伯爵家の秘密/番外編


5. 王太子の孤独



(4)

 朝、居館の寝室で起き上がったラヴァレ伯爵は、扉のわきにアンリが片膝をついて控えているのに気づいた。
「どうした。こんな時刻に」
「大至急、お知らせしたきことが」
 足音もなく、近侍の騎士は主のもとに近づき、短く耳打ちした。日に焼けたエルンストの赤銅色の眉間に、一すじのしわが刻まれた。
「わかった」
「今から行ってまいります」
「くれぐれも気をつけてくれ」
 アンリはクッと口の中で笑った。「それは、こっちの台詞です。クライン王宮より危険な場所は、この世にはめったにありません」
 騎士が風のように姿を消したあと、長身の執事がお茶の盆を持って入ってきた。
「お忙しい方ですね。もういらっしゃらない」
「あいつがいつ寝て、いつ食を取っているのか、わたしにもわからぬよ」
 執事はカップにすばらしく香り立つ紅茶を注ぐと、丁寧にアイロンをかけて畳んだ新聞とともに伯爵の前に置いた。主がもう何年も留守にしていたとは思えないほど、さりげなく熟練した朝の行事だった。
「ロジェ」
「はい。旦那さま」
「どうにも気がふさいで、寝つけぬ。何か妙薬はないか」
「それなら、良い方法がございます」
 ロジェは暖炉のそばへ行ったかと思うと、たちまち熱く湯気を立てたタオルを差し出した。「どうぞ」
 エルンストがそれをまぶたに乗せる間に、執事は続けた。
「昔わたしが従僕だったとき、大奥さまがわたしたちを集めて教えられたことがございます。それは言わば、暴れ馬の御し方というべきもので」
「待て。その暴れ馬とは、わたしのことか」
「はて、どうでしたでしょう。なにしろ昔のことで」
「……いいから、続けろ」
「大奥さまのおっしゃるには、その馬は鼻面を器用に使って、厩舎の扉を自分で閉めてしまう癖があるのだとか。そして、外へ行けなくなった挙句、最後には扉をぶち破り、とんでもない暴走を始めるのでございます。それを食い止めるためには、気をつけて扉を開け放しておいてやらねばならぬと」
「……」
「旦那さまも今、どこへも行けなくなった状態でおられるかと存じます。一度、ご自分を閉じ込めている扉を開いてごらんになればよろしいのではないでしょうか」
「そんな子どもの頃から本性を見抜かれているとは」
 エルンストは蒸しタオルを取り去り、琥珀色の目で天井を見上げて、吐息をついた。「母上も今ごろ彼方の国で、あきれ顔でおられような」
 執事はタオルを受け取ると、三十歳の伯爵をしみじみと見つめて、ほほえんだ。
「天国の大奥さまからは、下界の旦那さまは、いつまでもイバラで足を傷だらけにした子どもに見えておられることでしょう」


「お話がございます」
 王の庭に通され、すばやく王太子の前にひざまずいたときのラヴァレ伯爵は、まさに厩舎から放たれた馬のような荒々しさを内に秘めていた。
「なんだ、朝からけたたましい」
 フレデリクは、寝癖の残った金髪を寝椅子の腕に垂らして、不機嫌そうに眼を閉じていた。「世界の果てから竜でも飛んできたか」
「カルスタンの第二王子ヴィクトル殿下をご存じですか」
「知らぬ」
「この方とエレーヌさまとのご縁談が持ち上がっております」
「ああ、そう言えば、プレンヌ公がそんなことを言っていたな。だが、その話は立ち消えになったはずだ」
「姫君は承諾なさいました」
「なんだと?」
 王太子の声音が、一瞬にして凍りついた。
「先日、わたしが、あらためてその話をいたしました。姫君はご縁談をお受けになると約束してくださいました」
「そなた……」
 フレデリクは、拳を固めて立ち上がる。
「それがはじめから、わたしがプレンヌ公爵と交わした契約でした。望みを聞き入れてくださる代わりに、姫君を説得申し上げよと」
「わたしたちを、だましていたのか」
「はい、だましました」
 だが、その答えは清々しいほど澄んでいて、悪びれたところは少しもなかった。
「わたしには、どうしても守らねばならない友との約束があったのです。その男は、リオニア革命評議会の一員で、ラウロ・マルディーニと言います。評議会の中は穏健派と急進派のふたつに分かれており、一部の急進派は、貴族をかたっぱしから処刑することを主張しています。ラウロは、革命に私情の暴力が入り込むことにより、諸外国の介入の口実を作ってしまうことを恐れています」
 憤怒に震えていた王太子は、彼のことばを聴きながら、次第に拳をゆるめた。
「やはり、そなたは骨の髄まで共和主義者であったか」
「わたしはプレンヌ公爵に、貴族たちの亡命を手助けしてくださるよう、お願いいたしました。代わりの条件として示されたのが、王女殿下のカルスタンへのお輿入れの件です。わたしが王太子さまと姫さまに近づいたのは、それが理由でした」
 ことばを終えると、エルンストは頭を垂れ、じっと罵倒のことばを待った。しかし、やがて返ってきたのは乾いた笑い声だった。
「であろうな。そんなことだと思っていたよ。下心でもなければ、愚昧な王太子のもとに足しげく通う変わり者など、おらぬからな」
「――それでよいのですか?」
「なに?」
「一介の伯爵ごときに欺かれ、これほどまでにご自分を足蹴にされて、お怒りにならないのですか。そうやってすべてを笑いとばしてしまわれるのは、そういうふりをすれば、お心が傷つかずにすむからですか」
「……なにが言いたいのだ、ラヴァレ伯!」
 伯爵は顔を上げ、鋭い刃のような眼差しで若者を見た。
「なにが言いたいか、ですと? 言いたいことはひとつだけです、殿下。わたしが信を曲げてまで、プレンヌ公に相談するしかなかったことが、ただただ悔しいのです。公爵にではなく、あなたに助けを乞いたかった。あなたに本物の王になっていただき、このクライン王国の腐敗を正し、民を導いてほしかった。あなたになら、わが祖先が数百年前にファイエンタールに膝をかがめたように、わたしは喜んでわが身を投げ出したでしょう!」
 フレデリクはぐったりと椅子の背にもたれた。話にならないというように。「いまさら、そのようなことは無理だ」
「正しい願いなら、おのずと天から力は与えられます」
「無理だ」
 疲れた声で、王太子はかたくなに繰り返した。
 伯爵は、平伏してから立ち上がった。
「もう二度とお目にかかることもありますまい。エレーヌさまにお伝えください。『どうぞ、あなたがご自分らしく生きられるところで、生きられますように』と」
 王太子の前を辞して、あずまやの外に出たエルンストは、思わず足を止めた。
 ツルバラの陰に、エレーヌ王女が目をうるませながら立っていたからである。
「ラヴァレ伯」
「お赦しください」
 すり抜けるように立ち去ろうとする伯爵の背中に、エレーヌは「待って」と小さい叫び声を挙げた。
「わたくし、カルスタンに嫁ぎます」
「え?」
「あなたが、それで大望をお手にできるのなら、わたくしは――」
 エルンストは振り返り、苦い微笑を浮かべると首を振った。そして無言のまま王の庭を立ち去った。


 谷に、その冬最初の本格的な雪が降った。
 朝食を終えたあともラヴァレ伯爵は小食堂から動かず、霜の張った窓から、白く塗り替えられた庭を眺めていた。
 綿のような雪がくるくると舞い踊りながら落ち、雪よけのロープがその重さに震えている。すでにゆうべからの積雪で花壇はすっかり覆われ、次の春まで黒い土が見えることはないだろう。
「旦那さま」
 給仕をしていたメイドのアデライドが、いつもの控えめな調子で言った。「そのお砂糖は、もう二杯目でございます」
「ああ」
 エルンストは夢から覚めたように、紅茶をかき混ぜていたスプーンを皿に置くと、笑った。
「どうも、このところ甘党になってね。つい入れすぎてしまう」
「甘いものは、疲れを癒すと申しますわ」
 小柄なメイドは、いたわりをこめて言った。王都から帰って以来、ずっと元気のない主を見ていたからだ。
 心ここにあらずといった風情で、いつも遠くを見ている。きっと、とても大切なものを王都に置いてこられたのだ。そう思うと、アデライドの胸はちくりと痛んだ。
「旦那さま」
 主とともに王都から戻ってきた執事のロジェが、ばたばたと無節操な音を立てて食堂に入ってきたので、メイドは思い切りにらみつけた。
「カスティエ士爵さまがお戻りになられました」
「アンリが?」
 所在なげだった伯爵の全身が、とたんに力にみなぎったように見えた。
 書斎で膝を着いて待っていたアンリは、髪を乱し、顎は無精ひげに覆われて、目だけが荒々しく輝いていた。そして、着ているものはぐっしょりと濡れていた。
「ご命令どおり、九十八名の方々を護衛してリオニア国境を越え、カルスタン側の使節に引渡してまいりました」
「九十八名!」
 最後に聞いた数は、確か四十名ほどだったはずだ。共和主義陣営から寝返って旧体制につくことを決めた者が、最後の最後でふくれあがったのか。
 革命政府の現状は、決して安穏としたものではないということだろう。
「みな、無事か」
「はい、ご無事です。途中で襲撃に会いましたが、なんとか全員……」
「アンリ!」
 わずかに顔をしかめて背中を丸めた騎士を見て、エルンストは駆け寄り、肩を支えた。
「怪我をしているのか」
「革命軍に偽装した数名の追手と切り結びました。中にひとり手練がおりまして……。たいしたことはありません」
「すまぬ」
 頭を垂れる主に、近侍はからかうような笑みを浮かべた。「わたしの目には、あなたのほうが、よほど重病人に見えますよ」
「……それだけの軽口が言えるようなら、心配には及ばぬか」
 安堵して立ち上がった伯爵に、アンリはふたたび居住まいを正した。
「もうひとつございます。帰ってまいります途中、重大な知らせを耳にしました。クラインの陸軍基地に早馬で届けられたばかりでございます」
 軍の機密をいち早く知ることのできるだけの人脈が、カスティエ士爵家にはある。
「なんだ」
「クライン国王陛下が、崩御なさいました」


 四十七歳で没したフレデリク二世の大喪の礼がとりおこなわれたのは、春の芽吹きはじめる頃だった。
 大聖堂で、貴族の序列に従いラヴァレ伯爵に割り当てられた席は、側廊の端、しかも中央より後ろ。王太子と王女の席からは柱で隔てられ、はるかに遠い。これが伯爵とファイエンタール王家との身分の差なのだと、あらためて思い知る。
 後ろの席から見えるエレーヌ姫は、黒いレースのヴェールをかぶって項垂れていた。肩がいつもよりずっとか細く、憔悴しているように見える。
 庭の片隅で、じっと苦しみに耐えて、うずくまっていた少女。
 王宮舞踏会で自分の手の中で、楽しげに、軽やかに踊っていた少女。
 大皿に盛ったサバランを器用に切り分け、おいしそうに頬張っていた少女。
 雪の回廊で涙ぐみながら、白い吐息のヴェールに包まれていた少女。
(わたしは、何を考えているのだ)
 ぐっと拳を握りしめ、駆け寄りたいという衝動に耐える。
 葬儀が終わり、伯爵家の居館に戻ったエルンストは、中庭に出て、いきなり喪服のまま地面に仰向けに倒れこんだ。
「だ、旦那さま!」
 勘違いしたメイドのひとりが金切り声を上げたが、アンリがうまくなだめてくれたようだ。
 温暖な気候の王都ナヴィルとは言え、下草が芽吹いたばかりの柔らかな地面はしんしんと冷たい。その湿った冷たさを背中に感じながら空を見上げていると、つまらない苛立ちや欲望が浮き上がって溶けていくような気がする。
 少年だった頃からエルンストは、せっぱつまった状態に陥ると大地に体を預けることを好んだ。
 かつては彼も、伯爵家の跡継ぎという宿命から逃れようとした。この国の貴族のありかたに、心の底から絶望していた。領主としての責務を捨て、逃れるように隣国へ渡った。
(王太子を笑う資格は、わたしにはない)
 大勢の足音が地面を伝わって響いてきた。玄関に誰かが訪れたらしい。
「エルンストさま」
 アンリの硬い声が上から降ってきた。「国王代行フレデリク王太子さまより、ただちに王宮へ参じるようにとの召喚状が届きました」


 謁見の間に進むと、黒衣の王太子は玉座からまっすぐに来訪者を見つめていた。
 その水色の瞳から鋭く注がれる視線を受けて、伯爵はあわてて目を伏せ、拝跪した。
「お父君の崩御、謹んでお悔やみ申し上げます」
「見舞いのことば、痛み入る、ラヴァレ伯。余は今日より喪明けに戴冠の儀を迎えるまで、国王代行としての責務を担うこととなった」
 内臓がしびれたような感覚を覚える。フレデリクの口調は、三ヶ月前とは明らかに違っていた。
「そなたには、これまで世話になった」
「いえ、そのような」
「正しい願いなら、おのずと天から力は与えられる――そうだったな?」
「そのとおりでございます」
「それだけだ。もう用はない。下がれ」
「はっ」
 王太子は玉座から立ち上がる。ふたたび頭を垂れるわずかな隙にエルンストが盗み見たのは、唇を真一文字に結び、若々しい気負いと誇りがみなぎった顔だった。
 謁見の間を出たところで、プレンヌ公爵エルヴェ・ダルフォンスが待ち受けていた。
 深紅の礼装をまとった全身から放たれているのは、激しい憤怒と憎悪だ。
「公爵さま。先だってはお力添えをたまわり、感謝いたします」
 と、エルンストは何食わぬ顔をして腰をかがめた。もちろん、亡命者たちに刺客を差し向けたのが公爵であることを承知のうえだ。
 もう二度と、彼と関わることはない。訣別の思いをこめての辞儀だった。
「貴様、余計なことをしてくれたな」
「はて、なんのことでしょう」
「王太子までを共和主義に洗脳しおって。カルスタンに使者を遣わさせたのも、おまえの入れ知恵だろう」
「使者?」
「とぼけるな。リオニアからの亡命貴族たちに見舞いの品を届け、ねぎらいの言葉まで伝えさせたこと、知らぬとは言わせぬ!」
 クライン王国から、王の名による正式な使者が遣わされたということは、つまり、亡命貴族たちの存在がカルスタンの内外に公けにされたということ。
 これではカルスタンも、彼らを歴史の闇に葬ることができない。リオニア革命政府を『虐殺と暴動を産み出したならず者ども』と非難することもできない。貴族たちが自発的にリオニアから逃げ出し、革命評議会もそれを許したという形になる。
 平和のうちにリオニアに無血革命が成し遂げられたことを、世界中が認めることになってしまうのだ。
 この奇策は――フレデリク王太子が自らの考えで編み出したのか。
「何がおかしい!」
 これが笑わずにいられようか。ラヴァレ伯爵は、かがめていた膝を伸ばし、背筋を正した。
「わたしごときが、王太子殿下に入れ知恵などとは、畏れおおい」
 エルンストは太陽のような微笑を浮かべた。「わたしはただ、クラインに王が誕生した瞬間に居合わせたことを、神に感謝しているだけです」
「おのれ、下賎の民の分際で」
 プレンヌ公は、ぎりぎりと音を立てて歯を噛みしめた。「覚えておれ、わたしを虚仮(こけ)にしたこと、必ず地獄の底まで後悔させてやる」
 激しい呪いのことばを吐き捨てて去っていく公爵の後ろ姿を見送りながら、ラヴァレ伯爵は、一抹の不安に駆られた。
(わたしは、とんでもない相手を敵に回してしまったのか)
 だが、いずれにせよ、もう王宮に来ることはない。谷の奥にひきこもれば、もう公爵の逆鱗に触れることもないだろう。
 思いにふけりながら歩き出したラヴァレ伯爵が、直接玄関に向かうことなく、王の庭に通じる回廊を選んだのは、故意か偶然か。
 突如として、視界に飛び込んできた光に目を奪われた。
 あの日と同じ場所。同じ、小さな人影。輝くような金の巻き髪が風に重さをなくして、その持ち主のうなだれた華奢な首があらわになる。
「あの人は……!」
 近侍の騎士が止める暇もなく、エルンストは駆け出していた。
 中庭のベンチに腰をおろして身をかがめていた少女は、彼女を覆った影に気づいて頭を上げる。
「エルンスト……」
「あなたは、まだそんなことを……」
 苦しそうに浅い息を繰り返す王女は、以前と変わらず、ドレスの下に布をきつく巻いている。
「お兄さまがカルスタンへ、正式に縁談の断りの使者を送ったのです」
「……え?」
「兄はわたしに言いました。『おまえをどこにも嫁がせるつもりはない。一生、わたしのそばにいるのだ』と」
「……」
 エレーヌの目からひとすじの涙がしたたり落ちた。
「わたくし……怖いのです。父上が亡くなり……お兄さまも、プレンヌ公も……王宮の中に憎しみが渦巻いて、何もかもが、どんどん悪い方向へ行ってしまいそうで」
「姫君」
「不安でたまらず……ここにいれば、あなたが来てくださるのではないかと思って……どうか、どうかわたしを……助けて」
 ラヴァレ伯爵は、呆然と立ち尽くした。
 できるはずはない。目の前で苦しんでいる美しい人を、この腕に強く抱きしめるなど。
 わななく蒼ざめた唇に、思うまま口づけをするなど。
 伯爵という身分で、ファイエンタールの王女に触れることは、思い浮かべることすら赦されるはずはないのだ。
 わずか数歩の距離が、限りなく遠い。
 しかし次の瞬間にも、自分は煮えたぎる衝動に屈して、その果てしない隔てを飛び越えてしまうであろうことも、エルンストは頭のどこかで予感していた。



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