会いたかった
あっこ
参ったな・・・とあたしは手を洗った。
どうすんだぁ?こんなもん拾っちゃって。怪我してるみたいだね。轢き逃げされた?

深夜になんであたしんちの玄関に倒れてるわけ?犬がけたたましく鳴いたから、キッチンの窓から表を見て、あたし仰天した。 誰か倒れてるぅ!神様!なんてこったいっ!
急いで飛び出してズルズルと居間に引き上げた。
かすり傷みたいだわ。しかし・・・持ち物ってないの?なにも持ってないの?ストライプのTシャツがドロドロだし・・・。

オカシイなぁ?犬が吠えない。なに?なんで?顔なんか舐めちゃって。目覚めたら訊けばいいわ。悪いことはできないしね。犬が助けてくれるでしょ。でもさ、案外細身だしね、綺麗な顔立ちね、この人。

あたしは朝になるのを待ってた。
毛布だけは掛けてあげてたし、どうせ不眠症だから眠らずにいても、あたしは平気だった。2年前に発症した鬱病は徐々に回復していたが、未だに不眠は治ってはいなかった。

朝日の射す窓越しに新聞屋さんが来るのが見えた。
「リュウ、ちょっと見ててね。新聞取って来るから」
あたしは玄関で、もう一度その辺にあの青年の持ち物が落ちてやしないかと眺めたが、それらしきものは何もなかった。
部屋に戻ると彼が寝返りを打った。
「気が付いた?何処の何方か知らないけど、夕べ倒れてたから・・・。お家に連絡する?お住まいはどちら?」
「お住まいって・・・ここだけど」
「・・・はい?貴方、どっか頭でも打った?ここはあたしの家なんだけど」
彼は腕でゴシゴシと顔をこすって言った。
「ね、ミルク頂戴」
まるであたしの言葉など聞いてはいないようだった。

「リュウ、元気だったか?」
・・・ちょっと待ってよ。なんでリュウって名前知っるの?なんで?
あたしはすっかり現実感を喪失しそうだった。
「あの、とにかくさ、ミルクはあげるから、出てってくれない?」
「どうして?僕はいちゃいけないの?」
「あたし、貴方なんて知らないもの」
「・・・そうか。覚えてないんだね」
なに言ってるの?この人なに言ってるの?

「僕ね、戻って来たんだ。ちょっとね、挨拶に行かなきゃならないから説明は後ね。いや、飛び降りるの、失敗しちゃってさ、そこへ自動車が・・・僕跳ね飛ばされて・・・・。じゃ、夕方にはまた来るからね。こんな傷なんか大丈夫だよ。ちょっと舐めておけば治っちゃう」
唖然としたあたしの手から、彼はマグカップを取った。
「うん、僕ね、冷たいほうが好きなんだ。覚えててくれてありがとう」

怪我してるみたいじゃなくて、案外身軽に起き上がった彼は、また泥だらけのスニーカーを履いて表へと歩き出して行った。
あの青年は誰?なんであたしやリュウを知ってるの?ここは彼の家?・・・春だしねぇ、危ない人もいるわよねぇ・・・。ま、いいか。なんかあったら警察に通報すればいいんだから。
挨拶?挨拶って誰に?嗚呼・・・考えるの止めよう。眠い。もう眠い。ちょっと眠ろう。

目覚めれば、もう黄昏時。リュウが玄関でやたら尻尾振ってた。チャイムが鳴った。
「ただ今。ごめん。遅くなって」
・・・帰って来た!
「ただ今」って、どういう意味なんだろう・・・。まいいわ。なんか事情があるなら話してもらいましょう。あたしは決心してドアを開けた。
「僕ね、貴女が心配でたまらなかったんだよ。良かったね。病気良くなったみたいで。仲間にもね、貴女のこと頼んで来たからきっとこれからも守ってくれるよ。大丈夫だからね」
「あたしのこと、なんで知ってるの?なんでリュウは貴方になついてるの?仲間って誰?」
彼は一瞬微笑んだ。黒い瞳が微笑みとは裏腹に溢れそうな涙を湛えてる。
彼がまっすぐに歩いてきて、静かにあたしを抱いた。彼の髪があたしの耳のすぐ傍にある。
「僕を抱いて。抱きしめて。あの朝、貴女と別れて僕悲しかったけど、もう貴女にそれを伝えることができなかったんだ。ごめんなさい」

・・・あたしは思い出した。この温もりには記憶がある。この柔らかい身体はあたしの腕が覚えている。
「そうよ。あたしも悲しかった。ずぅっと捜してたの。もう捜し疲れちゃった。泣き疲れちゃった。どこにも行かないで。ここにいて。お願い」
あたしはそれだけ言うのが精一杯だった。
「ごめん。僕帰らなきゃいけないんだ。貴女に会いたくてたまらなかったんだ」
あたしは彼の髪を撫でながら嗚咽が止まらなかった。
だんだん彼が滲むように儚げに消えていく。
「行かないでっ!」
叫んだ声と完全に彼が消えたのは同時だった。

あたしは彼を知っている。
彼はあたしが愛した一匹の虎猫だった。4年前に戻って来なくなったブンタと言う最愛の猫だった。
ブンタの写真の入った額を壁から外し、あたしは声をあげずに泣き続けた。