伯爵家の秘密/番外編


5. 王太子の孤独



(3)

「いったい何の真似だ」
 かすれた声でフレデリクはつぶやいた。
「これは模擬戦用のさや付きの剣でございます。他意はございません」
 ラヴァレ伯爵は、楽しげな笑みを浮かべると、体のわきに剣を収めた。王太子はそのとたん膝の力を失い、椅子に崩れ落ちた。
 あずまやの外にいた近衛兵があわてて駆けつけてきたが、かろうじて片手を挙げて「よい」と留める。
 本当は、謀反者だと騒ぎ立て、即座に首を刎ねさせたいところだが、妹の目の前でそんな無様なことはしたくない。ただでさえ、切れない剣におびえてしまった自分が赦せないと言うのに。
「もう一度聞く、何の真似だ」
「僭越ながら、王太子殿下に必要なのは、お体を動かすことだと存じます。このあずまやにこもったきりで、目で見ず、耳で聞かず、手で触れず。ここまで届いてくるのは、せいぜい声高に権利を叫ぶ貴族の声だけです。それで次期国王として、いったい王政の何をになわれるのでしょう」
「なんだと?」
「お怒りになったのなら、一発くらいはわたしを殴ってごらんなさい。その椅子から立ち上がらずに拳が届くものならば」
 エルンストは、直立不動の姿勢で前を見つめている。
「軍人あがりのそなたに向かって、そんな無謀なことができるか」
 とフレデリクは吐き捨てるように言って、ぷいと体をそむけた。
 恐ろしさに涙ぐんでいるエレーヌ王女を、申し訳なさそうにチラリと見やると、ラヴァレ伯爵は片方の拳を地面につき、軍隊式の拝礼をした。
「王太子殿下。どうすれば、あなたをこの庭からお救いできますか」
「なに?」
「お手伝いいたしたく存じます。殿下がこの隠れ場所をお出ましになられて、王としてクラインに立つために」
 そっぽを向いたフレデリクの肩から背中のあたりが、かたく強張る。
「余計なお世話だ。そなたに――そなたに、わたしの何がわかる」
「卑しい者には、御心のすべては、わからないでしょう」
 エルンストは答えた。「ですが、男なら、大なり小なり覚えがあるものです。自分の居場所が定まらぬ苦しみ。困難から逃げ出したいという誘惑。課せられた責任を見て見ぬふりをする狡さ。おのれの弱さゆえに、自分の周囲の者まで巻き込み、傷つけてしまう愚かさも――」
 可憐な王女の姿を目の端に痛いほど感じつつ、王太子の背中を真正面から見据えて、ことばを続ける。
「あなたは、ご自分の弱さを知り尽くしておられる賢明なお方だ。お優しさのゆえに誰も傷つけたくないと願い、すべての権力を捨てて、この庭に引きこもっておられる。だが、そのせいで、一番身近で、最も大切な方を守る力も失われてしまった。あなたはその体たらくで、どうやって愛する方を望まぬ運命からお守りになるのか」
 フレデリクは、彼のことばに横面を殴られでもしたように振り返った。「なに?」
「殿下。あなたがなすべきことは、ご自分が盾となり防壁となって、その方を守ることではありませんか。それなのに、あなたのしておられることは、逆です。こそこそと妹君の後ろに隠れて、守っていただいているとは、男として恥ずかしくはないのですか!」
 王太子が恐ろしい殺気をまとって、剣を手に椅子から立ち上がったとき、伯爵は従順に頭を垂れ、刃を覚悟した。一介の下位貴族が、王族にこれだけの暴言を吐いたのだ。殺されるつもりはないが、罰は受けねばならなかった。
「お兄さま!」
 ふわりと首に柔らかな絹の感触がして、驚いて目を開く。エレーヌが彼の首に両腕を回して、必死でかばおうとしていた。
「どけ、エレーヌ」
「いやです。お兄さま。どうか、この方を赦すとおっしゃってくださいまし!」
「何をおろかな。わざと怒りを焚きつけようという、こやつの見えすいた芝居に、誰が本気で乗るか」
「え?」
 彼女を見下ろす兄の瞳には、光があった。いつも眠そうにたゆたっていた水色の湖は、小さな激情のさざなみを立てて、陽光を反射しているように見える。それは、エレーヌでさえ長年見たことのない、生の輝きだった。
「剣の相手をしろ、ラヴァレ伯」
「はっ」
 エルンストは、エレーヌの体をそっと脇に押しやり、居住まいを正した。
 内心、予想していなかったわけではない。いつも気だるそうに座ってばかりいる王太子の腕や背中の筋肉は、明らかに少年のころから鍛えられた片鱗があったのだ。
「わたしのことを何も知らぬくせに。大切な者を守る力があるかどうか、見るがいい」
「それでは、とくと見せていただきましょう」
 ラヴァレ伯爵は片膝をついたまま、小剣のつばを相手に回し、掲げ持ちながら剣身に唇をつける。対戦相手への臣従を示す、軍隊式の儀礼だった。
 立ち上がったと同時に、一陣の風が吹きつけたかと思えるほどの剣圧が襲ってきた。エルンストは動じることもなく、剣を握りなおして、斬撃を跳ね飛ばした。


 最初の試合は、王太子の思った以上にさんざんな結果だった。エルンストは、彼の攻撃をことごとく余裕たっぷりに躱(かわ)しつつ、さりげなく重さと速さを乗せた反撃を返してくる。数閃も打ち合ううちに庭の端まで追いつめられ、体格の差を痛感するしかなかった。
「剣筋は悪くない。ただの体力不足ですな」
 息も乱さずに剣を収める伯爵に、二十一歳の王子はギリと歯を噛みしめ、思わず荒げた声で叫んだ。
「明日、また来い!」
 それ以来、黒髪の伯爵はほとんど二日と日を空けずに王の庭に招かれるようになった。
 エルンスト・ド・ラヴァレは不思議な男だった。陸軍元帥ティボー公が信頼を寄せる元部下でありながらプレンヌ公爵の手先でもあり、王に忠誠を誓った貴族でありながら共和主義者であり、王太子をいくじなしと罵倒しながら父親のような優しい目で見る。
 この限りなく矛盾した存在が、フレデリクは気になってたまらなかった。
「60点中7点ですか。驚きましたな。ボウガンでこんな低い点数を見たのは、初めてです」
「……うるさい」
「お兄さまー。エルンストさまー。お茶が入りましたよ」
 彼を招き入れる日は、エレーヌは朗らかに笑い、よくしゃべる。
 妹とふたりきりのときは、フレデリクはいつも湧き上がる肉欲をもてあましていた。だがラヴァレ伯爵がいると、不思議にそうした後ろめたい気持ちは起きない。不機嫌を装ってだんまりを決め込んでも、その場の会話の面白さに知らず知らず引き込まれている。
 エレーヌが伯爵とさりげなく視線を交わしているのを見たときは、さすがに心胆がすうっと冷えた。
(まさか。相手は十二歳も年上だぞ)
 ありえないと否定しながらも、不安に駆られ、もう明日からラヴァレ伯爵を手元に呼ぶことはすまいと一旦は決意する。
 だが次の日になると、結局また扉を開いてしまう。やはり、妹の落胆した顔は見たくない――そして、それ以上に、三人で過ごす時間はひどく居心地がよかった。
(わたし自身が、この男を手放したくないのだ)
 口当たりのよい世辞ではなく、本音を言ってくれるこの男にいつしか、兄に寄せるような信頼を寄せていた。
 人と人とを和らがせる力が、彼にはある。ラヴァレ伯をそばにおけば、プレンヌ公爵との和解は可能なのかもしれないとさえ思う。
 その年の秋から冬にかけての王の庭は、男たちの武術の訓練所であり、政治討論の場であり、また、エレーヌの主催するお茶会でもあった。そこかしこに、希望という名の花が咲き乱れていた。
 驚いたことに、エルンストはその男らしい体躯に似合わず、無類の甘味好きで、同じく甘いものを好むエレーヌを、ことのほか喜ばせた。
 王室の果樹園で採れたいちじくのタルト。冬至祭用に王宮のコックが仕込んだプラムプディング。雪の舞う日には田舎風の林檎とキャラメルのシブースト。フレデリクにとっては頭の痛くなりそうな甘さのお菓子を、にぎやかに談笑しながら、ふたりで次々とたいらげていく。
「そなた、よくあんなものが食べられるな」
 妹が席をはずした隙に、揶揄するように言うと、とんでもない答えが返ってきた。
「確かに、あまりおいしいとは申せませんね」
「ではなぜ?」
 エルンストは、にやりと笑った。「おいしそうに食べると、姫君がお喜びになるからですよ」
「はっ。そなた、とんでもないペテン師だな」
 気がついてみれば、王太子はいつのまにか声を上げて笑っている。


 王都にはじめての雪が降った日。
 王の庭へと通じる渡り廊下で立ち止まり、白に塗り替えられた中庭をうっとりと見下ろしながら、エレーヌは手すりに薄く積もった雪に指先で点を描いていた。
 右。左。右。左。まるでハツカネズミの足跡のように。
 北国の吹雪の中で絶体絶命に陥った【エドゥアール】は、そう言えば、あれからどうなったのだろうか。この数週間、思い出すことすらしていなかった。
「こんなに南のナヴィルにも、雪が降ることがあるのですね」
 振り返らなくても、声の持ち主が彼女の斜め後ろに立っているのがわかる。おおらかで温もりのある声。その声を聞くだけで、エレーヌは最初に出会ったときに包まれた濃緑のコートの温かさを感じるのだった。
「冬の王都ははじめてでいらっしゃるの?」
「冬はいつも、ラヴァレの谷で胸まで雪に埋もれて過ごしています」
 茶化した口ぶりで、伯爵は答えた。「小さい頃は、よく宝探しをして遊びました。夏のあいだに庭に大切なものを隠しておくんですよ。昔の金貨などをね。雪が積もったあとで、記憶をたよりに近習たちと探すのです。先祖が王から賜った短剣を隠したときには、さすがに母が卒倒しました」
 エレーヌが振り向くと、エルンストは遠くの領地を見晴るかすかのように、垂れ込めた灰色の雪雲を見つめていた。
「そのときのことを思い出すたびに、もっと親孝行しておけばよかったと、おのれを悔やみます」
 王女は黙ってうなずき、雪の冷たさで赤くなった指先をきゅっと握り合わせた。
 エルンストの父親、先代ラヴァレ伯爵は、エルンストが五歳のときラクア戦役で戦没したと聞いた。それから十年あまり、女手ひとつで伯領を守ってきた未亡人は、一粒種の息子が成人の年齢に達したとき、力尽きるようにして他界した。今のラヴァレ伯爵は、親も兄弟も妻子もいない、天涯孤独の身の上なのだ。
「人のいのちとは、儚いものですわね」
 二十年前に戦争が終結し、不衛生や食料事情が改善され、医学が進歩しても、人の寿命はたかだか五十年から六十年。極寒の地の民、貧しい民衆たちは、もっと早くに命の終焉を迎えるという。
 フレデリクとエレーヌ兄妹も、王妃である母君を数年前に亡くしている。
「そう言えば、母が亡くなってからですわ。兄が笑わなくなったのは」
「そうでしたか」
「兄上は今でも、母は毒殺されたと信じておりますの」
「毒殺?」
 反プレンヌ公側の人間には、有名なうわさだ。何者かが王の食卓に毒を混ぜたという。
「でも、同じものを食べたのに、父とわたくしは何ともなかったのです。母と兄だけが危篤におちいり、とうとう母は……」
 それ以降、王太子は公務を一切、拒否するようになった。王宮の奥に引きこもり、食べものはいちいち自分の舌で吟味するようになった。わずかばかり持っていた政への興味も完全に失った。
 真相はどうであれ、何者かにとっては、まことに都合のよい結果だったろう。
「あの庭に、兄の笑い声が聞こえる日がふたたび来ることは、もうないと思っておりましたのに」
 王女の涙まじりの吐息は、金色の巻髪に白いヴェールのようにまとわりついて、消えていく。「あなたのおかげですわ。ラヴァレ伯。あなたが、閉じた庭に風穴を開けてくださったのです」
 雪の精に見まごうばかりの美貌で微笑む王女から、エルンストはさりげなく目を逸らした。
「殿下。ぶしつけながら、お尋ね申し上げてよろしいでしょうか」
「ええ、なんでしょう」
「殿下が今もお体を縛めておられる理由は……兄君でいらっしゃいますか?」
 エレーヌは、胸に両手を当てた。高まる動悸を鎮めようとするかのように。
「……ご推察のとおりですわ」
「そうですか」
「わたくしは、兄の前では小さな子どもでなければならないのです」
 いつしか、兄から女として見られていることに気づいていた。気づかないふりをしなければならないと思った。何も知らぬ童女のように無邪気に振る舞い、決して自分の体を成熟させてはならぬと思い定めたのが二年前。
 それ以来、豊かなふくらみを布の下に押し込めてきた。それでも会うたびに、兄の瞳は憑かれたような熱を持って彼女の体を見つめ、指で触れようとする。
「そのたびにわたくしは、神に祈りました。罪深い自分の体をお赦しください。どうか成長を止めてくださいと……でも」
「あなたは、罪深くなどない!」
 王女を抱きしめたいという衝動が突然湧き上がり、エルンストは自分の子どもじみた愚かさに笑いたくなった。代わりに、うめくように言った。
「……あなたは、どこか遠くへ嫁ぐべきです」
「え?」
「本当は、異国への結婚など死んでも勧めるつもりはなかった。けれど、今のあなたを救うには、王太子殿下のもとを離れるしかないと存じます」
「できませんわ」
 涙でゆらゆら揺れる水色の瞳で、エレーヌは伯爵を見上げた。「わたくしがいなくなれば、兄はこの王宮でひとりぼっちになってしまいます」
「陛下がいらっしゃるではありませんか」
「父は長らく病気がちで、気むずかしく……兄もめったに会おうとしないのです」
「わたしがおそばでお助けします。命に換えても、王太子さまをおひとりにはしません」
「無理です。だってお兄さまは、わたくしがいなければ、おひとりでは何も……」
「姫。あなたのほうこそ、兄君を離したくないのではありませんか?」
 静かな、しかし気魄のこもった声に、王女ははっと息を呑んだ。
「兄君を支えておられるつもりで、あなたの側も兄君に寄りかかっておられる」
「そう……かもしれません」
「互いのために、おふたりは離れるべきだ。今のまま、あなたがおそばにおられる限り、王太子殿下が他の女性をめとられることは生涯ないでしょう」
「わたくしが……兄上の幸せのお邪魔をしているということなのですね」
 伯爵の無言の同意に、エレーヌは手すりに寄りかかり、しばらくじっと庭に降り積もる雪を見つめていた。
「わかりました」
 とうとう、王女はしぼりだすような声で言った。「あなたがそうおっしゃるなら、わたくし外国に嫁ぎます」


 プレンヌ公エルヴェ・ダルフォンスからの呼び出しを受けて急ぐ途中、エルンストはみぞおちのあたりに、何とも言えぬ不快感を覚えていた。
 リオニア貴族の亡命計画は予定より大幅に遅れ、いまだに実現していない。資金調達に手間取ったうえ、少人数ずつに分かれて目立たぬように領地を離れるのに思いのほか時間を要した。
 人間というものは、いざ住み慣れた土地を去るという土壇場になって、これほど後ろ髪を引かれるものなのだ。命よりも大切なものなど、ありはしないと言うのに。
 慣れた手順で公爵の執務室に入って、拝跪する。もう打ち合わせのため幾度となく入った部屋だ。プレンヌ公も、ラヴァレ伯に以前よりはずっと打ち解けた態度を示すようになっていた。
「で、どうなのだ」
「はい。最後の馬車がようやく首都を離れました。ただ、国境付近はすでに雪が深く、旅路ははかどっていない状況です」
「12月の3日には、カルスタン側の使節が国境に迎えに来る手はずになっている。間に合うだろうな」
「それまでには何とか」
「王女のほうは、説き伏せたのか」
「はい。納得してくださいました」
「さすがよの、伯爵。褒美に口づけのひとつでもしてやったか」
 怒りのために、こめかみがずきりと脈打ったような気がした。息を整えて、別の話題に移る。「王女のカルスタンへのお輿入れの件、王太子殿下には、まだ何もお話ししておりません。それに、陛下のご意向もまだ」
「そちらは心配におよばぬ。あの男はわたしの言いなりだからな。だが、ふふ。このところ王太子が妙な動きをしているな。このあいだなどは、自ら謁見の間に出てきて、何やら大臣たちと熱心に話しておった」
「政治に関心を覚えておられるとお見受けいたします」
「そなたが焚きつけておるようだな」
「次期国王となるお方が、国政に興味を持たれるのは当然だと存じますが」
「うろちょろされると目障りなのだ。今までどおり奥に引っ込んでおればよいものを」
(どうやらプレンヌ公とわたしは、生来相容れぬものを持っているらしい)
 信条の違いだけではない、根本的な何かが違う。意を尽くせば分かり合えるかと期待していたのに、プレンヌ公爵とともにいることが日々苦痛を増してくる。
 この亡命計画さえ終われば、自然に縁を切ろうと、ひそかにエルンストは決意していた。
(だが)
 すべてはうまく行っているというのに、気持ちは一向に晴れない。
(エレーヌ姫にとって、王太子にとって……果たして、これでよかったのか)


 ラヴァレ伯爵が出て行ったあと、プレンヌ公はグラスのブランデーを一気にあおった。
「公爵さま」
「なんだ」
 カーテンのうしろの暗闇から、密偵の低い声がした。
「奥方さまが、先ほど産気づかれたとのことです」
「そうか」
 棚の扉を開け、この日のために取っておいたカルヴァドスの瓶を取り出す。
「ガスパル」
「はい」
「シャルボンの国境へ行け。リオニアの追っ手を装ってな。国境を越えようとする亡命貴族をことごとく斬り捨てるのだ。居合わせたカルスタンの使節の前で『革命ばんざい』と叫ぶことも忘れるな」
「承知つかまつりました」
 カーテンが揺れると、すでに男の気配はなくなっていた。
「ラヴァレ伯爵――馬鹿なやつめ。誰が共和主義者の手助けなどするか」
 公爵は、ナイフで瓶の封蝋を削り取った。コルクを抜くと古酒の濃厚なりんごの香りが広がる。
「ツッ」
 手元が狂い、指先に一滴の血が膨れ上がった。それを唇に含みながら、エルヴェは笑んだ。
 今度こそ、わが血を受け継ぐ男子を得る。そして、その子を玉座に登らせ、高みからファイエンタールに引導を渡してやるのだ。


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