伯爵家の秘密/番外編


4. 王女の初恋



(3)

 陽が中天から傾き始めるころ、王都キエナの広場のあちこちでは、授業が終わった音楽大学の学生たちの野外演奏が始まる。
 人々は、ひととき仕事の手を止めて外に出てくる。暇な店の店主は「休憩中」の看板を出し、馬車も、この時間だけは甲高いひづめの音を控えてゆっくりと通り過ぎる。
 屋台でレモネードや焼き菓子を買った釣銭は、そっくりそのまま、地面に置かれた演奏者の帽子の中に放り込まれることが多い。その金が貧乏学生の学費の足しになるのだ。
 キエナの市民たちは、それほどまでに音楽をこよなく愛する。自分の食事を一食抜いてでも、音楽を志す者を保護すると言う。
 屋根裏部屋から散策に出た王女とふたりの若者は、狭い路地を抜けて広場に入ったとたん、歓声をもって迎えられた。
「エディ、いっしょにやらないか」
「ああ、やるやる」
 と、エドゥアールは、銅像のそばで演奏していた四人の若者たちのもとに駆け寄る。
「何が始まるのだ?」
 と問うヒルデガルト姫を、セルジュはハンカチーフを敷いて、噴水の淵に座らせた。
「この都に着いた最初の日から、毎日こんな調子です。やつは情報収集の一環だと言っていますが、さあどうだか」
 エドゥアールは荷物といっしょに立てかけてあったマンドリンを取り、セルジュに「ほい」と押しつけた。そして、自分は彼らのひとりからバイオリンを受け取ると、奏で始めた。そこにフルートとパーカッションが添えられ、たちまち陽気な音楽がはじまる。
 エドゥアールの弓の動きは走る野ネズミを思わせるほど速いのに、楽器には軽く腕を添えただけで、顎と肩ではさむこともしない。
「放浪民族のフィドルの弾き方だそうです」
 セルジュは、特に感銘を受けた様子もなく、手元の楽器を調律している。
「そなたも、弾けるのか」
「これくらいなら何とか」
 セルジュは楽団の仲間に加わると、すっと背筋を伸ばし、マンドリンを胸元で立てて持った。エドゥアールのバイオリンにぴったり合わせて紡がれる、負けず劣らずの巧みな演奏に、見物客たちは大喝采。ヒルデガルトは目を見開きっぱなしだ。
 諜報活動をするためにやってきた異国の大臣たちが、町の広場で即興演奏をして市民を魅了しているなどと、誰が信じるだろう。
 ラヴァレ伯爵の後ろで結わえた黒髪の毛先が、弓の動きに合わせて激しく揺れる。そして、リンド侯爵の長い金髪が、両手の指を魔法のように操りながら、さらりとなびく。回りを取り囲んでいる市民たちは、やんやの喝采だ。
 世界中を探しても、これほど全ての才能を兼ね備えた大臣たちはいないだろう。
 気がつくと、セルジュの視線がじっとヒルデガルトの顔に注がれている。その口元にうっすらと笑みが浮かんだ。腕にマンドリンを抱えるさまは、まるで女の細い腰を抱いているかのように妖艶だ。そう思ったとたん、王女はふわっと気が遠くなりそうだった。腰にはありありと、先ほど濃厚なキスを交わしたときの、彼の手の感触が残っている。
 大勢の群衆の向こうに見えるのは、ただ彼の姿だけ。にぎやかな音楽をすかして、彼の息づかいが聞こえてくるようだ。
 一曲の演奏が終わると、大歓声が沸き起こり、帽子の中には、ばらばらとたくさんの硬貨が投げ入れられた。
 セルジュはマンドリンを学生たちに返し、ヒルデガルトのもとに戻ってきて、意味ありげに耳元でささやいた。
「どうなさったのです。顔が真っ赤ですが」
「な、なんでもない」
 まるで、心の中の恥ずかしい思いが全部見通されているようで、あわててふりはらう。
「そなたが、音楽にも造詣が深いとは知らなかった」
「専門はチェロですが、一応ひととおりは」
 では、屋根裏部屋にあったものは、飾りではなかったのか。
 ヒルデガルトはため息をつきたくなった。「私はそなたという人間を、まだ何も知らないのだな。まるで、底なしの沼を覗き込んでいるようで、そら恐ろしい。その中にいったい、どれほどの才能を隠しているのだ」
 セルジュは微笑んだ。
「せっかくの仰せですが、そのお言葉はわたしより、あの男にこそふさわしい」
「ラヴァレ伯?」
「あいつと知り合うまでは、当然、自分が一番優秀なのだと信じていました。国一番の権力を持つ父が、そのようにわたしを育てましたゆえ」
「……」
「ですが、あの男に出会ったとき、それは間違いだと悟りました。わたしが必死になって得たものを、あの男はいとも軽々と越えていった」
 そんな敗北のことばを、この誇り高い侯爵がごく自然に口にすることが、ヒルデガルトには信じられなかった。
「……嫉妬しなかったのか」
「しましたとも。目の前が真っ赤に燃えるかと思うほどに」
 そして、いかにも愉快そうに付け加える。「……けれど、そのうちわかりました。エドゥアールは、勝つことにも負けることにも無頓着なのです。他人と自分を比較することなく、誰が一番でもいい、楽しければいいと思っている。こう言うと、あいつは『それじゃ俺がまるで努力してないみたいじゃないか』と怒るでしょうが、回りからはそう見えるのですよ。そんなやつと張り合うこと自体が、馬鹿げたことに思えてきたのです」
「馬鹿げたこと……」
 いつしかヒルデガルトは、わが身を振り返っていた。
 いつも、兄や姉との比較の中に自分を置いていた。かなわないとわかれば、すぐに自分を隠し、言いたい言葉を押し殺し、誰も見ていない居心地のいい場所に逃げ出した。
 それは、一番馬鹿げたやり方ではなかったか。
「わたくしは結局、自分で自分を縛って生きていたのだな」
「そうお感じになるのなら、そうなのでしょう」
 間近で彼女を見つめるリンド侯爵の目が、常になく優しい色を帯びているように思える。
(わたくしたちは、とてもよく似ている)
 その目を見つめ返しながら、ヒルデガルトは思った。他人からどう見られるかということばかり意識して、本当の自分を隠して生きてきた。自分より優秀な者への嫉妬に苦しんできた。
 だからこそ、彼の他人を寄せつけない冷たさを理解し、共感し、好もしく思えるのだろう。
「ふたりだけの世界にひたっているところ、失礼するよ」
 茶化した声とともに、にゅっと陶器のコップがふたつ差し出された。
「喉が渇いたでしょう、姫さま。この町の名物、屋台のしぼりたてレモネードをどうぞ」
「屋台だと」
 セルジュが、おぞましいものを見るように、エドゥアールとコップのあいだに視線を行き来させる。「そんな不潔なものを、飲ませる気か」
「不潔じゃないと思うけどな。井戸からバケツで汲んできた水で、よく洗ってるし」
「バケツ? それは何かの悪い冗談か。殿下、絶対にお飲みになってはなりませんよ」
 演奏が終わると、噴水のまわりに、人々がにぎやかに集まってきた。
「おお、なんてきれいなお嬢さんなんだ。ゼル、あんたの恋人か?」
 セルジュはここでは、『ゼル』という仮名を名乗っているらしい。
「ああ、そんなところだ」
 と言いかけ、ふと彼はにやりと笑った。「もうすぐ結婚する」
「な、なん……」
 あわてるヒルデガルトのまわりで、「うわあ」と、どっと囃し立てる歓声や口笛、女性たちの悲鳴が聞こえた。
「そいつは、めでたいや」
「今夜あたりみんなで繰り出して、あんたの部屋の真下で、『ナハトムジーク』を奏でてやるよ」
「ああ、盛大に頼む」
 ヒルデガルトの心臓は、まだ高鳴りをやめない。
 セルジュは、ここでは普段とまったく違う人間を演じて、楽しんでいるようだ。生まれたときから次のクライン王になるのだと言われ、行く先々でかしずかれてきた彼にとって、市井の庶民から対等に扱われる日々は、初めての体験なのだろう。
 彼女もそうだ。自国の首都だというのに、自分の足でキエナの大通りや路地を歩いたのは今日が初めてだった。市民たちが、どんなパンを食べているのか、つましい暮らしの中で、どうやって日々を楽しんでいるのか、何も知らなかった。
(わたくしも、変わりたい)
 ヒルデガルトは、ぐっと握りしめていた手を開くと、エドゥアールの手にあったレモネードのコップをひったくって、一気に飲み干した。
「ああっ。ヒルデ!」
 セルジュが悲鳴を上げて、コップを取り上げたときは、もう遅かった。
「おいしい」
 口をぬぐうナプキンもなく、レモン水に濡れてつやつやと光る少女の唇に、セルジュは呆然と心奪われたように見入っている。
 無論、今ドサクサにまぎれて、やんごとなき第二王女を「ヒルデ」と呼び捨てにしたことも、エドゥアールに指摘されるまで気づいてはいなかった。


 教会の尖塔が赤銅色に燃え、芽吹いたばかりの街路樹が夕風に揺れながら、長い影を落とす。鳩が、ねぐらにしている市庁舎の時計台の軒先に舞い上がる。
 古めかしく煙りくさいと思っていた王都は、屋根裏部屋の窓から見ると、こんなにも美しい場所だった。
「そろそろ戻らねばならぬな」
 狭い屋根裏部屋から王宮へ。貧しい学生の恋人役から、ユルギス王国の第二王女に戻る。
 楽しかった。こんなにも時間が過ぎるのが惜しい、夢のような一日は送ったことがなかった。
「戻りたくはないが」
 ずっと、このまま、ここにいてはいけないだろうか。
 着替えも何も持っていない。ならば、セルジュの脱ぎ捨てたシャツを夜衣代わりに肌にまとって、彼の寝台で寝ることは――。
 このうえなく猥(みだ)らなことを考えている自分に気づき、王女はうろたえた。それと同時にじわりと涙がにじみでてくる。
 ここで別れれば、もう彼とは二度と会えないような気がしてならない。
 長い陽が射し入る小窓に近づいてきた長身の侯爵は、彼女の上に屈みこみ、顎に手で触れ親指でそっと頬を拭いた。
「今は、お戻りください。アレクセイ王太子の歓迎晩さん会に欠席なさるおつもりですか」
「……いや、そんなことは」
「あなたには、われわれの手先となって役に立っていただかねば。クラインのために祖国を売り渡す愚かな王女として」
 それを聞いて、ヒルデガルトはくすりと笑った。いくら残酷なことばを吐いても、それが嘘であることは、男のやさしい声音が暴いてしまう。
「わかった。期待に応えて、そなたの役に立ってみせよう。心配するな」
 セルジュは名残を惜しむかのように指先で王女の髪をなでていたが、金色の眉を悲しそうにきゅっと寄せた。
「女におぼれることは生涯しまいと決めていましたが、まさか誓いを破ることになろうとは」
「そなたとあろうものが、女におぼれていると申すか」
「息のしかたを忘れそうなほど」
「あああ」
 とうとう我慢しきれなくなったエドゥアールが足をばたばたさせながら、姿をひそめていたソファから起き上がった。
「芝居よりも面白い場面をずっと見ていたいのは、やまやまなんですが、たいがいにしませんか。そろそろ王宮に戻らないと、ヤバい時刻ですよ」
 見れば、窓の外のキエナの街は、色褪せた薄墨色に足元から沈んでゆき、北国らしい遅い夜を迎えようとしていた。
「わかりました」
 王女は覚悟を決めてうなずいた。「それで、わたくしはいったい何をすればよいの?」


 さすがに、王宮の裏門の門番は、きちんと務めを果たしている。
「おまえは誰だ」
 ナンナのボンネットに顔を隠して入っていこうとする挙動不審な女を見とがめ、槍を突き出した門番は、数秒後に腰を抜かさんばかりに驚くことになった。
「ひ、ひ、姫さま!」
 前後左右を衛兵に取り囲まれて王宮に入ったヒルデガルトは、自室に戻って、女官長からたっぷりお小言を食らうはめに陥った。
 それでも、長年のあいだ猫をかぶっていたことが功を奏して、「お姉さまの結婚祝いのショールを、どうしても自分の手で選びたかったの。どうか騒がないで」という嘘泣きに皆がほだされてしまい、たいした騒ぎにはならずにすんだ。
 一日じゅう王女の寝台で代役をさせられ、心細さにベソをかいていたナンナには、大通りの屋台で本当に買っておいたショールを土産にやった。
 カルスタン王国のアレクセイ王太子は午後、予定通りに到着し、今宵の歓迎晩さん会と舞踏会に出席することになっている。
 ヒルデガルトも、さっそく夜会の準備にとりかかった。
 侍女たち三人に囲まれて、コルセットでぎゅうぎゅう腰をしぼられてから、胸元が大きく開いたクリーム色のシルクタフタのイブニングドレスを着せられる。首には、ダイヤモンドをちりばめた同色のチョーカーを巻く。
 野いちご色の金髪は高く結いあげ、エメラルドのティアラで飾られる。
 白粉の仕上げに真珠の粉をはたき、淡い紅を唇に乗せると、先ほどまで都を闊歩していた庶民の少女は消え、そこにはユルギスの第二王女ヒルデガルトが凛と立っていた。
「姫さま。おきれいですわ」
 侍女のひとりが、感極まったように言った。「なんだか、急に一日のうちに大人びてしまわれたよう」
 ヒルデガルト自身も、鏡の中の自分の姿が信じられなかった。以前ならば、体を締めつける窮屈なドレスも、華美な宝石も大嫌いだった。乗馬姿で真っ黒に日焼けしたままでいるほうが、よほど好きだったのに。
 今は、女であること、美しく装うことが、楽しくてたまらない。もし彼がいたら、その目に自分はどう映るだろうか。
 自分は今このとき、愛する人のために王宮に遣わされ、王女として立っている。胸が痛くなるような幸福感だ。
 支度を終えて侍女たちが下がったあと、ヒルデガルトは鏡をにらみつけた。
「気を緩めてはだめ。これからが本番なのよ」
 衛兵に大臣のひとりの名を告げ、部屋に来るように命じた。
「どんな御用でございましょう。殿下」
 怪訝な気持ちをにこやかな表情に隠して、あの日、武器商人と密談していた大臣がやってきた。
「クルツ。そなたは、東方の大商人と懇意だそうだな」
 禿げあがった額に、みるみる横じわが寄る。「お、おそれながら、どこからそのような話が」
「どこでもよい。すぐに呼んでまいれ」
 あたふたと出て行った数分後、でっぷり肥った商人が現れた。
「殿下のお召し、光栄に存じます」
 ごてごてと飾りをつけた帽子を脱ぎ、ハムのような腕を胸に当ててお辞儀する。
「さっそくだが、姉君の婚礼が間近に迫っている。世界にまたとない真珠を祝いに贈りたいのだが」
「は、殿下のご依頼とあらば、あらゆる手段を尽くして手に入れてまいりまする。ただ、おそれながら少々のお時間をいただきませぬと」
「ほう、手もちの商品はないのか。この婚礼の時期に王宮に呼ばれたからには、そなたは宝石商人だと思っていたのだが」
 ヒルデガルトは、なるべく愛らしく見えるように口角をゆるやかに引き上げた。「さすれば、そなたは何を商うのが本業なのかな」
 フラヴィウスは、ぎょろと黒い眼を動かして、ひな壇の上の王女を見つめた。
(この王女、何を言うのだ?)
 という目だ。
「これは申し遅れましてございます。このフラヴィウス、穀物全般を商うのが本業でございます」
「ほう。穀物とな」
 ――嘘つきめ。
「ユルギス王国とカルスタン王国の小麦貿易の仲立ちをさせていただいております関係で、今回の王都滞在となりました。しかしながら大至急、ラガス群島からご期待に沿える大粒の真珠を届けさせ――」
「ああ、それなら、もうよいのだ。忙しいそなたに手間をかけさせては悪い。別の伝手を捜すことにしよう」
 座から立ち上がり、ヒルデガルトはさりげない視線をちらりと投げかけた。「ご苦労であったな。さがれ」
 居室に入ったとたん膝が折れそうになり、とっさに壁によりかかった。
 興奮のあまり、心臓が早鐘のように打っている。
 ラヴァレ伯爵から頼まれていたのは、「クルツ大臣とフラヴィウスとを、それとなく監視してほしい」ということだけだった。「くれぐれも危険をおかしてはなりませんよ」とまで念を押されて。
 だが、いざとなると、自分の力で真実を突き止めたいという願いがむくむくと湧いてきて、止まらなかった。
(やはり、やつの狙いは、小麦売買で甘い汁を吸うことなのだわ)
 その企みに加わっているのが、ユルギスのクルツ大臣。そして、背後にいるのはカルスタン王国。
 今度のアレクセイ王太子のご訪問の陰で、重大な陰謀が行われようとしている。手遅れになる前に、なんとかせねば。


 王太子の歓迎晩餐会は、国をあげての大規模なものとなった。
 あでやかな装いに身をつつんだ貴公子と淑女たちが囲むのは、美味なるものの粋を集めた料理で彩られた食卓だ。テーブルの中央を飾る鳥や花の置物は、他国には決して真似のできないと言われるユルギス名産の繊細な磁器でできている。
 アレクセイは背がとても高く、白金色をした髪とガラス玉のように薄い緑色の目をしている。やや歯並びの悪さが目立つが、それを除けば、王太子として十分な器量だ。
 ただ、なんといっても、比べる相手が悪すぎる。
「まあ、なんてお美しく、凛々しいお姿でしょう。さすが大国の『おうたあいし』さま」
 ドロテアは食事のあいだじゅう、嫌味にしか聞こえないほど、しつこく褒めそやした。
「ええ、本当に」
 ヒルデガルトは気のない返事をすると、ナプキンで口元を拭った。どれほど最高の料理を出されても、あの屋根裏部屋で食べた、ぼそぼそのパンほど美味しくはない。
 晩餐が終わり、舞踏会の準備がされる間に、王太子一行と王室一家は貴賓室で懇談を行なうことになった。
 話題はもちろん、アレクセイとドロテア姫の婚儀についてだ。
「今秋の吉日を選び、カルスタンの王都テトスブルグの大聖堂にて。よろしいですか」
「うむ」
「異存ありませぬ」
 侍従長に進行にしたがって、あらかじめ定められていたことが淡々と確認されていく。
 そのあいだ、当の婚約者たちは相手のほうを見もしない。もちろん、ふたりのあいだに愛情などはありはしないのだ。
 さっきまで、あれほど王太子を褒めちぎっていたトロテアとて、夫になる男性のことを、まるで自分のドレスを飾る宝石のようにしか思っていない。
 セルジュとの口づけと、その腕のぬくもりを思い出す。
(あの喜びを知らない姉君は、かわいそう)
 ヒルデガルトは涙がにじむのを感じた。
「……殿下。ヒルデガルトさま」
 侍従長の声に、我に返る。
「次は、第二王女殿下と、クラインの首席大臣リンド侯爵とのご婚儀のことでございます」
「わたしの意見としましては」
 アレクセイ王太子は、重々しく沈んだ調子で口を開いた。
「ユルギスとカルスタン両王国が結べば、大陸の平和は揺るぎなきものとなります。失礼ながら、クラインごときと結ぶ意味はなくなるのでは、ありますまいか」
「かえって、両国の同盟をおびやかす火種ともなりかねません」
 と、王太子の側近らしき立派な鬚の男が、口を添えた。
「おお、そういう見方もありますな。なるほど。確かに」
 むっつりしている父王クリストフに代わって、兄王子が大げさなほど相槌を打った。
 ユルギスの立場としては、こういう内政干渉めいた忠告は不愉快そのものだが、なにせ目の前にぶらさげられた同盟の話は魅力的すぎる。カルスタンと東側の国境を接しているユルギスにとって、隣国の脅威がなくなることは国全体の大きな利益になるのだ。
 そして何よりも、小麦の安価で安定的な輸出をカルスタンが約束してくれていることは、大きい。クラインとの同盟から得る利益など、それに比べれば微々たるもの。
 ヒルデガルトは、口の中が苦い味で満たされるのを感じた。なぜ、カルスタンは、この場で彼女の縁談をつぶそうとするのだろう。もしや、先ほどのフラヴィウスに対する考えなしの行動のせいで、彼女が疑心を抱いていることが伝わってしまったのだろうか。
 思わず座席の腕をつかんで、身を乗り出す。
「おそれながら、その心配は無用でございます」
 反駁のことばが口をついて出た。「わたくしごときが、重大事の火種になるはずはありません。万が一の場合は、いつでも切り捨てていただければ結構――」
 パシッという音とともに、右手の甲にひどい痛みが走った。
 右側にいる姉姫が、ものすごい形相でにらんでいる。彼女を打った扇子の柄が、その手に強く握りしめられていた。
「無礼者。王太子殿下になんというぶしつけな言葉を。あやまりなさい!」
 部屋じゅうから放たれる氷のような視線が、ヒルデガルトの心臓をえぐった。
 ――わたくしの味方になってくれる人は、ここには誰もいないのだ。父も兄も姉も。大臣たちも。
 すうっと手足が冷え、視界が暗くなる。
「もうしわけありませぬ」
 一瞬の沈黙ののち、彼女は深々と頭を垂れた。声が震えぬように、王女らしく毅然たれと、それだけを念じて。
「詮ないことを申しました。お忘れください」
「もうよい」
 父王の赦しの声を聞いたとき、目から雫があふれるのを感じ、顔が上げられなくなった。
 いざとなれば、王女の位を捨てて出奔する覚悟は決めていた。だから、何もこわくはないと思っていた。
 それでもやはり、父には認めてもらいたいのだ。国民みなから祝福されて婚姻の儀に臨みたいのだ。それは、王族として生まれたヒルデガルトの、なけなしの誇りだった。
(すまない、セルジュ。わたくしはやはり、そなたのもとには行けない)
 ぎゅっと、きつくきつく唇を噛みしめる。
「失礼いたします、陛下」
 そのとき突然、部屋の扉が開き、ユルギスの侍従のひとりが大慌てで入ってきた。
「大切な席であるというに、何用じゃ」
「おゆるしください。王宮の門番から、火急のお取次ぎをと」
「いったい、何ごと」
「クライン王国の首席大臣リンド侯爵と、副大臣ラヴァレ伯爵が、陛下にお目通りを願っております」
「なんだと!」
「なぜ、クラインが今ごろ!」
 座は総立ちとなった。
 その中でただひとりヒルデガルトだけが、涙をゆっくりと拭い、静かに花のごとく微笑んだ。




(4)につづく      

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