セフィロトの樹の下で番外編 クリフォト


第3章 「ホド(栄光)」               BACK | TOP | HOME





「いらっしゃい。クリフ」
 玄関の扉を開けた胡桃は、裸足のまま廊下に出た。
 そして、まるで医者に連れられてきた子どものように動こうとしないクリフォトを抱きしめ、その背中を押した。
「ようこそ、古洞家に。ゆっくりしていってね」
 その後ろにいたセフィロトは、彼が家の中に入ったとき、ようやく安堵の吐息をついた。ここに連れて来るまでの長い押し問答を思い出したのである。
「今度の週末、うちに泊まりにおいでよ」
「なぜ?」
「なぜって、来てほしいから。【すずかけの家】の子どもたちも、ときどき泊まりに来るんだ」
「じゃあ、ほかの連中を誘え。俺は面倒くさい」
 そこからは堂々めぐりだ。
 クリフォトの思考回路がまったく理解できない。セフィロトが作られてから数ヶ月の間、世界は宝箱のように輝いていた。葉一枚、アリ一匹にも興味を奪われ、ずっと公園にうずくまっていたこともあったっけ。
 それに比べて、クリフォトは何に対してもまったく興味を示さない。自分から何かを観察することもなければ、動こうとしない。口を開けば、「面倒くさい」なのだ。
 好奇心というものを、まるで置き忘れているよう。とりわけ、セフィロトの成長を一番よく見てきた胡桃は、クリフォトの自閉的な様子をひどく心配した。
 ふたりがそろって休みを取る週末に、クリフォトを家に招こうと提案したのも、胡桃だった。
「さあ、ハウスツアーよ」
 胡桃はクリフォトの腕を引っぱって、家中の部屋をひとうひとつ案内した。
 【すずかけの家】とはまるで違う、コンパクトなキッチンやバスルーム。ソファもテーブルも、すべてが、わずかな人数で使うように設計されている。
「そっちがバルコニー。地上15階だから、遠くの海がきれいに見えるわよ。セフィが育てた緑が、まるでジャングルみたいでしょ」
「ジャングル?」
 いくら、22世紀のジャングルが19世紀以前に比べて70%以上消失したとは言え、わずかな体積の観葉植物をジャングルと比較したがる自慢は滑稽だと、クリフォトは思った。
 最後に見せられた部屋には、人間用のベッドがひとつ。その隣にAR8型用の充電装置がひとつ並んでいた。
 何を見てもすぐに視線をはずしてしまうクリフォトが、この部屋だけには、じっと目を注いだ。
「いったい、この部屋は何だ」
「ああ、セフィとわたしのベッドルームよ」
「ロボットと人間が同じ部屋に寝る?」
「だって、わたしたちは夫婦だもの」
「……今のことばは、理解不能だ」
 家を一周したふたりがリビングルームに戻ってくると、セフィロトが三人分のサンドイッチとコーヒーをテーブルに並べて待っていた。
「さあ、昼食にしよう。クリフはそっちに座って」
「俺は食事など摂る必要はない」
「必要はなくても、いっしょに食べよう。きみにはわたしと同じ食物タンクがあるのだから、これくらいの容量は食べられるはずだよ」
「どうせ電気分解されてしまうのに、無駄だ」
「クリフ」
 セフィロトはテーブルに両手をついて、あらたまった調子で言った。「無駄に見えることにも、意味があるんだよ。きみはそれを学ぶべきだ」
 クリフォトは彼を睨みつけると、何も言わずに椅子に腰かけた。
「おいしいわよ、そのコーヒー。セフィはコーヒーを淹れるのが、とても上手なの」
 ひとくち含んで味わっていたかと思うと、クリフォトは無表情に言った。
「多糖類32%、脂質18%、たんぱく質15%、ポリフェノール1.2%、カフェイン1%、腐食酸その他有機酸18%の合成物だ」
「で、おいしい?」
「そういうたぐいの批評は、ロボットには意味がない」
「じゃ、じゃあ、サンドイッチも食べて」
 ちらりと手元に目を落とすと、嫌そうに皿を押しやる。
「主成分は、パン、卵、チーズ、きゅうり、ベーコン、トマト。一皿あたりのカロリーは782キロカロリー。成人女子の一食分としては、ややカロリーと脂質が過剰だ。しかも、これをAR8型ロボットが電気分解処理するには、120キロワットの電力を消費する。まったく無駄なことだ」
「あ、あの」
 胡桃はすっかり食欲をなくして、コーヒーカップを置いた。


 食後の散歩だと称して、セフィロトはクリフォトを古洞家のすぐ下の公園に連れ出した。
「風がいい気持だ。もうすぐ夏だね」
「塩分を含んだ海からの風は、俺たちの皮膚膜には有害だ。なぜ、それを『いい気持』などと呼べる」
「ほら、木の種類だって、ここと【すずかけの家】では全然違うだろう?」
 セフィロトは舗道から逸れて、あちこちの木の幹をぺたぺたと触り始めた。
「【すずかけの家】は、もともと数百年前からある森のそばに立てられた。いわば、原始の森だ。だけど、ここのは【地球温暖化防止条約】のときに、大規模に植林された木々なんだ。潮風や高温に耐えるように遺伝子改良してある」
 セフィロトは膝をついて、地面に落ちている一枚の葉を拾った。
「ほら、この木の葉脈を見てごらん。葉の裏側で盛り上がっているのが特徴なんだ」
「よくそんな汚いものに触れられるな」
 クリフォトは近づこうともしない。「数万の微生物がうごめいているのが、おまえの目なら見えるはずだ」
「すてきじゃないか。ここは人工的に無菌状態にされた研究所の中とは違う。自然の生命で満ちあふれているんだ」
「そんな下等な生命に興味はない」
「じゃあ、きみにとって興味があることって何?」
「……そうだな」
 驚いたことにクリフォトは、まじまじと食い入るようにセフィロトを見つめた。
「おまえだ」
「わたし?」
「なぜ、それほど必死になって人間を真似ようとする。人間と同じ表情を作り、声色を作り、仕草を真似る。挙句の果てに、人間と夫婦になる。そこまでして、人間のふりをしたいのか」
「……別に人間のふりがしたいんじゃない」
 セフィロトは立ち上がり、弁解するように言った。
 そういえば、SR12型シーダにも昔、似たような指摘をされたことがあった。『あなたはロボットなのに、人間になろうとしている』と。
「きみは認めたくないかもしれないけど、もともとAR8型ロボットを設計したのは、リウ博士ではない。犬槙博士と古洞博士というふたりの日本人科学者なんだ。ふたりは、人間の心を理解することができ、人間といっしょに考えることのできるロボットを創りたかったとおっしゃっていた」
「……」
「だから、わたしは人間の心をわかりたいと思っている。できるだけ人間と同じ感情を持ち、同じ行動ができるように自分のプログラムを改変している。それが、マスターたちがわたしに託した使命だから」
「まったく理解不能だ」
 クリフォトは怒ったように、ぷいと顔をそむけた。
「人間にはそんな価値はない。ロボットのほうがよほど人間より優秀なのに、おまえは退化して、劣悪な人間にみずからをおとしめている。今のおまえは、ロボットが本来持っていた能力を捨てて、人間をかたどった人形になっているだけだ」
「クリフ」
 セフィロトは今日何度目かの溜め息をついた。
「呼吸もしていないのに、なぜ息を吐くようなマネをする。おまえの行動は、まったくの無意味だ」
「これは、人間が自分の内心を相手に知らせるための仕草なんだよ。きみの言動を、わたしがあまり快く思っていないことを、伝えようとしている」
「そんな回りくどい伝達のしかたをするくらいなら、デジタル音声を用いるほうが、ずっと早い」
「相手の気持を表情や仕草から推し量るのは、とても大切なことだよ。きみは、食事のときの胡桃のがっかりした顔を見たはずだ。胡桃はきみを心から歓迎したかったんだ。だから朝から時間をかけて、特別に注文した野菜やベーコンを使って、彩りも工夫して、美味しいサンドイッチを作ったのに、きみは手をつけようともしなかった」
「そんなことは、俺には関係ない。興味ない」
「クリフォト。どうしてなんだ?」
 セフィロトは苛立ちと悲しみを隠そうともせず、そのまま自分の同胞にぶつけた。
「きみは、わたしと同じ【人格移植プログラム】を深層に持っているはずだ。リウ博士の感情や記憶を。それだったら、人間の思考や感情を、悲しみや喜びを、きみは理解できるはずなのに」
「そんなもの、理解したくない」
 ふたりは公園の真中で立ち止まり、にらみ合った。
「なぜ、きみは人間を拒否する。なぜ、みんなの好意を無視するんだ」
「無視されるのがイヤなのなら、初めから俺など受け入れなければいい。こちらから頼んだわけじゃないのに、善意を押しつけるな」
 セフィロトはそのことばに、大きな衝撃を受けた。
 昔、古洞樹博士が、これとそっくりのことばを胡桃にぶつけたことがあるのを思い出したのだ。
『あんたのあふれる慈愛は、【すずかけの家】の子どもたちにそそいでやってくれ。俺は間に合ってる』
「クリフォト。きみは――」
 あのときの古洞博士と同じなのか。胡桃と知り合う前、生きることをあきらめていた頃の博士の孤独と絶望を、クリフォトは人工知能のどこかに宿しているのか。
 強い風が吹き、公園の木々がざわざわと四方で鳴る音で、セフィロトは我に返った。
「風ガ強イデス。危ナイデス」
 聞き覚えのあるロボットの声。
 木の陰に身を避けるようにして、ふたり連れが歩いてくる。
「桑田さん、キヨ」
 セフィロトはほっとしたように笑顔を取り戻し、古くからの隣人たちに手を振った。
「せふぃサン。コンニチハ」
 介護ロボットのキヨは丁寧にお辞儀をしたが、その横の老人、桑田さんはきょとんと首を傾げている。
「はて、どなたさんでしたかな」
「わたしは、近所のマンションに住んでいるセフィです」
 彼は、もうすでに何十度目かになる自己紹介をした。
「桑田さんのことは、いつも公園で、よくお見かけします」
「おお、そうですか。いつもお世話になります」
「今日もお元気そうでよかったですね。隣にいるのは弟のクリフです」
「おお、そうですか。いつもお世話になります」
 クリフォト以外の三人は、ぺこぺこと何度もお辞儀や挨拶をし合った。
 桑田老人とキヨが去っていくと、クリフォトは唇をゆがめた。まるで嘲るような笑みだった。
「まったく、バカバカしい限りだな。今のやりとりは」
「桑田さんは、二年前の脳卒中の発作で、認知機能に障害を負ってしまったんだ」
 セフィロトは、悲しそうにその後姿を見送る。「体は元気になったけど、今では五秒前の記憶もなくなってしまう。だから、何度でも同じ会話を繰り返すんだよ」
「そんな人間の相手は、低脳なロボットで、ちょうどいいわけか」
「クリフ。そんな言い方やめろ」
 力なくたしなめるセフィロトには答えず、クリフォトは数歩前に出ると、上空を流れ飛ぶ雲を見上げた。彼の肩までの髪が、強風になびいて、扇のように後ろに広がっている。
「人間など、生きるに値しない」
「え?」
「幼生体ならまだいいが、成長する望みを失った老人などに、生き続ける価値はない。それを廃棄処理することもできぬのは、なぜだ。ほかの生物は平気で殺せるくせに、なぜ自分の同類だけは、いつまでも殺さずに生かしておく」
「クリフォト! きみは」
 セフィロトは、体をせりあがってくる悪寒に拳を固めた。
「桑田さんは、生きるに値する人だ。若いときは、カーエンジニアとしてすばらしい業績を残した。確かに今の桑田さんは、すっかり何もかも忘れてしまって、一人では何もできない。でも、たとえ何もできなくても、かまわない。わたしは桑田さんが大好きだ。一日だって長く生きてほしいんだ」
「あの老人だけではない」
 クリフォトは肩越しにふりかえり、ちらりと冷たい目で彼を見て、また背を向けた。
「人間すべてが醜悪で、有害で、無用の存在だ。この惑星を汚すだけ汚して、他の生命を傷つけ、責任を取ろうともしない。もうすでに、この星から人間の栄光は去った。これからは――この地球を治めていくのは、ロボットだ」
「クリフォト……」
 ロボットがみずからを人間より優位に置く。ロボットが決して抱いてはならない禁忌思想――【優位幻想】。
 セフィロトは彼の後姿を慄然とする思いで見つめていた。






使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。
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