伯爵家の秘密/番外編


3. 公子の縁談



(4)

「あー。王都からほんの近くに、こんな広々とした領地があるなんて、ずるいな」
 エドゥアールはなだらかな芝生の庭園に寝ころび、大きく伸びをした。
「ええ、葡萄畑の緑の畝が見渡すばかりに続いていて、なんだか空気までが甘く香っているよう」
 ミルドレッドは、日よけの傘を差しかけて、夫の顔のあたりに日陰を作る。「夏は涼しく、冬は暖かく。このあたりの土地がクラインの至高の宝石と呼ばれるのも、うなずけますわ」
「そうだな」
「でも、わたくしはどんなに王都から遠くても、冬は雪に埋もれても、ラヴァレの谷のほうが好きです」
「ああ、俺もだ」
 レースの日傘から漏れ入る光が、エドゥアールの瞬きするまつ毛に合わせてキラキラと跳ねている。ミルドレッドはその様を飽きることなく、うっとりと眺めた。
「私にとっては、あなたがいらっしゃる場所なら、どこであっても天国なのですわ」
「……おい、パトリス」
「は、はい」
 テラスの端に座り込んでペンを走らせていた文官が、あわてて立ち上がった。
「今の夫婦の会話は、いちいち記録しなくていい。削除」
「あ、す、すみません。おふたりがあまりにも仲睦まじいので、ついうっかり」
 と、汗の吹き出た額をぬぐう。今の汗は、会議中の汗とはまったく別もののようだ。
「なあ、パトリス。さっきの地下での会談の記録は、ちゃんと書きとれただろう?」
「はい、皆様とても早口でいらしたのに、不思議です」
「相手のことをよく知れば知るほど、たとえ早口であろうと外国語であろうと、言葉がはっきりと聞こえてくるもんなんだぜ」
「はい。お教えがわかったような気がいたします」
 テラスのテーブルでは、ミルドレッドの侍女のソニアが、当主夫妻のためにカップにお茶のお代わりを注いでいる。にわかに風が吹き抜けて、添えられた白いナプキンをさらっていこうとした。
 背後にいたエドゥアールの近侍の騎士が、舞いあがる寸前だったナプキンを素早くつかんで、お盆に元通りに置く。
「あ、ありが……」
 ソニアは、いまだに夫と目を合わせるたびに、顔を真っ赤にしてうろたえる。ユベールはそんな妻をからかうのが最大の喜びと見えて、見えないところでキスをしかけては、お皿を何枚も割らせているらしい。


 ヒルデガルトは、暗い地下の洞窟の中から出てきたとたんに、山の端に向かって傾こうとする夕陽に目を射抜かれ、よろめいた。
 とっさにセルジュが後ろから支えた。腰はくびれて、驚くほど細かった。
 彼女はその腕をすぐさま振り払うと、談笑するラヴァレ伯爵の一行を、黙ったまま見つめる、その小さな肩がこわばっている。
 庭の向こうにいるのは、愛する者も、なごやかな団らんも、忠誠を尽くす家来も、すべてを持っている者たち。
 そして、こちら側にいるのは、そういう温もりを何も持たずに生きてきた者たち。
 無言で並ぶふたりは、今という瞬間、同じ孤独と羨望を共有していた。
(この王女のそばに居てやりたい)
 セルジュの中で漠然とあったものが、確固たる願いとして渦巻き始めた。


 夕餐のあと、領館の主であるリンド侯爵と、ラヴァレ伯爵夫人は、いつのまにか姿を消した。
「あれ、ミルドレッドはどこへ行っちまったんだろう」
「ラヴァレ伯爵」
 ヒルデガルトは、あちこちの部屋を探し回っているエドゥアールを呼びとめた。
「少しだけお訊きしたいことがありますの」
「え?」
 王女は有無を言わせず、大広間の隅のアルコーブと呼ばれる小部屋に彼を引き入れた。
 セルジュがミルドレッドを誘惑するための時間を稼ぐつもりだ。要するに、疑わせるに足るだけの十分な時間、彼らを引き離しておけばよい。
 幸せに満ち足りた夫婦の笑顔が凍りつき、明るいまなざしに疑惑と憎悪の影が射す瞬間が、目に浮かぶようだ。
 喉にせりあがってくるものを飲み込み、それをごまかすために咳払いすると、王女は小部屋にしつらえられたソファに陣取り、目の前に立っている伯爵をじっと眺めた。
「何か?」
「いえ、うっとりと北方神話の神々の彫刻を鑑賞するような気分にひたっておりますの」
「あ、ええと」
 エドゥアールは、よそゆき用に整えた金髪に指をつっこんで、ぼりぼりと掻いた。「で、お訊きになりたいことというのは?」
「王位継承権から言えば、あなたのほうがリンド侯爵よりも上だと聞きましたわ」
 ラヴァレ伯爵は、とまどった笑顔になった。「ええ、ですが筆頭はもちろんシャルル王子です。セルジュも俺も、継承権を放棄すると公けに宣言しています」
「でも、あなたの容姿を見れば、ファイエンタール王族の血を色濃く継いでおられることは一目でわかりますわ。――正直言って侯爵では、わたくしの結婚相手には不足です」
 エドゥアールはみるみる、いぶかしげな顔に変わる。「どういうことでしょう」
「誇りあるユルギスの王族の一員として、わたくしは侯爵よりも、あなたとの結婚を望んでいるということですわ」
「でも、俺にはもう妻が」
「離縁なさいませ。たかが子爵の令嬢でしょう。なんなら妾夫人として、今までどおりお睦みになればよろしいわ」
「……何を企んでおいでです?」
「あなたのほうが結婚相手として好もしいと言っているんです。これ以上、わたくしに恥をかかせるおつもり?」
 手を伸ばして彼の袖のレースをぐっとつかみ、ふたりはもつれるようにソファに倒れこんだ。
(ふふ、うろたえているかしら。どちらにしろ、奥方も今ごろはセルジュの腕の中。あなたの家庭も、リンド候との友情も破滅だわ。おまけに、このことを王宮に告げ口すると脅かして、穀物交渉を振り出しに戻してあげる)
 ほくそ笑みながら目を上げると、すぐ触れ合えるほど間近に彼の顔があったので、ヒルデガルトは仰天した。
「ふうん、まさかとは思ってたけど」
 青空のように澄み切った色だと思っていた瞳は、その瞬間、まるで天空の深淵を覗きこんでいるかのように恐ろしく感じた。
 逃げ出そうとしたが、強靭な力で手首をつかまれていて、ふりほどけない。
「離して!」
「ダメ。悪いお姫サマには、この際きついお仕置きが必要だと思うんだよね。……さあ、お尻を出しなさい。思い切り叩いてやる」
「い、いやあ」
 広間にまで半泣きの悲鳴が響きわたる。そして、その声にかぶさるように、向こうから柔らかな女性の笑い声が近づいてきた。
「あら」
 セルジュに手を取られたミルドレッドは、彼女の夫である伯爵が、やんごとなき王女をソファに押し倒している情景を見て、穏やかに微笑んだ。
「帰ってくるのが、早すぎたかしら」
「……遅いって。もう少しで、本当にお姫サマのお尻を剥くところだった」


 虚脱状態に陥ったヒルデガルトから、辛抱強く話を聞き出すと、つまりはこういうことだった。
 このたびの縁談が持ち上がる直前に、姉であるユルギス第一王女と、カルスタンの王太子アレクセイとの縁談が急浮上していたのだ。
 つまりは、ユルギス国王クリストフは、ふたつの国との同盟を両天秤にかけることになったわけだ。
 もちろんカルスタンは、クラインとは比べものにならないほどの軍事大国。天秤が最終的にどちらに傾くかはわかりきったことだ。
 第二王女のクラインへの輿入れを粛々と準備すると見せかける一方、カルスタンとの縁組をひそかに進めることになった。クラインとの来年度の穀物交渉さえ無事に終わってしまえば、あとは破談にでもどうとでもなる。そのころにはカルスタンの後ろ盾がついているのだからという、実にこすからい考えだ。
 いわば、第二王女ヒルデガルトは、父王によって捨て駒にされたのだ。
 そのことを知った彼女はショックを受けた。内心、怒り狂った。
 しかしながら、幼いころより巧妙に、従順の仮面をかぶり続けているものだから、『父上、わたくしの第二の故郷となる国を、すぐにでも見て来とうございます』と慎ましやかに申し出たとき、誰も疑わずにクラインへ送り出したというわけだ。
「この世の中にはね。底抜けの善人なのに、自分のことを悪人だと思いこんでる人間が本当に多いんだよ」
 翌朝、エドゥアールは王都への帰りの馬車の中で、愛妻に事の次第をはじめから説明した。
「王女サマは、まさにそういう人なんだ。姉君や兄弟君の後ろに隠れて、ちっとも親に可愛がってもらえない。認めてもらえるように懸命に努力しても、限界がある。そんなとき、『自分は悪い人間なんだ、仮面をかぶっているだけだ』と思いこんで、心の釣り合いを取っていた。本当はすごくいいコなのに」
「おかわいそうに」
 ミルドレッドは、三歳年下の少女の寂しい胸中を思い、目をしばたかせる。
「親にはよくやったと認めてもらいたい、でも捨て駒にされるのはイヤだ。ましてや、幼いころ可愛がってくれたテレーズ王妃を裏切るような真似を、祖国にさせたくはない。そうやって板ばさみになった挙げ句、無謀にも、自分の力で穀物交渉をなんとかしようと乗りこんできた。王女サマなりに知恵をしぼって、セルジュと俺を仲たがいさせてしまうのが一番手っとり早いと考えたんだろうな」
「まだ十五歳ですもの。なさりようが稚拙だったのは、無理もありませんわ」
 セルジュに命じて彼女を誘惑させようという、とんでもない王女のたくらみを後で聞かされても、ミルドレッドは呆れこそすれ、怒る気にはなれなかった。
「ついでに、セルジュをさんざん振り回して、とことん嫌われれば、この偽りの政略結婚はこっちから破談にしてくれると踏んでいたのかもしれない」
「まあ、どこかの誰かさんとそっくり」
 エドゥアールも、ミルドレッドと最初に会った王宮舞踏会で、嫌われたい一心で、それはそれは不作法にふるまったのだった。その結果、かえって相手が彼に心奪われてしまうことになるとも知らず。
 きっとリンド候も、それとまったく同じ道をたどったのだろう。
「侯爵さまは、ヒルデガルトさまを心から案じていらっしゃる様子に見受けられました。察するに、姫さまのことがすっかりお気に召したのだと思いますわ」
「セルジュが? まさか」
 エドゥアールは、「ああ」とうめいて、頭の後ろで両手を組んだ。「しまった、そういうことか。そんなら、もっと存分にからかっておけばよかった」
「王妃さまはすべてを見抜いておられたのですわ。最初から、おふたりはきっとお似合いのご夫婦になると予言なさっておられましたもの」
「ひねくれ具合がそっくりだもんな。たぶんセルジュのほうが、さらに二巻きくらい余分にひねくれてるけど」
「でも、心配です」
 ミルドレッドは、形の良い薄茶色の眉をひそめた。「今回のことでユルギスとクラインとの関係が悪くなり、破談になったりはしないのですか」
「ああ、それは大丈夫だと思うよ」
 エドゥアールは、馬車がガタンと揺れた拍子に楽しげに妻の肩を抱き寄せた。「セルジュが本気になったら、どうなるか。まあ見ててごらんよ」


 ヒルデガルトは洞窟のホールの隅で、片膝を立ててうずくまるという、王女にあるまじき格好で座っていた。
 壁面のろうそくの揺れる光を瞬きもせずに見つめていると、涙がにじんでくるような錯覚に陥る。
「こんなところに、いらしたのですか」
 あわてて目をこすると、彼女は振り返りもせずに怒ったように言った。「いつからわかってたの」
「姉君とアレクセイ王太子との縁談のことですか?」
 声の主は彼女のかたわらに胡坐をかき、小さい笑い声を漏らした。「我が国も馬鹿ではありません。昨晩遅く、貴国に送りこんでいた密偵から報告がありました。もちろんラヴァレ伯も知っています」
「なのに、なぜあなたは、わたくしの計略に乗ったふりをしたの」
「あなたの必死なご様子が面白かったもので、つい」
「ゆうべ伯爵夫人とは、どこで何をしていたわけ?」
「ああ、あれはれっきとした商談です。地下のワイン蔵に行き、最上級のワインを樽買いして、伯爵家の財産となさるようにと勧めていました。肩にさえ触れていませんよ」
 ヒルデガルトは隣に座っている男に、キッと憤怒の視線を浴びせた。
「……この、詐欺師!」
「お誉めのことばを、どうも」
 そう言って笑うリンド侯爵の横顔は、小憎らしいほど穏やかで、王女の口から出ようとした罵声は、たちまちにして飲み込まれてしまった。
「は――初めから、だましていたのね。あなたはラヴァレ伯のことを本心から嫌ってると思っていた。だから、ふたりの間に亀裂を入れてやろうとしたのに」
「確かに嫌いですよ、あいつのことは。けれど」
 セルジュは、口の中でしばらく言葉をころがした。「それでもあの男は、わたしにとって無二の友なのです」
 ヒルデガルトはしばらく息をつめていたが、深い溜息を吐いて身を起こした。
「負けたわ。明日、ユルギスに帰ります。あなたとの縁談は、これでおしまい。穀物交渉も軍事協定も、担当者と勝手にやってちょうだい」
「では、あきらめると? 尻尾を巻いて退散なさると? それでよいのですか」
「良いも悪いも」
 ヒルデガルトは、苦く笑った。「あなたもどうせ、わたくしに用はないでしょう。それに、わたくしだって、こんな肥だめ臭い文化後進国には一日だって、いたく――」
 王女は、「ひっ」とひきつったような声を上げた。
 セルジュが後ろから、彼女の体をふわりと抱きしめたからだ。
「申し上げたはずです。わたしが女性を狙って仕損じることなどありえない、と。あなたとて例外ではありません」
「や、やめなさい。わたくしはもう、あなたの国にとって何の利用価値もないのよ」
 悪ぶれば悪ぶるほど、素直で愛らしく、そして臆病な本性が透けて見えているというのに。
 震えている体を向き直らせ、いまや髪の毛よりも赤い野イチゴ色に染まった王女のすべらかな頬を、セルジュは手のひらにそっと包みこんだ。
「わたしは、価値のないものに興味など持ちませんよ。何のために、長々とあなたのお遊びに付き合ってやったと思ってるんです?」
 頬にあてた指にほんの少し力を込めると、少女のふっくらとした唇が、あえぐように開いた。
「二年、いや一年お待ちください。ユルギスとカルスタンとの軍事同盟は、わたしがエドゥアールとともに全力で阻止します。そのあと、晴れてあなたをお迎えにまいりますので」
「迎えに?」
「花嫁として」
「うそ……」
「嘘ではない」
 じれったさのあまり、ついにセルジュも仮面を脱ぎ捨てた。「それとも、言葉だけでは証拠として不足か?」

 証印がわりに押された、たっぷりと濃密なキスを、ヒルデガルトは国へ帰った後も、片時も忘れることはできなかった。




    第三話 「公子の縁談」終わり 

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