4. 王女の初恋
(4)
一国の首席大臣の名に値する、豪奢な二頭立て金箔塗りの馬車だった。
護衛についていた騎士がすばやく黒馬から降り、車寄せに横づけされた馬車の扉を開け、羽根飾りの帽子を脱いで傍らにひざまずく。
中から最初に現われたのは、長い金髪と深い海のような蒼色の瞳、そして臙脂色の礼服をまとった若き貴族。次いで降りてきたのは、鶯色の礼服、太陽のように輝く金髪と大空のような水色の瞳の持ち主だ。
シャンデリアの蜀台に照り映える貴公子たちの麗容は、たちまちにして、居合わせた人々の視線を奪う。
「ようこそ、おいでくださいました。クライン国首席大臣閣下、リンド侯爵セルジュ・ダルフォンスさま。副大臣閣下、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵さま」
あわてふためいた様子の侍従たちが、迎えに出て頭を下げた。当の伯爵は、楽しげにあたりを見回している。
「今日はなんだか人が多くてにぎやかだなあ。何かあるのか」
「は、そ、それが」
侍従のひとりが、滝の汗を流しながら答える。
実は、彼らが門を通されるまでに、貴賓室ではひと騒ぎ持ちあがったのだ。
「なぜ、よその国の大臣がやすやすと王都に現れる。なんたる無防備なのだ、この国は」
「前もって挨拶の使者も立てぬとは無礼ふとどき。どうせ偽物に決まっていると因縁をつけ、即座に追い返せ」
いきりたつカルスタンの随員たちに、ユルギスの高官は汗を拭き拭き答える。
「そんなわけには参りませぬ。仮にも国交のある隣国の大臣にして、クライン国王の代理者である方々。追い返すことなどできません」
「しかも、今宵は舞踏会のために広く門を開け、アレクセイ王太子が国賓としてご訪問しておられることは、周知の事実。その状態で追い返すなど、即座に戦争になります」
頭を抱えたクリストフ国王は、彼らを賓客として丁重にお迎えせよと侍従たちに命じた。
招かれざる訪問者たちは、舞踏会会場の反対側にあたる、しんと静まり返った大広間に、丁重に通された。
威儀を整えた国王、その息子である王太子が何食わぬ顔をして玉座につくと、ふたりはその前にうやうやしく拝跪した。
「国王陛下ならびに王太子殿下。ご健勝のご様子何よりと存じます。このたびは、かたじけなくも突然の訪問となりましたこと、まず幾重にもお詫びいたします」
密入国のかどで捕らえられても言い訳もできない状況の中で、セルジュは堂々たる挨拶を述べた。
「遠いところをよく参られた、リンド侯爵ならびにラヴァレ伯爵。確かに予期せぬことに余も驚いておるぞ」
対する国王のほうが、声がうわずっている。「しかし、いったい何の用向きじゃ」
「はい。用と言うほどのことはありませぬが、第二王女殿下のお輿入れが近づき、万全の準備を整えたいと、こうして自ら、まかりこした次第です」
セルジュは男でも見惚れるほどの完璧な微笑を口元に浮かべた。「できうる限り、殿下には慣れ親しんだ調度や道具をお使いになっていただきたいと、従者たちに命じて貴国の最高のものを求めさせているところです」
「それは、殊勝な心がけ」
「有体を申せば、少しでもあの方の近くに立ち、一秒でも長く同じ街の空気を吸っていたいという、ただその一念でございました」
平時ならば恥ずかしくて口にも出せないような甘ったるいセリフを、憂いを帯びた声でため息まじりに言ってのける僚友に、隣にいたエドゥアールがおびえた顔をした。
「できますならば、このまま殿下をさらっていってしまいたいと望むほど、婚儀が待ち遠しいのです」
「はは。貴殿ほどの方にそれほどの惚れこまれよう、ヒルデガルトは幸せ者ですな」
クリストフ王の顔も、心なしかひきつっている。
しらじらとした沈黙を狙いすまして、エドゥアールが会話の続きを引き取った。
「ところが、この近くまで来たとき、アレクセイ王太子殿下が表敬訪問なさっておられるという噂を耳にしました。しかも、その目的のひとつが、第一王女殿下とのご婚約の儀とか」
年若き副大臣は、意味ありげな笑みを浮かべた。『隠したって、こっちは何もかもお見通しなんだからな』と言わんばかりに。
「こんなめでたい話を聞いた以上、知らぬ顔をして素通りなどという冷たいことは、とてもできません。アレクセイ王太子殿下は平和条約締結の折りにクラインにお越しくださったこともあり、まんざら知らぬ仲でもなし。幸い、今宵は歓迎舞踏会があると聞き、ぜひ陛下と両殿下に、ひとことお祝いをと駆けつけた次第にございます」
「そ、それは、なんと情の厚いことじゃ」
王は、だんだん消え入るような声になってきた。
「おや、陛下には、ご気分のすぐれぬご様子」
エドゥアールは眉をひそめた。「もしや、われわれはお邪魔だったのでしょうか。まさか、ご婚約にかこつけて、実はわが国には聞かせられぬ密談があるとか」
「は、はは。伯爵どのは、冗談がお好きのようじゃな」
丁々発止の駆け引きは、そのうつろな笑い声で幕を閉じた。
「父上。舞踏会が始まったようです」
「おお、それでは、そろそろ行くとしよう」
どうやら国王父子は、何もなかったかのようにクラインの賓客を舞踏会でカルスタン王太子と引き合わせ 、とりあえず事をうやむやに終わらせてしまおうと決めたようだった。
侍従たちの案内を受け、宮殿の東翼に向かう長い廊下を歩く途中、エドゥアールは「やれやれ」と大儀そうに肩の関節を回した。
「『一秒でも長く同じ空気を吸っていたい』だって? まったく、おまえという奴は、骨の髄から詐欺師だな」
「ふん、貴様にだけは言われたくない」
セルジュはまっすぐ前を見つめながら、鼻であしらうように答えた。「わたしは嘘をついていると自覚して嘘をついている。貴様は自覚がないまま嘘をつけるだけ、余計にたちが悪い」
「はいはい、そうですか」
「それに……まんざら、すべてが嘘というわけでもない」
「ええーっ」
エドゥアールは、獅子に背中を舐められたような勢いで、わきに飛びのいた。
舞踏会の裏方に駆り出された王宮の侍従や侍女たちが、小走りの足を止め、廊下の両側でうやうやしく身を屈めながら彼らを迎える。
「あ、ナンナ」
「え?」
ヒルデガルト付きの侍女が顔を上げたときには、見知らぬ金髪の貴族が通り過ぎていくところだった。
室内楽団の奏でる優雅なワルツに合わせて、きらびやかな衣装をまとった男女が、くるくるとパラソルのように回る。
(こんな、とりすました音楽は楽しくない。街の広場にいるほうが、よほど音楽の神髄に触れていられるわ)
ひな壇の片隅の椅子に腰かけながら、ヒルデガルトは遠い景色を見つめるような目で舞踏会を眺めていた。
姉のドロテアは、アレクセイ王太子とともに、もう何曲も踊っている。今日の姉君はことさらに顔を白く塗りたくって、頬に大きなほくろをつけ、美しく幸せそうだ。
今日の舞踏会は、彼らの婚約のお披露目ともなっている。ユルギスの王族や貴族に祝福され、国じゅうの民に祝われて、彼女はカルスタンに嫁いでいくのだろう。
(わたくしとは、大違いだ)
誰も喜ばない、祝福されない結婚など無価値だと思っていた。けれど、セルジュがこの王宮に来たというだけで、心は沸き立ち、鼓動を早める。もう止められない。
(やはり、あの方とともに生きたい。毎日、あの低く甘い声に耳元をくすぐられたい。葡萄園に囲まれたあの美しい領館で、朝も昼も夜もいっしょに)
頭にそう思い描いただけで、熱い喜びのしずくが目もとに浮かぶ。
人をこれだけ愛しいと思ったことはなかった。どんな苦境に置かれていても、腹の底から尽きぬ勇気が駆け上ってくるという体験を、今までしたことはなかった。
(これが、恋するということなのだわ)
背筋のしびれるような感覚とともに、何度も自分に言い聞かせる。
ざわっと会場の空気が動いた。
見れば、入口の一角だけ、まるでまばゆい光に照らされているような錯覚に襲われる。
「クライン王国より特使がお着きになりました。首席国務大臣リンド公爵セルジュ・ダルフォンスさま、副首席大臣ラヴァレ伯爵エドゥアール・ド・ラヴァレさま」
ふたりが入ってきたとたん、会場に異様などよめきが満ちた。
事情通たちは、クラインとカルスタン両国の良好とは言えない関係を知っており、その両国代表が、ここで鉢合わせすることに戦慄した。
政治など何も知らない者たちは、ただ彼らの王族のような気品と、たちまちにして場を支配してしまう存在感に絶句した。
音楽が止み、しんと静まり返った中を、彼らはまっすぐにひな壇に向かうと、先に着座していたクリストフ国王とクリストフ王太子に膝を屈めた。そして、ホールの中央で、ドロテア王女と踊っていたアレクセイ王太子に向き直って、丁重に一礼した。
「王太子殿下。王女殿下。このたびはご婚約おめでとう存じます。ひとことお祝いを申し上げたく、遠路を馳せ参じてまいりました」
「それは、どうも」
セルジュの落ち着いた声に、カルスタンの王太子は冷ややかに応じた。
「リンド候、まことに惜しいことだ。ことの成り行き次第では、わたしとそなたは姻戚になるという可能性もありえたのだがな」
「おそれおおいことでございます」
もってまわった言い方で破談をほのめかす王子に、セルジュは毛筋ほどの動揺も見せずに微笑む。
ドロテアは、しばらくキョトキョトした視線を、アレクセイとセルジュの間に往復させていた。両方の男を値踏みしている目だ。そして扇を口に当てると、ふんと言わんばかりに顔をそむけた。
機を見計らって、楽団の指揮者が大きくタクトを振り上げる。華やかなワルツが始まった。
「殿下。どうぞこちらへ」
それ以上の会話はならぬとばかりに、カルスタンの随臣たちが彼らの間に割って入り、王太子と王女を連れ去ってしまった。
「ちぇっ。接触はさせねえってことか」
エドゥアールは、セルジュの背中にそっとささやくと、その場を離れた。
そのことも気づかぬように、若き侯爵の目は一点に釘づけられていた。その視線の先では、第二王女ヒルデガルトが座から立ち上がり、同じように侯爵を見つめている。あたかも、ふたりの間に目に見えぬ紐があって、何人といえど解きほぐすことはできまいと思えた。
セルジュはきゅっと唇を引き結ぶと、数歩歩み寄り、胸に手を当て頭を垂れた。
「お久しぶりでございます。姫君」
「久しぶり……だな」
「一曲、踊ってはいただけませんか」
「ああ」
その横で、父王がしぶい表情をしている。『もうすぐ破談を宣告する相手と、踊るというのか』とでも言いたげだ。
だが、それに構わず、ヒルデガルトはひな壇を降りた。
閉じた扇を持つ左手に裳裾をつまみ、しずしずとお辞儀する。セルジュは彫刻を愛でるような真剣なまなざしで、王女の頭から爪先までを見つめたかと思うと、少し強引な手つきで彼女の右手を握り、腰を引き寄せた。
あっと思う間もなく、ヒルデガルトは彼の腕の中でホールの中央にすべり出していた。
男の巧みなリードによる、目くるめくような円舞に、なすすべもない。
「顔をあげて」
糖蜜のような長い髪を揺らしながら、セルジュは間近でささやいた。「そうすれば、今宵の舞踏会の主役は、他でもないあなただと、誰もが思い知ることになります」
ヒルデガルトは、頭をもたげた。顎を引き、背筋をすっと伸ばし、彼ともっと強く指をからみ合わせる。
「はい」
その頃、エドゥアールはホールを抜け出し、夜陰に乗じて中庭に身をひそませた。
王宮のどこに何があるかは、すべて承知している。この数週間、伊達に園丁の真似をしていたわけではないのだ。
木々の影を縫うように駆け抜け、カルスタンの王太子の向かっている方角へ先回りした。王太子は夜会では、いつも速いペースで杯を干すため、しばしば用を足しに中座するのが常だった。
従者たちを外に残し、豪奢な化粧室に入って扉を閉めようとしたとたん、アレクセイは声を上げた。
「しっ」
闖入者は、実にあざやかに身をすべりこませると、王太子の前に身をかがめた。「驚かせてすみません、殿下。クラインの国務大臣、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵です。昨年のシャルボン条約の調印式で、お目にかかっております」
「ああ、そなたか」
あからさまに迷惑そうに、しかし無視して用を足すこともできず、王太子は化粧室に備えつけられたソファに腰をおろした。「で、何用だ」
「殿下にお見せしたいものがあるんです」
「なんだ、それは」
エドゥアールが懐から取り出したのは、まだ製粉する前の小麦の実だった。素人目にも、二種類の麦が混じっているのがわかる。一方は豊かな丸みを帯び、もう一方は痩せて実が入っていなかった。
「何者かが、このユルギスで、クライン産と称し、混ぜものをした小麦を売っています」
「なんだと?」
「奴らの手口は巧妙でした。まず大金を投じて市場の小麦を買い占め、値段を一気につりあげる。その一方で作柄不良のカルスタンの小麦を安く買い入れる。ひそかに双方を混ぜ、クラインの高級小麦と偽って売り回る。それによって奴らは莫大な利益を上げたはずです」
「奴ら――?」
「ご存じのはずです。武器商人ギルドのフラヴィウス。ユルギスのクルツ農業大臣と結託して、偽クライン産の小麦の、この国への流通を目論みました。ユルギスとクライン両国の関係を悪化させ、カルスタンとの同盟を後押しして、みずからの本業である武器を売り込むつもりだった」
「そのような……」
アレクセイは、一瞬さっと恥じ赤らんだが、すぐに元の涼しげな顔に戻った。
「そのような陰謀には、カルスタンは一切関わっておらん」
「そうでしょうとも。貴国のような大国が、そんなせこい真似をなさるはずがありませんからね」
エドゥアールは、茶目っけたっぷりに人差し指を立てた。「けれど、ひとつご忠告しておきます。お友だちは心して選んだほうがいいですよ」
北国の王太子は、唇をきゅっと結んで金髪の伯爵を睨みつけた。
「我が国には、我が国の事情がある。小麦を他国に売らずして、数十万人の農民を飢えさせるわけにはいかぬのだ」
エドゥアールも、それまでの豊かな表情を消して、臆することなくアレクセイを睨み返した。
「あなたは将来、賢明な王になられる方だと俺は思ってます。王の資質とは、目先の利益ではなく、二十年後、三十年後を見据える力があること。今回の不祥事は、カルスタンの将来のためには決してならない」
「……」
気圧されたのは、アレクセイのほうだった。無言の王太子を残して部屋を出るとき、エドゥアールはふわりとやわらかく微笑んだ。
「あなたとドロテア姫となら、さぞ色白で可愛い王子を授かるはず。俺たちのシャルル王子が誰からも愛されるようにね。――子どもたちが心から誇りに思うことのできる国を作ることが、今の俺たちのなすべき最大の務めだと思いませんか?」
ホールでは、リンド侯爵に随行する従者たちが、クラインからの土産として赤ワインとカシスのコンフィチュールを塗った白パンを、会場にいた全員にふるまっていた。
「おお、このパンは柔らかくて美味ですわ」
「世界に名立たるリンドワインだけのことはある」
クライン至高の名品とあって、ひな壇の王族たちも手放しでほめちぎる。
「これは、ピノ・ノワール種の当たり年だった912年のヴィンテージで、樽ひとつで小さな伯爵家の全財産に匹敵するような逸品です。カシスのコンフィチュールは、最上の黒カシスを砂糖でじっくり煮詰めたものです」
説明するセルジュの深みのある声を、ヒルデガルトだけではなく、姉のドロテアまでもうっとりと聞き入っている。
「用いた砂糖は、亜熱帯産のキビから採れた最高級品で、異教徒の大陸からはるばる海を越えてクラインの港に運ばれたものです。砂糖だけではありません。コーヒーもたばこも、南の海を渡ってこの大陸に輸入されます」
さすがにクリストフ国王は、彼の言わんとしていることを鋭く察した。
「何をおっしゃりたいのだ。リンド侯爵」
「クラインと同盟を結ぶことで、北にしか海を持たぬ貴国は南の海への通路を得ることになります」
説得に長けた、自信にあふれた口調だった。「その通路を通って、たくさんの商品が行き来する。ユルギスは南に向かって開かれた国家となる。それは単に小麦協定だけにとどまらぬ、得がたい富だと思われませぬか」
父王は、心配そうな末娘の顔をちらりと盗み見ると、言った。「事と次第によっては、わが国は、クラインにおける通商権を与えられると申すか」
侯爵はうなずいた。
「悪い条件ではないはずです。少なくとも、胡散くさい商人を使って、貴国の農業大臣を巻き込んで、自国の利益を図る国との同盟よりは、ずっと」
それを聞いた農業大臣のクルツは、さっと青ざめた。
クリストフ王は身を乗り出した。「もっと、その話を聞こう」
華やかな舞踏会のかたわらで、頂上会議が行なわれようとしている折りしも、侍従のひとりが蒼白になって会場に駆け込んできた。
「アレクセイ王太子が、急に本国にお発ちになられました」
「なんじゃと!」
ユルギスの王族たちは、驚愕して立ち上がった。
音楽がぴたりと止まった。
「『同盟の件は保留とする。姫君との婚姻の儀については今後、実務者同士で話を進めさせよ』とのお言葉を残されて……さきほどお立ち去りになられました」
「ど、どういうこと、どうして殿下のご不興を買ってしまったの」
ドロテアは、可哀そうなほどうろたえている。
「姉上」
ヒルデガルトは心を刺されて、慰めの手を差し伸べようとした。
だが、その手は、次の瞬間振り払われた。
「おまえのせいよ。おまえは小さいころから、いつもそうだった。いつもいつも、わたくしの邪魔を――」
勝気な姉は、涙のいっぱいたまった瞳を怒りに吊り上げていた。
「やめなさい。ドロテア」
父王は、白眉を悲しげに寄せた。兄王子は姉妹のけんかを見て見ぬふりをしている。
「クラインとカルスタン、どちらの国交が重要か、赤子にだってわかるわ。おまえの将来だって、たかが知れているわ。だいたいクラインなんて肥だめくさい『いいなあか』に――」
「うるさい!」
一瞬、人々は自分の耳が信じられなかった。
第二王女ヒルデガルトの怒鳴り声は、ホールのすみずみにまで届いた。陶器のようなすべらかな頬を薄紅色に染め、野いちご色の金髪は、蜀台の明かりに照らされて燃え立つようだ。
「わたくしの第二の祖国となる国の悪口は、二度と聞きたくありません!」
凛と言い放つと、ヒルデガルトはひな壇を下り、ひざまずいた。
「……ヒルデ」
「父君。どうかわたくしをクラインに行かせてください。たとえお心にそむくことになろうとも、お怒りを受け、王族の名を剥奪されることになろうとも。たとえ誰にも祝福されなくとも――」
はらはらと雫をこぼしながら、ヒルデガルトは訴えた。「わたくしは、リンド侯爵のもとに嫁ぎたいのです」
隣に立つセルジュを見上げて、微笑む。セルジュはじっと視線を返していたが、自らも床に両膝をついた。
「陛下。ヒルデガルト姫をクラインにお連れ申し上げる栄誉をお許しいただきとうございます」
一片のよどみもなく、何者も抗えぬ響き。
異議を唱える者は誰もいなかった。ドロテアでさえも、呆けたようにその様子を見ている。
クリストフ王は、座につき、居住いを正した。
「不器用だが優しい子だ。大切にしてやってくれ」
疲れた、しかし安堵したような声だった。ヒルデガルトは顔を伏しながら、身を震わせた。「……父上」
「同盟は、貴国と結ぶ。そのように取り計らってくれ」
「ありがとう存じます」
気が遠くなるような幸福な衝撃が過ぎ去り、ヒルデガルトが我に返ると、ホールには祝福の歌が奏でられ、人々の静かで長い拍手が沸き起こっていた。
そして、セルジュが手を伸ばし、彼女を立ち上がらせるところだった。
操り人形のようにふらふらと彼の手を取ると、腕に支えられながら、ひな壇の上の父に向きなおった。
「父上」
「すまぬ」
いろいろな意味をこめた、それゆえに一つのことばにしかならない謝罪だった。けれど、父の気持ちを王女は十分に理解した。
ヒルデガルトは、ゆっくりと身を屈めて拝礼し、それから立ち上がった。
人々の拍手の垣を両側に、侯爵に手をとられて入口へと歩み出す。
「よっ。おめでと」
待ち構えていたエドゥアールが、おどけて敬礼をしてみせた。
「王太子のほうは、うまく運んだようだな」
「まあな」
伯爵は髪に両手の指をつっこんで、くしゃりと乱しながら、遠くを見つめるような眼をした。「あとは、あっちの出方次第だ。決してものわかりの悪い奴じゃない。いつかは仲良くなれるさ」
「そう願いたいものだ」
「ところで」
と、片眼をつぶる。「俺は一足先に失礼する。さんざん見せつけてくれたせいで、一刻も早くラヴァレの谷に戻って、ミルドレッドの顔が見たくてたまらなくなった」
「ああ」
「後始末は頼んだ。姫さま。それじゃクラインでお会いしましょう。お越しになる前に、別邸は全部整理させておきますんで」
謎のことばを残して、エドゥアールは踵を返すと、歩きだした。
だが、その足はすぐに止まった。
豪奢なマントを羽織った商人が、ひとけのない回廊の、柱の陰に立っていたのだ。彼は憎々しげにエドゥアールを睨んだ。
「お久しぶりですな」
「ああ、その節は世話になったな」
エドゥアールも険のある笑みを返すと、落ち着きはらって近づいた。彼はかつて、この老獪なフラヴィウスの手で異国に奴隷に売られそうになったことがあるのだ。
伯爵の背後に、静かな殺気を放つ金髪の騎士の姿を認めると、武器商人は一歩退いた。
「また、あなたに商売の邪魔をされたようだ。この恨みは、いつか必ず返しますからな」
「そういう不毛な復讐心はさっさと捨てないと、体に毒だぜ」
茶化したように言い残すと、エドゥアールの後ろ姿は飛び立つ鳥のように、たちまち闇の向こうに消えた。
ユルギス王宮の夜の庭は、草や木々の放つ、かぐわしい潤みに包まれていた。
ひやりとした地面に降り立ったとたん、気が抜けて、膝ががくんと力を失った。セルジュは王女の体を支え、そのまま軽々と抱き上げた。
「あなたに、ぜひとも聞かせたいものがあります」
「なに?」
セルジュはうっすらと笑うと、恋人を抱きかかえたまま、花々の咲き乱れる小道を突っ切った。
次第に何かが聞こえてきた。空気を心地よく震わせる何か。
大理石のあずまやでセルジュの腕からおろされると、ヒルデガルトは、爪先で伸びあがるようにして、耳をすました。
ヴァイオリンが、フルートが、ヴィオラが、チェロが。
「ナハトムジーク……」
結婚する男女の窓辺にそっと忍び寄り、突然ふたりを驚かせるという祝いの歌。
オーボエが。クラリネットが。トランペットが。ホルンが。
ユルギスの王都じゅうの音楽家が集まったのではないかと思うほど壮麗な音楽が、王宮の外の広場から聞こえてきた。
「大学生たちがみな、わたしたちの結婚を祝ってくれています」
「わたくしの正体を知ってなお?」
「ええ、だからこそ」
侯爵はいつもの固い表情を崩し、心からの優しい笑みを口元にたたえていた。「嘘つきの第二王女殿下のために」
名もない民衆たちの演奏を聴いているうちに、ヒルデガルトの緑色の瞳から、ぽとぽとと涙が伝い落ちた。
予想もしていなかった。これほど祝福された結婚があるだろうか。
「ヒルデ」
彼が、これから一生口にするであろう名前を耳元でささやいた。まるで自分のものだと宣言するように、ひとつひとつの音をいとおしむように。「ヒルデ」
「セ……」
だが、彼女が彼の名を呼ぶことは許さなかった。その前に王女の花の蕾のような唇を、口づけでふさいでしまったから。
第四話おわり
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