The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 1 「黒き丘陵」

(4)

 茜色の雲が、まるで軒先に干した羊毛のような厚みを持って、夜明けの空にぶらさがっている。
 剣を剣帯に差して、レノスが宿舎の外へ出ると、すでに二百人の兵士たちは演習場で整列していた。
 彼らは前方を直視し一片の身じろぎもなく、ただ槍先の房飾りだけが、薄闇の中で風に揺れる。
「司令官どのに敬礼!」
 号令とともに、鋼や革でできた色とりどりのかぶとが一斉に、さざ波のように動いた。
 司令官は壇上で敬礼を受けると、部下たちを見渡した。どの顔も、寒さのせいか仮面のように強ばっている。
「ゆうべ、町の酒場で乱闘騒ぎを起こした者は前へ」
 昨晩にも出頭したふたりが、隊列から一歩進み出て、不動の姿勢で立った。
「ガルスとマロー」
 レノスは石段を降り、彼らの前をゆっくりと横切った。「おまえたちのしわざに、間違いはないな」
「はい」
「したたかに酔い、口論のすえに、卓を二つ割り、椅子を四つ壊し、酒壺を五つ砕いたというのだな。酒場の壁に穴を開け、入り口の扉の蝶番を歪め、ひとりの給仕女のスカートのすそを破いた――そうだな?」
「そうであります」
 レノスは踵を返し、また彼らの前を横切る。
「それでは、それに相当する罰を与えねばなるまい。……ネポス」
 司令官は、ローマ人の会計係の名を呼んだ。
「は、はい」
「この二人の来月の給料を差し引いて、酒場への弁償の支払いに充ててくれ」
「えっ」
 処罰される者たちは、狼狽の声を上げた。
「なにしろ、卓が二つに椅子が四つ、酒壺に壁に扉に、女のスカートだからな。足りなければ、再来月の分もだ」
 後ろの兵士たちの列のあいだにも、動揺が広がるのがわかった。それが渦を巻き、怒りに昇華するさまが、目に見えるようだ。
「恐れながら、司令官どの。納得がいきません!」
 最初に叫んだのは、犯人のひとりマローだった。「けんかの処罰は、営倉一日のはずです」
「壊したものを弁償するのは当然のことだろう。何がどう納得がいかぬ」
「おれたちは、そんなに高い給料をもらっておりません。それどころか、この一年はむしろ遅配つづきで」
 「そうなのか」とレノスが会計係の顔を見やると、彼は困ったようなうなずきを返してきた。
 確かに、辺境部隊の給料は、本国に比べて決して多いものではない。しかも、帝都から送られてくる給料は、手から手に渡されるたびに、当然のようにいくらか軽くなるのだ。
 財務帳簿を見ても、砦の財政は見事なほど、ぎりぎりの収支だった。
「ならば、酒場に行かねばよい。行っても、見境もなくなるほど飲まねばよい」
「飲まなきゃ、やってられませんぜ! こんな仕事」
 ガルスも、反論に加わった。
「ほう、帝国軍の兵役は、『こんな仕事』なのか」
「どこへ行っても、島の連中から冷たい目で見られて、ろくに口もきいてもらえねえ」
「そのくせ、本国のやつらには、バカにされる。待遇だって俺たち現地採用とは雲泥の差です」
「そんなはずはない」
「司令官どのは、まだ何もご存じじゃないんだ!」
 上官と兵士の険悪なにらみ合いが続くかと思われたとき、
「お待ちください。司令官どの」
 命令することに慣れた、よく通る声が右側から響いた。彼らの上官、金髪のフラーメンだ。
「ふたりとも、わが隊の兵士です。責任は隊長であるわたしにあります」
 レノスは、眉をひそめた。「おまえが、代わりに弁償するというのか」
「もちろん、そんな金は、わたしにもありません」
 百人隊長は、おおいばりで答えた。「しかし、おそれながら、司令官どの。この砦の最高責任者は、どなたでしょうか」
「……は?」
「こういうときには」
 左からも、ぼそりと低い声が聞こえた。もうひとりの百人隊長、黒髪のラールスだ。「スーラ司令官はいつも、こうおっしゃっていました。『兵士を咎めるに及ばず、責任はわたしにある』と」
(そういうことか)
 レノスは、内心うめいた。
 スーラ司令官は、ことあるごとに私費を投じて、兵士たちの不満を抑えてきたのだ。
 彼らが町でもめごとを起こせば、その都度、司令官が弁償費用を立て替えた。昨夜の酒場の亭主のねばつくような視線も、ガルスとマローが司令官室に連れて来られたときの妙に開き直った態度も、暗にそのことを求めていたのだ。
 そのことを知った上で、兵士たちはうっぷん晴らしに町で暴れる。営倉一日という軽い罰だけで、あとは咎めなしだ。
 住民も、後で賠償金が降りることがわかっているから、文句も言わずに我慢している。
(冗談じゃない。これでは、軍の規律も何もあったものじゃない)
 おそらく、辺境部隊の司令官になるということは、そういうことなのだろう。ここぞというときに金をつかませて、少々の軍紀違反は目こぼしし、兵士の不平不満をうまくやり過ごす。
 おそらく、どこの砦も、似たりよったりのことをやっている。悪習が当たり前のことだとされているのだ。
(父が司令官だったときと、何かが大きく違ってしまった)
 十年の歳月の間に、辺境部隊を覆い尽くした腐敗を思い知り、みぞおちが、きゅっと痛む。
(今このやり方を変えれば、兵士たちの不満は爆発する。命令を聞かなくなり、反乱が起きるかもしれない。だが)
 レノスは、伏せていた顔をまっすぐに上げた。その日最初の曙光が、遠くの黒い丘陵をくっきりと照らし出した。去年のヒースの下から芽吹く緑が、つつましい春の色で浮かび上がる。
 事の決着がつくのをじりじりと待っていた兵士たちの間を、若い司令官はゆっくりとした足取りで歩き始めた。
「確かに、北の砦の司令官は、わたしだ。この二百人隊の規律に関する最終的な責任は、すべてわたしにある」
 レノスの目は、ひとりひとりを探るように注がれる。兵士たちは、居心地悪げに視線を泳がせた。
「近隣の住民は、酒場の店内は砦の兵士でいっぱいだったと証言している。すると、こういうことになる。ガルスとマローが大乱闘を演じ始めたのに、たまたま酒場に居合わせた仲間の兵たちは誰も止めようともせず、これだけ店が破壊されている最中も、平然と酒を飲んでいた。あるいは――」
 彼は後ろまで進むと、踵を返し、まっすぐに自分の軍を見据えた。
「面白がって、もっとやれと、はやしたてた」
 兵たちは、背後から聞こえてくるきびしい声に震え上がった。
 思わず振り向いた者は、司令官の顔が、朝日に照らし出されて赤々と燃えているのを見た。茶色の瞳は黄金に似た鋭い光を放っていた。
「この島にわれわれが来たのは、混乱のためか秩序のためか、どちらだ? 飲んだくれて酒場で暴れるような兵士を、誰が信頼する? ブリタニアの民を守るべきはずの軍隊が、人々を苦しめる存在となっているのならば、われわれはいっそ、自分の手足を切り落とすべきであろう」
 おそろしいほどの沈黙が訪れた。少しでも動けば、空気が針となって刺してきそうだ。
「第七辺境部隊は、町の住民たちにとって鼻つまみものになるのか、それとも信頼と尊敬を勝ち取るのか。そんなこともわきまえず、仲間が店を壊すのを見ているだけで止めもしなかった者は、けんかの当事者たちと同じく、わがローマ軍の名誉を大いにおとしめたのだ。同罪として裁かれねばならぬと思わんか?」
 見張り台の風向計だけが、カラカラと乾いた音を立てている。
「ゆうべ酒場に居合わせた者は、前に出よ」
 なおしばらく無言が続いていたが、やがて、鎖かたびらが擦れ合う音がして、ひとり、またひとり、おずおずと前に出た。
 ガルスとマローをはさみこむようにして、右側にフラーメン隊、左側にラールス隊が並んだ。最初のふたりを含め、全部で二十三人が立っていた。
 レノスは深々と息を吐いてから、前方に立つ部下に大声で呼びかけた。「フラーメン。けんかの処罰は営倉一日だったな」
「ですが、司令官どの、この人数では収容しきれません!」
 百人隊長は、やけになってわめいた。
「では、二十三人への代わりの罰を申し渡す。次の給料の中から、酒場への弁償費用を払え。二十三人で等分に割るのだ」
 抗議の声を挙げる者は、いなかった。
「ただし、ひとつだけ、交換条件をつけてやる」
 ふたたび兵士の列を通り抜けて、正面に立つと、レノスは高らかに宣言した。
 それは、子どもの考えるいたずらのような突然の思いつきだった。だが同時に、ここへ来たときから望んでいたことでもあった。
 この肌の色も習慣も違う兵士たちと、本当の意味で知り合うには、言葉だけでは足りないのだ、と。
「二十三人は、今からわたしとひとりずつ剣を合わせよ。勝った者には、その分の弁済費用は、わたしが代わりに支払うこととしよう」


 夕暮れになって、司令官と二人の百人隊長は、町の酒場に赴いた。
 昨晩めちゃめちゃに壊れていた店内には、応急の修理がほどこされ、卓も椅子も新しいものと取り換えられていた。
「ゆうべは、部下たちが迷惑をかけた」
 金貨の入った革袋を店の亭主に手渡して、レノスは頭を下げた。
「もう、二度とこのようなことのないようにするゆえ、勘弁してもらいたい」
「こ、こ、これは、ご丁寧に」
 亭主は目を白黒させながら、袋を押し頂いた。司令官が隊長たちを連れて直々に謝りに来るなど、かつてないことだったのだ。
 すぐさま、給仕に酒の壺を持って来るように命じた。
「お待ちください。今夜はあっしのおごりです。すぐに料理もたっぷり運ばせますんで」
「いや、われわれはまだ勤務中で」
 と言いかけたレノスは、部下たちの舌なめずりせんばかりの顔を見て、考えを変えた。「それでは、一杯だけいただこう」
 三人は、まだ空いている店内の隅の卓を選んで、座った。
 ブリテン島特産の麦芽酒がなみなみと注がれた杯を、軽く持ち上げてから、一息に干す。
「いい飲みっぷりですね」
 フラーメンは、親しさの境界をさぐっているような調子で言った。
「それに剣もお強い。二十三人もいたのに、まさか誰ひとり、かすりもしないなんて思いませんでした」
 実際には、全員と戦ったわけではない。最初の五人ほどが次々と負けた後、それ以上レノスにあえて挑戦しようとする者はいなくなったのだ。
「こちらも必死だった。弁償金どころか、今ふところにはこの酒一杯の代金さえ持っていないからな」
「ほ、本当ですか」
 フラーメンは、驚いたように緑色の目を見開いた。「伯父上が確か、軍の偉いさんだと聞きましたが」
 もう、そんな噂が伝わっていたのかと、レノスは苦笑した。
「その伯父に嫌われて、辺境に飛ばされたのだ。おまけに、小さいころに親を亡くし、受け継ぐべき土地も財産もない」
「そうでしたか。裕福な貴族のお坊ちゃんだとすっかり思い込んでましたが、よく考えたら、それならブリテン島くんだりまで来るわけないか」
「ブリテン島は、『くんだり』なのか」
「だって、そうでしょう。何にもないところですよ。寒いし、雨ばかりだし、育つものと言えば大麦くらいだし」
「その大麦のおかげで、この美味い酒が飲めるだろう?」
「美味いって。あはは、この燃え上がる寸前の溶岩みたいな酒が、美味いって?」
 フラーメンは酒が入るにつれ、次第に舌に油を塗ったような話しっぷりになった。島の人間は、いったん境界の内側に入ってくると、人が変わったように打ち解けるものらしい。その横で、ガリア人のラールスは黙然と杯を傾けている。相変わらず何を考えているのかわからない男だ。
 兵士たちのレノスに対する警戒は、まだ完全には解けてはいないだろう。だが、今日のできごとをきっかけに、互いの関係が徐々に変わっていくかもしれなかった。
 そのことに、希望を持とう。
 客で混み出した酒場を出ると、すでに黒々と闇に染まった東の丘の上高く、十三夜の月がぽっかりと浮かんでいた。
 誰かが端にかぶりついて、放り投げたシトラスのようだ。
 空を仰ぎながら、レノスはふと、スーラ司令官の忠告を思い出した。

『ときどきクレディン族らしき者が、砦の町を襲いに来ることがある。決まって満月の夜を選んで現れるのだ』

 月が満ちるまでに、あと三日しかない。

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