伯爵家の秘密/番外編


5. 王太子の孤独



(2)

「あなたが、あのときの」
 王女は、ひな壇の下にラヴァレ伯爵を呼び寄せた。「その節は、ほんとうに苦労をかけました」
「とんでもございません。知らぬこととは申せ、ご無礼を」
 エルンストはひざまずいて、昨日抱き上げた少女に頭を下げる。
 内心、舌打ちしていた。どことなく気品があるとは思っていたが、まさかエレーヌ姫だったとは気づかなかった。侍女の服を着て庭の茂みでうずくまっている女性を見て、王女だと疑えというほうが無理な話だ。
「お兄さま、わたくしが庭で気分を悪くしていたとき、助けてくださった方ですのよ」
 フレデリクはフレデリクで愕然としている。妹が倒れたということさえ初耳だったのだ。
「妹が世話になった。礼を言う」
「もったいないおことば、おそれいります」
 あらためて深く低頭する男を、王太子はじっと観察した。
 髪型や体格から察するに軍人上がり――クライン王国では貴族の男は髪を長く伸ばし、肩より上で切っているのは騎士か軍人だけだ――しかも黒髪の伯爵ふぜいだ。
 当時のフレデリクにとって、下位貴族など貴族の数のうちには入っていなかった。そして貴族でなければ、使用人と同様。人間ですらない。
 エレーヌに近づく男にはことごとく目を光らせていた兄も、このときばかりは警戒を解いた。ファイエンタールの王女が被征服民族の伯爵と縁を結ぶことなど、未来永劫ありえない。
 ところが妹は、すっと席を立ち、意外なことを言い出した。
「お兄さま、この方と踊ってきてよろしい?」
「なんだと?」
 あっけにとられる隙に、エレーヌはひな壇を降り、すっと手を伸べた。「お願いいたします」


「……よろこんで」
 ラヴァレ伯爵は即座に立ち上がった。王女の申し出に、拒否権があろうはずがない。
(……まずいな)
 会場じゅうの好奇の目が自分に集まっているのを感じる。女性たちの熱っぽい視線を浴びることには慣れっこになっているエルンストではあったが、プレンヌ公に引き合わされるまで、こんな形で目立ちたくはなかった。
(ええい、ままよ)
 腕を差し出すと、彼女はレースの手袋をはめた小さな手を、彼の肘にからめてきた。
 ホールの真ん中まで進み出、優雅にお辞儀を交わす。手のひらを合わせた瞬間、濃緑の礼装の伯爵と薄紅色のドレスの王女は、力強いがくに支えられた大輪のバラと化した。会場じゅうに、感嘆のどよめきが長く尾を引いた。
「王宮舞踏会は初めてでいらっしゃるの?」
 エレーヌ姫は、舞いながら無邪気な声で話しかける。
「いえ、入隊前に二度ほどまいりました」
 エルンストは、目を伏せたまま答える。
「陸軍中尉でいらしたそうね。さきほど侍従が教えてくれましたの。お辞めになったあとは、どこか外国に留学なさったとか」
「ええ、リオニアです」
「まあ、先ごろ恐ろしい動乱が起こった国ですわね。ご無事で?」
 その当時、リオニアの市民革命は単に『動乱』と呼ばれていた。周辺諸国の貴族たちにとって、それは無知な輩どもの単なる暴動であり、やがて収まるはずの変事にすぎなかったのだ。
「はい。直前に帰国しておりましたので」
 そして、その不穏な国に遊学していたラヴァレ伯爵が、クライン貴族たちからどんな目で見られているかを、王女は何も知らない。ただ、女たちが『獅子のようだ』と評する豊かな黒髪が動きに合わせて揺れるのを、そしてその琥珀色の瞳が万華鏡のようにシャンデリヤの光を映すのを、うっとり見とれるだけだ。
 ラヴァレ伯爵のリードは華麗で巧みでありながら、容赦なく激しかった。王女は次第に息をはずませ始めた。火照った額に、すうっと芯のある凍えがかぶさり、目を閉じそうになる。
「お顔の色が悪い」
「ごめんなさい。少し休みますわ」
 手をほどき、開け放たれた扉から涼しいバルコニーへと王女を誘導しながら、その華奢な背を見つめるエルンストには、かすかな罪の意識が生じていた。
 踊りながら、プレンヌ公爵がホールに入ってきたのが目の端で見えたのだ。戯れはなるべく早く終わらせ、すぐにでも公爵のもとに参じたかった。だから、わざと早いリードで彼女に無理をさせたのだ。
「飲み物をお持ちします」
「いえ、だいじょうぶ」
 エレーヌは息を整え、ようやく顔を上げた。「わたくしから誘っておきながら、申し訳ないことをしましたわ」
「いいえ――こちらこそ」
「コートをありがとうございました。さっそく、侍女に居館まで届けるように申しつけます」
「そのようなお気づかいは無用でしたのに」
「それから……このことは、兄には絶対に内緒にお願いいたします」
 王女は恥ずかしさのあまり目を泳がせた。真っ白だった頬に赤みが差す。彼がコートで彼女を包んで抱き上げたことを、兄である王太子には知られたくないということだろう。
 ふたりが踊っていたあいだ、ずっとフレデリク王子からの粘ついた視線を感じていたことを伯爵は思い出した。
「貴女はなぜ、あれほど強く、ご自分の体を縛めておられるのですか」
 エレーヌの水晶のように青い瞳が、たちまち驚きに見開かれる。
「おそれながら、貴女のような年若き女性がそのようなことをなされば、体を蝕まれるのは道理。事情がおありになるとは存じますが、一刻も早くおやめになることです」
 伯爵の薄茶色の目は、いつくしみを湛えて彼女をまっすぐに見つめていた。だが、すぐに苦しげに細められる。
「詮なきこと申しました。お赦しください」
 言い残すや否や、濃緑のコートはひるがえり、たちまちのうちに夜の闇に消えた。
「あっ。待っ……」
 引き止める暇もなく。
 心臓がはずんでいる。先ほどの激しい踊りのせいではない。彼女に触れていた温かく大きな手の感触が今でも残っているせいだ。
 また会えるだろうか。いや、もう二度と会うことはないかもしれない。
 エレーヌは、空虚な部屋にひとりぼっちで取り残されたような胸の痛みを覚えた。それは、かつて大切に飼っていたハツカネズミを失ったときに似ていた。


 舞踏会場から漏れてくる華やかな弦楽の音色が、秋風に流されて不思議にもの悲しげに聞こえる。
 ラヴァレ伯爵は従者に案内され、回廊を抜けてプレンヌ公爵の執務室に通された。
 口利きを頼んだ侯爵は姿が見えない。すでに多額の金品を謝礼として贈っておいたので、もう彼に用はないのだろう。
 部屋に明かりはとぼしく、ただひとつの蜀台が置かれた奥の机の背後からは、暗赤色の礼装に身を包んだ公爵が彼をしげしげと見つめている。噂にたがわず、鷹のように鋭い風貌だ。
「贈られた馬を見せてもらった。見事な毛並み、気に入ったぞ」
「は。おそれいります」
 公爵は、すこぶる機嫌がよかった。だが、この貴人の機嫌というのは当てにならない。まるで冬のラヴァレ谷のように、晴れていても一瞬後には吹雪が荒れ狂うのだ。
「貴殿は、ティボー公の直属の部下だったそうだな」
 彼は軽い調子でさらに続けた。「しかも奴の勧めでリオニアに三年半留学した。大学で近代史と経済学を修め、共和主義者とも親交が深かった――そうだな」
(さすがだ)
 エルンストは、背筋に凍った棒切れが当てられたような錯覚を覚える。面会を申し込んだのが二日前。そのわずかな間に、これだけ綿密に彼のことを調べあげているとは。
「そのような貴殿が、いったい何用で、共和主義嫌いで有名なわたしのもとに参られたのか」
 一瞬にして声音が冷たくなった。返答しだいでは、無事にはここを出さぬという凄みがある。背後のカーテンに人の隠れている気配を感じつつ、ラヴァレ伯爵は動揺した様子は毛筋ほども見せなかった。
「おことばながら、公爵さま。確かに共和主義者の知己をいくらか持っておりますが、わたしは共和主義者ではございません」
「ほう」
「これでも、クライン貴族の末席に連なる身。自分の立場はよくわきまえております。微力ながら、この国に動乱の影響が及ばぬように、ある方面から力を尽くしているつもりでございます」
 エルヴェ・ダルフォンスの目が暗がりで猛獣のようにきらりと光った。
「ふむ。ある方面とは?」
「おのれを革命政府と称する者たちは、決して一枚岩ではございませぬ。ある者は長年にわたって貴族から搾取を受けた恨みを、ただ暴力によって晴らそうとする烏合の衆ども。彼らは貴族と見れば、かたっぱしから捕らえて絞首台に送ることを主張し、政府も議会もそれを止めるすべはありません」
「なるほど」
「わたしは、リオニア貴族の亡命を、わが使命と捉えております。ひとりでも多く絞首台から救い、国王エマヌエーレ2世がすでに亡命なさっておられるカルスタン王国へと逃がしたいのです、かの地で貴族たちが王の名のもとに結束すれば、必ず烏合の衆を打ち砕き、リオニアに王政復古の日が来ましょう」
 エルンストは、よどみなく、滔滔とはったりをかました。
 相手は、逆らう者はことごとく粉みじんになるまで踏みつぶすと言われるクライン最高の権力者。怒りを買えば、命がないことはわかっている。
 幸いなことに、悲しませる親も妻子もいない身軽な身の上だ。爵位と領地はいざというときの手当てはしてある。
 それだけの覚悟をして、彼には守らなければならない友との約束があった。

『――無駄な血を流すことなく、共和主義革命をなしとげるために。エルンスト、おまえの助けがほしいのだ』

 プレンヌ公爵が椅子から立ち上がり、その拍子に金色の髪が光を跳ねた。
「わたしに、その亡命の手助けをせよと申すか」
「この国には、あなた様しか頼れるお方はおられないのです」
 口惜しいことに、そのことばには嘘はない。国王も王太子も、政治にはまったく関わろうとしないのだ。
「カルスタンに太い人脈を持っておられる公爵さまなればこそ、お願いいたします。来月、二十名あまりがリオニアからカルスタンへの国境を越える計画をしております。陰から援助してはいただけませぬか」
 公爵はゆっくりと近づき、伏している伯爵のかたわらに立った。じゅうたんをグイと踏みにじって、片方の靴がエルンストの視界の中に押し入った。
 征服民族の長ファイエンタールの王は、百数十年前にこの地に侵入したとき、原住部族の族長たちに忠誠の証として、軍靴を舐めさせたという。初代のラヴァレ伯爵も、当然その恥辱を受けたはずだ。
 もし、ここで靴を舐めろと命じられたら、どうすればよい。エルンストは心の中で自問する。
 誇りをつらぬいて拒否するか。それとも大勢の命のために、あまんじて恥を忍ぶのか。
 突然差し出された命題に逡巡する間に、プレンヌ公は突如、低い笑い声を上げた。
「本気で悩むとは……貴殿はまだ若いな」
「え?」
 とまどって顔を上げると、暗い草原をただよう燐光のような蒼の瞳が、彼をひたと見下ろしている。
「ひとつ、わたしのために働いてもらおう。その働き次第によっては、協力を惜しまぬつもりだ」
「それは?」
「先ほど、エレーヌ王女と踊っておったな。どのような経緯かは知らぬが、貴殿の男ぶりが、うぶな王女の心を捕らえたと見える」
(何を言い出すのだ?)
 公爵は彼の前に片膝をついた。
「エレーヌ姫が、カルスタンへの輿入れに同意するよう、説得してもらいたい」


 エレーヌは、またひとつため息をついた。
 秋風の立つ庭は、徐々に色を失い、秋バラやセージの褪せた紅色だけが目を憩わせる。北の国は、すでに雪に覆われ始めていると聞く。
(そう言えば、あの方の伯領も雪深いところだと聞いたわ)
 まだ見ぬラヴァレの谷。ほとんど王都から出たことのない彼女にとっては、異国にも等しい遠い地だ。
 それなのに、あの方はその谷よりもさらに遠いリオニアにまで行ったという。古くから東の国や異教徒の大陸との中継点として栄えた文化の十字路。きっとオリーブ色の肌をした美しい女性と巧みにワルツを踊り、黄金のザクロが柱で揺れるバルコニーで夜ごと愛をささやいたのだろう。
 想像するだけで体の奥底がきりきりと痛む。舞踏会が終わって四日も経つ今となっては面影さえ薄れる一方なのに、彼の大きな手の感触はますます、今ここにあるかのように真実味を帯びてくるのだ。
 女官長の見張りのもと毎朝の日課をおとなしく終えてから、昼ごろ父王の居室を訪れると、「お風邪を召して、ただいま侍医の診察中でございます」と断られた。
(お風邪?)
 エレーヌは、首をかしげた。そう言えば、昨日はやたらに乾いた咳をなさっておられた。侍女に見舞いの蜂蜜酒を届けるように命じ、騒ぐ気持ちを鎮めてから、兄のいる王の庭へと進んだ。
 入り口のアーチを抜けたとたん、信じられない光景が目に飛び込み、思わず「きゃっ」と驚きの声を上げた。とうとう自分が幻影を見始めたのかとさえ疑った。
 たった今まで恋しく想っていた当の相手、エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵が、あずまやで兄相手に談笑しているのだ。
「これは、姫君」
 伯爵は一点の曇りもない笑顔を彼女に向けると、膝をついて頭を垂れた。「先晩は失礼をいたしました」
「いえ、あの。いったい」
 うろたえて兄のほうを見ると、王太子は不機嫌を隠そうともしていなかった。
「プレンヌ公のたっての勧めで、わたしにリオニアをはじめとする国際情勢を教授しにまいったそうだ」
「まあ、公爵さまの?」
 エレーヌには、よく事情が飲み込めない。ラヴァレ伯がプレンヌ公爵と懇意だとは想像もしていなかった。公は誇り高い方であり、下位貴族と並ぶ光景などありえないと思っていたからだ。
「恐れ多くも、殿下にものをお教えしようなどと、おこがましいことは考えておりません」
 伯爵は気負いのない、大らかな口調で答えた。「しかしながら、ご質問をいただければ、微力ながら精いっぱいお答えする所存です」
「だから、尋ねたいことなど何もないと言っておろう」
「フレデリクお兄さま」
 エレーヌはあわてて、王太子の前に膝をついた。自分が何とかして、兄とこの方のあいだを取り持たねばならない。
「せっかく来てくださっているのに、失礼ですわ」 なだめるように兄の片手を柔らかな手のひらで包んだ。「わたしはぜひ、お聞きしたいです」
 妹に子犬のようにじっと上目づかいに見つめられると、フレデリクはとても逆らうことはできない。
「……わかった」
「ありがとうございます!」
 エレーヌは、はつらつと身をひるがえすと、兄の寝椅子の傍らに腰を下ろした。柔らかな敷物とクッションが備えられた一角は、彼女のいつもの居場所だった。
「それでは、尋ねよう」
 フレデリクは伯爵に向き直り、皮肉まじりに口角をひきつらせた。「そなたは共和政治をどう思う?」
 底意のある問いかけだった。もし、ひとことでも共和制を擁護するような言葉を漏らせば、プレンヌ公にそれを告げればよい。もう二度とここに来ることはあるまい。
 もし、本心を隠して共和制を批判すれば、おのれの信条をみずから否定したと揶揄してやればよいのだ。
 だが、王太子をまっすぐに見据えるラヴァレ伯爵の瞳は、夕暮れの湖面のように凪いでいた。
「おそれながら」
 その声は迷いがなく、力強い。「およそ人間の作り出す組織には、完璧なものなどありはしません」
「して?」
「リオニアの革命政府もまた、あるべき姿からはほど遠い。わが国の王政が、理想からほど遠いのと同様に」
「わたしが誰だか知っているのか。その理想からほど遠い王政をになう次期国王ぞ」
「無論、存じております」
「では、理想の政府とはなんだ」
「いまだ、この世に存在しないものなのでしょう。わたしはクラインの政治に絶望してリオニアに遊学し、リオニアの政治に絶望して、また舞い戻ってきました。ただ少なくとも、リオニアには一点だけ、クラインよりましなところがございます」
「それは、なんだ」
「民がこぞって、理想の国とは何かを考え始めたことです。今のクラインには百年経っても、そういうことは起きますまい。ゆえに百年後の両国の差は大きいと、わたしは考えています」
 フレデリクは次第に苛立ちを感じていた。政治になど何の興味もないと自分に言い聞かせてきたというのに、この男の物言いを聞いていると、臓腑がぐらぐらと沸き立つようだ。
「そのほかには?」
「それだけです。政(まつりごと)については、殿下はわたし以上によく学んでおられるでしょう。しかし、真に必要なものは、机上の学問ではない」
 エルンストは険しく刻まれていた眉間のしわを、ふっと緩めた。「今のあなたが学ぶべきは、一朝一夕では得られないもの。体で覚えなければならぬ類のことがらです」
「どういうことだ」
「あっ」
 そばで見ていたエレーヌは、漏れ出ようとする悲鳴を両手で抑えた。
 王宮内では武器の携行が禁じられているのに、いったいどこに隠し持っていたのか。
 エルンストの手に握られた小剣は、次の瞬間にはフレデリク王太子の喉もと目がけて突きつけられていた。


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