抱いた。
(もしかして、わたしは、おそろしく頭の切れる男を味方につけようとしているのではないか)
利用することばかり考えてきたが、気を許せば、こちらが利用されそうだ。
だが、彼はすぐにその考えを捨てた。
(利用するならしてみろ。最後に笑うのは、わたしだ)
屈服や敗北という単語は、この誇り高い貴族の頭には存在し得ない。
「よろしく頼む――エドゥアール」
「こちらこそ――セルジュ」
うららかな春の日、宿敵同士ともいえるふたりの若者が、王宮の片隅で固く握手を交わした。
この瞬間がクライン王国の歴史を大きく変える転換点であることを、人々はまだ誰も気づいてはいなかった。
第六章 終
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