The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 3 「戦雲」

(5)

「砦の門を開いて、町の住民を中に入れろ。ひとり残らずだ!」
 司令官の命令に、百人隊長をはじめとする将校たちは唖然とした。
「何人いると思っているんですか。食糧も水も足りません!」
「補給係、冬のために蓄えた倉庫の食糧を全部空にしろ。そうすれば三日は持つ」
「そんな無茶な」
「ローマ軍は町の住民を見捨てない。見捨てたと言わせない」
 自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、レノスは、眼下の斜面に広がる砦の町を見下ろした。夜の町はどこか落ち着かなく、ざわめいていた。もうすでに住民たちは不穏な空気を感じ取っているのだろう。
 フラーメンは肩をすくめた。「死んじまったら、何を言われても耳に入らないと思いますがね」
「いいから、行け!」
「はっ」
 将校たちは、文句を垂れていたとは思えないほど、機敏に行動に移った。まもなく二百人の兵がいっせいに町の中に散って行った。
  レノスは塁壁の階段を駆け下りると、厩へと走った。
「準備はいいか」
「はい」
 装備を整えたセイグとペイグが、敬礼した。
「長城の要塞の司令官に、この手紙を。それに自分たちが見聞きしたことも細大漏らさず報告して、救援を請うてくれ」
 それぞれに渡したのは、さきほど時間があったときにしたためておいたパピルスの書状だ。「氏族が周囲の道で待ち伏せているかもしれない。しばらくは藪のかげに隠れながら、慎重に進め。南の谷を通り抜けたら、あとは死ぬ気で走り続けろ」
「わかっています」
「きみたちだけが、たよりだ」
「必ず任務は果たします」
 タイグが、遊びに置いてきぼりにされた子どものような顔で、ふたりに手綱を渡した。彼は自分の馬を失ってしまい、三人組はここで分かれるしかなかった。
 どのみち伝令に三人は必要ない。最悪の場合でも、ひとりが囮になって敵の攻撃を引きつけ、ひとりが要塞にたどりつけばよいのだ――最悪の場合など想像したくもなかったが。
 彼らは馬を引いて、砦の取水口から川原の茂みへと、夜陰にまぎれて出立した。
 レノスは騎馬隊長とともに、取水口のアーチから伝令を見送りながら、つぶやいた。
「何日かかるだろう」
「要塞に着くのに一日弱、救援隊が準備を整えてここにたどり着くまで、三日でしょうか……すべてがうまくいっての話ですが」
「全部で四日か」
 絶望的な数字だった。おまけに、要塞の司令官の判断いかんで、それよりさらに遅れるという可能性もありうるのだ。
「馬に、うんと水を飲ませておけ。ここの取水口も、もうすぐ塞ぐことになるぞ」
「風呂も、当分はお預けですな」
 ゲルマン人のスピンテルはからかうように言った。彼はローマ式の風呂が何よりも大嫌いなのだ。


 歩兵隊は実によく働いた。真夜中までに、町の住民は砦の中に続々と避難してきた。
 病人や子どもは兵舎に入れ、それ以外の者は、演習場の敷地いっぱいに天幕を張った。それから町役の者たちを集めて、住民たちを十人ずつの組にさせ、食糧と水を配給する手はずを命じた。
「何か、お手伝いできることはありますか。司令官どの」
 セイグの叔母フィオネラが、娼婦たちの群れを引き連れてきた。「町にあるありったけの穀物、それに鍋や窯を運びこませました」
「ご助力ありがたい」
 百万の味方を得た思いで、レノスは答えた。「粉が尽きるまでパンを焼き続けてくれ。それに、桶という桶、壺という壺に水を汲み置いてほしい」
 塁壁に登ると、みぞれ混じりの雨が吹きつけてきた。町は閑散として、家畜の姿すらない。
 町の門、そして土塁の要所要所に、歩兵を配置してある。カイウスが防御用の槍で強化した土塁は、たやすくは乗り越えられないだろう。
 救援が来るまで四日間、この砦を守りきることができるだろうか。
 月星の見えない闇の中で、見慣れた丘や森が、見知らぬ怪物のように黒々と横たわっている。ざわざわと蠢いているのは、強風にあおられた木々か、それとも地を埋め尽くす氏族の群れなのか。思わず拳をにぎりしめる。
「恐いですか?」
 茶化したようなフラーメンの声が聞こえてきた。ラールスとともに階段を上がってくると、敬礼した。「フラーメン隊、ラールス隊、それぞれ配備終わりました。次のご命令をお願いします」
「もうすぐ夜明けだな」
「はい、これでしばらくは、むだ話もしていられなくなります」
「おまえは、どうなんだ」
「は?」
「恐いか?」
 フラーメンは照れ臭げに、斜めにかぶったかぶとの脇からはみ出た麦わらのような髪を、ぽりぽり掻いた。
「そりゃ恐いでしょう。わたしが十二のとき以来、ブリテン島では戦争らしい戦争は起きていませんでしたからね。せいぜい山賊相手にしか実戦をしたことがありません」
「ラールス、おまえは?」
 ガリア人は無表情に答えた。「わたしは、前任地で幾度か」
「そうか。そういえば、わたしも実戦は初めてになるのだろうな」
 しばらく黒々と濡れた塁壁の石を見つめていたレノスは、ふたたび口を開いた。
「子どものころ、目の前で戦争を見た」
 ふたりの部下は、相槌を打たず黙っていた。
「対立する氏族がいさかいを始めたんだ。そのときローマ軍の砦をまかされていた男はどうしてよいかわからず、氏族同士の殺し合いを目の前にしながら、見て見ぬふりをした。それどころか全軍退却してしまったんだ。砦の町は丸裸にされ、略奪をほしいままにされた……」
 語尾をうめくように終えると、レノスは物思いを払いのけて首を振った。「ローマ軍は、頼ってくる民を決して見捨ててはならないんだ。さもなければ、何のためにわれわれはブリテン島を支配している。お偉方の出世の道具となるために、わたしたちは戦っているんじゃない」
「司令官どのは、もしかして」
 フラーメンが、ひどくやさしい声で言った。「この島出身でいらっしゃるのではありませんか。セイグたちと以前に話したことがあるんです、教えた覚えのない、この土地の挨拶を知っていらしたと。だから、これほどに氏族や、おれたちのことを理解しておられるのだと」
「だとしても、ローマ軍の司令官として、わたしのすることはひとつだ」
 ラールスは眉を寄せて、司令官の口元をじっと見守っていた。
「退却はしない。この砦を、町の住民を全力で守る。戦いをしかけてくる氏族に容赦はしない――たとえ、それが一緒に狩りに行った友であってもだ」
 レノスは、東の空をにらみつけた。分厚い雨雲の向こうにある夜明けの予兆が、その薄茶色の瞳を暗く輝かせた。
「力を貸してくれ、ふたりとも」
「はっ」
「もちろんですとも」
 百人隊長たちは、最大の忠誠をこめて敬礼した。その瞬間、北の砦の三人の隊長たちは、かつてないほど一つの絆に結ばれていた。
 たゆたっていた暗闇が、草原のすみずみまで追い払われたころ、氏族の攻撃が始まった。


「矢をつがえ、ぎりぎりまで引きつけて、ようし、放て」
「斜面を駆け下りたところを集中して狙うんだ」
 ローマ軍の投石器がひゅうんと唸りをあげて、ばらばらと石つぶてを落とす。
「敵の矢だ。防御!」
 土塁の手前の溝に立っていた兵士たちは、卵型の赤い盾を一斉に頭上に掲げ、飛んでくる矢を防ぐ。
 訓練が徹底したローマ軍は、籠城戦では圧倒的に優位なはずだが、いかんせん敵の人数が多すぎた。
 倒しても倒しても、ひるむことなく敵は押し寄せてくる。しかし迎え撃つほうは、たった二百人に満たないのだ。
 部下たちに命令をとばす十人隊長たちの声は、とっくにつぶれていた。
 しばらくして、敵が退却を始めた。だが喜ぶのはまだ早い。敵とて、負傷者を引き上げて体制を立て直し、食事をする時間が必要なのだ。
 そして、それはこちらも同様だった。見張り塔で一時停戦を知らせるラッパが鳴ると、へたへたと兵たちはうずくまった。わずかでも時間があれば、すばやく食事をとり、休んでおかなければならない。ふたり一組になって負傷者を砦まで運ぶ列が、延々と塁壁から見えた。
 主だった将校たちが、塁壁の前に集結した。
「やはり、主力はクレディン族です」
 フラーメン百人隊長が報告した。「ダエニ族と合わせて六百。マヤカ族とカタラウニ族は、まだ来ていません。東の砦の略奪に忙しく、思ったほど早くはやってこないのかもしれません」
「それは、今日聞いた中で一番いい知らせだが」
 レノスは、寒さと緊張でがちがちにこわばった顔に、無理に笑みを浮かべた。「今はどこかで高見の見物を決め込んでいて、戦況次第で参戦するということも考えられるな」
「次の攻撃で、主力のクレディン族をつぶしておきましょう」
 騎馬隊長のスピンテルが言った。「川から騎馬隊が軽装歩兵とともに回り込みます。予想もしていない方向から攻撃がきたら、一瞬あわてるでしょう。そこを、正面の門から歩兵隊が出て一気に叩いてください」
「八人しかいないが、やれるか」
「だいじょうぶです」
「タイグは」
「予備の馬に乗せます」
 レノスは、不安にきゅっと内臓が縮むのを感じた。果たしてうまくいくだろうか。奇策は、失敗したときには、手痛いしっぺ返しが待っているものだ。
 アイダンとセヴァンの姿は、まだ一度も見ていなかった。彼らと戦いたくはない。だが、否応なしに戦う時は近づいているのだ。
「よし、次の攻撃が始まったら、その作戦で行こう」
 いつのまにかみぞれは止み、雲の合間からイトシャジンの花のような美しい青空が覗いた。陽が中天高く昇るころ、味方の警戒ラッパが鳴り響いた。
 氏族の攻撃が再開されたのだ。


 丘の尾根に現れたクレディン族の戦士たちが運んできたのは、薪をいっぱいに積んだいくつもの荷車だった。
 勢いをつけて蹴り飛ばされた荷車は、なだらかな斜面で加速し、砦に向かって突っ込んでくる。それとともに、戦士たちは松明を手に、ときの声を挙げながら押し寄せた。
 彼らの意図は明らかだった。薪に火をつけて燃える荷車を突っ込ませ、町門と土塁を燃やして一気に防御壁を崩す魂胆だ。
「投石はじめ。荷車の車輪を狙え」
 投石器がうなりを上げ、ひとつは狙いどおりに、走ってくる荷車を破壊したが、あとは空しく草原に穴を開けただけだった。
 レノスは、塁壁の頂に立ち、焦れた思いで見守っていた。
(町にまで火をつけられたら)
 ふいに、セヴァンに放火されたときの戦慄を思い出す。
『赦せません、火をつけるなんて。苦労して建て上げたものを火は一瞬で壊してしまう』
 セイグの怒りに満ちた声。
(そういえば、あのときセヴァンの馬は、結局どうやって町に侵入したのだったろう)
 何かが、ふっと頭をかすめた。
 レノスは、眼下の町を穴の開くほど眺めた。
「メシウス!」
 そばにいた十人隊長の名前を叫んだ。「部下を連れて、ついてこい!」
 塁壁の階段を駆け下り、猛然と走る。兵士たちのほとんどが塁壁に張りついているので、広い砦の敷地に人影はなかった。
 浴場の角を曲がると、食糧倉庫から黒い煙が激しく立ち昇り始めたところだった。そして、倉庫の入り口に太った男がうつぶせに倒れていた。
「ルスクス!」
 補給係の将校の背中に黒い血のしみがあるのを見て取って、レノスは自分の剣を剣帯から抜き放ち、倉庫に飛び込んだ。そして、中にいたふたりの男たちに斬りかかった。
 ひとりのみぞおちに剣を突き立てるあいだに、続いて入ってきた部下たちが、もうひとりを取り押さえた。
 残りの兵士たちは、倉庫の火事を消しにかかった。
 足元に息絶えているのは、町で鍛冶屋の下働きをしていた若い男だった。やはり町の住民の中に、クレディン族に与する者がいたのだ。町の住民たちにまぎれて入ってきて、内部から砦を混乱に導こうとしたのだ。
「そいつに、残りの仲間の名前を白状させるんだ、どんな手を使っても」
 レノスは激しいことばを残し、倉庫の外に出た。「グナエウスを呼べ」
 砦の医者の名を叫ぶと、倒れているルスクスのそばにかがみこんだ。「だいじょうぶか。ルスクス」
「こんちくしょう……やられちまった」
「たいした怪我じゃない」
 恐怖をやわらげるために、軽口をたたく。「分厚い脂肪にはばまれて、刃先が内臓まで届かなかったんだろうな」
「なんてこった……みじめったらしい倉庫の中身を敵に見られるなんて、補給係の名折れです」
「怪我が治ったら、天井まで小麦袋を積み上げてもらうよ」
 ぽんと頭をたたくと、駆け付けてきた医者に場所をゆずり、急いで塁壁に戻る。
(わたしの手落ちだ)
 唇を噛みしめる。(誰が敵で誰が味方かわからないのに、町の住民を砦の中に入れるなど、やはり無謀だったのだ)
 塁壁に上がると、騎馬隊による側面からの奇襲は、すでに始まっていた。
 砦の東を流れている川は、北の砦にとって自然の防御壁だ。その川原の茂みでひそかに待ち伏せていた数十人の軽装歩兵と、スピンテルの指揮する騎馬隊が、土塁に取りつこうとしたクレディン族の先陣に一気に襲いかかったのだった。
 軽装歩兵は、重い鎧と盾を持った主力の重装歩兵とちがい、機動力を武器にしていた。騎馬隊と同じくガリアやゲルマニアの属州出身者が主で、尖兵として敵をかきまわすことを役割としている。持っている投げ槍が尽きたら短剣で戦うが、敵を深追いしたりはしないのだ。
 彼らの出現に、クレディン族は動揺した。
 騎馬隊は、斜め後ろから襲いかかり、土塁にそって長く伸びていた氏族の隊列を分断した。援護に駆け寄ってくる仲間たちに、軽装歩兵の投げ槍が降りかかった。
 レノスは塁壁の上から、身を乗り出すようにして戦況を見守っていた。
 奇襲は、まったく思惑どおりに成功したように見えた。しかし、そのとき魚が水の中できらめくように、騎馬隊の足元で何か小さなものが飛び上がるのが見えた。
 毛皮は灰褐色で、たてがみの一部は金色だった。ふたつの眼が獲物に噛みつこうとする瞬間、黄色く光った。
「イスカ?」
 それは、セヴァンの猟犬だった。イスカは一頭の馬に飛びついて前脚に噛みつき、乗っていた兵士を振り落した。
 レノスはそのとき、さっき感じた不吉な予感が現実となったのを知った。
 乗り慣れていない予備の馬は、乗り手と完全に呼吸がひとつになっていなかったのだ。バランスを崩してあっけなく転落した乗り手の上に、オオカミの毛皮をまとった氏族の戦士がまたがって、剣を振り下ろした。
「タイグーッ!」
 レノスの絶叫がそこまで届くはずはないのに、剣を引き抜いて立ち上がった戦士は、まっすぐに塁壁の上を見やった。
 長い金色の髪を振り乱し、敵の血を新たな戦化粧となし、敵を倒した興奮に全身をたぎらせて立っていたのは――まぎれもなくセヴァンだった。



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