伯爵家の秘密/番外編


4. 王女の初恋



(2)

「痛い、痛い、頭が痛いいい」
 第二王女ヒルデガルトのベッドのまわりでは、侍女たちがおろおろしている。
「ひ、姫さま。やはり侍医を呼びましょう」
「だめです! 今日はカルスタンの王太子殿下がユルギスにお越しになるという大切な日なのに、今、私が病気などという騒ぎを起こすわけにはいきません。そんなことをしたら、お優しい姉君が心配なさって、縁談どころではなくなるわ。お願い、絶対に他言は無用よ」
「でも、姫さまに万が一のことがあっては……」
「あああっ。おまえたちの声を聞くと頭が割れるようだわ。空気が動くだけで痛いの。お願い、みんな出て行って。静かに寝させてくれたら治るから。食事もいらない。夜までひとりにして!」
 あきらめた侍女たちがぞろぞろ出ていくと、シーツの下でのたうちまわっていた王女は、むくりと起き上がった。
 清楚で愛らしいと評判の第二王女の口元に刻まれているのは、してやったりという会心の笑みだ。
「うまく行ったわ。さあ、ナンナ。出ていらっしゃい」
 侍女の中でも一番歳の近い、そしてヒルデガルトが最も心を許している少女が、おずおずと奥の間から出てきた。王女の愛用のナイトキャップとネグリジェを着て、もじもじしている。
「でも、姫さま」
「食べる物は用意した? 私の声色も使えるわね。絶対に寝台のカーテンの中から出てはだめよ。晩餐の時間までには戻ってくるから」
「でも……本当にこんなことをして、よいのでしょうか」
「いいのよ、絶対にバレやしない。王宮じゅうが、王太子のお迎えのために上を下への大騒ぎなんだもの」
「そうそう、人の出入りも激しいし、今日が絶好の脱走の機会なんだ」
 ナンナはぎょっとする。窓辺にはいつのまにか、麦わら帽子の園丁の若者が立っていたのだ。
「ひ、姫さま。本当にこの者は危険ではないのですか」
「ま、信用がおけるかって言われたら、一番怪しい男ね」
 ヒルデガルトは、男にチラリと横目をくれながら、不敵に微笑んだ。
「的確なご判断を、どうも」
 若者はとぼけた軽口を返しながら、帽子を脱ぎ、手袋や首に巻いた手ぬぐいを次々とはずしていく。庭師ふぜいとしか思えなかった男が、とたんに気品を備えた貴族に見えるから不思議だ。無論、彼がクライン国の副首席大臣、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵であることなど、侍女には想像もおよばないのだが。
「それより、たくさんの侍女や衛兵たちが外にいるのに、どうやって部屋を出るつもり?」
 王女の問いかけに、伯爵はぼさぼさの黒髪に指をつっこんで、ふわりと梳いた。
「まあ、まかせてください」


「だから、お茶もいらないって言ったでしょ、出て行って!」
「も、申し訳ありません」
 外の控えの間にいた侍女たちは、お茶の盆を持ったふたりのメイドが、ぺこぺこ頭を下げながら王女の部屋から出てくるのを見た。
「まあ、あなたたち、絶対に入るなという姫さまのご命令を忘れたの」
 先輩たちの叱声を浴びて、ふたりは肩をすくめながら、廊下を小走りに去っていった。
「おや。今のは、誰だったかしら?」


 王宮裏手、使用人用の勝手口から、粗末なボンネットを目深にかぶった、うつむきかげんの少女が、すり抜けるようにして往来へ出た。
 そこへ、別の出口から回ってきたのだろう。麦わら帽子の若者が駆けてくる。ヒルデガルトは奇妙な表情を浮かべて、まじまじと彼を見た。
「なにか?」
「……もう少しで悶絶するところだった」
「あれ? けっこう自分では似合ってたと思うんだけど、メイド姿」
 ユルギスの王都キエナは、音楽の都と呼ばれ、同じ民族から成る姉妹国である北方三国の中でも、最大の都市だ。征服民族の侵入より以前の町を起源に持つ市街は、華やかな劇場や博物館と、古い歴史地区が混在している。
 石壁と石畳でできた狭い路地を、青空とゼラニウムで飾られた出窓が見降ろしている。
 大通りから、ひとつの路地を選び、だらだらと坂をくだってゆく。三階建ての煉瓦住宅が立ち並ぶ界隈には、世界中から音楽を志す若者たちが大勢集まってくるという。
「一週間前から、ここで暮らしてます。アルバキアからの留学生という触れ込みで」
 鉄の手すりをたよりに、狭い階段をくるくる上がると、天井が斜めに切れた細長い屋根裏部屋だった。小窓を押し開くと、向かいの建物のすきまから、青く光るダナ運河が見える。
「この町は好きだなあ。運河が多くて、俺の育ったポルタンスにちょっと似てて」
 伯爵は、窓枠に半分腰をかけて立つと楽しげに言った。「暖炉で燃やす泥炭のせいか、街全体がちょっと煤けて煙くさいですけどね」
(きっと、この男は地獄に行っても、「ここが大好きだ」と悪魔の前で叫ぶのだろう)
 皮肉げにそう思いながら、ヒルデガルトは部屋を見回した。
 若い男がふたり暮らしをすると、こういう匂いがするのだと初めて知った。窓際に、白いシーツのかかったソファがひとつ。薪ストーブの前に食卓がひとつ。
 壁には、これ見よがしに大きなチェロが立てかけてある。音楽を志す学生らしく偽装しているのだろう。
 そして、低い天井の片隅に机とベッドがある。ベッドのシーツは皺くちゃで、半分垂れ下がっていて、その上にぞんざいに男物のシャツが置いてあった。
(セルジュのものかしら)
 彼女は、あわてて目をそらした。なぜだか、そういうものは見てはいけないような気がする。
「リンド候はどこ?」
「ああ、パンを買いに出かけたんだと思います。今日は町の反対側まで足を伸ばすと言ってたから」
「なぜ、わざわざ遠くの店まで?」
「これも、この国の穀物事情を知るための調査のひとつでね」
 エドゥアールは、隅に置いてあった薪を何本かつかむと、ストーブの扉を開けて放り込み、手早く火をつけた。そして、コンロの上に大きな鍋を置いた。
 しばらくすると、くつくつと煮える音とともに、いい香りが漂ってくる。
 シチューが調理されている様子など見たこともない王女は、興味深げに、伯爵が鍋をかきまぜる器用な手つきに見入る。
「コックやメイドは、連れてきておらぬのか」
「あはは。さすがにコック連れで諜報活動はできません。それに、俺がたいていのことは全部やれるし」
「今回は、奥方も同行してはおられぬのだな」
 エドゥアールの背中が、ぴくりとこわばった。世にも悲しげな横顔に、ヒルデガルトはぎょっとする。
「ミルドレッドがどうかしたのか」
「どうもなにも」
 彼はテーブルの前の椅子に力なく座った。
「ひどいつわりで、このひと月苦しんでるんです」
「お子を授かったのか!」
 予想外な答えに、ヒルデガルトは目を丸く見開いた。「めでたいではないか。なぜそんなつらそうな顔をする」
「だって、ラヴァレの領館の部屋から一歩も出られないんですよ。食べ物の匂いを嗅いだだけで吐いてしまうし、どんどん痩せて、このまま死んでしまうんじゃないかって……俺は、忙しくて一緒にいてやれないし、そばにいても何もできないし」
 最後は涙声になる。塩をかけた青菜のようにクタリと突っ伏すラヴァレ伯爵に、ヒルデガルトは驚くばかりだ。いつもは能天気なほど陽気な男が、これほど弱い心を持っていたとは。
 ヒルデガルトは向かい側の椅子に腰をおろした。
「乳母から聞いた話だが」
 まとっていた険を脱ぎ捨て、王女の声が柔らかな響きを帯びる。「女が子を宿すと悪阻になるのは、胎内の子を保護するための天の配剤なのだそうだ。間違って傷んだものを食べたり、激しい動きをしたりせぬように、気分を悪くすることで子を守っている」
 エドゥアールは顔を上げて、不思議そうに彼女を見た。
「そうでもなければ、そなたは気づかずに奥方を馬車に乗せて、あちこち連れ回すだろう。これでよかったのだ」
 伯爵の喉が、ゆっくりと上下した。
「女の体は丈夫にできておるゆえ、少し食べぬくらいでは死なぬ。心配がすぎると、今度はそなたのほうが病気になってしまうぞ」
「……驚いた。姫君は、人を癒す才をお持ちなのですね」
 と、エドゥアールの空色の瞳が感嘆したように細められる。
「わたくしが?」
「今のお話を聞いただけで、心の重荷がすっと軽くなって、暖かな気持ちになれました。まるで魔法みたいに」
「気のせいだろう。たいしたことは、言っておらぬぞ」
「いえ、確かです。お声ににじみでる人柄のゆえでしょう」
「よく言う。このあいだは、嘘つきで、性悪で、尻を叩かないと治らないと言ったくせに」
「え、どこの誰ですか、そんな失礼なこと言ったのは」
 そのとき、「あ」とエドゥアールが叫び、しっと唇に指を当てた。
 扉の外から階段を上がってくる音が聞こえる。
「いいですか。姫。扉が開く瞬間を絶対に見逃さないように」
 それまでのしょげていた様子はどこへやら、ラヴァレ伯爵は、このうえない悪巧みをしている顔つきになった。「一生忘れられないものを見せてあげますよ」
 扉が開いた。
 右手にパンの紙袋を抱えたリンド候セルジュ・ダルフォンスが現われた。
 鍵をコートのポケットにしまい、顔を上げ、テーブルについているヒルデガルト姫を見て、どさっと袋を落とした。そして、まるで幽霊でも見たかのような大声を上げたのだ。


「……して、ラヴァレ伯。わたくしが来ることを、そなたはリンド侯には、ひとことも伝えていなかったのですね」
「あ、ついうっかり」
「……どうせ、驚く顔を眺めて、思い切り笑おうという魂胆だったのだろう」
「さすがに親友だな、セルジュ。俺の心が、それほど正確に読めるなんて」
 エドゥアールは、床に落ちたパンの袋を拾い、きれいなものを選りわけてナイフで切り、木の大鉢に盛った。てきぱきと食卓に皿が並べられていく。
 気まずい空気の中、セルジュとヒルデガルトは、おそるおそる顔を見合わせた。
「……お久しぶりです。王女殿下」
「……ああ」
 後のことばが続かないまま、ふたりは、どちらともなく視線をそらせた。
「さあ、積もる話の前に、とにかく昼飯にしよう。めちゃくちゃ腹が減った」
 整えられた食卓には、鍋で煮こんだ豆とソーセージのシチュー、チーズとワイン。そしてパン。
「まず、味見といくか」
 着席した男たちは、おもむろにパン切れを口に含み、しごく真面目な顔で噛みしめた。
 ヒルデガルトも真似をして、一口かじる。
「……まずいな」
「ああ」
 確かに、まずい。ぼそぼそして、いやな酸味が残り、柔らかさも足りない。
「これで、王都の有名店で一番高いパンなのか」
「最高級の小麦パンだと言っていた」
「やはり、混ぜてるな」
「混ぜているとは?」
 セルジュとエドゥアールは顔を見合せて、それからヒルデガルトに振り向いた。
「商人が、質の悪い小麦を混ぜて売っているのですよ」
「ユルギス国内では、この数ヶ月で小麦の小売価格は三倍になっちまったんです。それにともなって、大麦やライ麦も高騰している。これじゃ、庶民はパンどころか、麦のお粥しか食べられないと思います」
「そんな」
 何も知らなかった。王宮にいる限りは、たとえ国じゅうの小麦がなくなろうと、白く柔らかいパンが食べられるのだ。
「これも、フラヴィウスという商人が小麦を買い占め、値を吊り上げているせいなのだな」
「おそらくは」
「だが、武器商人とは、武器を商うものではないのか。なぜ小麦市場にまで手を出す」
「戦争がなくなったからですよ」
 エドゥアールは、苦いものを呑みこんだような顔つきになった。
「カルスタンとリオニアの国境紛争が回避されたせいで、奴らは武器を売って儲ける望みがなくなった。その余った巨額の資金を、今度は小麦を買い占めて、利ざやを稼ごうとしているんです」
「なんと卑怯な。金もうけのために、罪もなき民を苦しめるのか」
 思わずこぶしを握りしめる。あの者、今度会ったら、ただではおかぬ。
「姫君、これを」
 ラヴァレ伯爵が、王女の逆立った気持ちをなだめるように、宝石のようなオレンジ色のガラス瓶を差し出した。「ぱさぱさのパンに、たっぷりつけて召しあがってみてください。少しはおいしくなりますから」
「これは何?」
「うちのコックのシモンが作った、杏のコンフィチュールです」
 スプーンを舌先に乗せたヒルデガルトの目が輝いた。「おいしい」
「じゃあ、こっちもどうぞ。モンターニュ領で夏にしか作れないアルパージュチーズです。ワインはもちろんリンド侯爵領から持ち込んだ最高級品。ユルギスの甘ったるい白ワインなんか飲めないって、わがまま言う奴がいるもんで」
「……うるさい」
「このコンフィチュールは、きび砂糖で煮て作ったものなんですよ」
 むっつりと寡黙をとおすセルジュに対して、次から次へとなごやかな話題を提供するのはエドゥアールだった。
「きび砂糖は、ご存じのとおり、南の異教徒の大陸が原産地です。昔は東のラガス島の商人が一手に砂糖貿易を独占して、巨万の富を築きました。だから長い間、北国では砂糖は高級品で、甘いお菓子は貴族だけのものだった。テンサイの大規模栽培が成功して初めて、砂糖は庶民の口にも入るようになったんです」
「……知らなかった。砂糖にそんな種類の違いなどがあったとは」
「この大陸は、中央の山脈を境にして、食文化が完全に分かれているんです。たとえば、この美味いソーセージは、クラインでは作れない。豚を放し飼いして肥やすだけの、どんぐりの豊富な森がないからです。そして、クライン産の美味い小麦は、反対にユルギスやカルスタンでは絶対に作れない」
「そうか」
「いちいち真面目に相槌を打つことはありません。姫」
 セルジュは不機嫌そうにシチューを頬張った。「こいつの下品なおしゃべりに付き合っていたら、どんな美味な食事でも不味くなります」
「待てよ。俺は農業担当大臣として、我が国に嫁がれる王女サマに、食糧経済の基本を講義してさしあげてるんだ。食卓から、世界の情勢が見えてくるものなんだぞ」
「ものを食べながら、よくもそれだけしゃべれるな。この一週間でつくづく学んだ。おまえとの共同生活で絶対に必要なものは、耳栓だ」
「ベッドの敷布すらロクに畳めない男にだけは、そういうこと言われたくない」
 ヒルデガルトは、ふたりの他愛のない口論を聞きながら、ジャムを乗せたパンを食み、舌の奥にじわりと広がる甘酸っぱさを噛みしめていた。
 天井の低い、粗末な屋根裏部屋で三人で囲むにぎやかな食卓。質素と言えば質素だが、これほど美味しい食事を王女は食べたことがなかった。


 食事が終わった後、エドゥアールは汚れた食器を桶に入れると、部屋を出て行った。部屋の中に洗い場はない。階下に降りて、ポンプ井戸で洗うのだろう。
「本当に、よく動くな」
 ヒルデガルトはその後ろ姿を見送って、つぶやいた。「内心は、奥方のことが心配でたまらぬであろうに」
「無茶なことをなさる」
 怒った低い声に振り向くと、セルジュが冷やかな視線で彼女を見つめていた。「どうせ、あの男の入れ知恵でしょうが、宮殿をひそかに抜け出すなど、王族のふるまいとも思えません」
「そなたが約束を守らぬからだ」
 負けずに、にらみつける。
「約束?」
「一年で迎えに行くと言った」
 リンド侯爵は、眉を寄せて蒼色の眼を伏せた。そのまま背中を向ける。
「覚えていらっしゃいましたか」
「忘れたとは言わせぬぞ」
 ――わたくしに、あんなことをしておいて。
「正直、忘れていてくれたらと思っておりました」
「なんだと?」
「この縁談は、殿下の御為にはならぬからです」
「何がわたくしの為になるか、そなたに決めてもらう筋合いはない」
 侯爵の背中で、長い金髪がかすかに揺れた。言葉をさがしあぐねているように見える。
「この一年、ずっと迷っていました」
「意外だな、そなたの口から、そのようなことばを聞くとは」
 ヒルデガルトは、唇の片側を皮肉げに持ち上げた。「そなたの最大の関心事は、クラインの国益なのだろう」
「仰せのとおりです」
 にべもない即答に、チクリと体の奥が痛む。
「それならば、迷うことなどなかろう。わたくしとの縁談が国益にならぬのなら、さっさと使者を立てて、破談にしますと伝えればよいだけのこと」
「……それができるなら、わざわざユルギスまで来ることはありませんでした」
「では、何を迷うのだ」
 まるで堂々めぐりだ。本心を隠し合った会話は、次第に双方にいらだちを募らせる。
「ふふ。首席国務大臣とあろうものが、堕ちたものよな。私情をはさんで自分の行動を決めかねているとは」
「私情?」
 セルジュは、その言葉に怒りを覚えたのか、険しい顔で振り向いた。
「わたしが私情で動いていると、お思いになるのですか」
「そうだ。おまえは嘘つきだ」
 王女の胸は、うまく呼吸ができずに何度も膨らむ。
「ぬけぬけと、何が『殿下の御為』だ。自分のことしか考えておらぬくせに」
「あたりまえでしょう。王族とはそういうものだ。おのれの国のために生き、おのれの国のために死ぬのが王族のつとめだ!」
 セルジュは生まれ落ちたそのときから、『おまえは王になるのだ』という父親の口癖を聞いて育ってきた。ゆえに、これは絶対に譲ることのできない彼の矜持だった。
「わたしは、あなたであろうと、そんなことをさせたくはない。一国の王女が、何の国益にもならぬ相手を伴侶に迎える。そんな駄々をこねれば国はどうなるか、おわかりでしょう。そんなロマンスは、おとぎ話の中でしかありえないことです」
「わかっている」
 ヒルデガルトは涙をこらえながら、にらんだ。「そんなことは、わかっている。だが、その何の得にもならぬ相手を恋しいと想うのは、わたくしの勝手だろう!」
 身をひるがえして、その場から逃げ出そうとした彼女の目に、ストーブの隣の小さな扉が映った。切羽つまって開けると、その先は狭い梯子部屋だった。
 梯子と並行して、銅製の煙突が薪ストーブから突き出して屋根までつながっている。そして、その暖かさを利用して、下着が所せましと干してあったのだ。彼女は勢いあまって、その中に突っ込んでしまった。
「きゃああっ」
 衣を裂くような悲鳴に、後を追いかけてきたセルジュも息をのんだ。
「また、あいつはこんなところに洗濯物を――!」
 男もののズロースを貴婦人の帽子のように頭に乗せて、王女はふらふらと出てきた。
 セルジュはあわてて、それを乱暴に取り払い、彼女の野イチゴ色の髪の乱れを直そうと指を伸ばして――そのまま、抱きすくめた。
「あなたは、馬鹿だ」
「馬鹿だと?」
「自ら進んで、苦難を背負いこむことなどないでしょうに」
「何が幸せかは、自分で決めると言っただろう」
「あなたに、後悔の一生だけは送らせたくないと思っていた」
「だが、こうしなければ、わたくしはもっと後悔する」
「本当に、わたしのもとに来るとおっしゃるか。たとえ祖国を捨てても」
「くどい」
 セルジュは腕の力をゆるめ、王女の顔をまじまじと見降ろした。深緑のヒスイのような瞳を、すらりとした小ぶりの鼻を、ふっくらした柔らかい唇を。まるで店の品物を値踏みするように、じっくりと冷静な目で眺める。
 こうしないと、この男は動けないのだ。恋という訳のわからぬ衝動を、あらためて損得勘定という天秤で量り直す。感情が理性をなだめすかし、納得させてようやく、セルジュの氷色の瞳は春の湖のようにぬるみ、固く結んでいた唇は笑みを取り戻した。
「会いたかった」
「わたくしも……」
 その次のことばは、性急な口づけにふさがれた。
 ヒルデガルトが一年間、思い出しては身を焦がしていた、あの情熱的な口づけ。
 扉の外で様子をうかがっていたエドゥアールは、大きく吐息をついた。
「やれやれ。世話を焼かせやがって」
 桶をかかえた伯爵は、足音を立てずにこっそりと入ってくる。抱擁しているふたりから照れたように目をそらせると、窓の手すりに腕をかけて顎をうずめ、故国の方角を見やった。
「ミルドレッド……会いたいよ」
 霞がかった北国の青空は、恋人たちのいる屋根裏部屋の窓辺に、やさしい陽光をふりそそいでいた。
 



(3)につづく      

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