だってにゃんだもん
じぇみ

(1)  おばーさんとねこ姫さま

 あと半年もしないうちに、四十歳の誕生日がやってくる。しかし高嶋家では、一家の主婦の私に対して、
「ねこ姫さま」
 と名付けてにこにこ笑っている。
 うん? と思われる方もおられるだろう。
 本当だろうか、と思うかもしれないが、事実だ。
 私は高嶋家では、ねこ扱いされているのである。
 魚も好きだし。
 あまりにもねこ可愛がりすぎるということで、来年こそはこのあだ名をやめて、ちさと、という名前で呼びましょう、と夫の正人も姑の慶子さんもお互いを戒めているが、本人は、
「にゃー」
 と義母にじゃれつき、
「がりがりがり〜」
 と彼女の腕に爪を立てては、
「えーい、暑苦しいッ」
 うっとおしがられる日々を送っている。
 まあ、世の中には、夫の父親に弁当を作らせ、自分は働いてお金もちょっとしか家に入れないという人もいるので、別に私が特別というわけではないだろう。
 その人の夫の父親は弁当を作るのが趣味だが、高嶋家は私を猫かわいがりするのが趣味なのである。
 ひととおり、にゃごにゃご言ってねこ姫さまのご挨拶をすませ、あとは食卓に座って、
「ご飯まだ〜?」
「お腹減った〜」
 義母が作ってくれるのを待っていると、
「わーい、今日は鯛のアラ煮だーっ」
 衣食住満ち足りて、家族のみんなからかわいがられる毎日。椎間板ヘルニアに悩まされ、あと十キロは痩せないと歩けなくなると宣告されながらも、こんな平和な日々を送れるなんて、まったく私は幸せ者だと思ったとたん、
「ボーッとしてないで手伝いなさいッ」
 義母がしかりつけてきた。
 
 今年の六月、足の裏のガンで入院したら、隣のベッドのお茶の先生(おばあちゃん)と仲良くなった。
「先生、先生」
 と生徒たちが大勢見舞ってくれるのに、娘や息子が来てくれたことはほとんどないようだった。だから、毎日義母と夫が見舞いに来てくれるのをおばあちゃんが、しみじみうらやましそうに言った。
「よっぽどいいことしてるのねえ。こんなに心配してくれて」
 ああ、なんという幸せであろうか、なんの役にも立ってない人間を、ここまで心配してくれる人がいるなんて。私が改めて幸せを噛みしめていると、
「あんた、お義母さんがボケたら、絶対見放したらいけんよ」
 こんなふうに説教じみたことを言うから娘さん、こないんじゃないかなーとは思ったが、
「はい、ボケたら一生面倒を見ます」
 と殊勝なことを言ってみせる。
 ボケる暇が義母にあるだろうか。毎日の食事を作ることばかり考えているので、そんな暇がないと私は思っているのだが、家事一切をお任せしてるとは言いにくい。
 おばあさんに対して、少し苦手意識が芽生えたのも、このころである。
コチラが一方的に苦手に思っていても、よそのおばあさんたちは、たいてい私に対して悪意を持たない。病院の待合室で、ぼーっと呼ばれるのを待っているときに、
「一人で来るなんて偉いねえ」
 と言って、お菓子をくれたこともある。
 あるいは、IT講師ボランティアでも、かなり偉そうに教えている私に対して、
「ああ、ありがとう、ありがとう」
 と何度もお礼を言ってくれ、
「良ければ送ってあげましょう」
 と、家の前まで車に乗せてくれたこともある。
 猫かわいがりされるのは、高嶋家だけではないのだ。
 きっと、前世でいいことをしたからに違いないと思うのだが、それにしてもこう毎回、おばあさんウケしていると、なんだかいつまでも五歳の子供のまま小遣いをねだり、耳を掃除してもらったり、お手玉を教えてもらってすっかりおばあさんになじんでしまった正月には、四十目前にして、お年玉までもらえそうで怖い。



(2)  猫に出会えば

 昼間、ウォーキングをしていたら、キョウチクトウの林で猫に出会った。額には星型のアザがあり、どこかの魔法少女モノのアニメにでも出てくるような、愛嬌のある顔ばかりだ。
 猫姫さまという身分を隠しているのに、猫たちは私のあとを追いかける。
 見回してみると、あちらにも猫、こちらにも猫。
 にゃあ。
 ねそべったまま、頭だけこっちを向けている。
 靴の紐をなおそうとすると、ぴょん! と飛んで足元に駆け寄ってきた。
 猫が好むような顔をしている……のだろうか?
「にゃんな顔〜」
 義母も認めるにゃんにゃか顔の私だから、ありそうだ。猫は私の足元にすりよってきている。
 ええい、うっとおしい。
 私は、ウォーキングのほうを優先にする。
 林の出口はもうじき。
 私と義母が進んでいくと、足元に茶色の物体が転がっている。
「あ、子猫が死んでる……」
 だれかが子猫に、猫いらずを食べさせたのだろうか、少しあいたままの血を吐いた口と、苦悶の表情を浮かべた顔は哀れであった。あごのところの斑点が、印象的な野良猫である。
 
 猫は決して嫌いではない。実家でも黒猫を飼っていた。うちは基本的に掃除をしないので、猫が家に持ち込んだのは、泥、ほこり、そしてもちろん、蚤。畳の中から、父と妹の足に咬んでいたので、妹は傷跡だらけであった。
 実家にあまり帰らないで、良かった。
 そういうわけであるから、猫というとどうしても、
 外で遊ぶ → ゴミあさり → 蚤 → 実家
      → 家人の足がぼろぼろ。
 という公式になってしまう。
 だからといって、猫いらずで殺そうとは、さすがに思わなかった。猫いらずというネーミングにはウソはなかったが、猫なんかいらないとばかりにネーミングを実行に移すとは、なにか深い、恨みでもあるのだろうか。
 猫に彼女を取られたとか。
 猫の跨いだ魚を食べて中(あた)ったとか。
 猫に小判を取られたとか。
 ――どうもありそうにない。
「かわいそうじゃけん、弔ったげよう」
 私が近づくと、義母は腕をつかんで引っ張った。
「やめんさい、猫は殺した人間じゃのーて、弔った人間のところへ化けて出るんじゃけん」
 ほんとに?
「それに、どこに葬るっての。うちはマンションじゃけん、生ゴミになるだけじゃ」
 冷たいとは思うが、たたられたくなかったので、そのまま家路についた。
 猫の死は、時間がたつにつれて、納得できない感情をジワジワふきださせてくる。と言うとなんだか立派な人間のように思われるだろうけど、なにしろまだ生後数ヶ月の子猫なのだ。いつも仲間のねこたちに、
「にゃーん」
 と出迎えられたあの林の住人(住猫)の一員なのだ。姫とたたえられている以上は、なにかしなくてはならないだろう。やはりここは、ちゃんと林のなかに埋めてあげるのが筋というものだ。
 翌日、義母と一緒にキョウチクトウの林に向かった。
 すると、そこにあるはずの死体はなかった。
 かわりに、小さな猫が頭をもたげて、にたりと笑っている。あごのところに斑点。
 ――あの子猫だ。
「――猫には九つ命があるんじゃ」
 義母は背筋をふるわせている。
 私も背中に冷たいものを感じて、思わず足早に林を抜けていった。
 それから、ずっと私は病気が続いている。めまい、関節炎、とうとう足の裏までガンができた。
「猫に呪われとる」
 義母はそう言って、以前よりもっと熱心に仏壇に向かって手を合わせる日々を送っている。