7. 伯爵夫人の涙
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謁見の間に入ると、ユルバン・ド・ティボー公爵が、王の前に身を投げ出すようにして額づいているのが見えた。
「ティボー公、何もそこまでせずとも」
フレデリク三世は困り果てた様子で、居心地悪そうに玉座から半ば腰を浮かしている。
「いいえ、王よ。一族の不始末のせいで、ラヴァレ伯を窮地に陥れてしまいました。わたしには合わせる顔がありません」
「あの男が、これしきのことで窮地に陥るなど、ありえぬと思うぞ」
「レティシアの両親にも、よく言って聞かせました、ラヴァレ伯はそのようなことをするお方ではないと。愚息も、事ここに至って、ようやく己の過ちに気づきおったようです。わたしはかつて、エドゥアールどのを孫の婿にと夢見ておりました。こんな形でなければ、むしろ諸手を挙げて大歓迎していたのに」
愛すべき老公の欠点は、いったん自分の話に没入すると、相手のことばを聞く耳持たぬことである。
「しかも、今に至るまで軍の不穏な空気を読めなかったのは、愚息とともに、元陸軍元帥であるわたしの責任でもあります。ただちに、公爵の位および職をはく奪するとともに、どうぞきつくお咎めくだされますように」
「爺さん、それはちょいと気が早すぎると思うぜ」
エドゥアールは、赤絨緞を踏みしめて近づくと、クライン国王に対して、王族だけに許された簡素な立礼を送った。そして、ひざまずいている老公に対しても、尊敬と親しみをこめて頭を垂れた。
「あんたや元帥が辞めちまったら、旧プレンヌ公派の思うツボだろ。陸軍全体が、とんでもないヤツに背後から操られることになる」
ユルバンは、彼に助け起こされると、訊ねた。「とんでもないヤツとは?」
「フラヴィウスだよ」
それを聞いて、「ああ」と声を上げたのは、フレデリク三世だ。
「武器商人ギルドか!」
彼らは、ようやく得心が行ったという眼差しを交わし合う。
「プレンヌ公が現役のころから、一派は何年にもわたって秘密裡に陸軍の帳簿を改ざんし、莫大な裏金を蓄えてるらしい。その入れ知恵をしたのが、フラヴィウス。もちろん、その金の一部は奴のふところに、じゃんじゃん流れてるって寸法だ」
王は、忌々しげに歯をきしませた。「あやつなら、あわよくば、そなたを失脚させようと画策したのもうなずける」
「ああ、長い腐れ縁だからな」
武器商人ギルドは、大陸全体の平和を掻き乱し、戦争によって懐を肥やそうとする、国を越えた巨大組織だ。
数年前、カルスタン王国とリオニア共和国の国境紛争を陰で演出し、プレンヌ公爵を焚きつけて、クライン王国とカルスタンを結ばせようとしたのも、このフラヴィウスだった。
リオニアと不可侵条約を結ぼうと動いていたエドゥアールを捕えて、奴隷に売ろうとしたこともある。ところがエドゥアールは、『海の帝王』が率いる海賊たちにギルドの積荷を襲わせ、その陰謀を未然に防いだのだ。
さらに三年前には、ユルギスの小麦を買い占め、価格を釣り上げておいて、混ぜ物をした小麦を市場に出回らせるというあくどい商法を、ラヴァレ伯爵がリンド侯爵とともに潰したこともあった。セルジュが、ユルギスの王女ヒルデガルトと結婚したときの逸話である。
こういう長年の経緯で、フラヴィウスはエドゥアールを蛇蝎のごとく憎んでいる。その個人的な恨みが、今度の一件に色濃くあらわれているのだ。
ティボー公令嬢レティシアが、お腹の子どもの父親だとエドゥアールを名指したのも、フラヴィウスの策略だろう。
「孫娘が、そのようなことを」
老公は、白い顎ひげをむしらんばかりに悔しがっている。
「面目ない。まさか、ティボー公爵家に、そのような穢れが入り込んでおったとは」
それを聞いて、フレデリク王が苦々しく笑む。
「ファイエンタール王家とて、同じことよ、大叔父上。清い血筋などというものは、この世には存在しない」
「わしの教育が間違っておったのだ」
「どんなに優れた王にも、凡庸な子は産まれ得る。むろん、その反対もだ。親の性質が子に伝わるか否かは、博打のようなものかもしれぬな。賭けるものが多いほど見返りは多いが、全て失う確率もゼロではない」
「後の世代のことは、推して知るべしじゃな。血筋によって身分を受け継ぐ今のやり方は、間違っておるのやもしれぬな」
「あーあ。爺さんまで共和主義者になっちまったか」
エドゥアールは楽しげな笑い声を上げてから、
「こうしちゃいられねえ」と、赤絨緞の上を駆け出した。「伯父貴。ティボー公の辞表は、絶対に受け取らないでくれよ」
「心得ておる」と、国王は叫び返した。「どこへ行く?」
「待ってろ。土産をうんと持って帰ってくる」
陸軍本部の地下へ通じる階段を降りるにつれて、むっと饐えた匂いが漂ってくる。
「王牢は高い塔の上にあったから、空気はよっぽどマシだったな」
エドゥアールは暗い天井を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
彼が国務大臣になってから、まっさきに着手したのが、牢獄の整備だった。貴族だけが入ることのできる王牢を廃し、一方で、一般の牢獄を人間の尊厳が保たれる衛生的なものへと改善する。そして、貴族民衆の別なく、誰もが同じ牢獄に入るものとする。
それはつまり、貴族と民衆でまったく異なっていた裁判制度を統合することをも意味していた。牢獄の改革とは、とりもなおさず、身分制度の改革でもあり、共和主義者としてのラヴァレ伯爵の、遠く険しい道のりの第一歩だった。
しかし、その改革がおよばない場所がある。それがここ、陸軍の営倉だ。
営倉は、軍隊独自の『軍規』による懲罰のための独房なので、一般の法律が適用されないのだ。
先導していた衛兵が、ひとつの扉の前で立ち止まった。鍵がはずされると、最初にユベールが、次に伯爵が中に入った。
「陸軍少尉のエミール・ド・ダヤン士爵です」
明かり窓もなく、灯火もない部屋で、ひとりの青年がひざまずいていた。血を吸って茶色に変色した軍服、乱れた黒色の短髪にも、わずかに血糊のあとがついている。瞳はうつろだ。
エドゥアールは顔をしかめた。「拷問でも受けたのか」
「軍規違反を犯した者は、多かれ少なかれ、こういう扱いを受けます」
ユベールは、まったく同情を感じていない口調で説明した。
「何をした」
「幕僚室で会計を担当しておりましたが、先月、帳簿を改ざんした容疑で拘束されました」
若き士爵は、顔を上げた。「わたしは、そっ、そのようなことは……」
あとは、激しく咳き込む。長期の獄中生活で、ひどく健康を害しているらしい。
エドゥアールは、彼の前に片膝をつき、囚人の目を覗き込んだ。
「いくつか質問をしたい」
「は、はい」
「ティボー公爵令嬢レティシアのお腹の子の父親は、おまえか」
少尉は、額を汚れた床に押しつけて、すすり泣いた。
「……すみません」
「なぜ、そんなことをしたとは問わない。ただ、レティシアはおまえを牢から助け出そうとしている。悪人の言いなりになって、女の身で誇りも名誉もすべてをなげうって、おまえを必死にかばおうとしている。そのことを忘れるな」
「……はい」
「何があっても、決して死ぬな。生きろよ」
エドゥアールは立ち上がり、牢獄を出た。
「釈放はできないのか? あのままだと命にかかわるぞ」
「死ねば、それだけの男だったということです」
付き従う騎士は、吐き捨てるように答える。
「そんなに腹を立ててるのか」
「ひとりの女性を不幸に突き落とすことがわかっていながら、一時の激情に見境をなくすなど、士爵の風上にもおけぬ男だと思っています」
「ずいぶん冷たい物言いだな」
ユベールがこんなに負の感情をあらわにするのは珍しい。つい愛する妻の身に置き換えて、ものごとを見てしまうのだろう。
男は女次第で、どのようにも変わるものだ。セルジュにしろ、ユベールにしろ、それまでとの落差が激しいだけに、いちいち驚かされる。
「いずれにしても」
激情をあらわにしたことを恥じたのか、幾分声をあらためてユベールは続けた。「懲罰の権限は、オブリアン中将が握っています。釈放はしますまい。罪を被せたまま死んでしまえば、万々歳というところでしょう」
「帳簿を操作し、不正な裏金を蓄えた罪を、彼ひとりに押しつけるわけか」
「彼ひとりではありません。その裏金の行き先は、ティボー元帥になっているはずです」
主従は歩きながら、顔を見合わせた。
「元帥はその裏金を、今や最も権勢をふるうラヴァレ伯爵に貢ぎ、ついでに娘も貢いだという話になるわけか。この下品でくだらない三文芝居の脚本家兼演出家がフラヴィウス、俳優は元プレンヌ公爵一派、観客は、俺の改革を嫌っている貴族たち……ってとこかな」
「あの武器商人、いつかは何か仕掛けてくると恐れていました。ひどく若さまのことを憎んでおりましたゆえ」
「俺は少し、急ぎすぎていたのかもしれないな」
エドゥアールは地下から出て、伸び上がるようにして秋空を仰いだ。
彼が中心になって推し進めてきた貴族制度の改革に対して、当の貴族たちからの反発は決して少なくはない。もし何かひとつでも失敗をしでかせば、退任と断罪を求める大合唱が起きるだろう。そうなれば、国王といえども流れを止めることはむずかしい。
だから、貴族会議のたびにエドゥアールは、どこをつつかれても綻びがでないように、神経質なほど念入りな下準備をしていた。いつも飄々としている彼が、それほど神経をすり減らしていることを気づいている者は、そばでいつも彼を見ている近侍のユベールくらいだろう。
「己や家族を犠牲にしていたつもりはないが、やっぱり今考えるとそうなんだろうな。いつのまにか、ミルドレッドや領館のみんなと心が通わなくなっていた」
ユベールは、からかうような笑みを見せた。「わずかな間にせよ、奥方さまに信じていただけなかったことが、かなり堪えているようですね」
「いや、ミルドレッドより、ソニアのほうがよっぽど怖かった。おまえが構ってやらないせいだ」
「主人夫婦の倦怠期が、回りに伝染したのですよ」
言い合いながら陸軍本部から馬で居館に戻ると、ソニアが玄関の扉を開けた。
「まあ」
ユベールの姿を認めると、黒い大きな瞳がみるみる涙に濡れた。
「おかえりなさいまし、若旦那さま」
「ミルドレッドは?」
「公爵ご令嬢さまのお部屋です」
「わかった。俺もすぐ行く」
エドゥアールが階段を登っていく後ろに付き従おうとするユベールの前に、ソニアは両手を広げて立ちふさがった。
「ソニア。どきなさい」
「わたしに……わたしに、何か言うことはありませんか」
ユベールは喉がつまったような音を立てたが、せつなげな微笑を浮かべて、ソニアの手を取った。
「会いたかったよ」
唇が合わせられたとたん、ソニアの腰が、番を外されたようにふにゃりと砕けた。
床にぺたりと座り込んで泣き出してしまった妻を残して、騎士はすばやく伯爵の後を追う。
客間に入ったエドゥアールは、公爵令嬢に会釈した。
「お久しぶりです、レティシア嬢。お加減はいかがですか」
彼女の隣に、ミルドレッドが肩を抱くようにして座り、その脇に、侍女やメイドたちがはべっている。
「陸軍営倉に行って、ダヤン士爵という罪人に会ってきました」
エドゥアールのことばに、レティシアはうなだれたまま、膝の上でぎゅっとハンカチーフを握りしめた。
「なんのことでしょう。わかりませんわ」
「ダヤン士爵はまじめで誠実な男です。あなたの父上であるティボー元帥に気に入られ、数年前から伝令としてしばしば、公邸に出入りしていた。そこであなたと士爵は知り合った。淡い恋心は慎重に隠されてはいたが、次第に周囲の使用人に気取られるほどに膨れ上がった……そうですね?」
「……」
令嬢は唇をきゅっと噛みしめた。
「折しも、幕僚室では一つの問題が持ち上がった。武器購入のために支出されたはずの軍事費の一部が、外国を経由して貯めこまれている。何年も続いてきた悪習は、莫大な裏金を生み出し、それをねらって胡散臭い連中が群がってきた。下手をすれば、陸軍どころか、国をゆるがす大醜聞に発展しかねない。若く正義感に燃えるダヤン士爵は、この不正を見逃すことができずに悶々としていたが、愛するあなたの父上の立場を思うあまり、ついに直接、元帥に進言する決意をした」
ハンカチーフのレースがかすかに震えている。
「ところが約束の時刻、さし向けられた御者に案内されて訪れた別邸にはティボー公はおろか、使用人たちの影もなく、あなたがひとりきりだった――そして」
エドゥアールは、深いため息を吐いた。
「残念です。これほど見えすいた罠に、ふたりともあっさりとかかってしまうなんて。若気の至りということを差し引いても、もっと慎重になるべきだった」
「すみません……」
「お父上に、お腹の子の父親を問い詰められたとき、俺の名を出したのはどうしてですか」
「あなたは、貴族社会を壊して、新しい体制を作ろうとしていらっしゃる方だと聞きました。きっと旧プレンヌ公派に敵対して、エミールを助けてくださるだろうと」
「誰に、そんな入れ知恵をされたんです?」
そのとき、部屋の隅でひそかに動くものがあった。
公爵令嬢に絶えず付き従っている黒い服の侍女だ。彼女は、人々が会話に気を取られているあいだに、そっと扉から外へとすり抜けた。
「どこへ行こうというのだ」
回廊に置かれた彫像の影から金髪の騎士が現れた。「まことの主人のもとへ逃げ出すつもりか」
侍女は、懐からすばやく短剣を取り出すと、飛びかかって来た。
ユベールは腰の剣のさやで、それを受け止めると、そのまま横に薙ぎ払う。女は壁に激突し、あっけなく意識を手放した。
「そいつだったか」
エドゥアールが物音を聞きつけて、部屋から出て来る。
「侍女ならば、女主人の恋の相談に乗るふりをして、巧みにそそのかす役回りには、うってつけだ」
「最初から手先として送り込まれたのか、それとも途中で裏切ったのかはわかりませんが」
「もうちっと泳がして、親玉の居所をあぶりだせばよかったのに」
「それにはおよびません」
ユベールは、薄い笑みを浮かべた。「もうそろそろジョルジュが、やつの居場所を突き止めている頃ですから」
ラロッシュ河に面した高級料亭の一室で、フラヴィウスは金メッキのゴブレットになみなみと注がれた火酒を飲み干した。
「きさま、なんとする!」
反対側の席に座っている階級の高い軍人は、いらだちのあまり、拳でテーブルを叩く。
「王立警察が、われら同志の数人の家を内偵し始めているのだぞ」
「何も、あわてることなどないではありませんか」
フラヴィウスは、毛皮の服に包まれた巨体をゆすりながら笑った。「何の証拠もないのですから、知らん顔をしていればよろしいのです。それに、あの悪賢い小僧も、謹慎を命じられて領地に閉じこもっているというではありませんか」
「謹慎どころか、ラヴァレ伯は昨日、堂々と王宮に現れたぞ」
「そんなバカな。わたくしの情報では――」
フラヴィウスは、憎々しげに片眉を上げた。「……いっぱい食わされましたな」
「どうする気だ。フラヴィウスどの。あんたが万全の計画だと言うから、わざわざ半年以上かけて周到な準備をして、ラヴァレ伯を罠にかけたのだぞ。これでは、恨みを買ってしまっただけではないのか」
「あわてなさいますな、中将さま。要は、隠した金が見つからなければよいのです」
「そのことだが、いったいどこに隠したのだ」
「ご安心めされ。すでに外国に送ってあります」
中将は、愕然と口を開けた。「外国に送金? そんな話は初耳だぞ」
「それが一番安全な手段なのです。クライン国内から全額をいったん避難させ、ほとぼりが冷めてから、名義をわからなくしてお返しする手はず」
「おぬし、まさか、どさくさにまぎれて、すべて横取りするつもりなのではないだろうな」
「ほっほっほ。お戯れを」
オブリアン中将は、握った拳を小刻みに震わせた。「どうもおかしい。こんな短期間に外国に送金など、あまりにも手際が良すぎる。きさま、初めからわざと失敗して、裏金を奪い取るつもりだったのではないか」
商人は、小馬鹿にした調子でクスクスと笑った。
「そんな悠長なことをおっしゃっていて良いのですか。敵は抜け目ないラヴァレ伯、今ごろは、主謀者であるあなたのお屋敷を急襲しておる頃ではありませんか」
「……なんだと」
「それでは、わたくしもそろそろ、このへんで退散するとしましょう」
フラヴィウスは立ち上がり、太い首をゆっくりと振る。「やれやれ。錚々たる軍人が束になっても、ひとりの若造にさえ敵いませんか」
「待て」
軍人は激昂のあまり、テーブルの上の酒や盃をはらいのけた。
「きさま、商人のくせに軍人を愚弄するか!」
腰に差していたサーベルを抜く。
「な、何をなさいます」
商人はあわてて、部屋から逃げ出そうとしたが、背中を剣で斬りつけられ、「ひっ」と悲鳴を上げて、ばったりと倒れた。
軍人がさらに襲いかかろうとしたとき、ひとりの男が扉から躍り込んだ。
彼は、テーブルからクロスを一息に引き抜き、サーベルにぶち当てて、剣の軌道を変えさせた。
その隙に、背後から飛び込んできた黒髪の騎士によって、たちまち羽交い絞めにされる。
「オブリアン中将」
ラヴァレ伯爵は、手に持っていたクロスを払い落とすと、床に這いつくばる軍人を鋭い眼光で睨み下ろした。
「軍の中で派閥が相争うのは、子どもたちが二手に分かれて海賊ごっこをしているのとは訳が違うんだ。あんたたちの犯した過ちは、クラインという国を売り渡した罪に匹敵する」
うなだれて歯噛みしている中将を騎士が引き立てていく間に、フラヴィウスの姿はいつのまにか消えていた。背中の傷はさほど深くはなく、流れ出た血も分厚い毛皮のマントがすべて吸い取ったと見える。まるで誰も初めからいなかったかのように、武器商人の痕跡はなくなった。
「放っておけ」
後を追おうとしたユベールを、エドゥアールは引き留めた。
「なぜ助けたのです。フラヴィウスを生かしておくと、後顧の憂いになりはしませんか」
「もし中将が殺人の罪で捕まったりしたら、ティボー公父子は余計に、責任を取って辞職するよ」
エドゥアールは、暗い面持で答えた。「それに、相手がどんな卑劣な奴であっても、天から与えられている命だ。それを力で奪うことはしたくない」
「……お心のままに」
「生まれ出ようとしている命も同じだよ。ユベール」
騎士が目を上げると、主は大空のように明るい水色の瞳を、まっすぐ彼に向けていた。
「フラヴィウスの手先にお膳立てをされるまま、ふたりは大きな間違いを犯した。けれど、それは決して取り返しのつかない過ちではない。彼らに与えられた命は、きっと将来、ティボー公爵家の希望になる」
「黒髪の男を婿として迎え、子孫に非征服民族の血が混じることを、果たしてティボー公爵家は、希望と呼ぶでしょうか」
「時間がかかるだろうな。天罰だと思うなら、最初はそれでもいいさ。あとは、エミールとレティシアが力を合わせて、どう汚名をすすぐか、だ」
「なるほど」
ユベールの眉根が、ほどけていく。「そのようなこだわりは、十年後のクラインにおいては、笑い話になっているのでしょうか」
「早く、そういう世の中を作りたいものだな」
エドゥアールは唇を結ぶと、封蝋をほどこした一枚の巻き紙を騎士に差し出した。
「すぐに陸軍本部に行って、王命を伝えてくれ。エミール・ド・ダヤン士爵の帳簿改ざんの容疑は、警察の捜査で晴れた。ただちに営倉から釈放するようにと」
「……というわけで、来月めでたく結婚式だ」
エドゥアールは、リンド侯爵の執務室のお気に入りのソファに、どっかと腰を下ろした。
「レティシアも、ぎりぎりウェディングドレスが着られる。女にとって花嫁姿の肖像画は、一生の宝だもんな」
「そんなことを聞きたくて、呼んだのではない」
セルジュは、コツコツと机の面をペン先で叩いた。「フラヴィウスが持ち逃げした陸軍の裏金は、どうなった」
「ああ、戻ってきたよ。俺の知り合いの専門家に委託したから、とんでもねえ手数料はさっぴかれたけど、まあ九割がた外国の銀行から戻ってきた」
「手数料が一割だと。きさまの知り合いには、悪魔が混じっているとしか思えぬな」
「ああ、ほんとに高い授業料だったよ」
エドゥアールは、金色の毛先をもてあそびながら、天井をあおいだ。「クライン国にとっても、もちろん俺にとっても、な。旧プレンヌ公一派は、まだ氷山の一角だ。改革に反対する勢力は、俺が思っていたよりもずっと裾野が広い」
「言ったはずだ。改革など、あまり大っぴらにやるものではない。気がついたら、足元が崩れていたというくらいのほうが、ちょうどいいのだと」
「人の心が変わるには時間がかかる。シャルル王子や俺たちの子どもが結婚するくらい大きくなるまで、待たなきゃならねえんだろうな」
「ふん」とセルジュは鼻を鳴らした。「わたしには、かかわりのないことだがな。少なくともニコルをおまえの息子に嫁がせるつもりはないぞ」
「あ、選択肢としては考えてるってわけだ」
「そんなはずはなかろう、貴様のような舅がいては、いらぬ苦労をするに決まっている」
盟友とそんな軽口をたたきながら、エドゥアールの瞳は、まだ存在しない風景を眺めていた。
この部屋に、おおぜいの若者たちが集まって議論している。その中には、成長したジョエルがいる。幾人かの女性たちとともに、ニコルがいる。そしてシャルル王子もいる。
彼らのあいだに身分の差はない。対等に互いの名を呼び合い、すべてのものごとが公平に行われている。
もしかすると、シャルルはすでに王子という敬称ではなく、大臣のひとりと呼ばれているかもしれないのだ。
おそらくは、一代ではそう簡単には実現しないだろう、大きすぎる夢。
「まあ、あとは、あの子たちにまかせるさ」
エドゥアールは、満ち足りた声でつぶやいた。
エドゥアールが辞したあと、リンド侯爵の執務机に従者が一枚の封筒を持ってきた。
「お帰り際にラヴァレ伯爵さまが、これをお渡しするようにと」
封を開けて、中の流麗な文字に目を走らせるにつれて、セルジュの表情がみるみる変わった。
「あの、くそ野郎」
とんでもない下町言葉を見事に使いこなす高貴な主に、従者は目を剥いた。
『親愛なるセルジュ
さっき言い忘れたけど、俺はこれからラヴァレ領に戻る。
今度の一件で、真摯に反省した。どうも、俺は急ぎすぎていたようだ。
国の改革を焦るあまり、自分のもっとも身近な問題から目をそらしていた。
俺が今背負っている一番重要な務めは、息子を一人前のりっぱな男に育てることだと思う。それは父親である俺にしかできない、一刻一秒を争う重大任務だ。
それだけではない、ラヴァレ伯領とモンターニュ子爵領の領民たちの暮らしに目を注ぐことも、おろそかにしていた。刈り入れの季節も領に帰れず、報告を聞くだけ。数年前なら、考えられなかったことだ。
俺のために働いてくれている人たち、とりわけ、あちこち飛び回って危険な仕事を引き受けてくれたユベールやジョルジュの幸福な家庭生活のためにも、俺自身が少し落ち着く必要がある。
何よりも今、俺はミルドレッドのそばにいたい。たとえ何を引き換えにしても、そうしたい。
セルジュ、その気持ちをおまえなら理解してくれるはずだ。
だから、謹慎という名目の長い休暇を取ることにした。これから一年間、重要な会議以外の大臣の仕事は全部すっぽかす。
後のことは全部、おまえにまかせた。俺もおまえのためにそうしてきたんだから、それくらいの権利はあるだろう?
終生の友 エドゥアール 』
「雪です」
御者の声に、エドゥアールは馬車の窓ごしに外を見て、微笑んだ。
ラヴァレの谷には、その冬はじめての雪が舞い落ち始めた。村々の屋根や鐘楼の上に、森の木々の上に、ゆるやかに流れるクレール川の上に、ヨットが岸辺の小屋に停泊している湖の上に、来年の実りを秘めて眠っている麦畑の上に、雪は静かに降る。
領館に着くと、多くの使用人が玄関に整列して待ちかまえていた。
どの顔も、はちきれんばかりの笑顔に輝いている。
伯爵は駕籠から降りると、待ち構えている家令にマントを渡し、杖をついて凛と立つ父伯に膝をかがめ、そして、手をつないで最後尾に控えている妻と息子を抱きしめた。
「おかえりなさい、あなた」
「ちちうえー」
「ただいま」
執事が一礼する。「小食堂にお茶の用意をしておきました。あそこは庭の景色が一番よく見えますので」
到着したばかりだというのに、部屋は彼らの手によって、春のように温かく調えられていた。
暖炉の前の長椅子に腰を下ろすと、ジョエルが膝によじ登ってきて、ミルドレッドが隣に座る。
妻の薄茶色の瞳には、喜びの涙がにじんでいる。
窓の外では、純白の雪がしんしんと、領館とその庭を春まで塗りこめようという勢いで積もり始めた。
エドゥアールは、抱えきれないほどの幸福をもてあましながら体を横たえ、妻の膝に頭をそっと乗せた。
第七話おわり
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