伯爵家の秘密/番外編


3. 公子の縁談



(1)

「結婚してくれ」
 真剣な眼差しで切り出したラヴァレ伯爵に、さも迷惑げにリンド侯爵は秀眉をひそめた。
「おまえと、か?」
「うーん、その答えはさすがにクライン語の文法上無理があるし、第一、気持悪いことこのうえない」
「では、今さら誰との縁談だ。おまえの奥方の叔母上には、掃いて捨てるほど紹介状を持ち込まれているし、これ以上また紙の山を増やすつもりはない」
「へえ、ヴェロニク叔母さんも頑張ってるんだな」
「お節介が無上の喜びと見える。さすがに、おまえの姻戚だ」
 国王臨席の月例会議は、最初のうちは、ごく真面目に行われていた。
 穀物の前年度の生産高に続いて、王都の再開発について意見を交わしたあと、セルジュのまとめてきた膨大な産業振興法案について激論が交わされ、あまりの白熱ぶりに記録係の文官が、書きとれずに油汗を流すほどだった。それがいきなり前触れなしに、聞いているほうが脱力するような、この与太話だ。
「とにかく一度会ってみろよ。いい子だから」
「断る。そんなに良い娘なら、自分で結婚すればいいだろう」
「あいにく、俺もう妻帯者だし」
「内緒にしておいてやる。奥方に秘密を持つのは男のロマンだぞ」
「うわ。そういうよこしまな考えを俺に吹きこむな。耳が汚れる。記録係。今のやりとりは消しとけよ」
 真面目な表情で言い合う正副ふたりの首席大臣たちに、メシエ子爵とファロ男爵はおろおろしているし、ティボー公爵は笑いが止まらず、国王フレデリク三世は呆れ返って、そっぽを向いている。
「そんなに結婚はいやか」
 エドゥアールは、会議室の豪奢な椅子に背をあずけると、ふーっと大きなため息をついて天井を仰いだ。
「相手はユルギス王国の第二王女、ヒルデガルトさま。御年15歳」
「ユルギス?」
 セルジュの蒼色の瞳が、ようやく興味を覚えたとばかりに光った。「なるほどな。そういうことか」
「あたりまえだろ。ここは大臣会議の席。純粋な政治の話だ」
 盟友がにわかに身を乗り出してきたのを視界の隅で確かめたあと、エドゥアールは続けた。
「北方三国との関係は、これからますます重要になってくる。特にユルギスは、我が国にとって最大の小麦輸出先であり、穀物交渉でもめている矢先でもある」
「そうだな」
 セルジュはゆったりと足を組んだ。「カルスタンの動きを封じ込めるためにも、今のうちにユルギスと強固な同盟を結んでおくのは悪くない」
「決まりだな。それじゃ早速手はずを整えるぞ。まずは来月にも姫を非公式にクラインにご招待申しあげる。おまえの都合をあとで教えてくれ」
「そんな必要はない。そっちで適当に話を進めてくれ」
「今のうちに、キレイなご婦人がもれなくついている別宅は、きちんと整理しといたほうがいいぞ」
「人聞きの悪いことを言うな。記録係、今の発言は削除」
「そんじゃ、この話はそういうことで」
 会議室の大時計をちらりと見ると、進行役のエドゥアールは手元の書類の束を素早くめくった。
「では、王都東大通りの再開発と住民補償問題については、エリクが担当。ひとりじゃ大変だから、俺が補助に入る。産業振興法は今週中に草案を作成してセバスチャンが各部署に通達。ユルバンはミネア鉱山の採掘権争いの調停。セルジュは、来月の貴族会議用に陛下の演説原稿を準備。異論はないな。なければ、次の会議は三日後、同じ時間で」
 記録係がふたたび顔をひきつらせてペンを走らせる中、予定時間ぴったりに閉会が宣言された。
 一同起立して国王陛下の退席を見送ったあと、序列にしたがって首席国務大臣のセルジュが部屋を出た。
 廊下の隅では、ラヴァレ伯爵の近侍の騎士が、主を出迎えるために侍っていた。
「そう言えば、おまえも昨秋、妻を迎えたと聞いたが」
 セルジュが声をかけると、騎士は目を伏せたまま簡潔に「はい」と答えた。
「あの悪逆非道な主人の毒牙にかかった最初の犠牲者が、おまえというわけか」
「それでは、貴方も?」
「ああ、次の標的はどうやら、わたしらしい」
「お察し申し上げます」
「結婚とは、どんなものだ」
 ユベールは頭を持ち上げ、いつもの無表情に一滴の笑みを注いだ。
「申し上げても、お信じになれぬと存じます」
 そのとき、エドゥアールがほかの大臣たちと会議室から出てきた。大きく伸びをしながら、セルジュに近づく。「あー腹減った。さっさと飯食って、演説の草稿を片づけようぜ」
「悪いな。わたしはフォーレ領へ行かねばならぬ」
「今から?」
「ああ、次の会議までに戻ってくる。そのかわり草稿はあちらで仕上げておく」
 エドゥアールは、「へえ」とからかうような笑みを浮かべた。「おやじさんに、さっそく結婚の報告に行くのか?」
「たまには領地の様子を見に行こうと思いたっただけだ。……領主よりも足しげく、どこかの伯爵が入りびたっているらしいからな」
「ああ、アルマ婆さんがオルガに会いたがって、しかたないからさ」
 エドゥアールの育ての親でもある放浪民族の老婆は、セルジュの義妹オルガと仲が良い。しかも、今フォーレ領の一切を取りしきっている家令は、オルガの祖父でもあり、以前ラヴァレ伯爵家に二十年余り仕えていたオリヴィエという男だ。
 この入り組んだ関係が、遠慮というものを知らぬ男に、格好の遊び場を与えてしまったと見える。
「あ、そうだ」
 エドゥアールは、きれいに梳かしていた金色の髪に無造作に指をつっこみながら、バツの悪そうな顔になった。
「俺、フォーレの屋敷の壁に少し穴を開けちまった」
「穴?」
「悪かったな。まあ、たいした穴じゃないから気にするな。それより、親子水入らずで羽根を伸ばしてこいよ。政治のことは俺にまかせて」
「まかせられぬから、急いで立つと言っている。よそみして落馬するような奴に、誰が安心して国の運命など預けるか」
 彼の額にうっすらと残っている治りかけの傷を指さすと、セルジュは背中を向けた。
「ああ、そう言えば、おまえの縁談の相手って、オルガと同じ歳だったな」
 返事もせずに去っていく友を見送りながら、エドゥアールは安堵の溜め息をついた。「やれやれ、うまくいった」
「それでは、かの御方は縁談を了承なさったのですか?」
 ユベールはかたわらに立ち、主の視線の先を追いつつ訊ねた。
「断るわけないだろう。クラインが大国カルスタンやリオニアと対等に渡り合うためには、ユルギスとの同盟関係が絶対に必要だってことは、あいつが一番知っているんだから」
「要するに、一生に一度の切り札を使ってあまりある、申し分のない政略結婚というわけですか」
「ここまでお膳だてするのに、この数ヶ月どんだけ俺が苦労したか。わざとユルギスへの小麦の売り渡し価格を吊り上げて、穀物交渉を平行線に持っていき、二国関係が悪くなったように見せかけるなんて小細工までして」
「そこまでなさるとは、若さまはよほどユルギスの姫君を見込んでおられる」
「まあな」
 エドゥアールは腹心の友にだけ、こみあげる策士の笑いを見せた。「王妃さまの保証つきなんだ。ヒルデガルトさまは、およそ王女らしくない変わり者でいらっしゃると」
「その変わり者の姫君となら、リンド候はむつまじき夫婦になれるとお考えなのですね」
「ユベール、勘違いしてもらっちゃ困る」
 伯爵は声をひそめ、片方の目をいたずらっぽくつむった。「俺は何も、セルジュに幸せになってほしいなんて、おこがましいことはハナから思っちゃいないぞ――ただ、奴の心底から困った顔が見たいだけなんだ」


 急ぐという言葉に反して、セルジュは従者とともに、のんびりと馬を進めていた。
 フォーレ子爵領は王都ナヴィルの北西に位置し、険しい山脈に北風をさえぎられた、温和な気候の土地だ。
 春の息吹をはらませた穏やかな青空。陽光に水ぬるむ湖とラヴェンダーを敷き詰めた草原は、騎馬で気ままに旅するに値する景色だった。
 病に倒れた父公が、この田舎に隠居してから、もう一年近くが過ぎようとしている。
 いまだに介助なしには歩けないし、呂律も回らない。正直言って、そんな父に自分から会いたいとは決して思わぬ。
 だが、会わずにいても心穏やかではいられない。アルフォンス家の嫡男として、老父を妾夫人ごときに預けたまま、まかせきりにすることはしたくないのだった。
 ツタの這う石造りの館。広い庭にはハーブが自然のままに植えこまれて強い香りを放っている。風雅と言えば聞こえはいいが、要するに田舎貴族趣味だ。
 常に都会の洗練された空気を吸っている貴公子にとって、ここで過ごす時間は退屈きわまりないものだった。
「リンド侯爵さま。ようこそ遠路はるばるお越しを」
 執事も兼ねている家令のオリヴィエが、彼を玄関口で出迎え、馬の手綱を引き取った。「皆さま、おまちかねでいらっしゃいます」
 玄関の間では、彼の義理の母にあたるフォーレ子爵夫人が、膝をかがめて挨拶した。その後ろには、父と彼女のあいだに生まれた義妹オルガが愛らしい藤色のドレスのすそをつまんで、控えている。
 セルジュが柔らかい視線を向けると、少女はパッと目を伏せ、みるみる頬をバラ色に染めた。
「父上は?」
「公爵さまは、今日は天気が良いので、外のテラスにおいでです」
 家令のオリヴィエが案内しようと先立ったが、「よい」と押しとどめた。「ひとりで行ける」
 木造りのテラスに降り立つと、午後のあふれんばかりの光の中に、父がぽつねんと座っていた。
 見るたびに年老いていくようだ。落ちくぼんだ目には、かつての眼光は消えうせ、発作から一年経っても、ほとんど言葉を発することはない。
 セルジュを見上げて片方の頬をひきつらせたのは、ちっとも顔を見せない嫡子を怒っているのか、それともみずからの惨めな境遇に対する照れ笑いか。見ただけでは判別がつかないが、前者のほうがましだと思う。
「父上、お久しぶりでございます。お加減が良さそうで何より」
 セルジュは以前と同じように、深い敬意を表わして一礼した。
「首席国務大臣として日々忙しく、なかなか来ることがかなわず申し訳ありませぬ。王都から遠く離れた鄙(ひな)にあっては、さぞ父上も国政を案じておられるでしょう」
 返事はない。セルジュは構わず、現在の王宮の状況について話し始めた。長年の宿敵であったラヴァレ伯爵のせがれが、彼とふたりで国王を補佐する立場にいること。目の仇にしていたティボー公爵も、やはり同じ陣営にいること。それらが父にとって一番聞きたくない話であることは明らかだ。
 最後に、さりげなく付け加えた。
「そうそう、わたしは今度、妻を迎えることになりました」
 と言いながら、父の表情に浮かぶ変化を観察する。「相手は、ユルギスの第二王女です。あなたがカルスタンの姫君との縁組を以前から画策していらしたことは、これで水泡に帰しました。すべてが、あなたの望んでいた方向の反対に進んでいますよ」
 杖の上に置いている手がぶるぶると震えたのを見届けると、セルジュは満足して立ち上がった。
「明日の夕刻には王都に戻る予定です」
 言い残して屋内への扉をくぐると、お茶の盆をささげもった侍女とともに、マリオンが立っていた。
「侯爵さま」
 緑色の瞳に涙をいっぱい溜めた義理の母に、セルジュはとまどったような笑みを浮かべた。
「子爵夫人、なぜ、あなたが泣くのです」
「さしでがましいことではございますが、どうぞ、お父上にやさしくしてあげてくださいまし。今のおっしゃりようは、あまりにも酷うございます」
「父に今必要なのは、やさしさではありません」
 穏やかな口調には、決して内心の苛立ちは表われていない。「甲斐甲斐しく世話をするあなたたち母娘にさえ、冷たい仕打ちをしているとの報告も聞いています。己がすべてを失ったという現実を、あの御方はそろそろ直視すべき時なのです」
「あなたさまの子としてのお気持は、痛いほどわかります」
 今なお清楚な美しさを失わぬ妾夫人は、うつむいた拍子に花の露のような涙をこぼした。「けれど年老いた者にとって現実を見ろというのは、あまりにもつらいことですわ」
(あなたになど、わたしの気持ちの何がわかる)
 一点の曇りもない笑みを浮かべると、セルジュは「わかりました」と丁重に答えた。「肝に銘じましょう。お茶は居間でいただきます。オルガに王都の土産をたくさん持ってまいりましたゆえ」


 オルガは一年前まで、セルジュにとって名前も知らない義理の妹だった。
 母のマリオンは、父の数多い妾夫人の末席。本来なら、嫡子であるセルジュとは言葉を交わすこともかなわぬ身分の差がある。
 ましてや、その娘に「兄」と呼ばせることなど生涯ありえないと思っていた。
 その気持ちが変わったのは、エドゥアールがオルガをことのほか可愛がっているという話を聞いたからだ。我ながら子どもじみた理由ではあるが、オルガが兄である自分より、あの男になついているというのは我慢がならない。
 お茶を飲みながら、テーブルにショールや流行りの髪飾りなどを広げてやると、義妹は大はしゃぎだった。
 生まれたときから刺激のない田舎で母と二人暮らしであったためか、オルガは十五歳という年よりずっと精神的に幼い。
(この小娘と同じ歳の王女を、わたしは娶ることになるのか)
 あらためて思い知る事実に、二十二歳のセルジュは呆然とする思いだ。こんな少女を伴侶として愛しむことなど、想像すらできない。
 もちろん、外つ国の王女との結婚に、何かを期待しているわけではない。できるだけ優しく、しかし限りなく遠く接する。この領館の居間に飾られている陶器の人形のように、扱いに注意して、丁重に愛でればよい。
「あ、ありがとう。あの、あの、本当にありがとうございます。侯爵さま」
 母譲りの愛くるしい顔を輝かせて、オルガはもらった土産をぎゅっと胸に抱きしめて礼を言った。
 セルジュはほほえんだ。「堅苦しい呼び方はやめなさい。義理とは言え、わたしはおまえの兄だぞ」
 たわむれに、そんな言葉を言ってやると、彼女は大きな緑色の瞳を喜びに見開いた。
「本当に? 『お兄さま』とお呼びしてよいのですか?」
「ああ」
「……うれしい」
 感激に目をうるませて彼を見つめる義妹に、セルジュは内心うんざりして話題を変えた。
「この焼き菓子に添えてあるジャムは美味だな」
「野イチゴのジャムです。私が摘んできたの。摘みきれないほどたくさんあるんです」
「ほう、ここにも野イチゴの群生地があるのか」
「はい、歩いて行ける場所に。でも私だけの秘密です」
「それがいい。こんな美味な野イチゴがあると知れば、盗人どもが大挙してやってくるからな。これからも口外してはならん」
 盗人と言ったときに、即座にエドゥアールの顔を思い浮かべたことが、セルジュは可笑しくなった。
 美しい兄の笑顔を見て、オルガは熱に浮かされたような声で答えた。「はい。決して誰にも教えません」


 翌日の朝、常になく遅く目覚めたセルジュは、寝台から窓の外を見やった。
 北の山々は霧にすっぽりと覆われ、あいにくの空模様。今日中には帰ると決めているので、冷たい夜雨の中の騎乗となるかもしれない。
 憂鬱な気持ちで、もつれた長い髪をかきあげ、従者の来るのを待たずにシャツに片腕を通しながら、枕もとの書類を取り上げた。
 次の会議に提出する演説の草稿を、ゆうべは徹夜で仕上げていた。自分に与えられた務めは、どんな犠牲を払っても完璧に成し遂げるつもりだ。国政も、領地の経営も、子としての義務も。
 他人には絶対弱みは見せない。特に、あの男には――天性の才ですべてを軽やかに成し遂げ、巧まずして人心をつかむことのできる、あの男にだけは。
 従者が運んできた朝食を軽くしたため、身支度を整えて階下に降りたのは、もう昼近くになっていた。
 父公は、窓ぎわの腕つき椅子に座って、外を見ている。
 昨夜の晩餐のあいだも、父子はほとんど視線を交わさなかった。父は自分ではスプーンさえ持てないため、食事のほとんどをマリオンに口に運んでもらっている。意に染まぬことがあれば皿をひっくりかえすことで抗議する。オルガはそういうときも、涙目になりながら、懸命に母親を助けていた。
(いつまで、その傲慢な態度が通ると思っている。生涯あなたにとって、他人は自分のために動く道具にしかすぎないのか)
 腹立ちのあまり、朝の挨拶をする気もおこらなかった。父親は、あいかわらず杖を抱きかかえたまま彫像のように動こうともしない。氷のような視線を叩きつけてから、セルジュは扉から外に出た。
 暗い雲が空を覆い、大粒の雨が落ちてきたが、構わず庭を歩く。
 白いスノーフレークの花が雨に打たれてお辞儀をし、ヒソップの葉が、ひときわ強い芳香を放っている。
「侯爵さま」
 家令のオリヴィエが、先回りしてきて、傘を差し出した。「お風邪を召します」
「穴をさがしている」
「は?」
「ラヴァレ伯爵だ。館の外壁に穴を開けたと言っていた」
 小太りの家令は、目をぱちぱちと瞬いた。
「それなら、こちらでございます」
 あとについていくと、彼は領館の外壁の一ヶ所を指し示した。確かに、石を接着するための白い漆喰が、一部分だけごっそりと剥げ落ちている。
「ラヴァレ伯爵さまは、理由について何かおっしゃっていましたか」
「いや」
「そうでございますか」
「何があった。申せ」
 強く命ずると、オリヴィエはようやく話し始めた。
「先週のこと。あの方はアルマを迎えにいらした折りに、ご自分から進んで公爵さまに近づかれたのです」
「父に会ったのか。愚かな」
「わたくしもお止めしました。ですが、せっかく領地にお邪魔しているのだから、礼を尽くしたいとおっしゃって。御前に出て丁重に挨拶を述べられる最中、公爵さまは次第に激昂なさり、持っていた杖をやみくもに振りまわし、伯爵さまの額を打ったのです」
「……なんだと?」
「お父君のあの体です。避(よ)けようとすれば、いくらでも避けられたでしょう。伯爵さまは、わざと逃げずにお怒りを受けなさったのだと思います」
 オリヴィエはしばらく、口をつぐんでいた。
「打たれた後も表情を変えることなく、伯爵さまは挨拶を述べ終わると、庭にお出になりました。訳をお訊ねすると、『避ければ、余計にあの方の誇りを傷つけるから』とおっしゃったきり、ここまで来て、いきなり拳で壁を――」
 驚いたことに、セルジュの前では謹厳な態度を崩さぬ家令が、朗らかな声で笑いだした。「よほど、悔しかったのでしょう」
「なるほど、確かにあいつらしい」
 セルジュも、こみあげてくる笑いを抑えるために、息を継いだ。「君子なのか、さにあらずか」
「底の知れない御方でございます」
 灯りがともったような心持ちになりかけたとき、にわかに居間のほうから、複数の人間の不穏な声が聞こえてきた。
「お願い、誰か来て」
 フォーレ子爵夫人の悲痛な叫びが窓から響いた。あわてて彼らが駆け戻ると、
「オルガが帰ってこないの……オルガが!」
 そう言ったきり、マリオンはわっと泣き伏す。
 蒼白な顔をしたメイドが、がたがたと震えながら家令に説明した。
「朝早く、お嬢さまは野イチゴを摘みにいらっしゃるとお出になったきり……急いで戻れば、ジャムを作ってお兄さまが王都にお立ちになるまでに、お土産に持たせてさしあげられるからと」
「なぜ、お伴をしなかったのだ!」
「どうしても、ひとりで行くのだとおっしゃって、お伴をお許しくださらなかったのです。それに固く口止めされて――絶対に誰にも秘密の場所だからと」
 セルジュはそれを聞いて、背筋に冷水を浴びせられたようになった。
「心当たりは。子爵夫人」
 常になく厳しい口調の侯爵に、ハッとマリオンは涙に濡れた顔を上げた。
「あの子が小さいころ、いっしょに見つけた場所でございます。ここから東の道を山に向かって上がった森の中。でも、あそこは危険なのです。雨の日は地面が柔らかく、崖が崩れることも――」
 おりしも窓の外で雨音が激しくなり、突風に木々の影が大きく傾いだ。
 プレンヌ公が立ち上がった。体が不自由になってからこのかた、用事がなければ自分から動く姿を見たことがない。その父が立ち上がって、声を裏返してわめき始めたのだ。
「オ……ウ……ハ。オゥ……ハ!」
 ――『オルガ』と。
「……あなた」
 マリオンは駆け寄り、夫の手を取って、わっと泣き伏した。
 それを見届けたセルジュは、体をひるがえした。
「馬を出せ。このあたりの地理に詳しい者、その森に案内せよ」
 家令のオリヴィエは仰天して、首を振った。「いけません。わたくしどもがお探しいたしますから、ここでお待ちを」
「聞こえぬのか。馬を出せと言っている!」
 セルジュは、従者の持ってきた外套を羽織ると、風雨の中に飛び出した。
 用意された愛馬にまたがり、顔に打ちつける雨に挑みかかるように疾駆させた。
 あの父上が。
 それまで可愛がったこともなかったであろう身分の低い末席の娘の名を、回らぬ舌で必死に呼んだのだ。
(もし、いなくなったのがわたしなら、あなたはわたしの名を呼んでくれただろうか――セルジュ、セルジュと)
 膨れ上がる怒りと悲しみが、胸の中で渦を巻く。
 どうしても父を愛せなかった理由がやっとわかった。値打ちのある人間でなければ、父に愛されないと思いこんでいたのだ。
 無条件で愛されるということが、どういうことかわからなかった。だから弱い者を軽蔑した。だから弱っていく父がゆるせなかった。
 だから、弱いものを当たり前のように慈しむことができるエドゥアールを、心底うらやんだのだ。
「オルガ!」
 森に着くと馬を降り、肺が破れんばかりに叫んだ。「オルガ。どこだ」
 そして、行く手を阻む藪の重なりに向かって、腰の剣を放った。


 雨雲が去り、午後の光の中で、七色の露が宝石のように木々の葉を彩るころ、セルジュはオルガを連れて領館に戻った。
 義妹は、森の片隅で雷におびえてうずくまっていた。彼を見ると「ごめんなさい」と飛びついてきた。
 野イチゴを持って帰れなくて、ごめんなさいと。泥だらけの手には、つぶれた野イチゴがしっかりと握りしめられていた。
「また、すぐに来る」
 オルガを腕に抱いて馬から降りるとき、セルジュは笑った。「そのときまでに、たくさんのジャムを大瓶に仕込んでおいてくれ」
「はい、お兄さま」
 マリオンに支えられて、父公が玄関に現われた。ひしと娘と抱き合う姿を、セルジュはおだやかな気持ちで見つめる。不思議なことに、怒りも悲しみも消えていた。まるで、長い間背負っていた肩の荷が降りた思いだ。
「父上。あなたにも、ようやく本当の家族ができたのですね」
「セ……ユ」
 頼りなげな目をして顔を向けた父に、息子は自分でも気づかぬほど自然に、微笑みを返していた。
     


(2)につづく

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招夏さんがくださった、やさしい笑顔のセルジュのイラスト(「ギャラリー」に展示)、そして第48代我輩さんのくださった「公子Sの秘密」の野イチゴのエピソードに、それぞれインスピレーションを受けて書きました。おふたりとも、ありがとうございます。
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