4. 王女の初恋
(1)
ユルギス王国南、ブロイエ湖畔の離宮は、夏の離宮と呼ばれていて、透明な青い湖水に白亜の建物が逆さまに映りこむ美しい景色が有名だ。その離宮で春先から秋までを過ごすのが、第二王女ヒルデガルトの毎年の習慣だった。
だから、この季節に王都に戻るのは、とても珍しいことだ。
王都キエナはいつも湿っぽく、煙くさい匂いがする。美しい都だと誰もが褒めたたえるが、とてもそうは思えない。
できれば、ずっと王都などには戻りたくないというのが本音だったが、王族としての務めもあって、そうはいかない。
「お帰りなさいませ。殿下」
大理石の円柱の続く白く長い廊下を、うやうやしくお辞儀する女官や侍従たちに、にっこりと微笑みかけながら通り抜ける。
穏やかで控え目な王女というのが、ヒルデガルトの演じる役回りだ。今のところ、それが嘘だと知っているのは、ほんのわずかな伴の者だけ。父王にも兄や姉たちにも、本性は見破られていない。
たとえばチェスに興じるときは、兄に数手の差で勝たせてやる。刺繍は、姉よりもわずかに稚拙に糸を運ぶ。そして、さっさと負けを認める。
そうやって、巧みに競争を避けてきた。本気で争えば、たぶん一度目は勝てる。けれど、二度目から先は、上位者の誇りにかけて、あらゆる手を尽くして打ち負かされる。幼いときに、いやというほど経験してきたことだ。
そういう不毛な争いは、疲れる。二度とごめんだ。
謁見の間に入ると、玉座に座る父王に深々と頭を下げた。
「久しぶりだな。ヒルデ。息災でおったか」
「はい、父上もお変わりなくお過ごしのことと、うれしく存じます」
内に隠した邪気は、そぶりにも見せず、ひたすらに愛らしく。
それが、父に可愛がられ、兄や姉にうとまれぬ方法だと信じて、生きてきた。
すべてが無駄だったと思い知らされたのは、去年の冬。クライン王国のリンド侯爵の縁談が舞い込んできたときだ。
「どうだ。クラインに嫁いでみるか。気候は温暖、まことに美しき良き国であるぞ」
と勧めてきたときの、父の顔に張りついた、ぎこちない笑みが忘れられない。
北の大国カルスタンのアレクセイ王太子と、第一王女ドロテアの縁談は着々と進んでいる。もしカルスタンとクラインが事を構えることにでもなれば、どちらが切り捨てられるかは想像がつく。
(二頭の牛を追えぬとなれば、片方はヒキガエルで満足せよということ?)
ユルギスに古くから伝わることわざを思い出して、ヒルデガルトはすっと膝の力が抜けそうになった。
あれだけ努力したのにもかかわらず、父に愛されてはいなかったのだ。
「ええ、暖かくて住みやすい国と聞いております。きっとすばらしいところですわ」
「それでは、受けてくれるか」
「もちろんです。ユルギス王家の名誉ある一員として、陛下のおことばに従います」
その午後のお茶の時間、侍女たちは十枚ほどの割れた皿を片づける羽目になった。
(どんな食器でも、きちんと数を数えて戸棚に並べられる。けれどわたくしは王族の数にも数えられていないのだわ。なくてもよい、欠けた皿と同じ)
傷に塩を塗りたくるような思いで心に刻みつけたことを、一年経った今も怒りとともに思い出す。
せめて、かの国に乗り込んで、縁談をぶち壊そうと思った。
婚約者となる人に無礼なふるまいをして、結婚など考えられないほど徹底的に嫌われようと思った。
――なのに。
「おや、ヒルデ」
姉君である第一王女がしゃなりしゃなりと廊下をやってきて、てっぺんから抜けるような声を出した。
「音楽祭以来ですわね、ドロテアお姉さま。お変わりなく」
「あなたも、相変わらず地黒で健康そうだこと」
白い肌を引き立てるために姉が愛用している目の下のつけぼくろが、馬鹿げたほど大きく見える。
「ところで、お父上があなたを離宮から呼び寄せたわけは、わかる?」
「いいえ」
「アレクセイ王太子殿下がお忍びでお越しになるの。もちろん、わたくしに『きゅううこおん』なさるためよ」
『求婚』ということばを、わざと誇らしげに長く伸ばす。ヒルデガルトは息がつまりそうになった。
「……まさか、そんなに早くお話が運んでいるとは」
「善は急げと言うでしょう。これで、わがユルギスを含めた北方三国と、カルスタン王国との絆は、盤石のごとき基礎に置かれるわ。世紀の『けえっこおん』になるわね」
ふふんと鼻を鳴らさんばかりにして妹を居丈高に見る。あたかも、あなたの縁談などとは格が違うのよと言わんばかりに。
「お姉さまの幸福を心からお祈りいたしますわ」
「ありがとう」
姉姫とその侍女たちが行ってしまったあと、ヒルデガルトは悄然と部屋に向かった。
いつもなら、むかむかとお腹の底が熱く泡立ち、しばらく平静を保つのに苦労するのだが、今日は、とてもそんな元気はない。
(いよいよ、カルスタンとの同盟が成立してしまうのだ)
ユルギスは武力による後ろ盾をもって、クラインとの穀物交渉を有利に進めようとするだろう。交渉の場では、双方の高官がテーブルをはさんで、怒りを抑えた低い声と、敵同士のような冷たい視線を応酬するだろう。
そうなれば、クラインの首席大臣と婚姻を結ぶ意味は永久になくなる。
「姫さま、お召し替えをお持ちしました」
あの人と、もう二度と会うことはないのかもしれない。
「……姫さま?」
「ごめんなさい。少しだけ待って」
窓ぎわに立って王宮の庭を熱心に眺めるふりをする。喉の奥にせりあがってくるものを、なんとかやり過ごすための時間が必要だった。
『二年、いや一年お待ちください。晴れてあなたをお迎えにまいりますので――花嫁として』
約束の一年は、もうとっくに過ぎた。
政治的に何の利用価値のない第二王女など、どうでもよいのだろうか。それなら、なぜあんなことまでしたのだろう?
それとも、男というものは、女性なら誰が相手でも、ああいうやり方で『証拠』を残すのだろうか?
ヒルデガルトの唇は、今でも腫れて熱を持っているように思える。自分の指先でそっと触れるたびに、体の奥が、じわりととろけるように痺れる。
扉が開き、老女官長が現れて、一礼した。
「姫さま、王立図書館の館長が来ております」
「そう」
「なんでも至急に、ご決済を仰ぎたいことがあると申しております。さらに、殿下が名誉総裁をなさっておられる看護協会の理事たちがあいさつに来ております。そのあとは園芸生産組合の者もお目通りを」
「わかりました。すぐ行きます」
と答えて、微笑みながら振り返る。そのときにはもう、ヒルデガルトは完璧な王女の仮面をかぶっていた。
王族である限り、好き勝手は許されない。
何を食べるか、どこへ行くか。何もかもが細かく定められていて、その台本どおりに動く。行く先々で極上の笑顔をふりまきながら、決まりきった歯の浮くようなねぎらいの言葉をかける。
それが王女に生まれた者の責務なのだ。そして、どの国の何某と結婚するかも、誰かが決めてしまうのだ。
運命に逆らおうとしても、結局は何も変わらない。――疲れるだけだ。
執務が終わって、王宮の中庭を散策する時間がようやく与えられた。もうすぐ夏とは言え、北国の夕暮れは早く、陽のかげりとともに冷たい風を連れてくる。
ヒルデガルトは花を育てるのが好きだった。花は決して他の花の悪口を言わない。他人をおとしめて自分を良く見せようとはしない。
花壇で愛でられることのない下生えの野草さえ、ふさわしい場所を見つけて咲き匂っている。
離宮の庭に、彼女はこっそりクラインから持ち帰った苗を植えていた。アルバキアの国花である深紅のカーネーションと、クラインの国花である珊瑚色のバラ。ナヴィルの王庭で寄り添うように咲いていた花に、フレデリク三世と王妃テレーズの互いへの愛情がこめられている。
いつしかヒルデガルトも、あのような睦まじい結婚生活を夢見ていたのかもしれない。
美しい花々の香りの中から、ふと腐臭が漂ってきたような気がした。
胡乱な気配のする方角に立っていたのは、まるで王侯貴族のような豪華な毛皮のマントを羽織った、太った商人だ。
侍女たちに適当なことを命じて部屋に引き返させてから、王女は豊満な女神像の彫刻のかげに隠れながら、こっそりそばに近づき、様子をうかがう。
「……フラヴィウスどの。カルスタンへの申し送りは……でしょうな」
彼の連れが声をひそめて、さかんに言い立てている。服装からして、ユルギスの高官のひとりのようだ。
(なんなの? 何の話なの)
ヒルデガルトは彼らの会話を聞きとろうとしたが、果たせぬまま、ふたりは建物の中に入ってしまった。
不吉な予感を抱きながら、王女は野イチゴ色の髪を風になぶらせながら、立ち尽くしていた。
翌日も、またその翌日も、ヒルデガルトは暇を見つけて庭を散策した。
あれ以来、謎の商人は王宮のどこでも見かけることはなかった。
(カルスタンということばが聞こえた。もしや、アレクセイ王太子の関係者?)
そんな者が王宮を出入りしているとなれば、ますますカルスタンとの縁組は本決まりになる色合いが濃い。
それは、クラインとの関係が限りなく遠ざかることを意味しているのだ。毎日が、手元の蜀台を失ったまま暗闇を歩くような心地だった。
大理石のあずまやから庭の景色をながめていると、そばに立つ、ひときわ大きなクスの木に登って枝を掃っていた庭師の徒弟らしき者が、ぽつりとつぶやいた。
「なんだよ、景気の悪いツラしてやがるな」
彼女も驚いたが、仰天したのは一緒にいた侍女たちだった。
「な、なんと無礼な! 今のは殿下に向けてのことばですか!」
「これは、あいすみません。今のは、ほんのひとりごとでして」
若者はするすると降りてきて、かぶっていた土だらけの麦わら帽子をひょいと持ち上げ、にっこり笑った。
ヒルデガルトはもう少しで、「あっ」と叫ぶところだった。
「どうかなさいましたか?」
「なんでもない」
侍女たちの不審げな表情をかわして、彼女は弾けるように立ちあがった。
「ち、ちょうどよい。庭師。わたくしの部屋に置いてある鉢植えが元気がないのだ。見に来てくれるか」
「はい。姫さま。お安い御用で」
あっけに取られている侍女たちを尻目に、ヒルデガルトはぐいと若者の袖を引っ張って、小走りに歩き始めた。
「冗談ではない。こんな格好で何をしておられる」
「ああ、これね。園丁が助手を募集してたから、ちょうどいいやと思って」
自室に飛び込むと、ヒルデガルトは、扉や窓のあらゆる鍵を閉め回った。追いついてきた侍女たちには、固く人払いを命じる。
「さあ、これでよい」
若者は、そのことばを合図に、ようやく帽子を脱いだ。
染め粉で染めあげてでもいるのか、真っ黒でぼさぼさの髪の毛、つぎのあたった粗末な衣服に汚れた顔や手足。
けれど、そこに立っているのは、まぎれもなく、クライン国副主席大臣、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵その人だったのだ。
「お久しぶりでございます。王女殿下。あ、手が汚れてるので、このままで失礼」
麦わら帽子を胸に当て、野良着で儀礼どおりに優雅に膝をかがめる姿を見ていると、まるで狐につままれたようだ。
「あれ、一年ぶりの再会を喜んでくださらないんですか。つれないな」
「だから、なぜそんなふざけた格好で王宮に忍び込む必要がある!」
思わず声を荒げたヒルデガルトに、エドゥアールは「しっ」と唇に指を当てた。
「アレクセイ王太子が訪問なさると聞きました。カルスタンの密偵が、もう王宮のあちこちに紛れ込んでいるはずです」
彼女は、はっと息を呑み、あわてて口を押さえた。
「それほど隠密に運ばねばならないほど、クラインとユルギスの関係は悪いのか」
「よくはありませんね。カルスタンと御国が軍事協定を結べば、クラインは打つ手がなくなる。なんとかそれだけは避けたいところですが」
悲観的な答えに、ヒルデガルトは目の前が真っ暗になった心地で、よろよろとソファに腰を落とした。
「なんとかならぬのか」
「そう思って、ない知恵を絞って動いてるんですけど。どうも相手に強力な切り札を握られちまったみたいなんです」
「切り札とは?」
ぐったりともたれていた身を起こしてみると、伯爵は彼女に背を向け、うずくまって何やらせっせと手を動かしていた。
「何をしている」
「何をって、ご依頼どおりに鉢植えの手入れを。葉枯れがひどいから少し整えてやろうと思って」
「……そなたは、本当に貴族か?」
「自分でも、ときどきわからなくなるときがあるなあ」
と、屈託ない笑い声をあげる。
ヒルデガルトは内心、クライン王の甥であるというこの伯爵が苦手だった。いつもあけっぴろげな笑顔で大空のような眼をしているのに、ときどき、そばに近づくと本能的に恐ろしいと感ずることがある。お尻を叩かれそうになったことがあるせいかもしれない。
冷たく蒼い氷色の目をしているあの人のほうが、よほど一緒にいて、ほっとする――そこまで考えて、思わず王女は涙ぐみそうになった。
エドゥアールは立ち上がり、手の汚れをシャツの裾でぬぐうと、真顔に戻った。
「去年の冬ごろから、各国の小麦を大量に買い占める動きがあります」
「小麦を?」
「ちょっとやそっとじゃない。ばく大な資金を投じて、組織ぐるみでやっているらしい。そのせいで小麦相場は、このところ暴騰しています。先週は1シェルあたり50ソルドをつけました」
「50ソルド!」
昨年のユルギスとの穀物交渉で、クラインは1シェルあたりの小麦価格を40ソルドに値上げすると言っていたはずだ。今はそれをはるかに超える市場価格になっていることになる。
「どこの誰が、そんな悪企みを?」
エドゥアールは肩をすくめた。「大陸北東部の穀倉地帯では、去年の冷夏で小麦は軒並み不作だったと聞いています。そうなると陰にいるのはやはり――」
「カルスタンなのね」
王女は、ふと数日前のできごとを思い出した。
「そういえば、あやしげな商人が出入りして、うちの大臣と密談しているのを見たわ。何か関係があるかしら」
「どんな奴です?」
「太って派手な服装の……確か、フラなんとかと呼ばれていた」
エドゥアールは、水色の瞳を驚きに大きく見開いた。
「そりゃすごいお手柄だ、王女さま。俺はそれが知りたくて、ここに忍び込んで探ってたんだから」
「誰なの?」
「武器商人ギルドのフラヴィウス。ずっと以前から俺たちと因縁のあるヤツです」
「武器商人が小麦の買占めを?」
ヒルデガルトは当惑したように、薄紅色の長い前髪の先をしきりに引っ張った。わけがわからない。
「そいつと話していた大臣の名前は?」
「クル……あ、待って」
答えを聞いたとたんに窓から飛び出していきそうな剣幕のラヴァレ伯爵を見て、王女はあわてて言葉をひるがえした。
「リンド侯爵も、この国に来ておられるの?」
エドゥアールはそれを聞いて、意味ありげな笑いを見せた。「なんだ、セルジュにお会いになりたいんですか」
「あなたには関係ないことよ。いるのかいないのか訊いているの」
「いますよ。しかも、このユルギス王都の中に」
「……」
胸が早鐘のように打ち始める。近くにいると聞いただけで、目の縁が燃えるように熱くなる。
「じ――じゃあ、なぜここに来ないの」
「あいつはユルギスの王室関係者に顔を知られています。あの美貌は、どこででもやたら目立つし、そのくせ俺みたいに変装うまくないし」
伯爵は、さらに声をひそめた。「おまけに、迎えに来るという約束をいまだに果たせていないから、あなたに会わせる顔がない」
それを聞いたヒルデガルトは、さっと頬を赤らめた。
「でも、お会いになりたいのなら、隠れ家までお連れしますが」
「わたくしから会いに?」
彼女はあわてて、ツンと顔をそむけた。「無理です、そんなこと」
あっと思う間もなく、ラヴァレ伯の唇が近づき、彼女の耳に触れんばかりになる。
「危険をおかす覚悟はありますか?」
「え……?」
「あなたの国にとって、クラインとの政略結婚はもはや意味がありません。成り行き次第では、下手をすれば二国は国交を断絶して敵同士になるかもしれない」
その問いかけは穏やかだが、まるで檀上の裁判官のように、有無を言わせぬ厳しさをはらんでいた。
「俺はセルジュの友人として、きちんと確かめておきたいんです。それでもなお、あいつのもとに嫁いでくださる覚悟は、あなたにありますか?」
「……」
「考えておいてください。もし、その覚悟ができたら、いつでも鉢植えの手入れに呼んでくだされば、うかがいますので」
麦わら帽子をかぶり直して出ていく異国の青年伯爵の後ろ姿を、ヒルデガルトは茫然と見送った。
「待って!」
彼女は、ドレスの裾をむんずと掴んで、走りだした。
「まいります!」
庭に飛び降りたときに、片方の靴が脱げたことも気づかずに。
「覚悟は、もうとっくに決めました。だから――リンド候のもとにわたくしを連れて行きなさい」
エドゥアールは振り返った。驚いた表情は、ゆっくりと満足げな微笑に取って代わった。彼はもう一度麦わら帽子を脱いで、深々と会釈した。
「承知いたしました、姫君。ではさっそく、脱走の手配を」
(2)につづく
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