伯爵家の秘密/番外編


3. 公子の縁談



(2)

 王の庭に招じ入れられたリンド侯爵セルジュ・ダルフォンスは、夜半の雨に濡れたみずみずしい芝生を踏みながら、まっすぐに国王のあずまやに向かった。
 予想どおり、陛下ご夫妻とともにお茶を飲んでいたのは、エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵だ。
「フォーレ領より、ただいま戻りました」
 セルジュはまず、国王フレデリク三世に向かって膝を屈め、ついでテレーズ王妃、さらに侍女たちに見守られて這い這いをしているシャルル王子に向かって、丁寧に頭を垂れた。
 そのふるまいは、かつて次代の王と目されていたころに比べれば控え目だが、優雅で自信にあふれた挙措は、国王一家を前にしてもなんら変わることはない。
「居館に着いてすぐ陛下のご召喚を知り、着替えずにあわてて参じました。お見苦しい姿で失礼いたします」
 と言いながら、座ったままのラヴァレ伯爵にちらりと視線を投げた。
 エドゥアールは国王の甥とは言え、身分は伯爵。侯爵であるセルジュのほうが位は上だ。挨拶のときは立ち上がって敬意を表して然るべきだが、もちろん、この男にそんな殊勝な心がけは存在しない。
 エドゥアールの口元に浮かぶ意味ありげな笑みを見て、セルジュは吐息をついた。
「とんだ悪だくみの場に来合わせてしまったようだな」
「人聞きが悪い。誰のために苦労して走り回ってたと思ってる」
「例の話のことで来てもらったのですよ」
 テレーズ王妃が晴れやかな笑みで、けんか腰のふたりの若者の話を引き取った。
「まず良い知らせです。ヒルデガルト王女が、今日にもクラインに向けてお発ちになるそうです」
 セルジュは軽く目を見張った。「それは……ずいぶんお早い」
「善は急げと申しますでしょう。お父君のクリストフ陛下も兄君の王太子殿下も、たいそう乗り気でいらっしゃるということです」
(それはそうだろう。この縁組には、これからの穀物交渉での大幅な譲歩がかかっているのだからな)
 心の中で舌打ちしたことは、おくびにも出さず、セルジュはうなずいた。「承知しました。それではさっそく、もてなしの準備を整えさせましょう」
「よろしくお願いします。わたくしが最後にお会いしたのは王女が九歳のときですが、美しさは言うに及ばず、ほんとうに心根の素直な、賢い姫君でした。きっとあなたとは、お似合いの夫婦になると思います」
「おそれいります」
 王妃の出身国であるアルバキアは、古くからユルギスの王室とつながりが深い。クラインに嫁するまでテレーズは、ユルギスの世界的に有名な王立音楽祭に出席するために、毎年夏に訪問するのが常だったという。
 ヒルデガルト王女のことも幼いときからご存じだ。今度の縁談の影の立役者は、実はテレーズ王妃であるというのが、もっぱらの噂だった。
 フレデリク王はそっぽを向いて、這ってきたシャルル王子を抱き上げて、膝に乗せた。今の国王にとって最大の関心事は、幼い王子がいつ歩き出すかということなのだろう。
 わずか数年前までは、この世の何に対しても、どんよりと濁った無関心の眼差しを向けてきた王であるのに、変われば変わるものだとセルジュは思った。
「それでは、一度居館に戻って着替えてまいります」
 国王一家の前を辞去すると、ラヴァレ伯爵もぴったりと後ろについてきた。
「フォーレはどうだった?」
「別にどうということはない。みな元気だ」
「そいつはよかった」
「子爵夫人とオルガが、よく父の面倒を見てくれている。まるで家族のようだった」
「まるでって、本当に家族じゃないか」
 エドゥアールは、ごく当然のこととばかりに、さらりと言ってのけた。
 すべてはこいつのせいだ、と思う。エドゥアールの持つ得体のしれない影響力によって、貴族社会が大きく変わっていこうとしている。市井の庶民のような家族の団らん。大望を持たず、小じんまりとした幸せを善しとする社会。国王だけではなく、敵であったはずの父までもが、いつのまにか感化を受けてしまった。
 平民とは違う特別な人間であるはずの自分が、妻と寄り添い、子どもを膝に乗せている姿など、セルジュにとって想像したくもない光景だった。
 一片の気恥ずかしさと、わけのわからぬ苛立ちを内心もてあそんでいたセルジュに対して、
「それが理由か。なんだか今日のおまえは、フォーレに行く前よりも険が取れて、顔がやさしくなったような気がするんだ」
 神経を逆なでするかのように、エドゥアールは続けた。
「なんだか目に浮かぶようだな。ヒルデガルト王女と寄り添って、生まれた赤ん坊を膝に乗せてる、おまえの姿が」
「……」
 この男は、さだめし悪魔にちがいない。


 若者ふたりが立ち去った頃合いを見計らって、国王フレデリクは愛息を胸に抱いて立ち上がった。
「本当に、これでよかったのか」
「あら、『余は、こんな企みには絶対に関わらぬぞ』と大いばりで宣言なさいましたのに」
 王妃は、コロコロと楽しげな笑い声をあげた。「やはり、ご心配でいらっしゃいますのね」
「心配などしておらぬ。ただ、そなたの話を聞けば聞くほど、ユルギスの王女とセルジュは同じ穴のむじな。どんなに策を練ろうと、うまく行くはずがないと余には見えるのだが」
「それは、失礼ながら殿方のご浅慮というものですわ。女というものは古来から海にたとえられますのよ」
「広い包容力があるという意味か」
「いったん捕らえられたら、じたばたしても無駄ということですわ」


 翌日の朝、大臣会議のさなかに、リンド侯爵とラヴァレ伯爵はともに謁見の大広間に呼び出された。
「なんだろうな」
 会議の中断を命ずる緊急の召しとあって、エドゥアールの声にも事態をいぶかる響きが混じる。
 衛兵がうやうやしく両側から広間の扉を開け、ふたりは中に入った。
「え……?」
 そこには、見なれぬ鮮やかな色彩があった。
 玉座にはいつものフレデリク国王の黄金の髪、テレーズ王妃の砂色の髪の他に、もうひとつの色の髪の持ち主が座っていたのだ。
 俗に『野いちごの金髪』と呼ばれる、赤みがかった金髪。
「ユルギス王国の第二王女殿下、ヒルデガルトさまにあらせられます」
 侍従長のギョームが、おごそかな調子で呼ばわった。
「ええっ」
 ありえない名前に狼狽したふたりの貴公子は、あわてて絨毯に膝をついた。
「わたくしたちも、ひどく驚いたのですよ」
 テレーズ王妃が、玉座の椅子でゆったりと微笑む。「こんなに早くお着きになるなんて。なんでも、こちらの使者が着いたその日のうちに馬で発たれたのだそうです」
 馬車を使わずに、馬で。
 ユルギスとの国境には高い山脈が横たわっている。いくら気候のよい時季とは言え、馬での夜駆けは相当な強行軍であるはずだ。普通であれば、王族の姫君とあろう御方がなさることではない。
(これは――とてつもなく行動派の姫君らしい)
 セルジュはそっと顔を上げ、非礼にならぬように彼女を観察した。
 焦げ茶色の燕尾のすそのコートに、なめし皮で仕立てた乗馬ズボン。腰には鞭と狩猟用の短剣を差している。
 長い薄紅色の髪は飾り気のない髪留めで結いあげられ、唇は微笑をたたえて優美な弧を描く。同じ十五歳と言っても、セルジュの義妹のオルガとは比べ物にならないほど、すらりと大人びた体つきだった。
 深緑色のつぶらな瞳は、小鳥さながらの愛らしさでありながら、恥じらうことなく、強くまっすぐに配偶者候補の男を見据えていた。
「はやる心を抑えることができず、突然の訪問となり、驚かせてしまいました。リンド侯爵」
 やや見た目の印象よりも声は幼いが、命ずることに慣れた、落ち着いた物言いだ。
「とんでもございません。これほど早くお会いできたのは望外の喜びと存じます。殿下」
 セルジュも非の打ちどころのない儀礼で答えた。
 こくりとうなずいた王女は、今度はエドゥアールに視線を移した。「……して、隣の御方は?」
「エドゥアール・ド・ラヴァレと申します、姫さま」
 見ようによっては無礼ともとれる余裕しゃくしゃくの態度で、しかも気品を決して失わないのが、いつものエドゥアールの所作だった。
「セルジュの無二の親友と自負しています。以後、お見知り置きを」
「まあ、あなたが、あの有名なラヴァレ伯爵ですのね」
 面白がっている響きが、ヒルデガルトの声に混じる。先ほどとは違う、舌足らずで甘い声だった。
「へえ、俺、ユルギスでも有名なんだ」
「娼館で育ち、海賊船に乗り組んだ王族など、世界広しと言えど、おまえしかおらぬからな」
 と軽口を返しながらも、王女が自分よりもエドゥアールに親しみを持っているらしいことが、セルジュとしては、やや面白くない。
「ヒルデ、そろそろこのへんで」
 と王妃が頃合いを見計らったところで、立ち上がった。
「今夜は歓迎の大晩餐会を催します。長旅でお疲れでしょうから、それまでお部屋でゆっくりおやすみなさい」
「御心づかい、いたみいります、王妃さま。それでは陛下。みなさま。失礼いたします」
 お辞儀をした拍子に、横に流した長い前髪がさらりと落ちた。ドレスを着ているのかと錯覚させる優雅な仕草で、乗馬服の王女はひな壇を降りた。
 侍従長が一礼して、賓客を案内しようと先立ったとき、今まで黙然と座っていたフレデリク王が突然「ギョーム」と声を上げた。
「そなたに急ぎの相談がある。こちらに参れ」
「は、かしこまりました。しかし恐れながら……」
「姫の案内役は、そうだな、リンド候、許婚であるそなたに任せる。東の客間に案内せよ」
「承知いたしました」
 あからさまに芝居じみたやりとりに、セルジュは脱力しそうなのをこらえた。ユルギスの王女は黙って、侍女たちとともに後についてきた。
 視線を合わせれば「がんばれよ」と言いかねないエドゥアールのほうは決して見ないようにして、広間を出る。扉を閉めたとたんに、奥で笑い声があがるような気さえした。
 屋根つきの廊下を抜けるとき、ヒルデガルト姫はふと立ち止まり、ひさし越しに東の庭に目をやった。
 冬よりずっと明るさを増した春の陽射しに照らし出された庭は、すべてが輝いているように見えた。三色スミレやプリムラを従者のように従えて、微風に揺れているのは、アルバキアの国花である深紅のカーネーションと、クラインの国花である珊瑚色のバラだった。
 かつて、テレーズ王妃がこの国に嫁いできたときカーネーションの種を持ち来て、両国の友好を願って手ずから植えたという逸話は、今では下町の子どもでも諳んじられるほど有名だ。
「美しい王宮ですわ」
「なれど、ユルギスのブロイエ湖畔の離宮の美しさには及ぶべくもありません」
 王女は振り向いて、セルジュの整った顔をじっと見つめた。「まあ、あなたは夏の離宮にいらしたことがあるの?」
「昔のことになりますが、王立音楽祭に出かけたことがあります」
「そうでしたの。では、わたくし、あなたにどこかでお会いしているかもしれませんね」
「わたしが十歳のときです。姫はまだ乳母に抱かれておいででしたでしょう」
「わたくしたちは、それほど歳が開いているのですか」
「おおよそ六歳ほどでございます、殿下」
「いい加減に、その畏まった言葉づかいはやめてください。これでは親しく打ち解けることもできませんわ」
(あなたと打ち解け合うことなど、生涯ありえない)
 心の中でセルジュはつぶやいたが、口では穏やかな声で答えた、「わかりました。努力してみます」
 東の客間は、国賓として招かれた外国の王族のための部屋だ。三部屋続きでアーチ天井が高く、壁という壁は絢爛たる金箔細工が施され、明るく大きな東向きの窓からは、美しい庭園をさえぎるものなく見渡すことができる。
 さらに、その遠景には、クライン王国の誇る美しい田園地帯が広がっている。今日は、紫にけぶる山々にいたるまで手の中に収められるかのように、くっきりと空気が澄みわたっていた。
「あの大きな河はなんという名前でしょうか」
「ラロッシュ河です。その対岸に広がる緑のブドウ畑一帯が、わたしの治めるリンド候領です」
「実り多い豊かな土地ですわ。いつまでも、うっとりと眺めていたいほど」
 身の回りの世話をしようと立っている侍女たちを手振りで下がらせると、王女は恥ずかしそうに笑んだ。「でも座ります。さすがに疲れましたわ」
 セルジュは彼女の手をとり、精巧な綾織物を敷いた柔らかなソファに導いた。「夜までおくつろぎください。足りないものがあれば、この王宮の女官たちをお呼びくだされば、いつでも御用をうかがいます」
 そして退出の礼をしたが、返事はなかった。
 頭を上げたセルジュは、驚天動地とはこのことか、というほどの驚きを味わう。
「あーあ。疲れちゃった」
 可憐な姫君が、こともあろうに、ソファにブーツのまま足を投げ出したのだ。「ちょっと。間抜け面して立ってないで、これ脱がせなさい。一日じゅう馬に乗って、ふくらはぎがパンパンだわ」
 信じられないというのとは、少し違う。会ったときから、何とはなしに感じてはいた。――この王女は本性を隠していると。
 幼いときから、腹に一物を抱く多くの人間を見てきた彼ならではの、直感のようなものだった。
「ほんとに、やっていられないわ。こんな肥だめくさい文化後進国にやられて、六歳も年上の男と結婚させられるなんて」
 セルジュは、抑えようとしても、顔が自然に笑み崩れるのを感じた。
「何がおかしいの」
「相当に猫をかぶっていらっしゃいましたな、第二王女殿下」
「ありがとう。演技にだけは自信あるのよ」
「王妃さまは、あなたのことを心根の素直な姫と誉めちぎっておられましたが、完璧に騙されていたわけだ」
 ヒルデガルトは、むくれたように唇をぎゅっと結び、ふんと顔をそらした。「最後に会ったのは、もう七年も前よ。人が変わるには十分な時間だわ」
「確かに」
「第二王女なんて、本当につまんない。姉上のようにちやほやされるわけでもなく、兄上や弟のように国の役に立つわけでもなし。せいぜい田舎貴族と政略結婚して、穀物を安く買い叩く手伝いをさせられるのが関の山よ」
 セルジュはますます笑い出したい衝動に駆られ、咳ばらいをした。
 あらためて、王女を観察する。なるほど、よく見れば、深い色の瞳の底には、狡猾や欺瞞や、ありとあらゆるびっくり箱の中身がひそんでいそうだ。
「では、なぜわたしだけには、本当の姿を見せたのです」
 彼女は、その問いに、ふっくらとした薄紅色の唇を、にっと引き上げた。「あなたも、わたくしと同じ匂いがするからよ」
「同じ匂い?」
「猫をかぶっているのは、あなたも同じでしょう。隠しても無駄よ」
「なるほど」
 侯爵は、つかつかとソファに歩み寄った。
「何よ、怒ったの?」
「親しく打ち解けろと言ったのは、あなたでしたが」
「あんなの、うそに決まってるでしょう」
 次の句を言う前に、セルジュはヒルデガルトの小さな顎をくいと長い指でつかんだ。
「無礼者、気安くさわらないで!」
 平手で叩こうとする少女をかわして立ち上がり、しげしげと観察する。意外にも王女は、耳たぶまで真っ赤になっていた。強がっても、さすがに異性に対する免疫はないらしい。
「で、いったい何が望みです」
 不思議な胸の高鳴りを覚えながら、セルジュは問うた。「ことと次第によっては、ご協力できるやもしれません」
「この縁談をつぶしてほしいの。どうせ嫁ぐなら、せめて北方の文明国がいいわ。クラインなんて田舎はいや」
「それは、できない相談です」
 にべもなく答えた。「あなたとわたしの結婚には、両国の命運がかかっています。下手に破談になれば、我が国はお父君のお怒りを買ってしまうことになる。安全保障のうえでも、絶対にそれは避けねばなりません」
「あなたは、どう思ってるの。わたくしとの結婚を」
「愚問ですね。政治以外のことは、わたしにはまったく無意味です」
「だったら、わたくしと手を結びましょう」
 小悪魔めいた笑みを浮かべながら、ヒルデガルトはゆったりとソファに背を預けた。「わたくしたちが結婚しなくとも、要は穀物交渉が、とどこおりなく進めばよいのでしょう。もちろん、あなたがたにも損にならない程度に」
「簡単におっしゃいますが、両国の利害は完全に対立している。そうすぐに妥協点が見いだせるとは思いません」
「最大の障害は何?」
 セルジュは拳を顎に当てて、考え込んだ。「ひとりの男です」
「誰?」
「先ほど会われたラヴァレ伯爵です。農業担当で、この穀物交渉の最高責任者です。地獄の番人のように目端が利く。あなたの手に負える相手ではありませんね」
「わたくしひとりなら、じゃないの?」
「え?」
「ねえ、わたくしたち」
 ヒルデガルトは猫のようにしなやかに、両手をついてソファから身を乗り出した。差した影の中で緑の目がキラリと光った。「ふたりで、あの伯爵を手玉に取って、穀物交渉を思う方向に進めさせてみない?」
   そのときはまだ、セルジュは自分があっさりと、小娘の申し出を承諾するとは思っていなかった。
   この二十二歳の貴公子は、うわっつらだけの嘘つき姫君に自分が完全に心を奪われていることを、まったく自覚していなかったのだ。




      (3)につづく

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