伯爵家の秘密/番外編


2. 王妃の密約


(1)

 あの頃、アメリア離宮を訪れる陛下は、いつも髪をぼとぼとに濡らしていた。
 まだ王宮のすべてが、プレンヌ公爵とその派閥によって牛耳られていた時代。クライン王国の最高権力者、やんごとなき国王フレデリク三世といえど、正妃のもとを訪れる自由さえなかったのだ。
 人目を盗んで行動するため、王は入浴の時間を利用した。唯一の信頼できる味方である侍従長のギョームに隠ぺい工作を頼み、手早く湯を使ったあと裏の戸から抜け出し、宵闇にまぎれた影となって、渡り廊下の下をくぐる。
 乾くとクルリと巻き毛になる金の髪は、真っ直ぐ頬にはりついたまま。テレーズは、大きなタオルを用意して彼を迎えるのが、毎夜の楽しみとなった。
 タオルを広げて受け止めようと待つ王妃を、国王は息を乱しながら抱きすくめ、口づけする。軽い興奮に酔った勢いで、そのまま寝台に連れて行かれることもあった。
「まるでいたずらっ子ですのね」
 枕の上にうつぶせになった王の広い肩をそっと撫でながら、テレーズは耳元に口を近づけて、ささやいた。「陛下の数時間の長風呂は、王宮の噂になり始めていますわ」
「そろそろ限界やもしれぬな。次は、狐狩りでも口実にして、二、三日失踪するか」
「二、三日も? 狩られる狐は、体力が持ちません」
「なに、じっくりと追いつめて、優しく仕留めてやるさ」
 王は頭を王妃の膝に移して彼女の手を捕らえ、指先にいくつもの接吻を落とした。
「これほど幸福な時間を、陛下と分かち合えるとは……六年間、夢にも思っておりませんでした」
「余も同じだ」
 ふたりは、手からこぼしてしまった歳月の埋め合わせをするように、ひたすら互いを愛しみ合った。
 そんな夜がしばらく続いたあと、ある日王妃は、離宮を訪れた夫をひざまずいて迎えた。
「今宵は折り入って、お話しさしあげたきことがございます」
「なんだ」
 答えの代わりに、テレーズは卓に、金の細工をほどこした瀟洒なガラス瓶をことりと置いた。
 手のひらに収まりそうなほど小さく、中には無色透明の液体が入っている。
「これは――?」
「毒薬でございます」
 フレデリクは目を眇めて、王妃を見た。「どういう意味だ」
 さまざまな言葉が、彼女の喉の奥でせめぎあう。しかし、夫の水色の瞳が疑惑や非難の色に染まっていないことを見ると、緊張した表情は和らいだ。
「長い昔話になります。お聞きくださいますでしょうか」
 フレデリクは濡れた髪から雫を飛ばして長椅子に座り、足を組んでゆったりと背を預けた。
「聞こう」


「姫さま!」
 馬からひらりと飛び降りたテレーズ王女に、侍従のひとりがあたふたと駆け寄ってきた。
「先ほどから、国王陛下と大公殿下がお待ちにてあられます。たいそう急いたご様子で」
「あら、そう」
 彼女は、鞭をぽんと従者に放り投げると、ひとつに編んだ長い髪を肩へと払いながら、庭園の真ん中をずんずんと突っ切って歩き始める。
 小道の両側には、深紅のカーネーションが見事に咲き誇り、風に揺れている。アルバキアの国花。彼女が幼いころから親しみ、また誇りに思う花だ。
 短胴着に乗馬ズボンという勇ましい服装のまま、テレーズは大広間に入った。
 玉座に座っているのは、六歳年上の兄ディオン。その脇に、先代国王である彼女の父、オルランド大公。五年前に嫡男に王位を譲って、表向きは隠居の身だ。ほかにも三人の兄がいて、いずれも国の要職に就いている。
 四人の王子の後に生まれた末姫であるテレーズは、子どもの頃から少女らしい遊びには興味を示さず、剣術や乗馬やチェスをたしなんだ。
 長じてからは法律を修め、国の政治にも並々ならぬ関心を寄せてきた。
 十五を過ぎてから山のように国内外から持ち込まれた縁談も、ことごとく切って捨てるように、断り続けた。
「だって、結婚なんて退屈ですもの」
 口実ではなく、本当にそう思っていた。実際にアルバキア王家でも、正妃妾妃の水面下の争いは鼻白むばかりのもので、四人の兄はそれぞれに母親が違う。みにくい跡目争いが起きなかったのは、ひとえに長子相続の法律が確立していたからだ。
 テレーズの母も正妃であるとはいえ、夫の愛情をひとりじめにはできず、決して幸福には見えなかった。さすがに母が亡くなったときは、花嫁姿を見せてあげられなかったことに心を痛めたが、それでも王女は父や兄たちの嘆きをよそに、一生のあいだ結婚せずに祖国に尽くすと公言していた。
「あいにく出かけておりました。申し訳ありません」
 乗馬ズボンのひだを片手につまんで、まるでドレスを着ているようなお辞儀をする。きびしい王女教育のたまもので、所作だけはきっちり仕込まれている。
「テレーズ」
 玉座から降りてきた声に、彼女は知らず知らずのうちに身構えた。父と兄の浮かない顔を見れば、良い知らせでないことは一目瞭然だった。
「隣国のクラインに嫁いでもらいたい」
 兄の宣告は、最悪の予想をさらに越えていた。
「結婚……ですか」
「お相手のフレデリク三世は御年三十六歳。余より、たったふたつ上であるだけだ」
 彼女と同じ砂色の髪の兄ディオンは、生まれつき温厚な性格で、あまりにも穏やかすぎて押しが弱いと、しばしば父がこぼしている。彼は絶句している妹を案じ、気を引き立てるように、なるべく明るい言葉を選んだ。
「すこぶる見目良き方とうかがう。良き縁組だ」
「けれど、陛下」
 テレーズは玉座の兄ににじりよった。「クライン国王は……」
 隣国の噂は今までにも、いろいろな形で伝えられていた。どちらかと言えば、民衆から出た噂のほうが真実を言い当てていることが多い。
 いわく、フレデリク三世は無能な王。政治はすべて大臣まかせ。
 いわく、生まれつき体が弱く、ほとんど公の場に出てこない。出ても、いつも居眠りしている。
 いや、ことによると弱いのは体ではなく、おつむのほうであるかも――などなど。
 第一、一国の王ともあろう人間が三十六歳まで独身を通すなど、普通ではありえないのだ。多くは世継ぎを残すために、二十歳までには妻を迎える。
 とは言え、世継ぎを残すのが目的なら、とっくに適齢期を過ぎている二十八歳の王女をめとることなど考えられない。
「裏で糸を引いているのは、誰です」
 父と兄の顔に、ありありと苦渋の色が浮かんだ。
「カルスタン王国……ですか」
 ひどく不味いものを含んだかのように、テレーズは唇をぎゅっと曲げた。
 北の軍事大国カルスタンは、折あらば南のリオニア共和国と事を構える機会を狙っていると言われる。そのためにクライン王国とアルバキア王国を味方につけ、リオニア包囲網を完成させようと企んでいるのだ。
 小国が束になっても、かなう相手ではない。ましてや、広い国境をカルスタンと接しているクライン王国にとっては、逆らえば大きなわざわいを招くことになる。馬賊の侵入が発端となってクラインとカルスタンが三年にわたる戦火を交えたのは、わずか四十年前だ。
 もっと悪いことに、クラインの国政を牛耳っている首席国務大臣のプレンヌ公爵は、親カルスタン派であるとも聞いた。
 アルバキアとクラインを政略結婚によって結びつけておいて、思うままに干渉する。カルスタンの思惑は、そんなところだろう。
「わたしは、態(てい)の良い人質なのですね」
 年若い王女なら、結婚という言葉に、つかのまの甘い夢を見られたかもしれない。だが、国際政治の内情を知っているテレーズには、暗いトンネルが目の前に見えるだけだ。
 この美しい常春の祖国を、できるならば去りたくはない。だが、アルバキアのような弱小国に拒否する自由があるはずもなかった。
「わかりました。クラインにまいります」
 意地でも涙は隠したが、微笑もうとしてもうまくいかなかった。「この身が少しでもアルバキアのお役に立てれば、本望ですわ」
「すまぬ」
「父上、兄上、そんな顔をなさらないで。大変なのはこれからですわ」
 果たして、事態はテレーズの恐れたとおりになった。
 アルバキアの貴族議会は、大混乱に陥った。クラインとの軍事同盟は断固反対。カルスタンの影がちらつく縁組など、百害あって一利なしと、結婚に猛反対を唱えたのだ。
 紛糾した議会を、国王は一時的に閉鎖するしかなくなった。
 すっかり憔悴した様子で玉座に座っているディオンに、王女の礼装をつけたテレーズが近づき、ふわりと裳裾を広げて膝をかがめた。
「陛下。お願いがございます」
 まるで軍人が前線に赴けとの命令を得るときのように背筋を伸ばし、胸に手を当てた。
「議会に対して、密約の書をしたためてほしいのです。もし、わたしがクラインに嫁いでも、わたしの存在が陛下の自由な裁量をさまたげ、アルバキアの未来にとって邪魔になるような場合は、王家から名を除くと」
 つまりは、テレーズの命を盾にクラインから意に染まぬことを押しつけられたときは、即座に見捨ててほしいと。
 兄王は、力なく首を振った。「そんな約束はできぬ」
「お約束ください。そうでなければ、議会は納得しません」
「余に、同じ母の子であるそなたを売れと。ひとでなしになれと申すか」
「アルバキア八百万の民の幸福と、妹ひとりの幸福を天秤にかけるのですか。それが一国の主のすべき選択なのですか」
 ディオンは泣きそうな顔でうなだれていたが、金無垢の王冠を頭からはずして、かたわらの台に置くと、玉座から立ち上がった。
「わかった。そなたの望むとおり、密約書を書こう」
「ありがとう存じます。陛下」
 広間を去るとき、若きアルバキア王は背中を見せたまま、つぶやいた。
「小国の王とは、哀しいものよな」


 数日後、テレーズは自室に、ひとりの女を招き入れた。
 刺し子刺繍のターバンを頭に巻き、房飾りのついたショールをまとった女は、少女のようにも老婆のようにも見えた。
 古くから南の大陸の異民族との交流が盛んで、【文化の十字路】とも言われるアルバキアは、放浪民族の伝統を取り入れることにも寛容だった。
 テレーズも、放浪民族の文化を手厚く保護していた。彼女の部屋には、鏡板細工のタペストリや、真鍮のブレスレットが飾られている。
「たのんでいたものは、持ってきてくれた?」
「はいよ。姫さま」
 女は緩慢なしぐさでショールの下をさぐり、袋からくすんだ色の小さな壺を取り出した。
「効果は保証つきね?」
「無味無臭。飲み下して数分後には、意識を失っておるわ。苦しくもなし、顔が膨れたり斑点が残ることもありゃせぬ」
「そう。それは助かるわ」
 テレーズは、用意しておいた香水用のガラス瓶を置いた。これに移し替えて化粧道具にまぎれさせて持っていく。いざとなれば、胸元に隠すこともできよう。
「良い花嫁道具になったわ」
 それを聞いて、女は浅黒い顔をゆがめた。
「姫さま。姫さまはこの国にとって、なくてはならぬ人。そんなものをご自分が使うこたない。いざとなればクライン王の飲み物に混ぜて、逃げればよいのじゃ」
「ありがとう。でも、そんなことをしたら戦争になるわ」
 王女は窓のそばに立ち、もうすぐ見ることもなくなる夜の庭をながめた。風に深紅のカーネーションが頼りなげに揺れている。
「アルバキアの王女として誇りをもって生き、いつでも誇りをもって死ぬ。それが愛する祖国を守るために、わたしがすべきこと」


 その年の秋、両国を挙げた壮麗な結婚の儀が行われ、テレーズはクライン国王フレデリクのもとに嫁いだ。
 歓迎されているなどとは思っていなかった。彼の国にとっても、しょせんはカルスタンから強制された縁組。隣国の姫君ともなれば、粗末にも扱えず、厄介なお荷物でしかないだろう。
 人々の目もよそよそしい。軍事同盟を結んだ国同士とは言っても、国家の機密に関わることをさぐられてはならぬと警戒されているのがわかる。本国から連れてくる供回りも、わずかな数の侍女しか許されなかった。
「これから、よろしく頼みます」
 仮面のように無表情なクラインの女官や侍女たちに、ひとりひとり挨拶をする。
 上流クライン語は完璧に操れると自負しているのに、かすかな訛りでもあるのだろうか。どこかでふっと笑い声が漏れているように思えて、気がふさいだ。
 夫となったフレデリク・ド・ファイエンタールは、王に生まれついた者の持つ気品のある顔貌を備えていた。ただ、無気力に濁った目がそのすべてを台無しにしている。
 代わりに国事のすべてを仕切っているのは、首席国務大臣プレンヌ公爵エルヴェ・ダルフォンス。強烈な存在感を放つ人物だが、その蒼い瞳にありありと表われた傲慢に、一目見てテレーズは嫌悪をもよおした。
 最初の謁見から結婚の儀が終わるまで、花婿と花嫁は会話や微笑を交わすこともなく、互いに視線を投げかけることもない。
 結婚式当日の夜ですら、王妃の住まいとして与えられた離宮に、王は全く姿を見せなかった。ひとりで長い夜を明かしながら、テレーズはこれから待ち受けている無味乾燥な日々をぼんやりと思った。
(愚かだわ。こうなることは覚悟していたはずなのに)
 計算ずくの政略結婚だというのに、いつのまにか女性らしい甘い夢でも宿していたのだろうか。妻として完全に拒絶されたことを悟ったとき、体のどこかが、予想もしなかった痛みにキリリときしんだ。


 あくる日から彼女は精力的に動き始めた。もともと、何もせず座っているということができない性質だ。まずは王宮で働く侍従や女官を通して、国王に関する情報を集める。
 厨房の長を呼んで、王が召しあがったものや好物を仔細に尋ねた。
 異国の王妃の問いかけは最初ひどく警戒されたが、熱心さに負けて、ぽつぽつと語ってくれるようになった。
「陛下は、苦味のあるものは一切口になさいません。ご幼少のころ、悪いものにあたられて、ひどくお体を害されたとか」
「悪いもの? 王宮の食事が傷んでいたということはないでしょうに」
「証拠はございませんが、毒を盛られたという噂でございます」
「毒?」
 胸元に隠し持っている毒の小瓶を思い出し、心臓が跳ねた。
「ええ、それ以来、必ず一口目はご自分の口に含んで確かめられるのだとか」
 次第に浮かび上がってきたのは、フレデリク三世の臆病で、退屈で、孤独な半生だった。
 政務は人にまかせっぱなし。かと言って熱中するような趣味があるわけでも、酒や女に溺れているわけでもない。正妃であるテレーズに指一本触れないばかりか、妾妃を持ったこともない。
 誰も信用せず、不機嫌なときは回りに当たり散らして、侍従すら寄りつくことができない。エレーヌ王女がラヴァレ伯爵のもとに嫁いでからは、食事をともにする相手すらいないという。
 【狂王】というあだ名が、こっそり王宮内でもささやかれている。巷の民たちは、もっとひどいことを噂しているだろう。
「妹姫さまを、ことのほか溺愛なさっておられたようですよ」
 こういう下世話な話のときだけ、口の重いクライン人の侍女たちも、さざめくようにしゃべった。
「毎夜のように、お部屋にお呼びになって、お体を愛撫しておられたとか」
「きゃあ。わたしも先輩からうかがいましたわ、その話」
 テレーズは呆れてしまった。自分も四人の兄を持つ身で、互いのことをかけがえのない存在と思っている。兄妹の愛情をそういう話にすりかえてほしくない。根も葉もない噂が一人歩きをしているのは、王宮の空気がよどみ、風紀が乱れている証拠だ。
 侍女たちには、みだらな噂は金輪際禁じると申し渡したが、陛下が妹をひどく可愛がっておられたのは事実なようだ。
(陛下は感情をお持ちになっておられるという証拠だわ)
 ところが、捜しても王宮内にはエレ―ヌ姫の肖像画が一枚も見当たらない。フレデリク王が命じて、片付けさせてしまったという。
「天使のように可愛らしい方だったそうですよ」
「輝くばかりの金髪をお持ちで。お腰はありえないほど細くくびれて」
 いくら話半分に聞こうとは思っても、こうもエレ―ヌの美しさをほめそやされては、自分のくすんだ砂色の髪や、ひそかに劣等感を抱いている背の高さや腰の大きさと引き比べて、テレーズは軽い嫉妬にさいなまれてしまう。まるで「だから、あなたは王に相手にされないのよ」と暗に言われているようだ。
 エレーヌ姫にぜひお会いしなければ。会って不毛な思いから解放されたいし、何よりも、陛下について聞いてみたい。
「いつか、姫君にお会いする機会はありませんか」
 そう女官長に頼んだことがある。返ってきたのは、にべもない答えだった。
「姫さまにおかれましては、不幸なご死産のあとラヴァレ領から一歩もお出にならず、今は重い病に伏せっておられます」
「まあ、それではせめて、お見舞いの品を届けられませんか」
「そのような心づかいは無用と、陛下から固く戒められております」
 どうも、国王陛下とラヴァレ伯爵との間には、古いわだかまりがあるようだ。いや、それだけではない。王宮のここかしこに、重苦しい鬱屈した空気が漂っている。
(調べるにつれて、どんどん納得がいかないことが出てくるわ)
 フレデリク王が噂のように無能で怠惰な人間とは、どうしても思えなくなってきた。陛下は豊かな才能を持ちながら、何かの理由で心を閉じ、大きな壁を身の回りにめぐらせておられるのではないか。
 しかし、異国から嫁いだばかりの身で、これ以上自由に動くことはできない。


 テレーズは、罠をしかけることにした。
 

                           

(2)につづく

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