伯爵家の秘密/番外編


6. 下働きの休日



(1)

 夜明けの底でまどろんでいるポルタンスの町を、河口の方角から流れてくる灯台の霧笛の音が目覚めさせる。
 その音を合図に起き上がるのは、使用人の中でも下層に属する、下働きと呼ばれる人々だ。
 暗がりの中、ひとりの黒髪の少年が、勝手口の外階段を降りてきた。
 彼が待つのは、水路の向こうからやってくる一艘の小舟の、ゆらゆら頼りなげに揺れるカンテラの灯り。口笛で舟を呼び、残飯の入った木のかごを渡すと、乗り手は中身を船倉に空け、空のかごを返す。
 集めた残飯は、町の外で飼われている豚の群れの、その日の餌になるのだ。
 ゴミ捨てが終わると、少年はバケツに水を汲んで、軽やかに階段を上がって勝手口に戻っていく。
 運河の水で床を拭き、桶に溜めた雨水で皿を洗い、中庭の井戸からくみ上げたきれいな水を薬缶で沸かす。手早い仕事が終わるころには、空はすっかりと白み、他の雇い人たちの起床時刻になる。
「おや、エディ」
 ねぼけまなこの男が、台所の扉から顔を出した。
「おはよう、ガストン」
「ずいぶん久しぶりだな。何日寝込んでいた」
「三日くらいかな。仕事さぼって、悪かったな」
「いいってことよ。人間誰しも、具合の悪いときはある」
 エプロンを腰に巻き、薄い髪をなでつけ、きっちりと白い帽子をかぶると、ようやく男は、見慣れたコックらしい風貌になった。
「あとで、きのう作ったビガラードソースの出来を見てくれよ」
「ああ、わかった」
 きれいに片付けの終わった洗い場で、昼食に使う野菜を切るリズミカルな音が響き出すと、下働きの少年は台所を出て、廊下にモップをかけ始めた。
 部屋の隅や窓枠では、普段よりも少しだけ多い埃が、彼の帰還を歓迎している。
「そうか。三日ぶりだもんな」
 エドゥアールは軽やかに身体を動かして、次々と汚れを拭きとっていった。
 水路の向こうの家屋根から、とろりとしたクリームの上澄みのような光が窓に差し込んでくる。
 毛布と朝の暖かい陽射しにくるまって、娼婦たちはまだ、それぞれの部屋で眠りをむさぼっているだろう。しんと静まり返った玄関ホールに動くのは、彼の影だけだ。
 パオーという聞きなれたラッパの音が聞こえてくると、彼は玄関の扉を開けた。荷馬車が娼館の前で止まり、温かい牛乳を満たした缶を「ほい」と階段に置いた。彼はポケットの銀貨を一枚渡した。
「ついでにキャンディも、もらおうかな」
 配達人は荷台に戻り、牛乳を固めて作った甘い飴をいくつか取り出し、新聞紙の袋に包んでくれた。
 娼館の中に牛乳缶を運び込んだエドゥアールは、モップを納戸に戻した。
 納戸のさらに奥に扉がある。開けると、粗末な寝台と机以外は何もない小部屋。
 運河に面した漆喰壁に、小さな明かり取りが四角く切られている。間違っても客が迷い込む恐れのない、みすぼらしいが堅牢な空間が、下働きの伯爵子息の城だ。
 寝台に腰かけ、机の引き出しを静かに開ける。
 引き出しの奥に隠されていたのは、小さな肖像画だった。包み込むように手を取り、そっと唇をつける。くすんだ銅の額縁は冷たく、金臭い味がした。
 元通りに引き出しの奥にしまい、買ったばかりの牛乳飴をひとつ、その上に置いた。残りはポケットの中にねじこんで、立ち上がる。
 廊下に出たとき、ちょうど用足しに降りてきた娼婦のひとりに出会った。
「んまああ、エディ」
 彼女の甲高い声は、娼館じゅうに響いた。数秒後、二階の扉がばたんばたんと一斉に開かれ、化粧を落とした寝巻き姿の娼婦たちが階段を駆け下りてきた。
「もう体は治ったの?」
「ちょいと痩せちまったね」
「あんたの顔が見えないと、寂しかったよ」
「ありがとう。みんな」
 豊満な女たちのたくさんの抱擁とキスを浴びながら、14歳の少年はくすぐったそうに笑った。「俺は、もうだいじょうぶ。休んでいた分はすぐに取り戻すからさ」
「いきなり無理しちゃだめだよ」
「仕事はみんなで手伝うって。しばらくゆっくりおし」
「バカ言うなよ」
 エドゥアールは階段の中ほどまで駆け上がると、満面の笑みを浮かべて、ばっと両腕を広げた。
「三日も寝込んで、俺は今、元気がありあまってんだ。なんだって言いつけてくれよ。今なら教会の鐘楼にだって、船のマストにだって、走って登れるぜ」
 娼婦たちは、「あはは」と膝をたたいて笑った。
「じゃあ、あたしの部屋のランプの真鍮を磨いてもらおうかね」
「ほいきた!」
「扉の戸板が割れて、すーすー寒いんだよ。直せるかい」
「まかしとけ!」
「それじゃ、あたしは――」
「ちょいと、お待ち」
 奥の部屋から、美しい堂々たる女丈夫が現われた。この娼館の女将イサドラである。
 身内の誰かに不幸でもあったのだろうか。普段は着ない、首元まで詰まった暗色の服に身を包んでいる。
「この子に無理をさせたら、せっかく治った病気がぶりかえしちまうだろう」
 震え上がった一同から視線を戻し、日に焼けた少年をにらみつける。「エディ、あんたもあんただよ。娘たちから離れな。風邪でも移したら、どうするつもりだ」
「だから、ちゃんと治ったって」
「今日一日、暇をやる。元気がありあまってるなら、どこへなりと行っておいで」
「金もねえのに、どうやって遊べってのさ」
 ぶつぶつ文句を垂れるエドゥアールの回りから、イサドラは娼婦たちを追い払った。彼女たちはあきらめて、それぞれの部屋に戻っていく。
「あなたという人はいったい」
 背中ごしに、他の誰にも聞こえない声で女将はうめいた。「そこまで、元気なふりをなさる必要はないでしょうに」
「三日も喪に服せばじゅうぶんだろう? 俺には無関係な、どこか遠くの伯爵夫人が亡くなっただけなのに」
 淡々とした皮肉めいた答えに、イサドラはかえって、彼の抱えている哀しみの深さを思った。
「お願いですから、今日一日だけはお休みください。何を見ても、気の晴れることなどないでしょうが」
「……わかった」
 エドゥアールは、ショースのポケットに両手をつっこむと、くるりと振り返って、ニヤリと笑った。
「じゃ、遊んでくる軍資金として、牛乳代のお釣りの六ソルドは、ありがたく頂戴しといてやるからな」
「あっ、こら。お待ち!」
 あわてて伸ばしたイサドラの手をすり抜け、たちまちにして少年の姿は娼館から掻き消えていた。
「まったく」
 目にあふれるしずくをそっと手の甲でぬぐうと、彼女は苦い微笑みをたたえて、腰に手を当てた。「まったく、油断も隙もありゃしない」


「それにしても、どこへ行くかな」
 ポケットの牛乳飴をひとつ取り出して、口に放り込むと、エドゥアールは水路沿いを、ぶらぶら当てもなく歩き始めた。
 どこまでも青い春の空を仰ぎながら、歩を進める。
 足元の穴ぼこに気をとられることもない。九歳からずっと住んでいる下町には、彼の知らない道はない。
「やあ、エディ。いい天気だな」
「やあ、ピエール。商売はどう?」
「今日は朝からのんびりしてるのね。寄ってかない?」
「また今度。給金もらったらな」
 なじみの人々は、屈託なく彼に声をかける。彼が母親を失ったばかりであることを知る人は、ここにはいない。
 ラヴァレ伯爵夫人がみまかったとの知らせが来たのは、三日前だった。
『とうとう、春の雪解けを見ずに旅立ってしまった』
 父であるエルンスト・ド・ラヴァレ伯爵の手紙には、たったひとこと、そう記されていただけだった。
 それから三日間、エドゥアールは部屋に閉じこもり、人知れず母の死を悼んだ。
 三日経ち、部屋を出た彼を迎えたのは、いつもと変わらぬポルタンスの下町だ。水の都は相変わらずにぎやかで活力に満ち、人々の喜びも悲しみも、すべて水路の水で洗い流してしまう。
「あれ?」
 何も映していなかった彼の瞳が、焦点を取り戻した。
 角を曲がったすぐ向こうの川筋で、数人の大工職人が、川に張り出した古い家のレンガを補修し、新しく立派な木の橋をかけている。
「何ができるんだい」
「やあ、エディ。なんでも、医者が越してきて、ここで開業するんだと」
「医者? こんな裏町に?」
「ああ、なんでも、どこぞの貴族のお坊ちゃまだそうだ。どうせ一時の気まぐれに決まってらあ。何日で、すたこら逃げ出すか見ものだな」
「ふうん」
 興味を引かれ、診療所となる建物をしげしげと眺める。「そいつは、面白くなりそうだ」
 ここに来るのが、後年おおいに親交を結ぶテオドール・グラン医師であることを、今のエドゥアールはまだ知らない。
 ふと背後に、覚えのある気配を感じた。
「ははん、来たか」
 キャンディをかりっと噛むと、彼の足は瞬時にして、目的を持つ者の敏捷さを取り戻した。
 水路の階段を駆け下り、飛び石を飛んで反対側へ渡る。じめじめした暗い橋のたもとを、猫の子のように身を屈めてくぐったかと思えば、目抜き通りを王侯貴族のように気取って歩き、鋳物工場の汚い作業場を通り抜けた一分後には、買い物客でごった返す市場の店先をかすめる。
 彼が走るたびに、くたびれたリボンでぞんざいに結んだ黒髪の先が、ゆらゆらと楽しげに揺れた。
 町を知り尽くした地元っ子の散策は、小一時間ほども続いた。
「あー、ちくしょう。しつこいな」
 往来の真ん中でぴたりと足を止め、エドゥアールは肩越しに後ろを睨んだ。
 怒りの矛先を受けたのは、黒装束の金髪の騎士だ。涼しげな表情は、息も乱していない。
「絶対に振り切れるって自信があったのにな」
「これくらいで振り切られるようでは、あなたのお守りはできませんよ」
 口元に薄い笑いを刻みながら、騎士はゆっくりと少年に近づいた。
 エドゥアールは、またポケットから飴を取り出して、口に含んだ。
「美味いぜ。ひとつ、どうだ?」
「いいえ、けっこう」
 ふたりは、ふたたび数歩の距離をおいて歩き出した。やがて大通りの流れから逸れ、ひとけのない細い路地へと折れて、立ち止まる。
「父上はどうしておられる?」
「気丈にふるまっておいでです。もうずっと覚悟はしておられたようです。でも、無理をなさっていることは誰の目にも明らかで」
「そうだろうな」
 エドゥアールの表情が翳った。
 勘当同然に交流を絶っていたとは言え、エレーヌは国王フレデリク三世の実の妹君。伯爵夫人の死が公に発表されれば、国を挙げての大きな嘆きが沸き起こるだろう。
 そして、夫であるエルンストに集まるのは、同情よりもむしろ陰湿な非難の声だろう――『あのような身分違いの恋の果てに、死産による心労。姫君は、あの男に一生を台無しにされたようなものだ』と。
 その噂の力に負け、少しずつ、ほんの少しずつ毒を盛られているかのように、ラヴァレ伯爵は自責の思いに身体をむしばまれていくことになる。
「まあ、俺には関係ないけど」
 エドゥアールは、わざと素っ気無い声を出した。「今日は俺、休みをもらったんだ。今日一日、好きなことをしていいってミストレスに言われてる」
「愉快なものが見られそうで、ますます目が離せませんね」
「おまえにぴったりついてこられちゃ、のんびりする気にもなれねえだろ」
 長身の騎士の手が、がっしりと少年の肩を捕えた。
「こんなに、ガチガチに肩を強張らせているくせに、何がのんびりですか」
 羽根帽子に半分隠れた灰緑色の目は、慈愛と悲しみを同時にたたえている。
「イサドラに聞きました。三日間、あなたは食事を摂っていない。夜もほとんど寝ていないはずだと。そんなに腫れぼったい目をして、今も泣いているくせに」
「泣いてなんかいない」
「うそだ。あなたは、今も泣いておられる」
 だから、ひっきりなしに飴を頬張るのだ。嗚咽にゆがみそうな口に、母を連想するミルクの甘味を含み、涙とともに喉の奥に流し込むために。
「何を泣く必要がある」
 うつろな声で、エドゥアールは答えた。
「いっしょに暮らしたことも、ことばを交わしたこともない。わたしの手にあるのは、錆びた額縁におさまった小さな肖像画だけ。それなのに、何を嘆くというのだ」
 母の面影を持たぬ子どもの悲しみには、芯がない。輪郭すらあいまいだ。同じく小さいころに母を亡くしたユベールには、それが痛いほどよくわかる。
 わかるからこそ。
 突然の怒りに似た衝動に駆られて、ユベールは乱暴に主人の身体を抱きしめた。
「だから、あなたは、頑張りすぎだというのです」
 細い金の産毛の生えた耳たぶに噛みつかんばかりに口を近づけ、激しい言葉を吹き入れる。
「わたしの前で、笑うふりなどなさる必要はないのです。どこまでご自分をいじめるのですか。せめて、わたしにだけは寄りかかってくださってもよいでしょうに」
「……ユベール、痛い」
「あなたにとって、わたしはその程度の者なのですか。本当の意味で心を許してはいただいていないのですか」
 どこかの店の裏口が開き、ひとりの若い女が出てきた。
 見栄え良き騎士と少年が抱き合っている姿を見て、顔を真赤に染め、扉をばたんと閉めてしまった。
「ぶっ」
 エドゥアールは、ユベールの腕の中で身体をよじって笑い出した。
「……確かに誤解される状況だな」
「あの娘、どうやらあなたのことを知ってるみたいですね」
「これじゃ当分、噂で町を歩けなくなっちまうな」
 伯爵子息は、落ちてくる雨を口で受ける獣のように、笑いながら天を仰いだ。久しぶりの、本当に久しぶりの青空が、彼の瞳に宿った。
「今日は思い切り、羽目をはずすぞ。ユベール、ついて来る勇気があるなら、ついてこい」
「承知しました。それでは、とっておきの遊びを教えてさしあげましょう」
「はっ。娼館で育った俺に、おまえが教えることなんてあんのか?」
「この世の中には、あなたの知らない悪い遊びが、山ほどあるのですよ」
 ふたりの主従は、軽やかに身をひるがえし、競い合って舞い立つ二羽の鳥のように路地から飛び出した。


「あれ?」
 昼下がりの強い日差しに照らされた白っぽい石畳の道を、ゆるゆるとくだる。
「結局、今日は俺、ひたすら食べたことしか記憶がない」
「そうでしたか。都合の悪いことはお忘れになったのだと思いますが」
「とっておきの悪い遊びを教えてくれるって言ったのに、うそつき」
「この世に、他の生命を奪うことほど悪いことはないでしょう」
「ああ、確かに昼飯にふたりで平らげた肉は、仔牛一頭分はあったな」
 このあたりは、ポルタンス随一のお屋敷街だ。港を見下ろすなだらかな丘には、香り豊かなミルトスの生垣が続き、ミモザの黄色い花が枝垂れている。
 ゆったりと春の花々を愛でて歩いていると、前方から男たちの集団が坂を登ってきた。
 ユベールは後ろにいる主を手で制止し、生垣の陰に隠れるように合図した。彼自身は羽根帽子を目深にかぶり直し、屈んで靴の編み上げ紐を直すふりをする。
 男たちは四人。いずれも髪を短く刈った逞しい体つきで、さしずめ軍人あがり。だが、どことなく風貌が嫌らしく崩れているのだ。まっとうな活計(たつき)を持つ者たちとは思えなかった。
 彼らは道端の騎士をちらりと見ると、そのまま去って行った。
 良からぬ企みを持つ輩たちとは、係わり合いにならぬにこしたことはない。安堵したユベールは、背後を振り返って、ぎょっとした。
 エドゥアールがいない。
 生垣をかきわけて奥へと進んでいくと、落ち葉の積もった地面の上に、主の靴が見えた。猫のように四つんばいになって、何やら熱心に覗きこんでいる。
「若さま」
「しっ」
 エドゥアールは騎士のマントをぐいと引っ張り、同じ姿勢になることを命じた。
 生垣の向こうにあるのは、春の色に染まった広い庭園だった。そこかしこに南国の蝶のように色鮮やかな花が咲き乱れ、風が吹くと、オリーブの銀の葉裏が星が瞬くようにひるがえる。
 真ん中の白いあずまやに、白いショールをまとった美しい女がいた。
 女はガーデンチェアにひとり座り、レースのハンカチーフを手に、はらはらと泣いている。
「これは――」
「絵の中に迷い込んだみたいだな」
 ふたりは息を殺して、幻のような光景を見つめた。
 だが、その静けさは長く続かなかった。
「逃げなさい、コレット!」
 恰幅の良い口ひげの男が蒼白になって、建物から飛び出してきた。「早く!」
「あ、あいつは」
 見覚えのある、娼館のなじみ客。「州長官!」
 そして、その後ろから、先ほど道でやり過ごした四人組が剣を手に、猛然と突っ込んでくる。
 非凡な主従は顔を見合わせて、うなずいた。
 風景画と見まごう景色は、一転して活劇の舞台となった。




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