Subterranean Homesick Blues ホームシックブルース


           (1)


「じ、冗談じゃない。やめろ」
「なにを今さら怖気づいておる」
 扉の外階段を降りてくる声を聞き分けて、マスターは冷蔵庫から、よく冷えたグラスを取り出した。
 二人の男が店内に入り、カウンターに座ったと同時に、「いらっしゃいませ。タオさん」と、年かさの客の前に、発光チェリーを入れたグラスを置き、シェイクしたばかりの青いカクテルを注いだ。
【ブルー・サンセット】
 火星の青い夕焼けと日没の太陽をイメージした、この店のオリジナルだ。
「おお、気がきくな」
 ごま塩の長いヒゲを生やした筋骨隆々の中国人の男は、さっそく一息にグラスをあおった。
「で、そっちのお客さんは何にしましょう」
 隣の席に座った相方の男はまだ若く、透き通るような薄茶色の瞳をしている。同じアジア系でも、西洋の血が混じっていると一目でわかる。
 そして、何よりも彼の素性を示しているのは、プルシアンブルーの一級航宙士の制服。
 彼はぽかんとした表情で、まじまじとマスターの顔をながめていたが、「だましたな、タオ!」と怒り始めた。
「わはは。ふるいつきたくなるような美女だろう」
 マスターは、目をぱちくりさせた。「何のことです?」
「メインパイロットに昇格して初のフライトの祝いに、火星一の美女が経営している地下バーに連れてって、筆おろしをさせてやると無理矢理引っぱってきたんだよ」
「それは光栄ですなあ」
 黒いヒゲを顔いっぱいに蓄えたマスターはにやにや笑った。「わたしでよろしければ、筆おろしのお手伝いをさせていただきますが」
「遠慮する」
 航宙士は憮然としてカウンターに向き直り、隣のカクテルを指差した。「僕にも同じものを」
「はい、承知しました」
 火星定期便YX35のことを、火星に住んでいて知らぬ者はいない。二ヶ月に一度、地球から食糧や精密機械、嗜好品などを大量に運んでくる、この惑星にとってまさに命綱とも言える貨物シップだ。
 彼らは、そのYX35便の乗組員。機関長のリウ・タオはここの常連で、新任のメインパイロットはレイ・三神と名乗った。
「信じられるか。クシロ航宙大学を卒業して、まだ二年だぞ。たった五回のフライトで、24歳の若造がメインパイロットに昇格するとは」
 長年、宇宙を知り尽くしている中国人機関長は、息子を自慢する父親のように楽しげに、酒をがぶりと飲んだ。
「クシロとはなつかしいな。もしかして日本人ですか」
 とマスターが問いかける。
「ああ、父親がね。あなたも?」
「はい、しかもクシロ出身です」
 レイは、カクテルのコースターに書かれている店のロゴを見た。
【ポンチセ】。
 アイヌ語で、「小さな家」という意味だ。
「そう言えばクシロにも、【ポンチセ】という店があったな」
「あれは弟の店なんです」
 マスターが答え、おかしそうに付け加える。「わたしと違って、無愛想な奴でね」
「確かその店でも、これと同じ青いカクテルを飲んだことがある」
「【ブルーコーラルリーフ】でしょう。言っとくけど、あっちがこれを真似してるんですよ。わざわざ、火星特産の発光チェリーを定期的に送ってやってるんです」
 レイは薄紅色の果物をつまみだし、ゆっくりと口に含んだ。
「さすがに本場だ。美味い」
 吐き出した小さな種が、空のグラスの底で、かちんと心地よい音を立てた。
 それを合図にしたかのように、カウンターの隅でひとりの客が立ち上がった。同じカクテルを飲んでいたのだろう。グラスの中に手付かずの発光チェリーが残っている。
「もう、お帰りですか」
「ああ」
 シーリングライトの真下を通り過ぎたとき、一瞬だけ横顔が見えた。黒髪を肩まで垂らした若いアジア人で、切れ上がった鋭い眉目がなければ、バーの暗い照明の下では、少女だと錯覚しただろう。
 レジスターにIDカードを通すと、彼は扉を出て行った。
 タオが連れに向かって、乾杯するようにグラスを持ち上げた。「おまえは運がいいな。この店に来た最初の日に【伝説】を見ることができたんだから」
「【伝説】?」
「さっきのお客様ですよ」
 マスターは顎をくいと、入口の扉のほうに向けた。「あの方は、第一次火星調査移民団のメンバーです」
「まさか」
 レイは、唖然とした。「火星に第一次調査移民団が到着したのは、70年も前だぞ」
「だから、人間じゃないんだよ」
「……まさか、彼が【AR8型】?」
 タオがうなずいた。「そうだ。前世紀に、たった二体しか造られなかった、人間と寸分違わぬロボット」
「驚いたな。火星の地下バーでカクテルを飲んでるところに行き合わせるなんて」
「ほんの時たま、お見えになるんですよ。うちのカクテルがお好きなそうで」
 そのとき、扉が開いた。
 今噂となっていた存在――【AR8型】ロボットが、ふたたびそこに立っていた。
 カウンター席の男たちが驚いて見つめる中、
「階段の途中に、落ちていた」
 ぶっきらぼうな言葉とともに、彼は腕に抱えていたものを床にどさりと置いた。
 気を失っているひとりの女だった。