The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 3 「戦雲」

(4)

 落日が山の端に隠れるのを誰も止められないように、北部の状況は急速に悪化していった。
 大麦の収獲が終わったあとに続いた悪天候のため、氏族の村々ではどこも小麦の出来はあまり良くなかった。大豊作ならともかくも、これで穀物税が三倍に増やされるとなると――。
「徴税官の護衛には、矢が雨あられと振ってくるだろうな」
「いっそのこと、亀の陣形で進みますか」
 フラーメンと冗談を言っているうちは、まだよかった。
 騎馬隊のセイグが、妓楼の女将フィオネラの伝言をたずさえてきたのだ。
「商人のガヴォが、氏族の様子が変だと、叔母に耳打ちしてきたそうです」
 若者の灰色の瞳は、懸念の雲を宿していた。
「村に行っても、女子どもたちが寄ってこないのです。いつもなら、ガヴォが村の門をくぐったとたんに群がってきて、ろばに積んできた荷物を広げてくれとせがむのに、今は遠巻きに見つめるばかり。男たちも一応は商品を見るものの、どこかうわのそらで、財布のひもは固いと」
 ガヴォだけではない。仲間の商人たちも同じことをこぼしているらしい。その一方で武器や防具は、すっかり品薄になったという噂もささやかれている。
「ガヴォは、自分がローマ軍との仲介をしたことで、クレディン族の恨みを買ってしまったのではないかと恐れています。ほとぼりが冷めるまで、南で商売をすると旅立っていきました」
(沈む船からは真っ先にネズミが逃げ出すというが、この地からは、商人が真っ先に逃げ出したか)
 事態がもっとも恐れていた形になったことを告げたのは、それから一ヶ月後、一週間の巡回から帰ってきた騎馬隊だった。
「ダエニ族の西の森の中にたいまつが入っていくのを見たのです」
 隊長のスピンテルが、もみあげを逆立て、鼻をつまみたいほど凄い匂いをさせて入ってきた。
「たいまつ?」
「氏族たちが、こっそり秘密の集会をしているのでは、ありますまいか」
「……戦の準備か」
「ダエニ族とクレディン族の境界の森での集会となれば……氏族が連携して一斉蜂起ということも考えられますな」
 レノスは、砦の見張り台に登った。
 四方を見回すと、空気に何かが焦げるような匂いが混じっているような気がする。町から漂う夕餉の煙だとは思っても、その饐えた匂いは記憶の奥にこびりついている。
 遠い昔に、ひどく、なじんだ匂いだ。
 あたりは何もかもが燃えていた。男たちが剣を合わせる音、組み合い、なぐり合う音。馬車の下に隠れていた少女は、泣き声が漏れないように、地面の砂利を噛みしめた――。
「どうかなさったんですか」
 見張り番の兵士が、不安そうに司令官の顔をうかがう。
「なんでもない」
 レノスは深く息を吸うと、背筋をぴんと伸ばした。
 まだ、何も起こっていないのだ。今はまだ。


 夜間の見張りを二倍に増やし、警戒を怠らぬ中、なにごともなく日々は過ぎていった。
 徴税官が南からやってきて、北の砦の区域を巡り始めた。
 氏族たちはおとなしく従った。クレディン族の村の門の前では、去年と同じように天幕が張られ、アイダンが族長代理として立ち会った。
 彼はレノスを見ても、まったく表情を変えなかった。まるでそこには、人間など誰もいないように。
(どうするつもりなのだ。アイダン)
 胸ぐらをつかんで、揺すぶって問い正したかった。氏族たちは帝国に対して反旗をひるがえす気なのか、どうなのか。
 戦えば、双方とも無傷ではすまない。どちらの側も多くの戦士が死に、あるいは傷つくだろう。
 だが、ひとつ違うことがある。たとえ、北の砦が全滅したとしても、南から次の部隊がやってくる。それでも足りなければ、やがて本国から救援が来る。終わりのない戦乱が島を覆い、氏族が壊滅するまで続く。ローマは、自軍の敗北を決して許さない。
 それでもいいのか。わかって、それでも戦う気でいるのか。
 徴税官一行は七日かかって、クレディン族とダエニ族の五つの村をめぐり終えた。
 穀物の収獲や羊の頭数についての、お決まりの『意見の相違』はあったが、どこの村でもさほどの対立も混乱もなく、納税の調印書には署名がされた。
 徴税官たちは上機嫌で南に帰っていった。
 無事に任務を果たし終えたことに安堵しながらも、レノスはあまり喜ぶ気になれなかった。
 恐れていた徴税の季節は終わった。氏族たちは静かで、すべてはとどこおりなく、うまく行っている。
(それでは、スピンテルたちが見た、森の中のたいまつは何だったのだ)
 酒の力を借りた眠りは、悪夢を運んでくる。
 あれは、何でもなかったかもしれない。ただのドルイドの祭だ。ドルイドの祭司たちは、人間をいけにえに捧げると恐れられているが、それは大げさ過ぎる。確かに、百年も前の人間は、愚かで野蛮だったかもしれないが。
 サフィラ族長の家の壁にも頭蓋骨が飾ってあったな。あれは敵を殺したあと、首をはねて持ち帰る昔の風習だ。今はそんなことはしない。アイダンが絶対にそんなことはさせない――。
 狭い寝台で何度も寝返りを打った挙句、浅い眠りを惜しむように起き上がったあと、レノスは身支度をした。革の胴着をつけ、剣帯を下げ、マントをブローチで止めた。
 窓を開けたとき、寒さに身震いした。海から押し寄せた冷たく湿った霧が、ひたひたと沼地の上を這っている。
 もうすぐ冬がやってきて、ここは雪と氷に閉ざされるのだ。戦いには不向きな、極寒の季節だ。このまま春まで平和な日々が続くに決まっている。
 将校用の宿舎から外に出る。砦の中も、羊の乳のうわずみのような濁った黄色い霧におおわれていた。
 塁壁の上の歩哨が、ゆらゆらと影のように見えるだけで、ほかに動く者はいない。まるで砦全体が死に絶えてしまったようだ。
 不意にレノスの頭に、夜明けの悪夢がよみがえった。小さなうめき声を漏らすと、彼は厩舎へと走り出していた。
「スピンテル隊長!」
 扉を大きく押し開けると、馬にまぐさをやっていた奴隷や、しっぽにブラシをかけていた隊員が、驚いてこちらを見た。
「どうしたんです。こんな朝早くから」
 脇の宿舎から、目をこすりながらスピンテルが出てきた。
「今から巡回に出てもらえまいか」
「今から、ですか」
 ひげもじゃの男の声が、裏返った。
「特別な理由はない。ただ、無性にいやな予感がする」
「氏族の動向ですか?」
 ゲルマン人は、首をかしげた。「もし反乱を起こすなら、徴税の前に起こしていたでしょうに」
「ー―いや」
 レノスは、苦しげに息を継いだ。「もし、わたしが氏族なら、今反乱を起こす。ローマ軍は厄介な徴税業務を終えて、油断しきっている。警戒して増やしていた夜の見張りも、元どおりになった。徴税官を乗せた船はローマへ去り、航路は閉じられる。今氏族が反乱を起こして砦が攻め取られても、氷と雪に閉ざされた北に、春まで援軍はやって来ない」
 スピンテル隊長は太い眉をひそめ、真顔になった。
「わかりました。昼前には出発します」
「すまん」
 レノスは司令官室に戻り、手紙をしたためた。それから、百人隊長のフラーメンとラールスを呼び、騎馬隊長と同じ説明をした。
「準警戒態勢を敷いてくれ。非番の者はできるだけ休養を取り、十分食べておくように」
「わかりました」
 ふたりとも緊張した面持ちで、軽口も言わずに出て行った。レノスの抱く不安が、全員に伝染していく。
 何の根拠もないのに、ここまでする必要があるのか。いつまで警戒を続けるつもりだ。ただの杞憂だったら、どうする。
 自問自答しながら、レノスは机に戻り、日誌の日付に目を落とした。
 そして、短く息を吐いた。
 明日の夜は、満月だ。


 アイダンは、自分の赤子を抱き上げ、額に口づけをして、妻の手にあずけた。
「行ってくる、メーブ」
「あなた……」
 族長の家に入ると、父が座から立ち上がって彼を迎えた。
「古の先祖たちより、力と武運をたまわらんことを」
 族長は、おごそかに祝福の決まり文句を述べてから、低く悔しげに付け加えた。「わしのこの足は何の役にも立たぬ。せめて、おまえのそばで戦えればいいものを」
「わたしには、わたしの名を継いでくれる息子がおります」
 長子は頭を垂れた。「それに、わたしやセヴァンに万が一のことがあっても、父上には末の弟ルエルが残ります」
「アイダン」
 サフィラは舌がもつれて、うまく言葉が出せなかった。「わしは果たして正しかったのだろうか。おまえに強いて、この道を進ませてしまったことは」
「誰が族長であろうと、同じことが起きたのですよ。父上」
 父の老いを目の当たりに見て、さびしく思いながらアイダンは答えた。「それに、われわれが負けることはありません。勝ってみせます。クレディン族の誇りのために」
 彼はもう一度お辞儀すると、外へ出た。戦士の館では、年老いた女たちが、ウォードの葉をすりつぶした汁を鉢に用意していた。アイダンは、藍を頬から首にかけてこすりつけた。沼の泥も同じように塗った。
 よろいは身に着けない。よろいで身を守るのは、ケルトの戦士にとっては恥ずべきことだった。
 腕と足に布を巻き、オオカミの皮のマントを羽織り、大剣を帯に差し、最後に木の盾を腕に、かぶとを脇にかかえて、出陣の支度は整った。
 館の裏庭で、セヴァンがしゃがみこんで、猟犬たちに革ひもの首輪をはめていた。敵の犬に喉笛を噛みつかれないために、昔から戦場に出るときはそうするのだった。
 彼は立ち上がった。顔にも腕にも、兄よりずっと派手な、おどろおどろしい戦化粧がほどこされていたが、それが彼の白い肌によく似合った。
 兄の軍装をまじまじと見つめ、セヴァンは満足して笑った。
「兄さん。心配しなくていい。俺が兄さんを護るから」
 誇らしげに言う。「イスカが俺を護るように、俺が兄さんを護る。絶対に敵の槍は届かせない」
 アイダンは、胸が熱くなるのを感じた。だが、戦いの前に、そのような女々しい気持ちになるのは決してよいことではない。
「セヴァン、聞け」
 彼は静かに言った。「おまえは、自分のために自分の命を使え。俺のために使うのじゃない」
 セヴァンは目を見開いた。
「兄さんは次の族長になる人だ。兄さんの命は、俺の命よりもずっと大切だ」
「俺は思っていたのだよ。族長にふさわしいのは、俺ではなくおまえなのだと」
 アイダンは、自嘲にゆがんだ笑みを浮かべた。「剣の腕も、猟の獲物も、人の心をつかむ術も、いつも、おまえのほうが優れていた。俺が、どれだけおまえをねたんでいたか、わかるか?」
 セヴァンは、息のしかたを忘れてしまったようだった。
「だ――だって、兄さん」
「おまえは俺の憎しみがわかっていたんだろう。だから、いつも父や村人から嫌われるようにふるまった。すべての損な役回りを、率先して俺の代わりに引き受けた。そうすれば、俺が喜ぶと思ったんだな。そして俺は喜ぶふりをした」
 弟は声もなく、足元の犬たちを見つめた。助けを求めるように。
「あの人は、俺のそんな狡さを一目で見抜いていたよ」
 アイダンは、持っていた青銅のかぶとを頭にかぶった。「だから、俺は男らしく、あの人と戦えるのを喜んでいる」
「兄さん……」
「邪魔をするな。セヴァン」


 その日の夕方、見張り台の兵士が血相を変えて走り込んできた。
「騎馬隊が戻ってきました。ものすごい勢いで駆けてきます。でも、一頭足りません!」
「なんだと?」
 駆けつけると、開いた砦の門から、真っ白な息を吐きながら、人馬が飛び込んできた。
「司令官どの。タイグの馬がやられました。ダエニ族の矢で!」
 隊長のスピンテルが馬から飛び降りて、大声でわめいた。
 セイグの馬に二人乗りしていたタイグが、青ざめた顔で降りてきた。「落ちたとき、肩を打っただけです。たいしたことありません」
「……何があったのだ」
 戦慄に腹の中が波打つのを感じながら、レノスは問うた。
「東の境界の信号塔で、倒れているローマ兵士を見つけたんです。東の砦の騎馬兵です。顔に見覚えがありました」
 寒さと恐怖にこわばった表情で、隊長が説明を始めた。
「乗ってきたはずの馬はどこにもいませんでした。逃げたか、持ってかれたんでしょう。背中に深手を受けていて、手遅れでした。だが必要なことは言い残しました――東の砦が氏族の奇襲を受けて、ほぼ全滅した、と」
「全滅――」
 レノスは、茫然と繰り返した。「まさか。あそこは五百人隊の駐屯地だぞ」
「マヤカ族とカタラウニ族が、一斉に押し寄せてきたそうです。おまけにダエニ族も。だとしたら、敵は八百はいたでしょう。砦を囲まれ、火矢を射かけられ、防御壁を破られて、あっという間に総崩れになり――そこまで聞いたとき、氏族の矢が飛んできたので、急いでその場を離れました。死にかけていた伝令は」
 一瞬、言いよどんだ。「わたしが、とどめを刺してやりました」
 膝ががくがくと震えそうになった。
 今ごろ氏族は、東の砦を思うまま略奪しているだろう。糧食も武器も根こそぎだ。兵士も町の住民たちも、男は首を刎ねられ、女子どもは木の枝に串刺しにされる。
 あわれみも容赦もない。それが氏族の戦争のやりかただ。レノスは、そのことをよく知っている。幼いころ、自分の目で見たことなのだ。
 そして、その略奪が終わったときは。
 レノスは、蒼白な兵士たちの顔を見回して、つぶやいた。
「やつらは、すぐにこちらへ向かってくるな」
 ――この草原一帯のかつての所有者、クレディン族を先頭にして。



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