(1)
新鮮な食材を仕入れられたことに気をよくして、私は自転車のペダルを思い切り踏みこんだ。
前かごでセロリやカブの葉がわさわさ揺れる。ビニール袋についた水滴が陽の光を反射して、宝石のように輝く。
木漏れ日が、行く手の街路を繊細なレース模様に染め上げている。
(ああ、いい気持ちだあ)
太陽の光を浴びるって、なんていい気持ちなんだろう。
ミハイロフさまに仕えるようになって、そろそろ一年が経つ。暮れ方に起きて夜明けに眠るというご主人さまの生活に付き合っているうちに、すっかり夜型になってしまった私だけど、卸市場での朝一番の食材の仕入れは、毎日欠かさず自分で行く。
その行き帰り、朝の光を浴びる心地よさを満喫するたびに、人間が太陽の恩恵をどれだけ受けているかを、つくづく感じる。
そして、思う。
太陽を忌むべきものとして生きるご主人さまの一族は、どれだけ私たち人間とは、かけ離れた存在なのだろう。
「人は、日光を浴びることによって、ビタミンDを皮膚において生成します。食べ物から摂取するビタミンDと合わせて、カルシウムの吸収を促す働きがあるので、日光に当たらない生活をしている人は、骨や歯が衰え、骨粗しょう症になりやすいんです」
帰ってくるなり、まくしたてた私に、来栖さんはあきれたと言った調子で答えた。
「で、伯爵さまに、その恐れがあると?」
「……骨はともかく、歯はめっちゃ丈夫そうですよね」
私は、はあっとため息をついた。
「それで、やっぱり灰になっちゃうんですか」
「はい?」
「おやじギャグやめてください。吸血鬼は太陽の光を浴びると、サラサラッと灰になるんですよね。とは言え、光全般がダメってことはないんでしょう。ご主人さま、蝋燭の光も、白熱灯も蛍光灯もだいじょうぶみたいですし。あ、それはそうと、節電対策で、この屋敷すべての明かりをLED電球に換えたらいいと思うんですけど、どうでしょう。そうすると全部で五十個じゃ利かないでしょうね。かかる費用を考えたら、別の意味で灰になっちゃいそうです」
「あのね。ルカさん」
このところ来栖さんは、私のことを『茅原シェフ』じゃなくて『ルカさん』と呼ぶ。一年の付き合いで、ちょっとは彼と親しくなれたのかな。
「念のために言っておきますが、伯爵さまのご一族は、日光を受けても死ぬことはありません」
「え、じゃあ、昼間に外に出ても平気なんですか」
「平気ということではありませんが、苦手なのです」
「苦手。なんだ。それだけ?」
「ルカさんだって、苦手なものがあるでしょう」
「そりゃ、苦手なものだらけですよ」
ヘビ、クモ、ナメクジ。イジワルな執事。
「わたしは、ナメクジと同列ですか」
「へえ、自分がイジワルだって自覚してるんですね」
「執事と『イジワル』は切っても切り離せないものなのです。枕詞のようなものです」
「『たらちね』と言えば母、『ぬばたま』と言えば夜という、あれですか」
眠気がさす昼下がりは、来栖さんの仕事部屋に出かけて行って、そんな無駄話ばかり交わしている。
話しながらも、芋の皮を剥いたり、豆をさやから出したりして、手だけはせっせと動かす。
来栖さんは、ご主人さまのシャツに丁寧にアイロンをかける。
来栖さんが怪我をしたときに、つくづく思ったのだが、執事というのは、実にこまごまとした目に見えない仕事をこなしているものだ。
屋敷の中の仕事だけではない。外で、ご主人さまの何億ドルという資産を動かすのも、執事の仕事。いや、何十億ドルかもしれないけど、少なくとも私の頭では想像したことのない額には違いない。
「だいたい吸血鬼の伝説のほとんどは、後世に面白半分に付け加えられたものです。鏡に映らないとか、招かれぬ家には入れないとか、あの類です」
「鏡に映らなければ、一族の女性は口紅だって引けないですもんね」
「ニンニクが苦手というのもありましたっけ」
「あれが本当でなくてよかった、ご主人さまにお出しする料理のレパートリーがなくなるところでした」
「一族の方々が、昼間お休みになって夜に目覚められるのは」
来栖さんは、そこで息を継ぎ、適切なことばを捜しあぐねていた。
「単に、心の問題だと思うのです」
「心の問題?」
「太陽や昼、信仰、つまり光が象徴するすべてのものに対する恐怖です」
「ご主人さまが昼を避けておられるのは、日光のせいじゃなく、単なる気のせいだって言うんですか」
「単なる気のせいをバカにするものでもありませんよ。焼けた火箸だと偽って体に当てると、やけどをしてしまうことがあります」
「はい、それって、プラシーボの反対のノーシーボ効果とか言われるやつですよね。思い込みの力が体に害をおよぼす」
「つまり、心のありようが、苦痛に満ちた現実を生み出すのですよ」
会話に夢中になりすぎて、いつのまにか山のようなジャガイモを剥いていることに気づく。ええっ。こんなにたくさん、今晩どうやって料理しよう。
「一族の方々は何百年も生きておられるのですよね。そんなにうらやましいくらい長く生きて、ものすごい力を持っているのに、一度くらい、ダメモトで試しに昼間に起きてみようと思ったりはしないんでしょうか」
「どんなに長く生きていても、人間をはるかに超える能力を持っていても、死ぬのが怖くなくなるわけではありませんよ。むしろ、その分余計に、臆病になるのかもしれません」
私は手の中にある、つややかなジャガイモをぼんやりと見つめた。
「ご主人さまも……死ぬことを恐れておられるのでしょうか」
来栖さんは冷たく微笑んだ。「さあ、どうでしょう。直接うかがってみてはいかがですか」
夕闇が迫る頃、私はいつものとおり目覚めのお茶の用意をして、ご主人さまの寝室に向かった。
来栖さんが、レオンさまのことを誰よりも知っていて、心から尽くしているのは間違いない。けれど、ご主人さまのことを話すとき、さっきみたいな冷ややかな表情をすることがある。
『それどころか、この家が早く滅びてくれたらよいと願っていますよ』
ずっと以前、そんな恐ろしいことを言ったこともあったっけ。あれは冗談だと思っていたけれど、来栖さんの本心が、いまいちわからないよ。
ご主人さまの部屋の扉をノックする。いつもどおり、返事はない。
そっと開けると、真暗闇の中にご主人さまの寝台だけがぼうっと白く見えた。
「おはようご……」
挨拶のことばを飲み込む。ご主人さまは、まだぐっすりと深い眠りの中にいらした。
サイドテーブルに蜀台とティーセットを置いて、そっと音を立てないように近づく。
ダークグレーのシルクのシャツに包まれた胸が、静かに上下している。
吸血鬼は呼吸していないというのは、やはりウソだ。
ご主人さまは死人ではない。生きていらっしゃる。ただ、人間とは違う方法で生きているだけ。
食物を消化吸収してエネルギーを得ているのではなく、血液を介してエネルギーを取り込む。
体内の細胞は分裂も死滅もしないのだろうか。成長することもなく、老化も死もなく、静かに、ただ静かに生を営む。
なんだか泣けてきた。
あまりにも、きれいではかなげで。今にも白い灰になって消えてしまいそう。
ご主人さまは、死ぬのが怖いのだろうか。
それとも、できることならば一刻も早く、生を終えたいと思っておられるのだろうか。
「何を見ている」
いきなり声をかけられて、文字通り「ひゃ」と飛び上がった。
レオンさまが仰向けになったまま、私のほうを咎めるような目つきで見ておられる。
「お、起きてらしたんですか」
「そなたの無遠慮な視線に起こされたのだ」
「声、かけようとしたんですよ」
私はあわてて、ポットのお茶をそそぎながら、もごもごと口の中で弁解する。「でも、せっかく寝ておられて、絶好のチャンスかなと」
「何の?」
「間近でご主人さまを観察するチャンスですよ。だって、日ごろはじっくり見る暇がないですから」
いつも私の視線に気づいたとたんに、顔をそむけてしまわれるのだもの。夜の庭をいっしょに散歩しても、背中しか見せてくださらない。
「雇い主の顔も知らないなんて、万が一のとき、警察で身元確認できないですよ。あ、灰になるのなら、確認の意味ないか」
ご主人さまは上半身を起こし、寝台の頭板に背をあずけた。「それで?」と、物憂げな声色で訊く。
「男性にしては、肌がなめらかでびっくりしました。ヒゲ生えないんですね。剃っていらっしゃるの見たことないし。髪の毛も伸びないし、鼻毛も生えないんでしょうかね」
「……」
「そう言えば、イアニスさまの顎もすべすべでしたし」
紅茶のカップを、手にお渡しする。
「やっぱり一族の方ってみんな新陳代謝ゼロなんですか。でも、しょうもないことまで覚えておられるから、脳細胞のシナプスはちゃんと活動してるのかな」
口をつぐんだ。ご主人さまが一口含んで、顔をしかめながらカップを私に付き返したからだ。
「まずい」
「ああっ。しまった」
ご主人さまの顔に見惚れている時間が思いのほか長くて、紅茶が渋くなってしまったんだ。
「すみません、すぐに淹れ直してきます!」
カップを受け取って、すぐに厨房に走ろうとした私の腕を、ぐいとご主人さまがつかんだ。
紅茶がじゅうたんにぶちまけられ、黒いしみを作る。
「なぜ、イアニスの顎の感触を知っている」
私は、両手の自由を失い、寝台の上に組み伏せられていた。
「あのとき、やつと抱き合ったからか」
「ち、違います」
必死で首を振ろうとしたが、頬を片手でぎゅっとはさみこまれて、身動きもできない。
レオンさまの顔が、すぐ真上にあった。
夜空を仰ぎ見ているような黒々とした双眸が険しく吊り上がっている。もしかして、ちょっと怒っておられる?
一分の隙もなく整った眉。アートメイクだってこれほどじゃない。
鼻筋の優美な尖り具合は、やっぱり西洋人だ。唇は青ざめて不健康そうだけど、ふっくらした形は、意外と少年っぽい。
さっき『伸びない』と言った髪がふわりと垂れてきて、まるで罰ゲームみたいに、毛先がくしゅくしゅと私の首をくすぐる。
「ご主人……さま」
見ました。見ました。もういやって言うほど、ご尊顔は拝見しました。あまりの麗しさに気絶しそうですよう。
とくん。
「あ……」
のしかかってくるご主人さまの体から、かすかな音が聞こえた。
私は、草食動物の赤ん坊みたいに、首をせいいっぱい伸ばして、ご主人さまの胸に耳を押し当てた。
間違いない。心臓の鼓動だ。
ひんやりと冷たい肌の内側から、とくとくと音が響く。人間に比べたら、ずっと間隔が長いけれど、確かなリズムを刻んで。
まるで広々とした夜の浜辺で潮騒を聞いているような、おだやかな心地になる。
ご主人さまは、やっぱり生きている。どんなに自分で否定しても、体の奥深くには確かに生命が息づいている。
……うっとりしていたら、ご主人さまは、さっと寝台から立ち上がった。
「お茶はもうよい。クルスを呼べ」
すべての感情を取り除いた、使用済みの出し昆布みたいに味気ない声だった。
「は、はい」
私はあわてて、カップを拾って部屋を飛び出た。
酸素を求めて、大きくあえぐ。私ってば、今ご主人さまの寝台に押し倒されていたんだ。ご主人さまの胸に抱かれていたんだ。――うん、そういうことにしておこう。交差点の出会いがしらの事故みたいなものだったけど。
私は幸せのあまり、羽根が生えたように廊下を飛び歩いていた。
その直後だったと思う。部屋に呼ばれた来栖さんに、ご主人さまが、こうおっしゃったのは。
「クルス。祖父や父から聞いておろうな。執事の果たすべき役割を詳細に」
「は。とおっしゃいますと?」
ご主人さまは振り向いて、いつもの絶対零度の声で素っ気なく命じたはずだ。
「あの娘を、後くされのないように始末せよ」
その日は土曜日で、いつものように、ヴァラス子爵とマユを真夜中の晩餐に招待していた。
『絶対に、ふたりきりにならないこと』
子爵にそう固く誓わせて、ふたりのデートをお膳立てしているわけだ。
そして約束どおりに実におとなしくしているところを見ると、イアニスさまは、心の底からマユに会いたくてたまらないらしい。
乱暴で短気で自分勝手で、死ぬほど嫌いなヤツだったけれど、こうしてみると、根は純粋な人なのかもしれない。
新しいククラも作らないで、我慢しているみたいだ。
もっとも、彼の場合はレオンさまとは違って、「食事」は別にきちんと摂っているらしいけど。もちろん吸血鬼としての食事のこと。
だとすれば、そのたびに人がひとり殺されている勘定になるが、どうして警察ざたにならないのか不思議だ。
子爵家の執事が「食料」になる人間を手配して、後始末もしているのだという。もしレオンさまが拒食症でなければ、来栖さんもその役目を果たしているはずだ。
そもそも私だって、食料にされるためにこの館に呼ばれた。もし私が死ねば、どう始末されたのだろう。一度来栖さんに方法を聞いてみたいけど、こわくて聞けないよ。
夜が更けたころ、子爵さまが到着した。何百年も生きてる爺さんのくせに、相変わらずの鋲ジャン鎖じゃらじゃらのパンクファッション。見かけは、どう見ても二十代だ。
いまだに十九世紀然としているレオンさまに比べたら、時代感覚はすばらしいと思う。
出迎えたマユは、愛らしい薄桃色のティアードのワンピースだ。
「イアニスさま。こんばんは」
「久しぶりだな。マユ」
ヴァラス子爵は、愛らしいマユの姿に、すっかり見とれている様子。毎週土曜日に会ってるくせに『久しぶり』だなんて、よく言うよ。
と思ったことは素振りにも見せず、来栖さんと並んで、丁重に頭を下げてお迎えする。
マユと会う条件は、伯爵家の晩餐をともにすることなので、イアニスさまも文句も言わず食卓についてくれる。
食前酒のあとは、前菜。今夜の前菜は、じゃがいものブランマンジェにさやえんどうの緑あざやかなソースを添えたものと、うなぎのソテーにザリガニのソース。
スモークサーモンのサラダの後は、じゃがいものヴィシソワーズ。
「今のところ、じゃがいも尽くしですね」
来栖さんが、苦笑した。「何かのコンセプトですか」
「いえ、ただ単に、じゃがいもを剥きすぎちゃったんです」
私は平然と答えた。
「でも、じゃがいもはビタミンCが豊富な食材です。しかも、加熱しても壊れにくいのも特徴です。コラーゲンの生成を助けるので美肌にも良く、骨や血管を丈夫に保ちます」
「肌も、骨も、どうでもいいよ。さっさと次の皿を出せよ」
あくびまじりで、イアニスさまはぶつくさ言っている。早く面倒な食事を終えて、マユとふたりになりたいという気持ちがありありだ。
「それから、今夜は、ビタミンDがもうひとつの主役です」
うなぎ、サーモン。キノコや肉類にも多く含まれているのが、ビタミンDだ。
「食べ物以外にも、適度に紫外線を浴びることで、人間はビタミンDを体内で合成できます。ビタミンDが不足すると、免疫力が低下してしまうんです」
だから、北国の人は、とにかくよく日光浴する。ある意味、必死になって太陽を浴びているように見えるのは、経験から、太陽に当たらないと病気にかかりやすくなるのが、わかっているからだろう。
紫外線の害悪ばかりが叫ばれて、特に女性は太陽を浴びることを極端なまでに避けているが、そのために免疫力が低下している人が増えてきたという研究もあるほどだ。
「ふうん」
イアニスさまは、こばかにしたような笑いを浮かべた。「で、おまえは、俺たち吸血鬼も、太陽を浴びろって勧めているわけか」
「て言うか、太陽を浴びないから血液に異常が起きてるんじゃないかと思うんですよね」
「血液に異常、ねえ」
彼はそう言ったきり、神妙な顔になった。
ご主人さまも、さっきから眉をひそめたまま、ワインを召し上がっておられる。
あれ。口からでまかせを言ったつもりだったのに、案外いい線行ってるのかな?
「ルカさん。そろそろ」
そのとき、マユが席から立ち上がった。「私、自分で持ってきます」
「うん、わかった」
「何の話ですか」
私と謎の会話を交わして厨房に入っていったマユを見ながら、来栖さんがいぶかしげに訊ねた。
「本日のメイン料理は、マユが作ったんですよ」
「マユが?」
「はい。子爵さまに喜んでいただこうと、一生懸命作っていました」
女の子が自分のために手料理を作ったと聞いて、悪い気のする男はいない。イアニスさまが、にやけそうな顔を必死でつくろっている様が丸わかりだ。
「しかも、日本の男性が、恋人にリクエストする料理ナンバーワンです」
大きな深皿をささげもって、マユが現れた。
ほくほくと、おいしそうな湯気を立てているのは、ジューシーな牛肉、玉ねぎ、そしてじゃがいも。
「結局また、じゃがいも消費メニューなんですね」
くすくす笑う来栖さんを尻目に、マユは料理を皿によそい、子爵の前に置いた。
「なんだ、これは。俺は醤油くさい日本の料理など」
「これは『肉じゃが』と言います。よかったら、どうぞ召し上がってください」
つぶらな瞳でじいっと自分を見つめるマユに、彼はいやと言えず、しぶしぶナイフとフォークを手に取った。
「どうですか、イアニスさま。おいしいですか」
「う……うまい」
マユのキラキラお目々光線を受けながら、じゃがいもをせっせと口に運ぶ吸血鬼に、私はお腹の皮がよじれそうになった。