1. 騎士の求婚
ユベール・ド・カスティエは、謹厳実直を旨とする騎士である。どんなときでも氷のように冷静沈着、理性的かつ禁欲的。自他ともに、そう認めている。
そう言わないのは、彼の主、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵だけだ。
「俺の命で休む暇なく各地を飛び回っているように見えても、きちんと遊ぶことは遊んでるもんな」
若さまは、あずまやのお茶のテーブルに行儀悪く両肘をつきながら、訳知り顔でのたもうた。「俺の推測では、全国に五人は現地妻がいるんじゃないか」
もちろん同じテーブルには、愛妻のミルドレッドさまも同席しており、ということは、当然奥方さま付き侍女のソニアも後ろに侍っている。
「十九年間仕えてきた主から、そんなふうに誤解を受けているとは、心外ですな」
「十九年間つきあっても、いまだに腹の底が割れない近侍を持つのも、疲れるもんでね」
奥方は夫たちの軽口を聞きながら、おかしそうにコロコロお笑いになっている。だが、侍女はどんぐりのように大きな目玉で、ちらりとこちらを見ただけ。
国務大臣の仕事と領地の経営でしごく多忙な伯爵は、早朝と深夜、それに午後のお茶から夕食までの時間を、毎日の執務に充てている。主を書斎にお送りしたあと、先ほどのあずまやのそばを通ると、ソニアがお茶の後片付けをするのが見えた。ユベールに気づいても、何も言わずに顔をそむける。
明らかに、怒っていた。
彼も同じく、知らぬふりをして通り過ぎた。
庭を歩きながら、溜め息をつく。どうも調子が狂う。二十六年生きて初めて味わう状況に、ユベールはいらだっていた。
ソニアは、以前からずっとエドゥアールを慕っていたらしい。近侍として主の身辺に目を配っていると必ず、彼女の視線の先にはいつも伯爵の姿があった。伯爵が奥方をめとることが決まってからも、それは変わらなかった。『かわいそうに』と同情を覚えぬでもなかったが、どうしようもない。
彼女の目が、ともにいるユベールにも注がれているのに気づいたのは、一体いつからだったろうか。
困ったことになったと思った。厄介ごとに巻き込まれる前に、色恋沙汰は如才なく処理せねば。
感情を表に出さぬ一番の方策は、そもそも感情を持たぬことだとわきまえていた。それが、騎士というものの務めだと信じていた。
なのに。
――冒頭の言を言い直さねばなるまい。
ユベール・ド・カスティエは、謹厳実直を旨とする騎士である。だが、真実はおそらく、冷静でも理性的でも禁欲的でもない。
カスティエ士爵家の嫡男であるユベールが、サンド士爵家に預けられたのは、母が病で他界した三歳のときだった。
父アンリは、仕官しているラヴァレ伯爵家の当主エルンストのリオニア遊学に随行して不在。サンド家は騎士の名門というばかりでなく、陸軍軍人の家系としても名門であり、さらに言えば、サンド家の若当主は、陸軍でラヴァレ伯爵と同期という親しい間柄だった。
かの家でユベールは、軍人らしい規律正しく厳格な教育を受け、自分も大きくなれば陸軍に入隊するのだと、幼いながらにおぼろげに夢見ていたものだった。
ところが七歳のとき、いきなり養い親の家から引き離された。父アンリが、ある日前触れなしにサンド家の玄関に現われ、いっしょに来いと彼に命じたのだ。
目につく物だけを急いで小さな旅用の行李に入れ、養父母とはろくに別れの挨拶も交わせぬまま、ユベールは父とともに出発した。
冷たい雨の降る冬の夜、慣れぬ馬での旅。暗闇の中でたったひとつの目印である父のマントを追いかけながら、彼の胸は不安と怒りでいっぱいだったことを覚えている。
峠の村で休憩をとったとき、疲れきって軒先に座り込んでしまったユベールに、父は何も言わず、熱い蜂蜜湯とカリカリに焼いたジャガイモとチーズのタルトを差し出した。
あの味は今でも忘れられない。
ひとつの森を選んで入り、「さあ、着いた」と言われたときは驚いた。それまで彼が暮らしていたのは、王都の市街地。こんな道すらない森に人間が住んでいるとは、思ってもいなかったのだ。
古ぼけた小屋の扉を開けると、中にいたのは放浪民族の老婆。そしてすやすやと眠る小さな赤ん坊だった。
「この御方が、今日からおまえが仕えるエドゥアールさまだ」
「え……」
「わたしの仕えるラヴァレ伯爵のご嫡子だ。おまえにはわたしの代わりに、守り役をたのみたい」
父のことばに、あらためて揺り籠をのぞきこむ。
羽毛のように柔らかな金色の髪。腕利きの細工職人が小さな鋏でこしらえたような、可愛い鼻や口。
――まだ生まれたばかりに見える、この赤ちゃんが、僕の主?
王家の血を引く御方であることを明かされたのは、ずっと後年だ。そのときはまだ、伯爵家のお世継ぎともあろう方が、何故このような薄汚い小屋でお暮らしになるのか、理由も聞かされなかった。
思わず質問を連ねそうになったが、教えられてきたことを思い出した。
騎士は、決して「なぜ」と訊ねてはならない。そして、疑問をあらわにしてはならない。
「わかりました」
片手を胸に当て、できるだけ感情を押し殺した声で、誓いの型どおりに低く答えた。「今日から、この御方を我が主と定めます」
それからというもの、ユベールにとって、戸惑いの日々が始まった。
今まで受けてきた厳しい騎士の訓練は、何の役にも立たない。第一、十歳に満たぬ男の子が赤ん坊をうまく扱えるはずがないのだ。おむつを換えたり、泣きだした若さまを抱っこしてあやすときは、こちらが泣きたかった。
乳離れが済み、乳母役の女が来なくなると、アルマとユベールとエドゥアール、三人だけの暮らしが始まった。父は、当時まだ健やかだったラヴァレ伯爵夫妻の護衛に忙しく、森の小屋へは時おり顔を見せる程度だ。
歩き始めたエドゥアールは、思いつく限りのいたずらをやってくれた。少しでも目を離せば、小屋の外に飛び出す。触っては危険なものには触りたがり、こぼしては後始末が大変なものに限って、ことごとく手を伸ばす。
――つまり、本質的には、今もまったく変わっておられないわけだ。
夕食の時間を告げるために書斎に入ったとき、ユベールは主の姿を見て、つくづくそう思った。
「何をにやにやしている」
ラヴァレ伯爵は羽根ペンを机の上に置くと、気味悪そうに近侍の騎士をにらんだ。
「おや、にやにやしていたつもりはないのですが」
「心の中で笑ってるだろう。いったい何がおかしい」
「若さまのご幼少のころを思い出しておりました」
ランプを吹き消し、大食堂に向かうエドゥアールの後ろにぴったりと従う。つかず、離れず。その歩調に、主の体の具合や気分まで推し量ることができる。
「俺が見違えるほど立派になったと、感激に胸を震わせていたわけか」
「全然。いっこうに成長しておられないと嘆じておりました」
ユベールは、伯爵の電光石火の蹴りをひょいとかわすと、先回りして大食堂の扉をうやうやしく開けた。
放浪民族出身のアルマ婆は、身分というものを徹底的に嫌った。未来の伯爵に向かって敬語も使わず、まったく同格に扱うのには、アンリもユベールも閉口した。
言葉には、ひどいなまりがあったが、彼女の歌う子守唄は美しかった。ユベールとエドゥアールは、毎夜ひとつの寝台で、彼女の歌を聞きながら寝入ったものだ。膝と足でリズムを取る糸くり歌も楽しげで、小屋はいつも歌声で満ちていた。エドゥアールが歌と踊りに秀でているのは、アルマに育てられたからだろう。
日用生活に必要なものは、祖母が放浪民族だったというアルマの知り合いの女が定期的に運んできた。陽気で威勢がよくて、しかも言動にどことなく貴族の教養と気品がある。それが、後年エドゥアールを託すことになる、港町の娼館の女将イサドラだった。
数年もするとエドゥアールは、起きているときは一日中しゃべっているような子どもに育った。たまに黙っているのは、何か悪さをしているときだ。
おしゃべりの中でも一番多いのは、「なぜ」という質問だった。
「なぜ、葉っぱが落ちる木と落ちない木があるの?」
「なぜ、キノコは落ち葉の下に隠れて、光を浴びなくともよいの?」
どんぐりを毎日、山のように集めさせられたこともある。クマを手なずけて、冬ごもりの穴にいっしょに入るという壮大な計画を聞いたときには、ユベールは悲鳴をあげたものだ。
ときどきアルマが買い物に行く近隣の村で、エドゥアールは小間物屋の店先から、じっと往来を見つめた。
「なぜ、わたしには父上と母上がいないのかな」
ぽつりとつぶやいた五歳の少年の視線の先にあるのは、父親に手を引いてもらって楽しげに歩いている子どもの姿だった。
「わたしには、お答えいたしかねます」
十二歳の守り役は、丁重に頭を下げて答えた。本当はわかっていたのだが、ずるく逃げたのだ。「騎士は、なぜと聞いてはならぬ務めにございます。答えは主が持っている。騎士は知らなくともよいのだと教わりました」
「だから、わたしは、いっぱい答えを知っておかなきゃならないんだ」
エドゥアールの熱意をこめた声に、ユベールははっと顔を上げた。キッと結んだ唇。水色の瞳が、雲間から覗く空のように輝いている。
――この方は、こんなに小さいのに、もうご自分が主だということをご存じなのだ。
「時が来れば、きっと全てのことがおわかりになりましょう」
胸がつまり、そう答えるしかなかった。「そのときは、どうぞわたしに教えてください」
「うん」
少年はうれしそうにうなずく。
ユベールが正式な騎士の位を得て、父アンリの補佐を受けてエドゥアールの前で騎士の誓約を立てたのは、それから半年後のことだった。
夕餐が終わり、大伯爵が執事ロジェとともに先に自室へ引き上げられたあと、若伯爵夫妻も大食堂の扉を出た。
ソニアはそのときも、扉を押さえるユベールを、わざと無視している。
ミルドレッドは夫の部屋のソファに腰を降ろすと、ユベールを見上げてにっこりとほほ笑んだ。
「侍女のソニアのことなのだけれど」
当人は編み棒を取ってくるように命じられて、奥方の部屋に戻っていったところだ。
「ジルもめでたく、トマと結婚式を挙げました。そろそろ、ソニアのことも考えてあげたいのだけれど、どなたか良い殿方をご存じありませんか」
「わたしが、でございますか」
ユベールは、灰緑色の目を驚きに見張った。
「さあ、どうでしょう。士爵の知り合いは何人かおりますが、平民の娘との結婚は考えていないでしょう。それに、いずれもラヴァレの谷から遠く離れた場所で仕官する者ばかりですので、彼女をこの谷を出すおつもりでなければむずかしいかと」
「そうねえ」
「いっそのこと、ジョルジュはどうなのです」
思わず、心にもない言葉を発した。それを聞いたとたん、エドゥアールは大笑いを始めた。
「ああ、それは気付かなかった。けっこうお似合いかもな。ジョルジュとソニア。へえ、悪くない」
ソファの上でひっくりかえって、まだ笑っている主の前から辞すると、ユベールは、むかむかするのを感じた。
自分はどうかしている。わざと焚きつけられているのは明白なのに、どうして、いつものように平静にやりすごせないのだ。
昼食後に決まって姿を消す幼い主をさがして、ユベールは森の中に分け入った。
すぐに見つかった。
弱い陽ざしの漏れ入るわずかな空き地。エドゥアールはこちらに背中を向けて、茂みにかがみこんで、何かをしていた。
「若さま」
「わっ」
尻もちをついてしまった主に近寄ると、茂みの中にいたのは、動物の子どもだ。
「オオカミの子ですか?」
「うん。ここに隠れているのを、何日か前に見つけたんだ」
柔らかな茶色の毛におおわれた子犬のような動物の頸を、エドゥアールは、いとしげに指先でくすぐった。「きっと、イタチにやられたんだろう。足にけがをしている。昼ごはんを残して、こっそり持ってきてやってる」
「アルマが知ったら怒りますよ」
「うん、わかってる。だから内緒にしていてくれるな」
「小さくとも、凶暴なオオカミです。近づかないほうがよろしいと存じます」
「でも……このまま弱って死んでいくのを放ってはおけないよ」
七歳の少年の悲痛な声に、ユベールは反駁の言葉を呑みこんだ。
主があえて望んで危険に飛び込んでいくなら、騎士に止める権利はない。命を懸けてお守りすればよいだけのこと。
「承知しました。けれど、ひとつだけお約束ください。小屋の外に出るときは、必ずわたしをお連れくださること」
「ありがとう、ユベール」
それから二日ほどして、オオカミの子の姿は消えていた。茂みの回りに、大人オオカミの足跡がいくつか残っている。
「きっと母親が迎えに来たんだね」
エドゥアールは少しさびしそうにしながらも、「よかった」と無理に自分を納得させているようだ。
さらに一週間ほどして、アルマ婆さんがキノコ採りから帰ってきた。大きな籠を背中からおろしながら、ぶつぶつと文句を言っている。
「泉のそばで、小さなオオカミの子が死んでいたよ。かわいそうに、骨と皮にやせ細って、親に捨てられたんだろう」
エドゥアールは、受け取ろうとしていた籠をひっくりかえして立ち上がった。
「こら、なにするんだ」
扉から駈け出していく主を、ユベールは追いかけた。
夏になると水浴びに来る小さな泉のほとりに、主従は立ちつくした。
水際で死んでいたのは、やはり世話をしたオオカミの子だった。すでに肉食動物にやられたのか、無残な血まみれの死骸に張りついていたのは、同じ茶色の毛皮だった。
「なぜ……」
ぼろぼろと涙を流しながら、エドゥアールは何度も同じ問いを繰り返していた。「親のもとに戻って幸せに暮らしていると思ったのに――どうして」
小屋に戻ると、訳を知ったアルマは激怒した。
「動物と人間は住む世界が違うんだ。そんなことも知らないのか。境界のこっちに来てしまった動物は、二度とあっちには戻れなくなるんだよ」
折檻さえしそうな老婆の剣幕に、思わずユベールはふたりの間に割って入った。
「アルマ。あのままではオオカミの子は必ず死んでいた。若さまは可哀そうに思って……」
「死ぬなら死ぬで、それはその動物の運命だ。人間ごときが中途半端な情けなど、かけるでない。おまえは、尊厳をなくした一番悲惨な死を、あの子に与えてしまったんだよ」
「でも――」
「ユベール、いい」
エドゥアールは、うなだれていた顔を上げた。その目は涙の膜におおわれながら、誰かに助けを求める弱さはなかった。
「わたしが間違っていたんだ。もう二度と間違わないように、アルマのことばをしっかり聴きたい」
その日一日、彼は自分の意志で食事を取らず、自分の部屋からも出てこなかった。
――若さまは、あのとき以来、命を守ることの重さをご存じだった。
ユベールは、冷たい秋風に物思いから引き戻され、夜空を見上げた。
貴族は、その財力にあかせて、関心の薄い者にさえ気まぐれな寄進を施すことが多い。だが、ラヴァレ伯爵が他人に手を貸すのは、いつも相手をよく知り、自らが最後まで責任を取るという覚悟をしてからだ。
『このラヴァレの谷にいる者は、すべてラヴァレ伯爵の名のもとに守る』という主の口ぐせは、彼の命を懸けた誓いなのだ。
「こんなところにいたのか」
うしろから声がかかり、夜衣を肩から羽織っただけのエドゥアールが、折り戸からテラスに出てきた。
「そんな格好では、風邪を召しますよ」
「ちっと運動したばかりで、暑いくらいなんだ」
隣に立った主の、もつれた金髪からは、ほのかにミルドレッドの香水の移り香がした。
――さぞや、濃密なときを過ごしておられたのだろうな。
気づきながらも素知らぬ顔をしている騎士に、エドゥアールは言った。
「忘れてるかもしれないけど、俺はもう大人になったんだぞ」
「そうですか。それは失念しておりました」
「だから、おまえはもう、おまえの人生だけを考えればいい」
ユベールは聞いたことばが信じられないかのように、何度か目をまたたいた。
「アンリが死ぬときに託した遺言を、おまえはもう果たしたんだ」
『ユベール。カスティエ家の忠誠は……』
――永遠に、エドゥアールさまのもの。
「あまりに意外なおことばで、急には頭が働きませんね」
「そうか。そんじゃ、ゆっくり考えといてくれ」
伯爵は近侍の肩にぽんと手を置くと、館の中に入った。いつのまにか主の背丈は、彼の背を追い越さんばかりになっている。
ユベールは夜空をもう一度見上げ、白い息を吐くと、テラスから庭に降りた。
しばらく暗い庭を散策したあと、奥方さま付きの侍女の部屋をノックした。
使用人用の湯を使ったあと、眠る支度をしていたのだろう。白い服を着て髪をおろしたソニアは、ユベールを見るなり、ツグミのような目をまんまるに見開いた。
「少し話があるのだが、よいか」
「は、はい」
彼女はあわてて上着を取りに行くと、素直に従ってきた。彼の自室に入ると、扉のところでもじもじしている彼女にユベールは振り向いた。
「なぜ、わたしのことを怒っている」
「お、怒ってなど」
「では、なぜわたしを見ない。何か悪いことをしただろうか」
彼女は黙って胸のレースをつかみ、静かに首を振る。
「若さまご夫妻は、どこへ行くにもご一緒だ。来週もまた、王都に行かれる予定。当然、近侍のわたしと侍女のおまえは、ともに行動することが多い。このままでは仕事にならぬ。なぜ、わたしに冷たくするのか、理由を教えてほしい」
「なぜ」と畳みかけるように訊くことの楽しさを、ユベールは味わい始めていた。
「あ……あなたさまが、私に冷たくなさるからです」
「冷たくした覚えなどない」
「何もなかったような顔をなさって」
「では、何かあったというのか」
ソニアは、キッと目を吊り上げた。「よ、よくもそんなことを。私と寝台で一夜をともになさったじゃありませんか」
さすがにユベールは動揺して、金色の眉をひそめた。
「わたしが? いつ?」
話を聞いてみると何のことはない。いつぞやユベールが大けがをして彼女の世話を受けていたとき、無理に歩く練習をしたせいで寝台にもつれるようにして倒れこんだことがあった。
そのまま彼は朝まで意識がなく、彼女のほうも、傷に痛みを与えるのを恐れて寝台から抜け出せなかったという。
「ですから、私たちは一夜をともに……」
「……」
十八年間、この娘に男女の機微を教える者はいなかったのか?
「おまえは、どこで育った」
「……スュド村の教会です。父は、教会の鐘楼守をしています」
「なるほどな」
ユベールは脱力した反動で、無性に笑いたくなった。
その衝動を抑えると、今度は目の前にいる少女に対する感情があふれだしてきた。身体のどこに、こんなものが隠れていたのだろう。
しばしためらった末、片膝をついた。
「それでは」
誓いのしるしに剣を床に置くと、彼女の手を取った。「それでは、わたしと結婚していただけますか?」
そのときのソニアの様子は生涯忘れないだろう。しばらく、ぼんやりした表情になったかと思うと、ハスの花が開くように、みるみる首まで赤く染まった。
そして、真っ黒な瞳がくるりと裏返ったかと思うと、彼の腕の中に倒れこんだのだ。
「ソニアに求婚したそうだな」
「はい、まあ」
翌日の朝食の席までには、ラヴァレ伯爵の耳はもう前夜の騒動をとらえていた。なにせソニアはあれから寝込んでしまい、今日の奥方のお付きはジルひとりだったのだ。
「道理で、お顔がとても優しくなられましたわ」
と伯爵夫人も、満足げに微笑んでいる。
強く命じられて簡単にあらましを説明すると、主は大喜びして、「祝杯だ」とばかりに食後のお茶にテーブルのリキュールを全部入れて、奥方が止める暇もなく一息に飲み干してしまった。
「誤解だと説明すりゃいいのに」
「説明するのが、急に面倒くさくなりました」
「ふうん。面倒くさくねえ」
くっくっと喉を鳴らして笑いながら、エドゥアールは席から立ち上がった。「これからの結婚生活のほうが、ずっと面倒くさいと思うけど」
「は?」
「だって、そうだろう。あの口ぶりじゃ、カスティエ家の跡継ぎが生まれるまでに、教えなきゃならないことが山ほどあるぞ」
「はあ」
主のことばの意味を思い巡らして、ユベールは気づいた。
「もしや、若さま。ソニアに何かおっしゃいましたか?」
「ああ、ただひとこと、『寝台で一夜をともにした男女は、正式に結婚したことになる』と教えただけ」
その陰でミルドレッドにこっそり、「まさか、あれを真に受けるとは。うまく行き過ぎて信じられねえ」と耳打ちしている。
「どうせ、そんなことでしょうとも」
口の中で小さく毒づく騎士に振り向き、エドゥアールは水色の目をいたずらっぽく輝かせた。
「これからは、守ってやる相手を違えるんじゃないぞ」
庭に面した出入り口から当主夫妻とジルが出て行き、給仕の者たちが手早く片付けを終えて去ってしまうと、黒衣の騎士はひとり小食堂に残った。
窓のそばに立つと、朝の淡い光が彼の全身を包む。
「とんでもない。守ってさしあげる厄介な相手が、ひとり増えただけのことですよ」
唇をほとんど動かさずにつぶやくと、ユベールは穏やかな秋の空を見上げて、目を細めた。
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