The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 10 「千の月夜」

(2)

「皆の意見を聞きたい」
 レノスの凛とした声に、将校たちは口をつぐみ、一斉にしゃべり出そうとした。
 だが、セリキウス司令官が片手で彼らを制した。
「それは逆です、長官どの。わたしたちは、先にあなたのご意見が聞きたい。あなたの元奴隷が寄こした恩知らずで野蛮な書状に、どう答えるおつもりです」
 男たちの食い入るような視線を浴びながら、レノスは胸をそらせ、大きく息を吸った。
「撤退はしない。われわれはローマの名誉にかけて、どんな脅しにも屈するわけにいかない」
 部下たちは割れんばかりの快哉を叫び、足踏みで建物が揺れるほどだった。それを頼もしく聞きながらも、そっと奥歯を噛みしめる。
 セヴァンとは決して戦いたくない。だが、その言葉は、自分の内側から外には決して出てこなかった。
 わたしは、数千万の人間が住むローマ帝国の最前線をあずかっている軍人なのだ。
 ローマ軍が一枚の書状に恐れをなして、のこのこと撤退したという噂が流れれば、どれほどわれわれは侮られるだろう。ブリタニアのみならず、世界各地で敵対している氏族たちまでが勢いづいて、もう収拾がつかなくなる。
(わたしは……ひとりの女である前に、ひとりの軍人なのだ)
 個人のささやかな願いなど、国の運命の前に、いったい何だと言うのだろう。
「総員、戦闘配備につけ。兵站部は、川が完全に枯れる前に、飲み水の確保だ。町の義勇軍と連携を取って、住民の避難をすみやかに行え」
 矢継ぎ早の命令に、将校たちはきびきびと動き始めた。
「ウォーデン」
 騎馬隊長がすぐにやって来て、敬礼した。
「救援を呼ぶ早馬を頼みたい……ひどく危険な任務になるが」
「おそらく、すべての道路は氏族たちによって封鎖されているでしょうな。谷底や森にひそみつつ、隙を見て脱出するしかない」
「それでも、手をこまねいているわけにはいかん」
「長官どの!」
 セイグとペイグが走りこんできた。
「その任務、俺たちふたりにやらせてください」
「必ず、援軍を連れて帰ります」
 八年前、ふたりは長城の要塞への使者という大役を果たして、みごと援軍を連れてくることに成功した。その自負がふたりの若者の顔を黄金色に輝かせている。
「わかった。おまえたちにまかせよう」
 レノスは、頼もしさで胸がいっぱいになった。「だが、敵に出くわしてしまったら、すぐに降伏するんだ。決して抵抗するな。自害は絶対にしてはならん」
「だいじょうぶです。そんなことにはなりません」
「私のアラウダを連れていけ。手綱を操らなくとも、勝手に南の要塞へ連れて行ってくれる」
 騎馬隊員たちが部屋を出て行ったあと、レノスは机に飛びついて、急ぎの書状をしたため始めた。
 しなければならないことは、山ほどある。千々に乱れる思いとは裏腹に、目の前のことを処理するために、頭と手が猛烈な速度で働き始めた。
(狼狽している暇はない)
 彼がわたしを裏切った理由は、後で考える。今は、迫った戦いへの準備のため、やらなければならないことをするだけだ。
「長官どの」
 夕方になり、入ってきた土木将校カイウスの声を聞いただけで、吉報でないことはすぐに知れた。
「水が全然足りません」
「何日分だ」
「風呂の水まで飲み干しても、三日がいいところでしょう」
 カイウスは、「くそっ」と毒づいた。「どうやって、川にこれだけ完璧な堰を短時間で築けたのか、いくら考えてもわかりません」
「井戸を掘ることはできるか」
「やらせていますが……かなりの時間がかかります」
 北の砦は、豊富な水量の川のそばに建てられている。今まで水を貯め置くことすら考えたことがなかった。
(ゼノは、とうに砦の弱点を見抜いていたんだ)
 五千の住民と六百の兵が水なしに籠城できるはずはないことも、何日かすれば、いずれ水を求めて、砦から打って出なければならないことも、彼は計算しているだろう。
 わたしたちは、これで勝てるのか。ローマ軍のすべてを知りぬいた、最強の男を敵に回してしまったというのに。


 陽が暮れて、夜が更けても、なすべき仕事は山積みで、いっこうに減らないように思えた。
 状況が明らかになるにつれ、事態が絶望的であることを誰もが悟りつつあった。すべての軍用道は氏族によって封鎖され、小さなけもの道さえ、大勢の武装した見張りがいた。信号塔も攻め取られていた。セイグとペイグが隙を見て封鎖を突破し、南の要塞にたどり着くことができるとしても、おそらく何日もかかるだろう。
 生ぬるい夜が訪れ、レノスは泥のように疲れて重い体を引きずり、寝台に倒れこんだ。食欲はいっこうに湧かず、水が乏しいことを考えれば、渇きをいやすことさえ憚られる。
 少しでも体を休めようと努めるが、それどころか拳はかたく強ばって、ほどくこともできないのだ。
(ゼノ、なぜ)
 なぜ、われわれに戦いを挑んだ。
 わたしが氏族との平和を求めていることを、おまえは知っているはずではないか。いくら脅されても、わたしが町の人々を見捨てて撤退できないことを、おまえは誰よりもよく知っているはずではないか。
 おまえなら、わたしの心がわかるはずだ。いつも片時もはなさず、わたしのことを見つめていたおまえなら。
「は……はは」
 レノスは、笑い出した。ごろりと仰向けになり、両手と両足を伸ばす。
 心の中は怒りで波打ち、荒れ狂っているのに、奥底には、何にも動じない凪いだ湖面がある。
 何が起きようと、その透き通った静けさは揺らぐことがないのだ。レノスの目じりから、熱い涙がしたたり落ちた。
「ゼノ、わたしは……」
「司令長官どの!」
 切迫した兵士の叫びが聞こえ、レノスはすぐさま跳ね起きた。
「敵の大軍が砦に迫りつつあります」
「わかった」
 立ち上がって、剣帯をぐいと引き締め、グラディウスを差しこむ。
「うじうじと悩む時間を短くしてくれたことは、感謝せねばならんな」
 苦笑まじりにつぶやいたレノスは、外に飛び出て、塁壁を駆け上がった。
「これほど、たくさん……いつのまに」
 見張り兵のひとりが、低くうめいた。
 果たして、白み始めた夜明けの空の下、北の砦は四方を敵陣に囲まれていた。
 なだらかな平原につづく森の中には、きらめく尖った槍先、ひるがえる旗印、ちろちろと動く松明の火が見え隠れしていた。
 カルス司令長官はぴんと張りつめた華奢な体を反らせて、もやの中に沈もうとする月をじっと見つめた。
 兵士たちが驚いたことに、その口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいたのだ。
「おまえたち、解散しろ。見張りはもういい。たくさん食べて、今のうちによく寝ておくんだ」
「で、でも、あれだけの敵に取り囲まれているのに?」
「今日の一日が暮れるまでは、敵は絶対に攻めて来ない」
 レノスは、ふたたび空を仰いだ。何かを恋い慕うかのような、うっとりとしたまなざしだった。「ほら、見ろ。今夜は満月だ」


 レノスが言ったとおり、双方は睨み合うだけの一日を過ごし、夜になって再び喧騒が始まった。
 氏族軍は森から出て、じりじりと砦に近づき、包囲網を縮めつつあった。
 戦士の数は、四千から五千。そのすべてが剣か槍、盾と弓矢を装備している。わらを積んだ荷車、水や食糧を積んだ馬車も背後に並ぶ。
 幾日も、幾十日も戦えるだけの備えをした陣営だった。
 一頭の馬が近づいてきて、ふたたび砦に向かって矢文を放った。

『氏族連合の王、クレディン族のセヴァンが、北の砦のローマ軍に告ぐ。
 きさまたちローマ軍は、わが命令を拒否し、飽くまでも砦にとどまって抵抗する意志を示したとみなす。
 だが、ローマ軍の敗北は確実だ。見てのとおり、われわれは完全に北の砦を包囲し、ネズミ一匹這い出る隙間もない。
 このまま籠城戦に持ちこめば、きさまらは渇きの苦しみにのたうったあげく、砦を出て絶望的な戦いに身を投じることになるだろう。
 お互い、時をむだにするのはよそう。もしカルス司令長官が砦を出て来る勇気があれば、平和のうちに話し合いを持つことを提案する。
 刻限は、月が中天に昇りつめるとき。』

「どこまで俺たちを馬鹿にする気だ」
 歯噛みしながらセリキウスの朗読を聞いていたフラーメンは、忌々しげに吐き捨てた。「司令長官どの。こんな挑発に乗ることはありませんって」
「そうですとも!」
 将校たちの中から口々に同意の声があがる。
 だが、勇ましいのは、そこまでだった。「援軍が来るまで、籠城して持ちこたえましょう」と言う者もあれば、「いや、今すぐに打って出て、奴らの出鼻をくじくんです」と言う者もいる。
 部下たちのまとまらない軍議の様子を見て、レノスの決意は固まった。
「要求どおり、話し合いに臨もうと思う」
 彼らの顔は引きつった。「まさか」
「危険です!」
「ゼノは、『平和のうちに』と書いて寄こした。嘘ではあるまい」
「そんなの、罠に決まっています。やつは、全氏族の目の前であなたに恨みを晴らして、奴隷にされた汚名をすすごうとしているんです」
「あるいは、そうかもしれん」
 レノスは微笑んだ。「だが、要求を呑む以外に、何か策はあるのか?」
 一瞬、場がしんと静まり返る。
「無謀な勇気だけでは、戦いには勝てない。わたしたちはすでに、敵に手痛く出し抜かれた。今から勝てる見込みは薄い。だとすれば、次善の策は、戦わぬ道をさぐることだ」
「戦わずして、敵に屈するのですか」
 筆頭百人隊長のラールスが、真正面からレノスを見据えた。「それは、俺たちの流儀ではありません。まして、あなたをひとりで行かせるなど!」
「ひとりで来いとは、どこにも書いていないぞ」
 手の中のパピルスをまっぷたつに引き裂いたセリキウス司令官は、高らかに叫んだ。「もちろん、みんなで行きましょう。長官どのと運命をともにすることが、われわれ第七辺境部隊の流儀ですから」


 強い風に次々と運び去られる雲間から、にわかに月が覗いた。満月は幾重もの弧を描いて雲を鈍(にび)色に染め、薄もやが吹き払われた地上に明るい影を落とした。
 たとえ月明かりがなかったとしても、氏族の先頭に立っている戦士の顔を、レノスは遠くから見定めることができただろう。
 男は、族長のしるしである長い槍を持っていた。たくさんの血を吸った古いごつごつとした槍の先には、真新しい白鳥の羽根飾りが揺れていた。
 彼の足元には、一匹の灰色毛の犬がすり寄っている。オオカミのように尖った顔は、どこかイスカに似ていた。
 男が右肩を覆うように斜めに掛けているのは、紫色の布だ。もとは豪華な綾織のマントだったであろう布は、今は幾片にも引き裂かれて、裾が旗印のように風をはらんで広がった。
「あの紫のマントは……ローマ皇帝のマントではないか」
「まさか」
「しかも、びりびりに引き裂かれている! 蛮族め、ローマの権威を貶めようとしているのだ」
 兵士たちの憤激の声をどこか遠くのせせらぎのように聞きながら、レノスは恍惚と立ち尽くして、セヴァンの姿を見つめた。
 豊かな長い髪は獅子のたてがみのように黄金に輝き、顔から腕や胸にまでほどこされた青と黒の戦化粧は、皮膚の奥深くに刻印されて、ヘビがうごめいているかのように見えた。
 まるで月の光を吸い取って反射させているかのような、禍々しい美しさ。
 ああ……やっと会えたのだな。
 部下たちがいきり立つ圧力に背中を押されて、レノスは我に返り、一歩前に進み出た。
「久しぶりだな。クレディン族の族長よ」
「ああ、久しぶりだ。ローマの戦士長……今は確か、『司令長官』とか言うものに出世したのだったな」
 いつも目を伏せているように躾けられた奴隷は、今はそこにはいなかった。一直線に突き刺すような視線は、碧水晶のように鋭くレノスの全身を貫いた。
 そこにいるのは、まぎれもなく王だった。
「単刀直入に言おう。われわれはここに、氏族の国を打ち立てる。みずからの力で国を護り、みずからの力で繁栄に導く。もはやローマの支配は必要ない。ましてローマ軍の武力など、無用のものだ」
「そんなことができるのか。今までの何百年の歴史を見ても、氏族はばらばらになって、互いに相争うだけではなかったか。ローマの後ろ盾なくして、北方民族の侵入を防ぎ、豊かさを享受できるのか」
「相争って弱体化しているのは、ローマのほうではないか」
 セヴァンは、嘲るような薄笑いを浮かべた。「もし今、ブリタニアの氏族が一斉にローマに反旗をひるがえしても、皇帝は援軍を送ってくれるか? はるか彼方のパルティアでの戦いに忙殺され、そんな余裕すらないと思うが」
 誰かが小さく舌打ちするのが、聞こえた。
 ローマの現状は、すべて見抜かれている。給与の増額、兵力の増強でお茶を濁し、実は今のローマ帝国には、一個軍団すら辺境に割く余裕はないのだということを。
「平和は、わたしたちの共通の願いだ」
 からからに乾いた唇を開き、レノスは心をこめて言った。「そのためなら、わたしたちもできるだけの協力はしよう。氏族が違いを乗り越えて連合できるのなら、わたしたちローマ人もその輪の中に入れてはくれぬか。ここを故郷と定めて暮らしているローマ人も、大勢いるのだ」
「われわれとローマ人は、水と油だ」
 セヴァンは、にべもない答えを返した。「決して分かり合えることなどない。ここは何百年も前から、われわれの土地だった。おまえたちは、よそものだ。ここに暮らす権利はない」
「……」
「ただし、ローマ人がわれわれに恭順を示し、毎年の貢を納めるというのなら、この地に住むことを許してやってもよいが」
「なんだと」
 ラールスが吠えるのが聞こえた。「長官どの。もうこれ以上の話し合いは無意味です。こいつは、昔のゼノじゃない。権力欲に取りつかれて、頭が狂っちまってる」
「待ってくれ」
 この場に崩れ落ちてしまいたいほどの焦燥に身を焼かれながら、なおレノスを敢然と立たせているのは、ここにいるたくさんの将兵たちの存在、その背後にいて砦を守っているフラーメンらと、町の住民、スーラとフィオネラ夫妻、リュクスとユニアの存在だった。
 剣を抜こうとする背後の部下たちを片手で押しとどめ、レノスは眦(まなじり)を吊り上げた。
「もし、ローマ軍が砦から撤退したら、この町の住民をどうするつもりだ。皆殺しにするのか。串刺しにして、妊婦の腹を裂くのか」
「そんなことはしない!」
 セヴァンは、侮辱を受けた怒りに唇をゆがめ、槍の柄で地面を突いた。
「クレディン族の名誉にかけて誓う。ただおまえたちに代わって、われわれがこの砦を占拠するだけだ。ローマとともに去りたい者は去ればよい。だが、ここに住み続けることを選ぶ者に、指一本触れるつもりはない」
「そうか」
 レノスは、口元を緩めて微笑した。「おまえを信じよう」
「長官どの!」
「だが、その要求は呑むわけにはいかぬ」
 その言葉を発するとき、ひどく穏やかな気持ちだった。セヴァンからどんなに冷ややかな目で見られても。『氏族とローマ人は分かり合えない』という無慈悲なことばを叩きつけられても。
 たとえ、彼に槍で突き殺される瞬間でも、この心はなくなることはないだろう。
「南の要塞から、援軍が来ると期待しているのか?」
 セヴァンは腕を組み、尊大なしぐさでレノスを睥睨した。「そんなものは来ない。あなたのアラウダは今、エッラの隣で草を食んでいるのだから」
「なん……だと?」
「心配するな。氏族の息子ふたりはまだ生きている……かろうじて、だが」
 「セイグとペイグが、やつらの手に落ちた!」と、ローマ軍の中から憤怒の叫びが沸き起こる。もう、彼らの怒りは誰にも止められない。
 レノスは何度も生唾を飲みこんでから、言った。「交渉は……決裂だ」
「そのようだな」
 セヴァンは腕をほどき、地面に突き刺さった槍をつかんだ。「戦うしかないようだ」
「だが、最後にひとつだけ聞いてほしい」
 レノスは剣帯からグラディウスを鞘ごとはずした。そして、氏族軍に向かって高々と差し上げた。
「それでもわたしは、おまえたちと戦いたくない。剣を合わせる最後の一瞬まで、ローマは氏族との平和を求める」
 その声は低く朗々と、敵味方の軍勢の中に響きわたった。
「おまえの兄、クレディン族の前の族長アイダンを、わたしはこの剣で殺してしまった。そのことを悔やまなかった日は一日もない。どうか、赦してほしい。わたしのしたことを赦してほしい……」
 ラテン語のわかる者が回りの者に訳して聞かせると、さざなみのような動揺が氏族に広がる。
――ローマの戦士長が、戦いの場で赦しを乞うているだと?
「われわれが求めているのは、支配ではない。氏族を打ち負かして屈服させることではない。ただ、同じ土地に住み、互いの炉端に招き合って食事をし、ともに狩りをすることだ。ともに繁栄し、喜びを分かち合うことだ。戦いは、われわれの本意ではない!」
 レノスはゆっくりと剣を下ろして、顔を上げた。セヴァンのハシバミ色の瞳はまっすぐにレノスを見つめていた。
「ローマの戦士長よ。あなたの謝罪は受け入れよう」
 セヴァンはおごそかな宣言とともに、しるしとして族長の槍に両手を重ねた。「だから、あなたの願いをひとつ聞き届けようと思う。氏族連合の王の名において、われわれは、あなたの兵士とは戦わない――戦うのは、あなたと俺のふたりだけだ」
「なんだと?」
「あなたが勝てば、われわれは引こう。そして、もし生きていれば、俺はふたたびあなたの奴隷となろう。だが、もし俺が勝てば」
 唇に、薄い笑みが刻まれた。「ローマ軍がこの地から立ち去るまで、あなたにはわれわれの捕虜となってもらう」
 一瞬の静寂が、月に照らし出された戦場の上に落ちた。
「待て」
 筆頭百人隊長のラールスが進み出た。「その闘いの相手、俺が務めよう」
 レノスは彼の前に、腕を広げて立ちふさがった。
「……だめだ、ラールス」
「俺はフラーメンと約束してきたのです。あなたなしで砦に戻れば、八つ裂きにされます」
「負けると思っているのか?」
 部下の胸の鎧を、拳で突く。「わたしは、負けるつもりなどないぞ。信じて後ろで見ていろ」
「ですが」
 兜の下のラールスの目は、懸念に暗く曇っている。「あなたは確かに強い……けれど、やつは強すぎる」
「たとえそうだとしても、これはわたしの戦い」
 レノスは、肩のブローチをはずし、マントを彼に預けた。
「わたしだけの戦いなのだ」
 セヴァンに向きなおり、なめらかにグラディウスを引き抜く。剣身は月の光を反射し、冷たい炎のように輝いた。
 ゼノ。皆が言うように、おまえが権力欲に狂ってなどいないことは、よくわかっている。
 おまえは圧倒的な武力をもって、ローマに向かってきた。このまま戦いに突入すれば、氏族の優位は明らかなはずなのに、あえて戦場での一騎打ちを選んだ。
 そのことは感謝している。だが、わたしは負けてやるつもりはない。
 セヴァンは眉をかすかにひそめただけで顔色も変えず、肩に掛けていた紫のマントをむしり取って投げ捨てた。
 足元の犬の背中をポンと叩く。
「下がれ。邪魔をするな」
 そのことばは、足元の犬に向かってというより、氏族の戦士全部に対するものだろう。
 族長の槍を後ろにいた従者に渡し、代わりに盾を受け取り、剣を鞘から放った。
 少しの力みもなく、羽根を持つかのように重い鉄剣を構える姿に、レノスは母親のような誇らしい感慨すら覚えた。
 ローマ軍も氏族軍も、じりじりと後退りして人垣の円を作った。その黒々とした壁からは、ささやき声すら漏れてこない。
 レノスは慎重に足場をさぐりながら、少しずつ右に回り込んだ。望月は雲に隠れ、天頂から落ちるわずかな光が、地面をぼんやりと浮かび上がらせている。
「不思議なことに、おまえとは一度も手合せしたことがないな」
 距離をじりじりと縮めつつ、言葉をかける。
「そうだったか」
 セヴァンの答えには、何の感情も含まれていなかった。
「そうか。昔のことは忘れてしまったのだな」
 わたしは忘れるものか。おまえの剣の筋は全部覚えている。ローマのコロセウムで、血まみれになってコンモドゥス帝と戦っていたおまえを。下町の公共浴場で、楽しそうに子どもたちに剣を教えていたおまえを。
 八年のあいだ、いつもおまえは、わたしの隣で戦っていたではないか。
 激情が内なる壺からあふれだしたとき、レノスは一息に間合いを詰めて、斬りかかった。
 じっと動かなかったセヴァンは半歩足を引くと、真っ向からの先制攻撃を受け止めた。思ったよりもずっと重い返しに、レノスの二撃目は、完全に勢いを削がれて、難なく盾ではじかれた。
 あわてて、後ろに退く。セヴァンはほとんど表情も変えずに、レノスに向かって構え直した。
(なんという、重い剣だ)
 そして、実戦で磨き上げた剣だ。二年間、ピクト人との戦いに明け暮れていた彼と、そのあいだ戦いから離れていたレノスとの差は歴然としていた。
(それでも、わたしは負けない)
 レノスは間髪を入れず、次の攻撃に移る。力で及ばないとなれば、手数を繰り出すだけだ。俊敏に体を運び、相手の死角を狙う。全身の筋肉をしなやかに使い、腕をしぼって剣を当てれば、力の差などはね返せる。
 ずっとわたしはそうして来た。男ばかりの軍隊で互角にやっていくために、女の身で血のにじむような鍛錬を重ねてきた。
 ローマ軍人として生きてきた誇りに懸けて、ここで負けるわけにはいかない。
 ローマ帝国が背負う栄光のために、全兵士のために、わたしはこの戦いに勝たなければならないのだ。
 戦いは熾烈を極め、終わることを知らなかった。まるで、白い月明かりが映し出す幻影の乱舞のように激しく、静かだった。
 戦場に響くのはただ、剣と盾が打ち合わされ、こすれ合う音。踏みしだかれる草の悲鳴、どちらのものとも判別しがたい息づかい。双方の陣営の兵士たちは、鋭い攻防の応酬を、声もなく見つめているばかりだった。
 セヴァンの二の腕をレノスの剣先がかすめた。そして、その血しぶきが目に入ったのか、彼の動きがわずかに鈍くなった。
(今だ)
 舌なめずりした剣は、そのまま無防備になった腹部目がけてもぐりこもうとする。
 だが。
 そのとき、間近でふたりの目が合った。
 セヴァンの目は、レノスをひたと見据えていた。戦いの熱に浮かされながら、荒れ狂った湖面の下に深い色が透けて見える――。
 レノスの手が止まった。
 次の瞬間、右肩にひどい痛みを感じ、思わず剣を取り落した。セヴァンの剣が容赦なく、レノスの肩を鎧ごと切り裂いたのだ。
 かろうじて意識を取り戻したときには、レノスは敗者として地面に倒れ、勝者はそのかたわらで血濡れた剣をぶらさげて立っていた。
 どこかで、大海のとどろくような歓声と悲鳴が聞こえた。
 ふたたび混沌の中に堕ちる前に、自分の体が引きずり起こされ、司令官の兜を脱がされたのを感じる。夜風が髪にこもった熱を心地よく吹き払っていくのを感じる。
 何者かが背中を支え、ぐいと顎をつかんで仰向かせるのを感じる。
「レウナ」
 荒い呼吸の合間の小さなささやきは、他の誰にも聞こえなかっただろう。
「約束したとおり、あなたを俺のものにする」
     




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