The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 1 「黒き丘陵」

(3)

 スーラ司令官が砦を去って行ったのは、三日後だった。
 迎えに来た護衛とともに、まずは港の司令本部へと向かい、それから本国への軍船に乗るのだ。去りゆく騎馬を見送りながら、レノスは孤島にひとり置き去りにされたような心細い思いを味わい始めていた。
 浅い眠りを繰り返して、翌朝はとうとう払暁に起き出すはめになった。自分のものとなった司令官室で、机の前に座り、日誌を繰る。
 引継ぎは、スーラとの間で終わっていた。年間を通して、砦の司令官のなすべきことも教わった。だが、あらためて今日は何をすべきか、いつどこへ行くべきかを考えると、さっぱりわからない。
 日誌に書き記された地名を見ても、何の景色も脳裏に浮かばない。人の名前も同様だ。
「急ぐ必要はないのだぞ」
 去り際に前任者の残した言葉を、ふと思い出す。
「ここでは、時間の流れる速さが帝都とは違うのだ」
 日誌によれば、朝食の後は、兵舎裏の演習場で、武術訓練の時間となっていた。
 だが、その時間に外に出ても、人っ子ひとりいない。演習場の地面は荒れ果て、丈の長い雑草が風に揺れていた。
 夕食の時間、レノスは隣の席に座った直属の部下に、武術訓練が行われなかった理由を訊ねた。
 彼はフラーメンという名の百人隊長で、レノスが名を覚えている数少ないひとりだった。
 小柄で、斜めから見上げるような目つきで話す男だ。島の氏族出身で、肌の色は白く、髪は麦わらのようだった。
「ああ、雨が降っていたからですよ」
「雨?」
 レノスは思わず、窓ガラスを通して外を見やった。この砦で窓にガラスがはまっているのは、将校用の宿舎と食堂だけだ。
「今日は雨など降らなかったが」
「朝方、霧雨が落ちてきたので、その時点で中止が決まりました。やつら、泥で装備を汚すのがいやなんです」
 次の日は、本当に土砂降りだった。
 軒下に寝そべったり、座り込んでサイコロを振っている兵士たちを見て、レノスはため息をついた。雨の日は敵が攻めてこないとでも言うつもりなのだろうか。
 雨は二日降り続き、ようやく快晴の朝が訪れた。
 よろいを着こみ、剣帯に剣を差すと、レノスはうきうきした気分で部屋を出た。
「ああ、司令官」
 出入り口のすぐ外に座り込んで、爪を切っていた男が、面倒くさそうに彼を呼び止めた。
 もうひとりの直属の部下、百人隊長のラールスだった。黒髪のガリア人でがっちりとした体格をし、挨拶以外は口を開くのを聞いたことがない。
「今日は、公休日です」
「公休? そんなはずは」
「この島の『聖人の日』だとかで、みな町に繰り出してます」
 部屋に戻って、一年前のスーラ司令官の日誌を引っ張り出すと、確かに記述があった。
『島で生まれ育った者は、この日を聖なる日と定めて、早朝に神殿に詣で、夜は祭りに興じる。第七辺境部隊では、この日は公休日と定められている』
 レノスは、日誌を放り出すと、狭い寝台に倒れこんだ。
 一週間もあれば完全に部隊を掌握し、自分の手足のように使えると思っていたのは、大間違いのようだ。この島では、時間の流れる速度が違うというよりも、ものごとの考え方が根本から違っているらしい。
 どの兵士に近寄っても、儀式的な敬礼が返ってくるだけで、目を合わそうとしない。最初に道案内を務めたとき、なれなれしい口をきいてきたタイグさえ、今や集団の陰に隠れて姿を見せない。
 命令には慇懃に従う。会えば敬礼はする。が、視線は合わない。一番身近な存在であるはずの将校たちさえも、心を開いているようには見えない。
(わたしはまだ、よそ者として疎んじられているのか)
 だとしたら、彼らと気持ちが通じ合うまで、少々のことは見て見ぬふりをすべきなのか。
(それとも、ひよっ子の司令官だと舐められているのか)
 ならば、規律の悪さを厳しく責め、怠ける者には厳重な罰を与えねばならないのだろうか。
 レノスは、することが見つからず、暇にまかせて、砦の中をうろうろと歩き回った。
 兵舎も食堂も浴場にも人けはなく、しんと静まり返っていたが、目を上げると、塁壁にはいつものように歩哨が立っている。
 門のそばでは、兵士たちが整列して点呼を受けている場面に出くわした。運悪く休日の巡回当番に当たった者たちだ。十人隊長に率いられて、彼らは門を行進して出て行った。
 新米司令官が何も命令しなくとも、この砦の最低限の秩序は保たれているようだ。
 水飲み場に来ると、ひとりの奴隷が掃除をしていた。
 この砦には、兵士のほかに、さまざまの雑用をする下働きがいる。
 彼らのほとんどは、奴隷だ。戦闘で捕虜になって連れて来られる者や、商売に失敗して大きな負債を負ったり、生計を失い餓死寸前になったあげく、自分を売りに来る者もいる。
 奴隷は、男も女も髪を短く刈られる。額には奴隷の印である焼き印を押される。
 隙を見て逃げ出そうとしても、船に乗ることもできず、途中で捕まえられることがほとんどだ。逃亡奴隷を捕まえた者には、かなりの報奨金が支払われることになっている。
 水の出口になっているレリーフの胸像を軽石で丹念に磨きながらも、男の目はうつろだった。人生の行く手に何の希望も持たない者の目だ。
 そこに立っているのは、かつての自分のように思えて、レノスは、喉にせりあがるものを感じた。
(伯父には、わたしもこの奴隷と同じに見えていたのだろうな)
 あのとき、辺境から戻ってきたばかりのボロきれのような小娘は、人間にすら見えていなかっただろう。
 生まれながらに帝都に住む者にとって、辺境は黄泉の国と同じだ。伯父にとっては、黄泉から来た娘を、今また同じところに送り返しただけなのだ。
(アウラスの妻になりたいなどと、わたしは一度たりとも望んだことはなかったのにな)
 レノスの望みはただひとつ。強い男になること。強い軍人になること。それが、父の無念を晴らすことだと、固く信じて生きてきた。
 たとえ、今回の赴任が伯父の悪意から出たことだとしても、父が命を落としたブリテン島は、彼にとって最高の出発点だ。
(こんなところで、落ち込んでなどいられない)
 奴隷は掃除を終え、次の場所に向かって行った。おのれを取り戻すと、レノスはふたたび砦を巡り始めた。
 水路のそばから洗濯女たちのおしゃべりの声が聞こえる。今日は温かい。洗濯物もよく乾くだろう。
 中庭の日時計は、北国の長い日差しを受けて、冬よりもゆっくりと時を刻んでいる。
「時間の流れる速さが違う……か」
 春の風に髪をなぶらせながら、レノスはほほえんだ。「ならば、焦る必要はないか」
 厨房からは、塩漬け肉の焦げたような匂いが漂ってくる。
 今日の夕食も、塩漬け肉の煮込みと羊のチーズ、野菜スープと、ぼそぼそと噛みごたえのあるパンが出てくるのだろう。
 そう考えたとたんに、腹が鳴った。少なくとも体は確実に、この砦の生活に順応しているようだ。
「厨房係。いるか」
 彼は食堂の扉を押し開いた――司令官の特権を最大限に利用して、少し早目の食事に与るために。


 日が暮れ、ランプの中では獣脂がちろちろと燃えている。
 執務机に向かって、日誌を開き、「一年後、この日が公休日であることを忘れぬように」との注意書きを添えているとき、荒々しい足音が聞こえ、扉がノックされた。
「入れ」
 そこにいたのは、昼間から一度も姿を現さなかったフラーメンだ。
「司令官どの。お邪魔いたします」
 その声には、明らかな戸惑いがあった。「実は、ちょっとまずいことになりまして――お力を借りたく」
「どうしたのだ」
 レノスは反射的に剣を取った。「周辺に不穏な動きでも?」
「いえ、そういうことじゃないんです。実は俺の部下たちが」
 金髪の百人隊長は苦々しく、口の端をゆがめた。「酒場で口論をおっぱじめちまいまして、それがつい、軽い殴り合いに」
 砦の城下町の酒場へと急ぐと、店内は「軽い殴り合い」どころではない、惨憺たるありさまだった。
「あんたが、新任の司令官かい」
 酒場の亭主は、入ってきた将校を見るなり、両腕を振り回して、まくしたてた。
「なんとかしてくれよ。あんたの部下のせいで、店がめちゃくちゃだ」
「迷惑をかけたようだな。亭主」
 レノスは壊れたテーブルや椅子の隙間を縫うようにして、中に入った。当の犯人たちは、とっくに逃げ出して、店内はもぬけの殻だ。
「面目ないことだが、けんかの状況を詳しく教えてはもらえまいか。まず暴れた兵士を特定せねばならない」
 それを聞いて、亭主の怒りは、いっぺんに萎んだようだった。
「そ、それが、あっしも顔をよくは見ていないもんで」
 告げ口をして、兵士たちに逆恨みされることを恐れているのだろう。それから先は何も聞き取ることはできなかった。
 だが、砦に戻ってほどなく、犯人が百人隊長に付き添われて出頭してきた。
「ガルスに、マローか」
 フラーメン隊に属する、氏族との混血の兵士だった。なるほど、つら構えからして、ふたりとも腕っぷしには自信があるようだ。
「こういう事態になった理由について、くわしく聞かせてもらおう」
「申し上げるほどの、たいした理由ではありません」
「あれだけの乱闘を演じておいて、たいしたことはないだと?」
「司令官どのはご存知ないでしょうが、今日は『聖人の日』でありまして、毎年、夜はにぎやかに過ごすのが通例となっております」
「この島の聖人たちは、にぎやかなことが好きなのであります」
 ふたりは直立不動の姿勢で、堂々と言い張った。
「……とんだ聖人さまだな」
 あまりのとぼけた言い草に、レノスは開いた口がふさがらない。
「結局、けんかの原因は何なのだ。どちらが先に手を出した」
 いくら待っても、答えはない。部屋には、破裂しそうなほどの緊張が充満してくる。
 わきに立っていた上官のフラーメンが、ついに見かねて口を出した。
「司令官どの。このように本人たちも反省しておりますので」
 恋人を口説いているのかと思うほどの甘い猫なで声だ。「けんかの処罰は、営倉一日ということになっています。ただちに、こいつらを放り込んでおきます」
「いや、その必要はない」
 レノスは蝋板に走らせていた鉄筆を机に置き、立ち上がった。
「全兵士に伝えよ。明日の朝、日の出とともに演習場に集合せよと。そこで、この両名の処分を決定する」
 ランプの光を背に彼らに近づいた司令官は、凄みを含んだ笑顔で言った。
「よいか。必ず集合しろよ――晴れても、降ってもだ」
   

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