The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 10 「千の月夜」

(3)

 湿った生臭さが、漂っている。
 だが、それはレノスにとって、嫌いな匂いではなかった。暖かく、どこか懐かしさを感じさせる匂いだった。
 そろそろと瞼を持ち上げると、すぐ目の前にあったのは、鼻の長い毛むくじゃらの生き物の顔だ。
 驚いて、思わず起き上がろうとしたとたん、息が止まりそうなほどの激痛に襲われ、ふたたび倒れこんだ。
 とっさに指がつかんだのは、分厚い毛織物のふさだった。痛みをやわらげる姿勢を求めて、のたうっている間に、その生き物は周囲を歩き回りながら、申し訳なさそうに鼻先をくんくんと鳴らした。
「おまえ……だったか」
 ハイイロオオカミの血を引いた猟犬。こいつは、セヴァンの飼い犬だ。名前は確か、イスカ。
 違う。イスカはとっくに死んだはずだ。わたしは何を考えている。これは、彼が連れていた新しい犬だ。あの戦いのとき……。
 背筋に生まれた不快な記憶が、全身をどくどくと巡っていく。
 意識を失う前の最後の光景。レノスを救おうと怒声を上げて剣をふりあげる第七辺境部隊の部下たちの姿。
 喉に当てられたひやりとした感触。「もし、われわれに指一本でも触れたなら」と、みぞおちに回された腕を通して冷たい声が響いてきた。「ふたりの騎馬隊員もろとも、こいつの命はないと思え」
 騒然とした空気が一瞬で静まり返るなか、乱暴に抱き上げられ、馬に乗せられたことまでは覚えている。雲間から覗いた満月が、馬のたてがみを銀色に浮かび上がらせていた――。
「ドライグ!」
 突然、甲高い声が響きわたり、猟犬はさっと身をひるがえしてレノスのそばを離れていった。
「だめじゃないか、みんなのそばを離れちゃ!」
 ひとりの少年が視野に飛び込んで来て、灰色犬の尻を叩き、ほかの猟犬たちが寝そべっているところに追いやった。
 朦朧としていた目の焦点が定まるにつれ、今いる場所全体が見渡せるようになった。
 天井は高く、屋根は両手を合わせたような急勾配になっている。明かり取りの穴から漏れ入る陽の光が、剥き出しの垂木のあたりに白い煙となって漂っている。
 部屋はそれほど広くはなく、床土全体に薄く藁が撒かれており、レノスが寝ている一画だけは一段高くなっていて、厚い藁が敷きつめてあった。
「ここは……犬小屋か」
 声は出さず、唇を動かしただけだった。しかし、少年はすぐさま振り向き、レノスが目を開けているのに気づいて、「あっ」と大声を上げた。
「司令官さま? 傷、痛い、ない?」
 と叫びながら、少年は駆け寄ってきた。
「無論、傷は痛い」
 レノスは顔をしかめながら、なんとか身を起こそうとした。「だが、かろうじて生きている」
「司令官さま、ひどい、怪我。熱高い、ずっと眠った、いっぱい」
 足を動かそうとして、片方の足首に木の枷がはめられているのに気づいた。長い鉄鎖が伸びて、その先はどこかに結びつけられている。
 自分は捕虜として繋がれているのだと、あらためて思い知らされる。
「わたしは、どれくらいここに寝ている?」
「とても、たくさん。三つの昼と三つの夜」
 あの戦いから三日が経っているのか。
 少年は目の前に両膝をつくと、かしこまって頭を下げた。
「おれ、名前、ユッラ。厩番のユッラ。族長さま、命令、おれ、司令官さま、世話する」
 ひどい片言のラテン語。せかせかと早口なのは、きっと頭の中で何度も反芻した文章なのだろう。
「そうか、ユッラ。世話になるな」
 レノスは微笑もうと試みたが、唇が乾きで引きつれ、あまりうまく行ったとは言えなかった。
「ちょっと待って」
 ユッラは入り口から出ていくと、すぐに錫のコップを持って戻ってきた。「水、どうぞ」
 レノスは苦労して上半身を起こし、肘で体を支えると、渡されたコップを干した。
 その水ほど美味しく感じた水を、レノスは知らない。戦いの前から北の砦では水が不足して、満足に飲めなかったのだ。
 堰き止められた川は、どうなったのだろうか。町の住民と部下たちは、まだ渇きに苦しんでいるのではないだろうか。
「ありがとう」
 レノスは、コップを差し出した。「ユッラ。族長どのに会わせてもらえまいか」
「えっ?」
 厩番の少年は、コップを受け取ることも忘れて、ぽかんと口を開けた。
「自分が捕虜だということは、十分にわきまえている。だが、どうしても会って話さなければならないことがあるのだ――頼む」
「ま、ま、待って、少し」
 少年があたふたと出て行った後、レノスはふたたび倒れこんで、目を閉じた。藁の上に敷かれた毛織物は暖かく、柔らかかった。気を抜くと、ふたたび気だるい眠りの底に引きずり込まれそうだ。
 物音に目を開くと、ユッラが出て行ったのとは反対側の垂れ幕が持ち上がり、ひとりの若者が現われた。
「カルス司令長官どの」
 ユッラを従えて入ってきたのは、赤みがかった髪をした青年だった。顔にはまだ、一片のあどけなさを残しているものの、二年前のおどおどした様子はすっかり消え去っている。
「ルエルか」
「お久しぶりです。お怪我の具合はいかがですか」
「ありがとう。大事ない」
 セヴァンの弟が地面に胡坐をかくと、薄茶色の犬が一匹すり寄ってきて、手のひらに鼻をこすりつけた。
「それは、あなたの猟犬か」
「そうです。村の猟犬は全部、この小屋で飼われています」
 そして、先ほど自分が入ってきた垂れ幕を振り返った。「あそこから、族長の家へとつながっています」
 すぐ隣の棟でセヴァンが寝起きしていることを知って、レノスの胸はとくんと高鳴る。
「兄上にお会いしたい」
「兄は今朝早く、出かけました。しばらく村には戻りません」
「わたしの部下セイグとペイグも、この村に囚われているのか」
「その質問には答えられません」
「わたしは戦いに負けて捕虜になった。そのことに不平を言うつもりはない」
 レノスは、できるだけ謙虚にふるまおうとした。「だが、このふたりは、わたしの命令で伝令を務めただけなのだ。すぐに釈放してやってくれまいか。捕虜はわたしひとりで十分だろう」
 ルエルは、セヴァンと同じハシバミ色の目をレノスからゆっくりと逸らせた。「僕の一存では答えることができません」
「それでは、兄上はいつ戻られる」
「しばらくは、戻りません」
 同じ答えを頑なに繰り返すと、ルエルは口を結び、立ち上がった。
「お願いだ。どうか兄上に会わせてくれ! 堰き止めていた川はどうなった」
 ルエルは、逃げるように垂れ幕の向こうへ消えた。厩番の少年はおろおろと、その後を追いかけて行った。
(ゼノ)
 ぐったりと藁にもたれかかる。
 自分が敗者だということはわかっているつもりだった。だが、心のどこかで、甘い夢を見ていたのかもしれない。セヴァンがわたしを喜んで迎え、大切にしてくれるのではないかと。
 涙とともに、苦い笑いがこぼれる。わたしは間違っていた。
 彼がわたしを迎えに来ると約束したのは、こういうことなのか。わたしを打ちのめして、すべてのものを奪い、犬小屋で猟犬といっしょに飼うことなのか。


「よくも、のこのこと来られたな」
 ローマ兵たちの憤怒の歯ぎしりの音を聞きながら、セヴァンはゆったりと足を組み替えた。
 北の砦に単身乗り込んできたクレディン族の族長は、第七辺境部隊の将校たちがぐるりと取り囲んでいる会議室で、平然と身代金の交渉を始めたのだ。
「約束は守った。川は元通り、豊かに水を流し、砦の住民の喉も潤っていることだろう。今度はそちらが約束を果たす番だ」
 交渉役を務めるセリキウス司令官は顔をしかめたまま、憮然と答えた。
「ロンディニウムのブリタニア総督府に、依頼の書状を送ったばかりだ。捕虜三人で二千デナリウス。あまりに法外な金額なので、ウィリウス・ルプスどのが、果たしてうんと言うかどうかはわからんが」
「捕虜ふたりだ」
「なんだと?」
「セイグとペイグふたりで千デナリウスずつ。カルス司令長官は数の中に入っていない」
「くそう!」
 堪忍袋の緒が切れたフラーメンが、セヴァンに殴りかかろうとしてバランスを崩し、あわてて両脇の同僚たちに抱きかかえられた。「このペテン師、大どろぼう!」
「分捕り物を要求する氏族の戦士がたくさんいてね。先に奪い取ったローマ軍の半年分の給料くらいでは、とても足りない」
 セヴァンは傲然とほほえんだ。「王と言うのは、つらいものだ。きっとセウェルス皇帝なら俺の言葉に賛同してくれるだろう」
 信じられないという面持ちで、将校たちはセヴァンを見つめている。
 本当に、あの寡黙で従順だった奴隷と、この目の前の傲慢で尊大な男とは同じ人間なのか?
 セリキウスは、気持ちを静めるために大きく息を継いだ。「では、カルス司令長官の釈放には、いくら必要なのだ?」
「前から言っているとおりだ。北の砦からのローマ軍の撤退が唯一の条件だと」
「こちらも前から言ったとおり、そんなことは不可能だ」
「では、人質は永久に返すことはできない」
 冷淡に言い放つと、セヴァンは椅子から立ち上がった。「今日の交渉はこれまでだ。身代金がロンディニウムから届いたときは、また知らせを寄こしてくれ」
 アカシカ革のマントを翻して、セヴァンは殺気の渦の中を通り抜けた。
「ま、待ってくれ」
 思いつめた声で叫んだのは、土木将校のカイウスだった。
「教えてくれ。クレディン族はどうやって、あんな短時間で川を堰き止めた」
 セヴァンは、驚いた顔で振り向いた。「そんなことを知って、どうする」
「悔しいが、いくら考えてもわからんのだ。ローマの土木技術を持ってしても、果たしてそんなことができたかどうか……」
 土木将校はいからせていた肩を、がっくりと落とした。
「ローマ人にできないことが、たかが蛮族にできるはずはないと?」
 セヴァンは憐れむような一瞥を投げかけた。「流域の村ごとに、灌漑用の水路を何本も掘らせていた」
「水路?」
「ローマの水道橋に比べれば、ごくささやかなものだ。閉じていた水門を一斉に開けば、川の水量が急激に減る。頃合いを見はからって、下流の蛇行した箇所に舟を並べ、石を積んで沈めてから、その上に一気に堰を築いた」
「そんなことが……」
 憔悴して黙り込んだローマ人たちを残して、将校宿舎を出たセヴァンは、従者が引いて来た馬にまたがった。
 町の大通りでは、住民たちが遠巻きになって、彼らを見守っていた。氏族の王にあからさまな憎悪を表わす者もあれば、追従まじりの笑みを浮かべる者もいる。
 皆、この砦が氏族に明け渡されるかもしれないことを知っている。敵対か融和か。住民たちが、自分の運命を天秤にかけ始めるのは当然だった。
 町の門では、剣闘士リュクスが唇をきりと引き結び、両腕を広げて立っていた。
「話がある」
「話すことなど何もない」
 にべもない答えにも全くめげず、リュクスは布がかかった籠をぐいと突き出した。「ユニアから、カルス司令官に渡してくれと頼まれた。着替えやら何やら……その、男にはわからねえ、いろいろなものが入ってる」
 セヴァンは馬上から腕を伸ばして、ひょいと籠をつかんだ。「わかった。一応は預かっておく」
 城門の日陰の中で、剣闘士の蒼い瞳が途方にくれたように泳いだ。「司令官のこと……おまえは、初めから知っていたんだな」
「何のことだ」
 かまわず先に馬を進めるセヴァンの後ろを、大柄の戦士はむきになって追いかけてくる。
「いや、おまえだけじゃない、スーラさまもフィオネラさまも……全員が知ってて、ずっと俺だけには黙ってたって、ひどいじゃねえか」
「きさまは、口が軽すぎるからだ」
 そっけない答えの中に、かろうじて昔の親しみが残っている。そう感じ取ったリュクスは、猛烈に走り出し、ふたたび馬の進路に立ちはだかった。
 従者の若者が腹を立てて剣を抜こうとするのを、セヴァンは片手で止めた。
「まだ用があるのか」
「カルス司令長官をどうするつもりだ」
「どうもしない。ローマ軍がこの地を出ていくまで、丁重に捕虜として扱う」
「おまえ、本当にそれでいいのかよ」
 剣闘士のまっすぐな視線を受けて、セヴァンは目を細めた。「どういう意味だ?」
「落ち着いて考えてみれば、なるほどと合点がいった。おまえのカルス司令官への忠誠は、奴隷が主人に対するものとは全然違ってたからな。おまえは男として、あの人を……自分のものにしたかったんだろう?」
 セヴァンは答えない。
「だとしたら、おまえは間違ってる!」
 リュクスは大声を張り上げた。「俺はむずかしい理屈は、からっきしわからねえが、女のことだけはわかる。力ずくで捕虜にされて、従えと強要されて、その相手を心から愛することができる女が、どこの世界にいる?」
 その声は反響して、草原の向こうまで届いていくようだった。「武力で征服しておいて、平和を唱えるローマみたいなものだ。気づかねえのか、おまえは、おまえが憎んでいるローマ帝国と同じことをしてるんだぞ!」
「そんなことは、わかっている!」
 セヴァンは、馬の腹を足で打った。蹴り殺されそうになったリュクスはあわてて、わきの草むらにころがりこんだ。
 起き上がったときには、もう彼らの馬ははるか彼方に去っていた。
「わかっているなら、なぜ……!」
 地団駄を踏み鳴らしながらの絶叫は、もう届かない。


「これを」
 レノスの肩から腕にかけて丁寧に包帯を巻き終えたユッラは、新しいトゥニカを差し出した。
「ユニアという人から。司令官さまに、どうぞと」
「ユニアが?」
 なつかしい名前を聞いて、胸が締めつけられるような懐かしさがこみあげてきた。あんなに惨めに負けたというのに、自分は忘れられてはいない。敵の捕虜になった自分に対して、砦の人々は今も暖かな気づかいを持ち続けてくれているのだ。
 ユッラは出て行き、大鍋いっぱいに沸かした湯を持って戻ってきた。
「怪我、だいぶ良くなった。体、拭く」
 少年は、手拭布を湯に浸して固くしぼり、怪我に障らぬように慎重に、手から腕にかけて順番に拭き清めていった。
 それが終わると、今度は乳房を隠している厚布に手をかけようとした。
「これはいい」
「だめ。古い血でいっぱい。きたない」
「必要ない。放っておいてくれ」
「司令官さま」
 ユッラは、床にぺたりと座り、あらたまった口調で言った。「司令官さまは女。おれ、知ってる」
「……え」
 レノスは嘆息した。当然だろう、意識のないときにも、この子がつきっきりで看病してくれたのだ。
「そうか。見られてしまったのだな」
「違う」
 ユッラは、首を振った。「セヴァンさま、教えてくれた。だから、司令官さまのお世話、おれ選んだ。おれも、女だから」
「ええっ」
 着古した上下にぼさぼさのわら色の髪。目の前にいる厩番は、どう見ても少年にしか見えない。
「おれも、女」
 ユッラは、怪我をしていないほうのレノスの手を取ると、自分の胸に引き寄せた。確かにそこには、まぎれもなく小さなふくらみがあった。
「だから大丈夫、恥ずかしい、ない」
 なだめるような口調で、ふたたびユッラが胸の被いに手をかけたとき、レノスはもう抵抗しなかった。すべての布が取り払われると、空気に触れた皮膚がパチパチとうずいた。内側に押し込めていたものが、いちどきに外へと飛び出していくような心地だった。
 ユッラは、レノスの背中を手拭で丁寧にぬぐった。
「ああ。生き返るようだ」
 レノスは、思わずうめいた。ローマの浴場の女奴隷キュラのマッサージを思い出す。レノスが身体も心も女でいられるのは、あそこだけだったのだ。
「本当のことを言えば、身体を洗えないのには閉口していた。自分から犬と同じ匂いがしたからな」
「まさか。司令官さま、くさくない。肌、とても白い。とてもきれい」
「ユッラ。きみは、どうして男のふりをしている」
 彼女は熱い湯に手拭を浸して、ぎゅっと力をこめて搾った。
「小さいころ、母、死んだ。父と弟の三人、暮らし。女のこと、何も知らない」
「そうか。わたしも、母を小さいころ亡くしたのだよ」
「家のしごと、つまらない。狩りに行く、たのしい」
「はは、それも同じだ」
「おれ、男。でも誰も、信じてくれない」
 男装の少女はさびしそうに眼を伏せた。「だから、おれ戦士になれない。しかたない、厩番になった。悲しかった。男になりたい」
 男になりたい。その言葉の切実さに、胸がえぐられる。だが、ユッラの声は、急に楽しげにはずんだ。
「でも、族長さまはおれ、信じてくれた。司令官さまのお世話、まかせる、言ってくれた。とても、うれしかった。とても」
「そうか」
「ラテン語、覚えるの、たいへん。でも頑張った。司令官さまと話す、楽しみで」
 脇腹のあたりを拭われるくすぐったさに耐えながら、レノスはじっと思いをこらした。
 女であることを捨てて、男として生きてきたユッラ。セヴァンは、同じ境遇のわたしをおもんばかって、この子を見張りにつけてくれたのだろうか。
 それとも、ただ犬小屋での見張りとして都合がいいからというだけの理由で――。
「族長どのは、まだ帰って来ないのか」
「族長さま、いそがしい。帰って来る、でもすぐ出かける」
「氏族連合の王になると、大変なのだな。捕虜に会う時間などないというわけか」
「司令官さま」
 自虐めいた口調に、ユッラは驚いたように手を止めた。「……それは、違う」
 レノスは、彼女が握りしめている手拭いをそっと取り上げた。「ありがとう。もういい。ここから後は自分でやる」
「はい……」
 ユッラが傷ついた目をして出て行ったあと、レノスは、肌がひりひりと痛むまでこすり続けた。
 本当にこすり落としたいのは、自分の心だ。
 ゼノ、なぜわたしに会おうとしない。あの戦いをしかけ、わたしを剣でつらぬいて捕虜にしたのは、おまえの本心だというのか。
 わたしはおまえを信じてはいけないのか。それほどまでに、ローマと氏族のあいだを隔てる壁は高かったのか。
 おのれの乳房をもぎ取らんばかりに強く、手拭いで鷲づかみにする。
「こんなもの……いらない」
 わたしが女であることを思い出させるな。それくらいなら、あのとき槍でここを貫いてくれればよかったのに。
 わたしから、軍人としての誇りも、たくさんの部下たちへの責任も、何もかも奪い去っておいて、こんなところに閉じ込めるだけなのか。
 こんな惨めな思いをさせるくらいなら、いっそ殺してくれたらよかったのに。


 春の嵐が、ざわざわと木々を揺らす音が響いていた。
 外は寒いに違いないが、ここは暖かい。母屋で焚かれている暖炉の熱と煙が、屋根裏を伝って、ここまで届いているのだ。
「ドライグ」
 セヴァンの灰色の犬がぴくりと耳を動かしたが、また眠そうに目を閉じてしまった。ユッラにきつく叱られたせいか、あれからレノスのそばに近づこうとはしない。
「おまえのご主人さまもひどいな。自分の猟犬さえ、十日もほったらかしなのだから」
 藁の上に横たわり、風の音を聞きながら、レノスはうつらうつらと眠った。ひどく疲れていて、そのせいで夢と現のはざまを何度も行き来していた。
 ふわりとした温かさが自分を包み込んだように思えた。父が自分を呼んでいる声を聞いた。
「レウナ」
 風の音がそう聞こえるのだ。父はとっくに死んでいるのだから。氏族に斬り殺されてしまったのだから。
 いやだ。やめて。何度叫んでも、戦化粧をした戦士たちが、下卑た笑いを浮かべながら、大勢でわたしの上にのしかかってきたのだから。
 誰かの指が頬に触れた。
 喉の奥で悲鳴がつまり、思わず目を開くと、アカシカの毛皮をまとったひとりの男が、レノスのかたわらに片膝をついていた。
「怪我がまだ痛むのか?」
 聞き慣れた、やさしい声だった。かつては毎日聞いていた声だった。どれほどおまえに会いたかったことか。二年間、どれほどこの時を待ちわびていたことか。
 ゼノ。
 その胸に飛び込みたいという衝動を、夢の中の恐怖と怒りがたちまち洪水のように押し流していく。
 ふたたび触れようと伸ばされた彼の手を、次の瞬間レノスの手は払い落としていた。
「わたしに……触るな!」
 セヴァンは立ち上がり、数歩うしろに退いた。
 そして、冷たく凍てついた瞳でレノスを見下ろした。
 





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