伯爵家の秘密/番外編


6. 下働きの休日



(2)

 ガストンが、コック帽をかぶって初めてガストンらしくなるように、その男は赤い三角帽をかぶって、ようやく州長官だとわかる。
 ポルタンスを含む南部のラトゥール河流域を治める州長官デジレ・ギルマンは、緑色のガウンが半分脱げかけた、情けない姿で庭にへたりこんでいた。
 若いころは三角帽を押し上げるほどの豊かな黒髪だったろう頭頂は、昼下がりの斜光をまぶしいほどに反射している。
 州長官とは、国王の代官として各州に派遣され、貴族の所領をまたいで徴税、司法の権限をふるう最高責任者だ。
 並大抵の心臓の持ち主では務まらない。なにせ世襲貴族ではない身分の者が、国法によって権利を守られた誇り高い貴族たちを、脅し、なだめすかし、時には媚びへつらうという高等技術を駆使して、手玉に取らなければならないのだ。
 それなのに、この男は気が弱く善良そうで、せいぜい小さな荒物屋の店主にしか見えない。王都から遠く離れて有力貴族の荘園もなく、南国ののんびりした土地柄のせいかもしれない。
「コレット」
「お父さま」
 腰を抜かしていたギルマンは、這うようにして愛娘のいるあずまやにたどりつき、互いの無事を喜んだ。
 邸宅に得体のしれぬ者どもが乱入したという知らせを聞いたとき、ギルマンは午睡をしていた。あわててベッドから跳ね起き、外に出たときは、暴漢は間近に迫っていた。
 もうだめかと顔を覆いかけたとき、庭に飛び込んできたのが、ふたりの若者だった。
 ひとりは羽根飾りの帽子をかぶった金髪の騎士、もうひとりは、つぎの当たった服を着た黒髪の少年。彼らはたちまちにして四人の暴漢を撃退し――武器を使ったようには全く見えなかった――、気がつけば暴漢どもの姿はなく、庭は元どおり、草木が風にそよぐばかりの静けさを取り戻していた。
「どなたかは存じませんが、ありがとうございました」
 州長官は、襟元をかきあわせ、騎士に対して深々と頭を下げた。
「お客さん」
 隣にいた従者らしき少年の声に、顔を上げる。
「おまえは……」
「やだな、覚えてないんですか。イサドラの店でいつも会ってるエディですよ」
「えっ」
「うちで過ごしたあとは、いつも俺の名前を大声で呼んで、通りまで馬車を呼びに行かせるでしょう。くれるお駄賃は判で押したように、今じゃ他のどこでも見かけねえ最小貨幣単位の1/4ソルド銅貨」
「お、お、おまえか」
 ギルマンは蒼白になって、ちらりとコレットを見る。確かに父親が娼館のなじみ客だと知ってうれしい娘はいないだろう。
 だが美しい少女は、そんな不快はおくびにも出さず、優雅に腰をかがめた。
「エディさま、父がいつもお世話になっております。コレットでございます。本日は危ないところを助けていただき、ありがとう存じました」
「あ、ああ」
「騎士さまも、本当に感謝いたします」
 ユベールは羽根帽子を小脇に、黙礼を返した。
「よろしければ、中にお入りになって。そろそろ風も冷たくなってまいりました。ゆっくりとお茶でも召し上がってくださいまし」
 父親のギルマンは、「馬鹿な」と声にならない叫びを上げながら、彼女の後ろで必死で首を振っている。
「それじゃお言葉に甘えて」
 エドゥアールは、すたすたと屋敷に向かって歩き始めた。
 州長官は、あわてて追いついてきて、彼の隣に並び、噛みつくように言った。
「少しは、遠慮しろ。そろそろ娼館が表の扉を開ける時間だろう」
「おや、よくご存知で。よっぽど足しげく通ってらっしゃると見える」
 ギルマンは「う」と息をつめる。
「普段ならさっさと失礼するところだけど、今日は運よく休暇中。それに、まだ肝心なことを聞いてないもので」
「なんだ」
「あの男たちが、どうしてお客さんたち父娘を襲ったのかなっていう謎」
「決まっておる」
 州長官は肩をそびやかした。「州長官という職業柄、わしには政敵がたくさんおるからな」
「ふうん。それだけ? あいつら、まっすぐにお嬢さんを狙って来たように見えたけど」
「わしを狙ったのだ。あの子に狙われる理由など皆目ない」
「どうも、納得いかねえなあ」
 エドゥアールはぶつぶつ呟きながら、テラスから食堂に入った。テーブルの上には、すでにコレットの指図どおりに、お茶の用意ができている。
 ギルマンは、まず金髪の騎士に席を勧め、自分は正面の主用の席についた。エドゥアールは、その後ろに立っているのが当然という顔だ。
 どこへ行っても、ふたりはこういう扱いを受ける。人々は、騎士であるユベールのほうを主人としてもてなし、貧しい身なりの黒髪の少年は、彼の従者とされるのだ。逆であるとは、誰も思わない。
「エディさまは、どうぞこちらへ」
 機転を利かせたコレットが、自分の隣の席を指し示した。
「コレット」
「いいえ、命の恩人に、そのような酷いもてなしはできませんわ」
 ツギの当たった服を着た少年は、ヒューと口笛を吹いた。「そいつは、ありがてえ」
 勧められた椅子を音を立てて引きずり、用意されていた焼き菓子をさっそく無遠慮に頬張ると、エドゥアールはもぐもぐと口を動かしながら、言った。
「じゃあ、さっきの話の続きをしましょうか、ギルマンさん。暴漢の正体に心当たりがあるんでしょう」
「……なんのことだ」
「やつらが押し入ったとき、あなたはお嬢さんに『逃げろ』と叫んだ。お嬢さんが目的であることを知っていた。もし政敵だと思っていたなら、真っ先に自分が狙われると思って、逆の方向に走ったはずでしょう」
 ギルマンは「むう」とうなりながら、紅茶を意味もなくかきまぜている。
「お父さま」
 コレットは、父親をうながすような、静かな熱意をこめた声で言った。
「いや、秘密を守れるとは、とても思えん」
「イサドラの店は、どこよりも口がかたいことで有名だけどなあ」
「嘘つけ。わしが通っていることを、あっさりと娘の前でばらしたくせに」
「ああ、そう言えば、コレットさん」
 エドゥアールは、水色の瞳を楽しげに細めながら、言った。
「娼館と言っても、いろいろあってね。うちの店は、一流のコックが美味い食事を出すので、政界や財界の人が秘密の会談をするのに使ってもらってます。お父さんは岩のように真面目なお方ですから、娼婦と女遊びなんかするわけありません。そのへんは疑わないであげてくださいね」
「まあ、そうだったんですか」
 うしろで滝の汗をかいている州長官に、彼はにっこりと笑ってみせた。
「というわけで、お客さん。ひとつの真実は百の嘘を打ち砕くってもんでね。あとはあなたの心がけ次第」
(ま、まんまと弱みを握られた!)
 と、ラトゥール地方の為政者は、心の中で叫んでいることだろう。
「わかった。だが、事実を打ち明ける前に、そちらの騎士さまのことも教えてはいただけまいか」
「ああ、この人のことは、気にしなくていいんですよ」
 エドゥアールは素っ気なく答えた。「身元は確かです。ただ、ちょびっと女ぐせが悪く、娼館のツケがたまりにたまって、その返済代わりに働いてもらっているだけですから」
「まあ」
 コレットはわずかに眉をひそめ、同情と失望の入り混じった声をあげた。
 無表情にお茶を飲むユベールのカップを持つ手が、ほんの少し怒りに震えている。
「それならば、話そう」
 ギルマンは、深いため息を皮切りに、椅子から身を乗り出した。
「実は、一週間ほど前に、わしのもとに脅迫状が届いたのだ」
「脅迫状?」
「家族に危害を加えられたくなかったら、贖い金三万ソルドを寄越せというのだ」
 エドゥアールは、ひゅーと口笛を吹いた。「三万ソルド!」
「おりしも、州の金庫には今年の分の関税が入ってきたばかり。敵はそれを見抜いておると見える」
「なるほどねえ」
 貿易自治都市ポルタンスを膝元にかかえたラトゥール州は、かなりの税収がある。それを束ねる州長官と家族が、その金を目当てに脅迫される――確かに、ありうる話だろう。
「そんな脅迫状が来たってのに、まったく警戒していなかったとは、無用心だね」
「ただの脅しだと思っていたのだ」
 ギルマンは、いかにも悔しげに膝を叩いた。「これでわかっただろう。さっそく今夜から屋敷の警備を三倍に増やす。きみたちには恩義を感じておる。しかるべき褒美は取らすから、今日のところは帰ってくれないか」
 ぎろりとにらむ目が強い眼光を放つ。「よいな、コレット。しばらくは庭にも出ず、家に閉じこもっておるのだぞ」
「……はい。お父さま」
 美しいオリーブ色の瞳が、悲しいあきらめに曇った。


「さすがだな」
 州長官の屋敷を辞するときは、すでにあたりは夕闇に包まれていた。茜色の残照がわずかに、眼下の海と空のはざまにたゆたっている。
「なにがですか」
「州長官のことだよ。真実を打ち明けたふりをして、実はちゃっかりと肝心の秘密は隠してる」
「脅迫状の話は、嘘だということですか」
「ああ。もしそれが本当ならば、あれほど警備が手薄で平気なはずはない。それに――」
 エドゥアールは立ち止まり、顔をめぐらし、今出てきたばかりの豪邸を見上げた。
「あれほど似てない父娘はいないよ」
「確かに」
 デジレ・ギルマンは黒髪。しかしボンネットに隠されたコレットの髪は、見事な金色だった。ギルマンの亡くなった奥方が金髪ならば、遺伝的にはありうる話ではあるが。
「調べてまいります」
「頼む。あのご婦人が狙われる理由が、必ず何か別にあるはずだ」
 会話が終わったとたん、騎士の姿は隣から消えていた。エドゥアールはひとりでゆっくりと、港に続く坂道を下り始めた。
 ポケットの中に手を突っ込み、まだ残っている牛乳飴をぎゅっと握る。
 コレットのむせび泣く姿が、瞳の奥にしっかりと焼きついていた。娼館の下働きの彼をひとりの人間として扱ってくれた、やさしい少女。どんな理由があろうと、泣いてほしくなどない。
 泣きたいほどの痛みを胸に抱えている今のエドゥアールだからこそ、心からそう願うのだ。


 娼館に戻ってすぐ、起こったできごとをイサドラにかいつまんで話した。十二年間、このポルタンスの裏町に店を構えてきた女将ほど、こういうとき頼れる人はない。
 真夜中のミストレスの私室では、州長官デジレ・ギルマンとその家族の生活が、あぶりだされるように明らかになった。
 ギルマンの亡くなった奥方には兄がおり、さる男爵家の家令を務めていた。コレットは、その男爵家の令嬢だというのだ。
「なぜ、男爵令嬢が、州長官の養女なんかに?」
「そこが、わからないんだよ」
 一般には、金持ちの商家の息女が、貴族の養子に入る場合が多い。平民が貴族の身分と特権を得るためには、それが唯一の方法だからだ。
 経済的に苦しい爵家の中には、公然と養子縁組を『売る』ことすらあった。
 だが反対に、よほどのことがない限り、貴族が平民の養女になることはない。
 コレットは六歳のときにギルマン家に養女に入り、ギルマンの奥方が亡くなった後は、男手ひとつで育てられた。普通、上流階級や富裕層の子女は、厳格な修道院の学校に預けられて、令嬢にふさわしい教養を身につけるものだが、コレットは十七歳になる今まで、外に出ることもなく、ほとんど家に閉じこもって暮らしているという。
「実を言えば、最初は俺、ギルマンさんの隠し子だと疑ってたんだけど」
「ないない。あのお方は、そういう危ないことをする人じゃないよ」
「ああ。その疑いは消えた。コレットは金髪なんだ」
 イサドラの唇が、『え』という形に開いた。
「どういうことだい。数少ない目撃情報じゃ、ギルマンのお嬢さんは黒髪のはず」
「いつもは、黒く染めてたってことかな」
 エドゥアールは、椅子から立ち上がった。イサドラの部屋の奥には、誰も開けたことのない扉がある。それを開ける権利があるのは、この世でただひとり。この下働きの少年だけ。
「わたしと同じ――髪を染め、自分の素性を隠し、真実が明らかになる日を恐れながら生きている――ということだろうな」
「……若さま」
 四方を本棚で囲まれた窓のない豪奢な部屋。その真中に立つ、ぼろ服に身を包んだ伯爵子息の背中には、やり場のない苛立ちと悲しみが表れている。
 だが振り返ったとき、太陽のような笑顔の中に、悲しみの痕跡はみじんもなく消え去っているであろうことも、イサドラはよく知り尽くしていた。


 翌日、ガストンが料理の仕込みをしている午前の厨房に、朝の一仕事を終えた下働きの少年が、よろよろと入ってきた。
「腹へったあ。なんかある、ガストン?」
 エドゥアールは、ナラ材の調理台に倒れこむようにして座った。
「ああ、夕べの夜食のスコーンの残りならあるぞ」
「それがいい。たっぷりとラム酒の入ったクリームをのっけて食べてえ」
「休日はどうだった?」
「だめ。へたに休むと、よけいに疲れる」
「はは。適当に仕事して、適当にさぼってるほうが、人間疲れないものさ」
「エディ!」
 イサドラが、豊満な胸を揺するようにして、勢いよく入ってきた。
「まだ木箱がそのままじゃないか。あれほど小さく割って片付けておけって言ったのに」
「あ、忘れてた」
「あんたという子は、いつになったら、まともに仕事を覚えるんだい」
「適当にさぼってるほうが疲れねえって、ガストンも言ってるぜ」
「あんたは、適当じゃなくて、ずっとさぼってるっていうんだよ!」
 女将の顔には、いつもの調子で小言が言えるという喜びが浮かんでいた。
 エドゥアールは、元の調子に戻りつつある。普段どおりに、『怠けぐせのある下働き』という役割を演じて、それを楽しんでいる。
 しかし、昨日のように心に余裕がないときは、何もかも引き受けて働いてしまう。それも、自分に罰を科しているかのような、がむしゃらな働きぶりだ。
 この、あまりにも有能で、あまりにもおのれに厳しい少年は、まだ何と言っても14歳なのだ。回りが配慮し、先回りして休みを与えてやらなければならない。
「それはそうと、州長官さまから使いの者が来てね」
 イサドラは何げない口調で、エドゥアールの最大の関心事を告げた。「ギルマンの旦那が、今夜『おしのび』でお見えになるってさ」
 使いは、『おしのび』という部分をことさらに強調していたのだ。
「なるほど。さっそく俺が秘密を守るように、釘を刺しに来るってわけだ」
「何の話だ。具合の悪いことになってるなら、手伝うぜ」
 ガストンが大きな鉄のフライパンを、棍棒のように突き出してみせた。
「ありがと、だいじょうぶだよ。それより今夜は、州長官の好物をじゃんじゃん作ってくれるかな」


 夕暮れ、エドゥアールは裏口の階段を降りて、水路の向こうを見つめた。春の霧にまぎれて、アーチ橋の向こうからゆらゆらと舟の影が現れる。
 人目を気にするおしのびの上客は、表の扉をくぐらずに店に入るために、こうやって舟を使って訪れることが多いのだ。
 黒いフードとマントの男が降り立った。下働きの少年は、厨房の外側の通路を使って、貴賓室へと案内する。
「誰でもお好みの子呼びますけど、どうします?」
「いらん。今日はおまえと話に来たのだ」
「わあ、じゃあ俺が、指名料三十ソルドいただいちゃっていいかしら?」
「……バカもの。気色悪い」
 貴賓室には、肉やワインの豪勢な食事が調えられている。
 ギルマンは、ソファに腰を下ろすと、小ぶりの箱を取り出してテーブルに置いた。
「昨日の礼だ。銀貨五十枚入っている」
「ふうん、口止め料も含めて?」
「まあ、そんなところだ」
 エドゥアールは、キャビアのパイ詰を指でつまみ、口の中に放り込んだ。「で、いったい何を黙ってればいいんでしょうか」
「昨日見聞きしたできごと、一切合財だ」
「たとえば、お嬢さんの本当の父親の名とか?」
 ギルマンは片眉を不快そうに上げた。
「知っているなら、話は早い。そうだ。コレットは私の娘ではなく、カロン男爵から養女にした子だ」
「そうじゃなくて、ほんとのほんとの父親の話」
 州長官は、飲みかけていたワインを噴きそうになり、グラスを乱暴にテーブルに置いた。「なんだと?」
「運輸大臣、ブノワ侯爵」
 蜀台の灯を受けて、卑しい身分の少年の目は、暮れなずむ紺青の空に瞬く宵の明星のように光った。
「コレットさんは、ブノワ侯とカロン男爵夫人との間にひそかに生まれた子どもだった。たまげましたよ。この醜聞が公になれば、クライン王国の政界は、ひっくり返るほどの大騒ぎになるでしょうね」




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