The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 1 「黒き丘陵」

(5)

 男は荒い息を整え、うずいている肩の痛みをどうにかやり過ごすと、ふたたび前かがみになった。
 剣の先を左右に振りながら、どの方向に突き出すかを迷う。
 相手は、ことさらに構えることもなく、背筋を伸ばして立っている。その右手に握られた片手剣は、まるで重さなどないかのように見えた。
 どう斬りつけても、攻撃はその剣で阻まれてしまうという恐怖に囚われ、しり込みしそうになる。
 男は考えることをやめ、本能にまかせることにした。
 右側の足をぐいと踏み出し、裂帛の勢いで襲いかかった。相手の剣は、その軌道につられて右に上がった。
 男は左足をすばやく動かし、体を沈めた。がらあきになった相手の脇腹に渾身の力で剣を当てる。
 勝ったと思った次の瞬間、男はかぶとに強い衝撃を受けた。
 演習場の地面に、土埃が舞い上がる。
「それまで!」
 フラーメンの嬉々とした叫びが上がった。「司令官どのの勝ち!」
 部下たちのはやしたてる声を聴きながら、めまいが収まるのを待つ。ラールスはゆっくりと体を起こし、ズボンから土を払った。
 対戦相手は呼吸も乱さず、すずしい顔で練習用の剣を革袋に戻すところだった。「いい試合だったな」
 信じられない、とラールスは口の中でつぶやいた。なぜ、あの状態から、頭上に攻撃が来るんだ。
「自分の攻撃に集中しすぎだ」
 石段に置いてあったマントを拾いながら、レノスは、まるで彼の心の中を読んだかのように言った。
「目の動きで、何を目論んでいるかがすぐわかる。最後の最後まで、視界は広く持つことだ。そうすれば逆に、相手の動きも自然と見えてくる」
 近づいてきたフラーメンが、土だらけの仲間を見ながら、くくっと喉の奥で笑った。
「四連敗中のきさまに、笑う資格があるか」
「五連敗中のおまえにだけは、言われたくねえ」
 小声で言い争う百人隊長たちの前を、肩に赤色のマントをかけて歩きながら、レノスは晴れ晴れとした声で言った。
「兵たちは、このごろ朝早くから練習に励んでいるようだな。おまえたちのおかげだ」
 「そりゃもう」とお調子者のフラーメンが相槌を打った。実際は、剣の鍛錬にのめりこんでいるのは、百人隊長ふたりなのだ。部下たちは、早朝に叩き起こされ、それに付き合わされているだけ。
 だが、寒さに震えながら立って見ているよりも、素振りや打ち合いでもやっていたほうがマシだと思ったのだろう。やがて演習場のあちこちで、剣を合わせる音が響き始めた。
 まさか、あいつらがな、とフラーメンが吐息をついた。『あいつら』とは、ガルスやマロー、氏族との混血の兵士たちだ。
 島を占領する帝国軍に入ることは、自分が生まれ育った祖国を売り渡すに等しい。
 かと言って、氏族の仲間に入ることもできない。私生児では土地も持てない。生まれたときから彼らの選択肢は限られているのだ。
 いやいや入隊しても、フラーメンのように士官にまで出世できる者は、ごく一部。士気が上がらないのは当然と言えば当然だった。
 前司令官のスーラは、ものわかりがよく、懐もすこぶる温かかったため、兵士たちとは、かなりうまく行っていた。だが、この堅物で融通のきかない、おまけに金欠の新司令官に、ほんのわずかのあいだに、やつらが心を動かされているなどとは。
 将校用の浴場は、奴隷の手によって湯が沸かされ、煙突からは、すでにもうもうたる湯気が立ち昇っていた。
 靴を脱ぎ、鎖かたびらや小手をはずしたレノスは、部下たちの前で、ためらいなくトゥニカを脱ぎ捨て、腰布だけになった。
 ふたりの百人隊長は、息をのんだ。
(細い!)
 肩や腕は、鍛え上げたしなやかな筋肉をまとっているものの、腰のくびれなど、まるで女性と見まごうばかりだ。どこから、あの胆力が出てくるのだろう。
 それに、肌のきめも細かく、なんというか――なまめかしいのだ。
 胸から背中にかけては、分厚い筒状の包帯で覆われている。はずすのを手伝おうと、親切心のつもりでフラーメンは手を伸ばした。
 寸前で、はたき落される。レノスはふりむいて、かすかに笑んだ。
「触らないでくれ。湯に触れると古傷が痛むのだ」
 司令官は湯気の向こうに消えた。
 フラーメンは、わけのわからぬ気恥ずかしさに顔が赤らむのを感じ、隣を見たが、ラールスは完全に放心していた。


 北の砦には、二百人隊規模の中隊が配備されている。
 歩兵隊は、ふたりの百人隊長がそれぞれの百人隊を統括し、その下は、さらにいくつかの小隊に分かれて、十人隊長が指揮を取る。
 それとは別に、十人編成の騎馬隊がいて、指揮系統は歩兵隊とは異なっている。
 騎馬隊は司令官直属であり、ことあらば、真っ先に駆けつける機動力を持っていた。
 レノスは、厩舎に赴く途中、青く澄んだ空を見上げた。
 風が少しずつ冬の棘を失い、春のやわらかさをまとい始めた。厩舎の裏のトネリコの大木の枝先から白い花芽が伸びているのが見える。
 彼がこの島に来てから、もうすぐ二ヶ月が経とうとしているのだ。
「マルキス司令官どの!」
 馬の腹を刷毛でこすっていたタイグが、彼を認めてうれしそうに手を振った。
 二ヶ月前、この砦までレノスを道案内してくれた若者だ。つい最近まで周囲の眼を警戒して近づいて来なかったが、そのことを責めるにはあたらない。彼らは彼らの集団の中で生きていかねばならないからだ。
 今は、人なつこい笑みを浮かべて、仲間の前で新しい司令官の一番の知己としてふるまおうとしている。それは集団全体が新しい司令官を受け入れたことを意味している。レノスにとっては、うれしいことだった。
 タイグが今世話をしているのは、あのときの葦毛の雌馬で、それ以来、レノスのものとされていた。
 近づいて首を軽く叩くと、馬はぶるっと白い息を吐き出して、お辞儀をするように頭を揺らした。
 厩舎の脇部屋から出てきたゲルマニア人の騎馬隊長スピンテルは、赤い髪をした壮年の男だった。もみあげを長く伸ばし、顔中髭におおわれている。神経質なまでに体毛を剃る習慣のあるローマ人にとっては、めずらしい風貌だった。
「明日の夜、夜間の特別巡回を頼みたい」
 騎馬隊長は、灰色の目を細めた。本当はしかめ面をしているのだろうが、髭のせいでわからない。
「前回も前々回も空振りでした。本当にやつらは来るのでしょうか」
「わからん。だが、スーラどのは、くれぐれも用心するように言い置いていかれた」
「わかりました。巡回を出しましょう」
「頼む」
 スピンテルが去ったあとも、レノスはその場に立って考え込んでいた。
 満月の夜ごとに巡回を増やし、町の警備を強化して、明日で三回目になる。夜盗らしき集団はいまだに姿を見せていない。
(もう、やつらは町を襲うことをあきらめたのだろうか)
 厩舎の中に入ると、タイグが仲間たちふたりと、干し草を地面に敷きこんでいるところだった。
 同期に騎馬隊に入隊したためか、この三人はいつもいっしょにいた。
 背格好もほとんど同じだったため、はじめのうち名前が覚えられなかった当時のローマ人の上官は、彼らの名を「タイグ、セイグ、ペイグ」というあだ名で呼ぶことにしたらしい。とりあえず、「タイグ、セイグ、ぺイグ」と怒鳴れば、誰かひとりは来る、という寸法だ。
 ローマでは、あだ名で呼ばれることは、特に不名誉なことではない。帝都の政治家でも、あだ名が通称になる例は多くある。
 三人は、入ってきた司令官に気づき、姿勢を正して敬礼した。
「馬の具合はどうだ」
「はい。順調です。無事に生まれてくれればいいんですけど」
 手前の柵に、もうすぐお産を控えた雌馬がいる。騎馬隊にとって、馬は武器であり防具であり、彼らの命そのものなのだ。
「セイグ」
「はい」
 タイグの隣に立っている栗色の髪の若者は、ぴくりと肩をすくめた。
「おまえは、クレディン族の血が流れているというのは本当か」
「本当……です」
 セイグは、おびえたような目をした。「けれど、わたしは何も知りません。氏族の村に近づいたこともありません」
「それはわかっている。だが、もし――」
「何も知りません」
 顔を伏せ頑なに同じ答えを繰り返す部下の肩を、ぽんと叩いた。「もういい。悪かったな」
 レノスは司令官室に戻り、机の前に座ると前任者の日誌を繰った。
 この二ヶ月、暗記するほど読み込んできたものだ。
 クレディン族は古くから、北の砦のある盆地と、その北側の丘陵一帯を支配してきた。
 何百年ものあいだ、回りの氏族と争いながら領地を広げてきた、好戦的な民だ。
 ローマ軍が圧倒的な武力で島全体を制圧してからも、クレディン族は反乱の歴史を繰り返してきた。
 十年前の、島を挙げての大きな反乱にも加わっている。
 だが、反乱は、帝国軍の圧倒的な勝利に終わった。それ以来、この地に戦いは止んでいる。
 しかし、クレディン族と帝国軍の間には、今でも冷え冷えとした沈黙が横たわっている。彼らは、村に帝国軍の使者が近づくことすら許さない。
(彼らがローマを憎むのは、無理もない)
 村が焼かれ、畑には塩がまかれ、戦士たちは見せしめに虐殺され、奴隷にされ、あるいは二度と反抗したいと思わぬように痛めつけられた。十年前、九歳のレウナが目撃したのと同じ光景が、ここでも繰り広げられたのだとしたら。
 その憎しみは、当時何も知らぬ赤子だったクレディン族の若者たちの心にも、深くしみついているのだろう。
 体の傷はいつか癒える。壊れた家は、修復される。だが、憎しみというのは人から人へと伝わっていくうちに歪み、より深くより広く根づいて、おのれの悲運の理由にされていくのだ。
(早く、この憎しみの根を断ち切らねばならない)
 レノスは奥歯をぐっと噛みしめて、おのれに言い聞かせる。彼が女である自分を捨ててまで、ここに来たのは、そう願いながら死んだ父の遺志を果たすためであることを。


 欠けのない月は、回りの雲をさえ溶かしこんだように、煌々と浮かんでいる。
 レノスは、砦の中でじっとしていることができず、ラールスとフラーメンに後を託すと、巡回当番の兵士たちとともに町へ出た。
 夜の巡視は、三時間ごとに行われる。その合間には、町の周辺の壁に沿って騎馬隊が巡回する。歩哨は塁壁の上から、くまなく町中を見張っている。
 すべては万全だった。おそらく、今夜もなにごともなく終わるはずだ。
 そう確信する一方で、なぜだか不安がぬぐいきれなかった。
 赤い大楯と槍を手に行進していく十人隊兵士たちから、少し離れてついていく。
 真夜中だというのに、城下町はにぎわいを残している。
 派手な風体の女性といっしょに、分厚い垂れ幕の奥に消えていく行商人。酒場の窓から漏れ聞こえてくる酔客たちの大声。心なしか兵士の姿が少ないのは、レノスの説教が利いたからというより、給料日前だからという単純な理由だろう。
(敵がこのことを知っていて、兵士が町に繰り出さない日を選んで襲ってくるとしたら?)
 背筋がすっと冷えたが、思い直した。氏族にローマ軍の給料日がわかるはずはない。
 巡回が終わりにさしかかるころには、町の明かりはずいぶん少なくなっていた。
 隊列が砦への帰路に向かおうとするとき、レノスは背後に、かすかな気配を感じた。
 振り向くと、狭い路地の両側に立つ家壁に、一瞬だけ人影が映って消える。
 レノスはためらうことなく、石畳の大通りを駆け戻った。
 路地に入ったとたん、真っ白な煙に取り囲まれた。
 葦でふいた民家の屋根が、炎を上げて激しく燃えている。
 もう一度大通りに出ると、巡回兵たちの背中に向かって、鋭い指笛を鳴らした。
「火事だ。消し止めろ!」
 部下たちが驚いて走ってくるのを確認したレノスは、ふたたび煙のうずまく一角へと駆け込んだ。
 剣の柄に手をかけたまま、煙で視界がまったく利かない迷路のような路地をひたすら走る。逃げまどう住民たちにぶつかり、甕か何かを倒す感触がしたが、かまっていられなかった。
 あれだけの警備をしたのに、なぜだ。なぜ、たやすく侵入され、火をつけられる。
 ようやく、土塁に沿って建つ掘立小屋のあたりで人影に追いついたと思ったとたん、何かが空中に跳躍した。
 小屋の陰に馬を隠していたのだ。犯人を乗せた馬は、土塁を乗り越え、あっというまに姿を消した。
「くそっ」
 町門へと走ると、門脇の馬つなぎ用の横木に飛びつく。
「一頭借りるぞ!」
 馬丁に叫び、レノスは手綱を小刀で切り、その端をつかんで馬にまたがった。
 門を飛び出る。広い平原は月明かりに照らされ、からっぽの白いスープ皿のようだった。
 前方を、一頭の馬が狂ったように疾駆している。
 レノスも、馬の腹を蹴って、猛然と後を追った。
 ひたすら目を凝らしているうちに、乗り手のマントがふわりと風をはらむのが見えた。あらわになった体の線は驚くほど華奢だ。
(女……いや、子どもか)
 スーラ司令官のことばを思い出した。

 『しかも、その先頭に立つのは、まだほんの子どもだと言うのだ』

 人馬の影は、小さくなっていく。追いつけない。丘を登る。姿を見失う。
「待て!」
 思わず、怒鳴った。
 聞こえたはずはない。だが、丘の頂きで、敵は彼の叫びに応じるように手綱を引いた。
 馬の向きを変え、じっとレノスを見つめる。
 長い髪が月の光を受けて、白鳥の羽毛のように輝いている。
 頬から目のふちにかけて、そして顎から首にかけて、青と黒の線を二重に引いている。クレディン族の戦化粧だ。
 レノスは、ぶるっと身震いする。人間とは思えなかった。まるで夜の森から抜け出た精霊のようだ。人間にしては邪悪すぎる。そして、美しすぎる。
 黒い丘の上に立つ戦士と帝国の司令官は、互いから目をそらすことなく見つめ合った。



     第一章 終

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