3. 公子の縁談
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リンド侯爵領は、王都ナヴィルの北東の山あいに広がる広大な荘園だ。
温暖でありながら、夏は暑い西風を斜面がさえぎり、山からひたひたと降りてくる霧が土地を冷たく潤す。
砂まじりの土は水はけがよく、まるでブドウ栽培のためにあるような土地だと言われる。事実、良質の赤ワインが生まれる産地として、リンドの名は大陸じゅうに知られている。
豊かなクラインの中でも最も恵まれたこの土地は、古くから征服民族のあいだで争いの種だった。
かつては、『リンドの赤ワインの濃いルビー色は、血がまじっているのだ』と、貧しい民衆たちは戯れ歌に歌ったものだ。
その所有権争いに終止符が打たれ、リンド侯領が正式にアルフォンス家に与えられたのは、父エルヴェが生まれた六十年前だ。
当時の国王ミシェル四世が、日の光の下では決して『わが子』と呼ぶことができない不義の息子のために、前もって落ち着く先と豊かな富を準備していたのだとしたら、なんと罪深い、しかし悲しい親心であろう。
セルジュは幼いころから、ここの静謐で澄みわたった空気と、王宮に負けぬ気品を備えた領館を愛していた。周囲の下品な取り巻きたちに愛想を尽かし、あるいは父の期待に押しつぶされそうになったとき、領館の地下に一生閉じこもり、暗闇の住人になってしまいたいと幾度願ったかわからない。
「ヒルデガルトさま、どうぞ」
階段の途中で、ユルギスの年若い第二王女に手を差し出した。ひんやりした微風が地下から吹き上げて、彼女の陶器のように白い肌や野イチゴ色の金髪をなぶるのを見たとき、ぞくりと腹の奥が騒ぐのを感じる。
それは、自分と同じ種族、暗闇の似合う女性を見つけた歓びだったのかもしれない。
「こんなところで、ラヴァレ伯爵と対決するの?」
「相手は、無駄に明るい男ですからね。暗い場所がちょうどいい」
領館の地下は、広い洞窟になっている。そこからトンネルが掘られ、いくつもの小部屋につながっている。夏も冬も、洞窟の中の気温と湿度はほとんど一定で、乾燥した心地よい空気が静かに循環している。そしてそのいずれの部屋にも、年代ごとに並べられたワインの樽が、静かに時を刻みながら眠っているのだ。
「すごいのね」
ヒルデガルトは、素っ気なく感想を述べた。
「わがアルフォンス家の富の半分が、国内外に輸出するワインからの収入です」
「金持ちね。もしかして、ここにあるワインだけで王室の財産を軽く超えてる?」
「おそらくは」
「いっそのこと国王になりたいと思わないの。あなたも王族のひとりなんでしょう」
セルジュは鼻であしらうように微笑んだ。「もしそうならば、わたしとの結婚を真剣に考えるお気持ちになりましたか?」
王女は返事をせずに、つんと顔をそむけて樽のラベルを読み始めた。
上がにわかに騒がしくなった。執事が告げに来るまでもなく、エドゥアールの一行が領館に到着したことはすぐに知れた。どこであろうと、彼の回りは騒々しいほどにぎやかになる。
勢いよく階段を駆け降りる音がして、エドゥアールが低い入口にひょいと頭を屈めながら現れた。
空色の瞳と、陽光のような金髪。確かに彼の存在するところに、闇は存在しない。
「うわっ。すげえ。最高級のリンド・ワインがずらり」
「ここは初めてだったか」
「初めてだよ。うう、これなんか、樽ひとつでうちの伯領の年収に相当しそうな代物じゃねえか」
暗い貯蔵庫の中にひとわたり視線を走らせると、エドゥアールは奥に進み、正面のソファの賓客に頭を垂れた。
「おはようございます。殿下。昨晩はよくお眠りになれましたか」
「ええ、ありがとう、ラヴァレ伯」
「今日は、妻を伴ってきました。ミルドレッドといいます」
抑えた色合いの外出着を着た伯爵夫人が、前に進み出て深々と腰をかがめた。「お初にお目にかかります、殿下」
伯爵が太陽だとすれば、伯爵夫人はその陽を受けて輝く豊かな草原のようだ。頭の先から足元まで素早く検分すると、ヒルデガルトは愛らしく笑った。
「まあ、なんて美しい奥方さま。これからも親しいお付き合いをお願いしますね」
「もったいないお言葉、ありがとう存じます」
ヒルデガルトは他人の前では、相変わらず利発で慎ましやかな王女という仮面をかぶったままだ。セルジュはそれを眺めながら、笑いをこらえるのに苦労した。
「それで、どうなんだ」
エドゥアールが、こっそり彼の横にすり寄ってきて、ささやいた。
「どうとは?」
「こんなところに呼び出して。さては王女サマをモノにできたのかってことだよ」
「貴様の下品なことばは、さっぱり意味がわからぬ」
そもそも、昨夜急に思い立って、王都から馬車で一時間の侯爵領にエドゥアール夫妻を招いたのは、セルジュの発案だ。
『ねえ、わたくしたちふたりで、あの伯爵を手玉に取って、穀物交渉を思う方向に進めてみない?』
王女の稚拙な計画が、この狡猾な男に通用するとは期待していないが、エドゥアールとて万能ではない。予想外の出来事に、たとえわずかでも顔色を失わせることができれば、セルジュとしては少々の骨折りをしても損はないと思っている。
それに加えて、ヒルデガルトに同情する気持も、ないではなかった。
格下のクラインとの望まぬ縁談、易々と応じる父王の態度。それらを含めた一連のできごとに、王女は誇りをいたく傷つけられている。もし自分が彼女の立場なら、同じように立腹するだろう。
この大陸では長いあいだ、北の国々が文化的にも軍事的にも、南の国々より優位に立つ歴史が続いた。その一片の優越感が、北方民族には今も残っている。『田舎者、後進国』という南への侮蔑が、彼らの意識の底に根強くある。
差別される側の南方諸国も、さらにまた南の大陸の異教徒たちを差別するという愚をおかしている。
金髪の征服民族と、黒髪の被征服民族。北と南。貴族と平民。
人間というのは、どこまで行っても、他人をおとしめることでしか自分の価値を守れぬ生き物。エドゥアールの信じる『万人平等』など、しょせんは絵空事にすぎないのだと、セルジュは冷やかな人生観を抱いている。
侯爵家の使用人たちが、豪華な銀やガラスの食器を次々とささげもって階段を降りてきた。
本日の歓迎の昼餐は、この地下の洞窟で催すことにしてある。もともと中央の広いホールは、国内外のワイン買付け商人たちを招いて、試飲会を開くために使われる場所だ。
岩壁の下をくり抜いて作った溝には、蜀台がずらりと並べられ、淡く幻想的に洞窟全体を照らしだしている。
樽と同じ、樫素材の大テーブルには、当たり年の最高級ワインや熟成中の樽出しワインとともに、工夫をこらした肉やキノコ料理が饗された。素材を吟味し選びぬき、そのものの味わいを生かした料理が、ワインには一番合う。
セルジュもエドゥアールに負けず劣らず、舌の肥えた美食家なのだ。
ヒルデガルト姫は、光沢のある飴色のアフタヌーンドレスをまとっている。開いた胸元には、薄紅色の髪に差した飾りと揃いの大きなダイヤモンドをあしらい、十五歳とは思えぬ大人びた美貌で、男たちの目を釘づけにした。
対してラヴァレ伯爵夫人は、胸元を詰めた濃緑のベルベットで、明らかに質素な装いをこころがけている。それでも匂いたつような美しさは隠しようもない。
食事のあいだじゅう、ヒルデガルトとラヴァレ伯爵夫妻は、和やかな会話を交わした。ことに、王女とミルドレッドは女性同士で意気投合したらしく、話がはずむ。
――もちろん、打ち解けた様子はうわべだけだ。王女が彼女に敵対心を抱いているらしいことを、ミルドレッドはうすうす感じ取っていた。場の空気を敏感に読むわざは、伊達に「社交界の花」と呼ばれていたわけではない。
食後の冷菓とコーヒーが下げられると、代わりに明るいランプと、紙、ペンとインク壺が運び込まれた。
ユルギスの王女とクライン国のふたりの首席国務大臣は、今からここで正式な会談を持つことになっていた。
「大切な話だっていうから、王宮の記録係を連れてきたんだ。おおい、パトリス」
エドゥアールの声に応えて現れたのは、いつも大臣会議で汗まみれになりながら記録を取っている、文官の青年だった。
パトリスはこのところ、記録に漏れが多いと指摘され、ひどく落ち込んでいる。
プレンヌ公が首席大臣だったときは、大臣会議は決まりきったことしか話し合われない、退屈な場だった。しかし、大臣の顔ぶれが一新し、ティボー公を除く全員が頭の回転の速い若者ばかりとなってしまった今、議事進行が速すぎて、全員の発言を誤りなく書き取ることは至難のわざだった。
エドゥアールは、彼の苦境をひそかに心配している。会議が十五分を過ぎたあたりで話を思わぬ方向に脱線させるのも、記録係の集中力が切れるころを見計らって、わざとやっているのだ。
このごろは、政治の舞台となる現場にあちこち彼を連れ歩いて、当事者たちの話を書き取らせることまでしている。
さて、ほかの全員が地下のホールから退出していくと、文官パトリスはテーブルのかたわらに座って紙とペンを持ち、固唾を飲んで三人の口元を見つめた。
「で、話っていうのは?」
エドゥアールはゆったりと椅子に背を預けながら、セルジュを見た。
「今日の会談は、わたくしがリンド候にお願いいたしました」
ヒルデガルトは鈴のころがるような声で答えると、テーブルの上に一通の書状を置いた。「父王が、わたくしにくださった委任状です。次の穀物交渉会議の準備段階として、わたくしがユルギスを代表して取り決めを行なう権限を与えられました。……中身を検められますか?」
もちろん、はったりだ。委任状などというものは存在しない。
「いえ、けっこうです」
エドゥアールは首を振った。「あなたのおことばを疑う理由はありません、殿下」
「では話を先に進めましょう」
「よろしければ、セルジュも俺も、ユルギス語を使うこともできますが」
「けっこうよ。わたくしもクライン語を、母国語と同様に話す自信があります」
(思ったよりも、やるではないか。この猫かぶり姫は)
セルジュは無表情を装いながら、内心ひどく面白がって眺めている。
唇をすばやく湿すと、王女はもったいぶった仕草で、一枚の紙を出した。
「ここへ来る前に、クラインの小麦相場を調べてきました。ここ数年、クライン国内の小麦は1シェルあたり30ソルドから35ソルドで推移しています。ところが、前回の穀物交渉では、あなたはいきなり、ユルギスへの売り渡し価格を40ソルドに値上げした。そうですわね?」
エドゥアールは隣に座っているセルジュをちらりと横目で見て、それから向き直って微笑んだ。「そうです」
「去年の収穫量は、小麦・大麦とも良好だと聞いています。突然にこれほど大きな値上げするのは、あまりにも横暴で、不当ではありませんか」
「来年の小麦相場は、それだけ上がるからです」
「なぜ、収穫もまだだというのに、来年のことがわかるのですか」
「来年は、小麦に対するクラインの国内需要が一割から二割ほど伸びると予測しています」
「需要が伸びる?」
解せないという顔をして、ヒルデガルトはほっそりした手で椅子の両腕をきゅっとつかんだ。「どうしてです。クラインの人口が急に増えるわけでもないでしょうに」
エドゥアールは、出来の悪い生徒を教える家庭教師のような辛抱強い口調になった。
「人口が増えなくても、需要は伸びます。クラインは近年、おおがかりな税制改革をしました。貴族に流れていた数々の税や特権を廃止して、一般市民がうるおうようにしたのです。その結果、商人や農民のあいだに富裕な中産階級が生まれつつある。生活にゆとりができたとき、真っ先に人々は何を願うと思いますか?」
ヒルデガルト姫は、むっとした様子で答えた。「わかりませんわ」
「うまいパンが食べたくなるんですよ。今までふすま混じりのパンや大麦入りのパンを食べていた貧しい人たちが、祝祭の日に限らず毎日、製粉した白くて柔らかい小麦のパンを食べられるようになる。……俺は逆に、固いふすま入りのパンが無性に食いたくなるんだけどなあ」
「では、民衆が豊かになったので小麦の需要が増え、価格が上がると」
「そのとおりです。その分、大麦は横ばいになるはずです」
「それがわかっているなら、中産層からもっと税金を取ればよいのではなくて? 小麦を買うゆとりがなくなるし、国庫もうるおいますわ」
「ずいぶん大胆なおっしゃりようですが、そんなことをすれば、ほかの産業が困ったことになります。クライン特産のチーズもワインも、同じく税収で国庫をうるおすものですが、今や購買層は、貴族から平民に移りつつあるんですよ」
エドゥアールは、茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。「ワインで大きな収益を上げている未来の旦那さまも、それには決して賛成してくれないでしょう」
王女は答えず、不機嫌な調子で続けた。
「でも、もしわたくしがリンド侯爵のもとに嫁げば、ユルギスへ輸出する小麦は今の相場のままで据え置くと?」
ラヴァレ伯爵は、ゆっくりとうなずいた。
「正確には、ユルギスと安全保障条約を結ぶことが条件です。両国が強い同盟関係を結べば、わが国は他国の侵略を恐れることなく、無用な軍事費を抑えることができる。その分を見返りとして、小麦のユルギスへの売り渡し価格を据え置いてさしあげる。第二王女であられるあなたが、わが国にお輿入れになることによって、同盟成立の証しとする」
「……裏切ったら即座に殺す人質として?」
ヒルデガルトの緑の眼の奥にチロチロと、怒りの炎がきらめいている。エドゥアールはにっこりと、なだめるような笑みを浮かべた。
「中世ならともかく、そういう被害妄想めいた考えは、お体に毒ですよ。殿下」
「クラインの戦乱に明け暮れた歴史を見れば、そう考えたくもなるわ」
エドゥアールは、それを聞いて真顔になり、短い息を吐いた。
「戦乱に明け暮れたからこそ、もう二度と槍や剣を持ちたくはないのです」
そのことばの鋭さに、王女ははっと身をこわばらせた。
「小麦は、われわれクラインの最大の武器です。たとえ剣のような刃がなくとも、他の強国と対等に渡り合うための戦力なのです。この穀物交渉は、俺たちにとって戦争と同じ重みを持つ。おそれながら殿下のような、いとけなき御方が首を突っ込んでよい場ではありません」
エドゥアールは時計を見た。「ほかに何かご質問は?」
「……ありません」
「それでは、いったん終わりにしましょう」
伯爵は立ち上がると、盟友にむかって笑顔を浮かべた。「この、売国奴」
王女に知恵をさずけたのがセルジュであることが、すでにバレている。
「あ、パトリス、今の最後の失言は、記録から削除な」
エドゥアールは「それでは」と一礼してホールから出ていき、記録係もあたふたと紙と筆記用具をまとめて後を追う。
唇を噛みしめて悔しがる王女の横顔を見て、セルジュは肩をすくめた。
「だから、申し上げたでしょう。あいつにかかれば、あなたなど簡単に丸めこまれてしまうと」
「……イヤな奴」
「それについては、まったく同感です」
「なんとか、取引の材料を得たいわ。あいつの弱みを握ることはできないの?」
「弱み?」
セルジュは喉の奥を、クッと鳴らした。
「そう簡単に弱みが見つかれば、わたしも苦労はしません」
「ふふ、やっぱり」
ヒルデガルトは、ときおり見せる、愛らしい口元の片側をゆがめるような笑みを浮かべた。「やはり、あなたはラヴァレ伯が嫌いなのでしょう。いいえ、殺したいくらい憎んでいる」
「憎む?」
セルジュは頬杖をついたまま、じっと王女の挑発的な瞳から目を逸らさなかった。
「そんなはずはないでしょう。わたしたちふたりは、クラインの正副首席大臣ですよ」
「でも彼さえいなければ、あなたがこの国を思うままにできるわ。彼はあなたの目の上のたんこぶ。そうでしょう?」
王女は立ち上がり、尊大に腕を組んだ。その拍子に、ドレスから覗く胸元がひときわ成熟した丸みを帯びる。
「だって、わたくしがあなたなら、ああいう男は大っ嫌い。なれなれしくて、誰にでも好かれていると思いこんで、世の中は自分中心に回っていると思いこんでいるような人間は」
セルジュは、背筋にぞくっとするような痺れを覚えた。
ヒルデガルトにまたひとつ、自分との共通点を見出したのだ。
常に一番であることを自らに課し、余裕たっぷりな外見の裏では、自分より優れた者に打ち負かされることをひどく恐れている。
そして、そういう葛藤に全く無縁な人間――たとえば、エドゥアールのような、何にも囚われない自由闊達な人間を、本能的に疎むのだ。
暗い鏡の奥を覗きこみ、自分の鏡像と向き合うような恐怖と快感。
「だとしたら、どうだというんです」
王女は、ふんと鼻を鳴らした。
「わたくしは、この国に嫁ぐことなく、穀物交渉を我が国に有利に導きたい。あなたは、あの目ざわりな男を失脚させて、すべての権力を我がものとすればいい」
「なるほど。それで?」
「彼の弱みは、奥方だと思うわ」
「伯爵夫人?」
「ミルドレッドを誘惑しちゃいなさいな。自分の領館の中でなら、どうにでもなるでしょ」
――ああ、なるほど。
「そういうことですか」
「キスでも抱擁でも、とにかく既成事実を作って、伯爵に奥方を疑うよう仕向ければいいのよ。あなたほどの男なら、女性を狙って仕損じることなんてありえないでしょう?」
「確かに、ありえませんね」
セルジュは目を細め、見る者が凍りつくほど残酷で美しい笑みを浮かべた。
(4)につづく
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