第5章 「ティファレト(美)」 BACK | TOP | HOME 「でも、今回のことにも一理あります。クリフォトをいつまでも生徒扱いするのは、やはり無理があったんです」 園長室の椅子で苦虫を噛みつぶしたような顔を保っている栂野園長に、セフィロトは訴えた。 「では、あなたは彼を教師にしようと」 「はじめは助手でいいと思うんです。わたしも最初の一年はそうでしたから。お給料も、ほんのちょっぴりで、今から考えると、あれはひどいなあと……」 栂野園長は突然立ち上がり、セフィロトの思い出話をさえぎった。 「そんなことはできません。あまりにも無謀です!」 「確かに、ロボットが教師になるのはあまり前例のないことです。わたしのときだって、水木先生はさぞ迷われたことと思います」 「あなたはいいんですよ、セフィ先生。あなたは教師になるべくして生まれたような方です。でも、そもそも教師というのは、生徒たちの人格形成に深い関わりを持つ職業ですよ。それを、あのクリフォトがやるなんて。【すずかけの家】の40人の生徒たちが、みんな性格ゆがんでしまいます!」 「そこまで心配しなくても」 セフィロトは苦笑した。「ここには昼勤夜勤ふくめて17人の保育教師がいます。ひとりぐらい変わった先生がいてもいいのではないでしょうか」 栂野は椅子に深々と座りなおした。 「反面教師ってわけですか」 「個性と呼ぶこともできますよ」 「個性……ねえ」 首をひねりながら、なお答えを留保している園長の視線を受けて、セフィロトは真顔になった。 「この星を汚したのは人間だ、人間は有害な存在だとクリフォトに言われたとき、わたしは愕然としました。きちんとした反論ができなかった。どこかで、それを認めている自分がいたんです」 「セフィ先生まで、彼の人間否定論に感化されてしまったのですか」 「そうではありません。そのことは事実かもしれないけど、真実ではありません。わたしたち教師がきちんと反論し続けることが、子どもたちのためにもなると思うのです」 「【すずかけの家】に、わざと波風を立てるおつもりですね」 「風が吹きぬける森のほうが、木の生育には良いそうですよ」 セフィロトと栂野はどちらともなく、窓の外のすずかけの大木を見つめた。まるで答えを与えてほしいと願っているように。 「そしてそれは、クリフォトのためにもなると思うのです。人に教えるためには、ものごとを深く知らなければなりません。わたしは今まで、彼を一段高いところから見下して、教えようとするという間違いを犯しました。そうではなく、彼自身が自分の手を動かして学ばなければならなかったのです。教えることをとおして、クリフォトにこの世界や人間の美しさをもっと知ってほしい」 栂野は、しばらく忘れていた息をゆるゆると吐いた。 「わかりました。やりましょう。園長として、わたくしが全責任を持ちます」 クリフォトは、園長から「明日、あなたを【すずかけの家】の保育教諭助手として、任命します」と言われたとき、ただひとこと、「わかった」と答えた。 もうそろそろ、あの7歳児クラスに座っているのに飽き飽きしてきたところだった。そして何よりも、セフィロトの支配から脱出するための第一歩を踏み出すことができるのだ。 これ以上、奴とともにいてはいけない。 あのバカバカしい数学対決で、セフィロトは自分から負けを認めた。話にならない茶番だ。ああやって、俺の機嫌を取って手なずけようとしているのだろう。 おかげで、7歳児クラスのガキどもは、すっかりおとなしくなった。奴らを煽って、教師たちに叛乱を起こさせるという計画は、当てが外れてしまった。 それだけではない。 奴らとつるんでいる間に、いつのまにか、あの知能程度の低い小生物どもの無意味な歓声も、騒がしいおしゃべりも、苦にならなくなってきたのだ。 誰かと一緒にいることが、心地よいと感じるときすらある。 まったく、くだらない。自分の思考回路が理解不能だ。これこそ、セフィロトの有害な感化を受けてしまったに違いない。 「初日の今日は、6歳児の理科の授業を手伝ってくれないか」 副園長であるセフィロトに先導されて園庭を横切ると、向こうのほうで、麦わら帽子をかぶった伊吹織江先生が、「おーい」と手を振った。 6歳児たちは、手を泥だらけにして自然菜園の草取りをしている。 今日の理科の単元は、植物の観察だ。 「セフィ先生、見て」 すらりと背が伸び、言葉のはきはきとした勝気な少女になったユキナちゃんが、大きく育ったヘチマの実を見せてくれる。 「すごい巨大ヘチマですね」 「種を植えてから、ずっと私たちが世話してたんだよ」 顔も手も真っ黒にしながら、子どもたちが得意そうに笑った。 クリフォトはそれを見て、かすかに顔をしかめた。不潔だ。微生物がいっぱいの土で汚れた手。汗という塩分の分泌物だらけの首筋。 セフィロトは彼の思考を読み取ったかのように、振り返ってじっと彼を見た。 「クリフ。生き物に与えられている最大の能力は、成長することだと思わないか」 「成長?」 「細胞を分裂させ、傷ついたところを自己修復し、再生することができる。機械やロボットには決して真似できないことだ。だから、植物の成長であれ、子どもの成長であれ、見ているだけでわたしは嬉しくなる」 そう言い残すと、セフィロトは彼らの仲間に加わった。楽しげに、実った作物に触れたり、草むしりを手伝ったりしている。 「成長だと?」 クリフォトは口の中で声に出してつぶやいた。 成長など、衰退の前触れに過ぎない。どんなものでも、成長している間は美しく見える。だが、やがて萎れ、枯れ、落ち、醜くなって死んでいくのだ。 枯れた花や実はやがて、むしられ、捨てられる。 人間だって、若さをもてはやし、年老いた者をあざけり、死をおそれるではないか。人間はそうすることによって、一瞬一瞬醜くなる自分自身をさげすんでいるのだ。 夜勤の教師との引継ぎが終わるとすぐ、セフィロトはクリフォトを買い物へと連れ出した。 「明日の任命式のときに、ネクタイくらいしていたほうがいいと思うんだ」 相変わらず、おせっかいな奴だと思う。服装のひとつに至るまで、彼を支配下に置きたいのだろう。 モノレールを降りたとき、セフィロトは彼に寄り道を提案した。 「ここから見える海の景色は最高に気持がいいんだ」 白い砂の浜辺で、人間にしか見えないふたりのヒューマノイドたちは、海に向かって並んで立った。 「一度、訊きたいと思っていたんだ。リウ博士ってどんな方だった?」 「なぜ、そんなことを訊く」 「きみの深層プログラムは、リウ博士の人格情報に基づいたものだから。リウ博士のことを聞けば、きみのことが理解できると思うんだ」 「おまえに理解してもらう必要などない」 「クリフ」 セフィロトは悲しげに彼を見た。「社会の中で生活している限り、理解されることを願わない者はいないよ」 「俺たちは、本当に理解されると思っているのか」 「え?」 「人間に俺たちが理解できるはずはない。より劣ったものが優れたものを理解することなどありえない。人間が神を理解できないように」 「そんなことない!」 セフィロトは思わずむきになって叫んだ。 「確かにロボットは、人間より高度な耐久力や情報処理能力を与えられている。だからと言って、ロボットが人間より優れているということにはならない」 「おまえは、人間などという醜く不完全な存在を、自分より優れた者として崇めているだけだ。だから、自分を人間に似せて不完全になろうとしている」 「そうじゃないんだ」 声を荒げた自分を恥じて、セフィロトは頭を垂れた。 「クリフォト。どちらが優れているという比較は、もうやめよう。わたしはきみに、この世界に生きているどんな小さな存在にも、素晴らしい特性があることを知ってほしい」 「そんな無駄なことはしたくない」 ぶっきらぼうな返事を残して、クリフォトは彼から離れて歩き始めた。寸分の狂いもなく等間隔の歩幅の足あとが、砂浜の上に刻まれていく。 ショッピングモールに着くと、セフィロトはマネーカードを渡しながら、あれこれ注意して言った。 「この金額で納まるように、明日任命式で着るシャツとネクタイとスーツを買うんだ。何を買おうかと、最初はいろいろ迷うと思うけど、でも、迷いながら選ぶことも、いい経験だから。それと、支払いはきちんとして。絶対に不正はダメだからね」 そうして彼を売り場に残すと、自分はさっさと妻へのお土産を買いに、どこかに行ってしまった。 つかのまでも監視の目から逃れられて、せいせいする。 クリフォトは、つまらなそうに回りを見渡した。 3D計測で自分のサイズと合うものを抽出し、さらにそれらを明度と彩度によっていくつかのコーディネートに分類し、価格の合計を算出して、マネーカードの残高で買うことのできる一番高い組み合わせを選ぶ。数十秒とかからない。 ダークグレーのスーツの上下と薄い青のシャツに合わせて手に取ったのは、鮮やかなマリンブルーのネクタイだった。 さっき見た海の色が、記憶回路のどこかに残っていたのか。陳腐な連想情報処理だ。 レジで会計を済ませ、新しい服を着たまま、店の外に出た。 ほどなく、ひとりの胡散くさい男がなまりの強い北京語で話しかけてきた。さっき、セフィロトと中国語で話していたのを小耳にはさんだのだろう。 「極秘の儲け話があるんだが、興味はあるかい」 今や、世界の富の三分の一が中国に集中していると言われる中で、中国人の金持ちと見れば、彼のように怪しげな投機話を持ちかけてくる輩は決して少なくない。 クリフォトが返事をしないでいると、さらに声をひそめる。「日本の宇宙開発企業が月のラングレヌス・クレーターで、予想埋蔵量が2億トンという大量のウラン鉱を発見した。今のうちに採掘権を買わねえか」 「ふうん、それはおかしいな」 クリフォトはからかうような視線を、チラリと向けた。「今年の4月行なわれた大規模な分光反射分析によると、ラングレヌス・クレーターのウラニウム鉱埋蔵量はわずか7万トン、月全体でも2500万トンにすぎないという結果が出ているのだが」 「え?」 ぽかんと口を開けたままの男を残して、クリフォトは遊歩道に沿って歩き始めた。 歩きながら、奇妙な怒りがふつふつと湧いてくる。 (なんて低レベルの詐欺なんだ。工夫のかけらもない。他人をだますつもりなら、もっと高等な手段がいくらでもあるだろう) 「うわあ、かっこいい」 今度は、二人連れの女性が甲高い声をあげて、クリフォトにすりよってきた。 「このへんで見かけない顔ね」 「ねえねえ、学生? どこの寮?」 なれなれしく袖を触る女たちに、彼は冷たい視線を投げ返した。 見るからに、知的レベルの低そうな人間だ。顔を最新のナノブラスティック粒子で塗りたくって、その下の素顔は、まるで別人。 「時間あるなら、いっしょにお茶しない?」 甘ったるい声で話しかけながらも、瞳孔が拡大し、脈拍と呼吸が平常時より5%以上早くなっている。 「ふうん、おまえたち」 クリフォトは、これ以上ないというくらい皮肉な笑みを浮かべた。「俺に、性的興奮を感じているのか」 「きゃはは。何それ。わけわかんなーい」 と大げさに笑いながらも、ふたりの女性は、なまめかしい目つきになった。 「ねえ、遊ぼう。どうせあんたも、その気なんでしょ」 「ふたりは多いな」 クリフォトは、ひとりの腕をぐいと引き寄せると、 「では、ひとりずつ試してみてやろう」 いきなり彼女の唇を覆った。 セフィロトと胡桃が、ときどきやっていることだ。たとえ、こっそり隠れているつもりでも、彼の視覚回路にはすべて見えている。 男と女が互いを求め合うことは、そんなに素敵なことなのか。セフィロトのキスを受けた胡桃は、なぜあれほど輝くような笑みを浮かべるのか。 「ひ……」 相手は抵抗する暇もないまま、膝から力が抜けていく。もうひとりは、路上で突然始まった濃厚なキスシーンを呆然と見ている。 腕を離すと、女はへたへたとその場に座り込んだ。完全に意識が飛んでいるらしい。 「もうひとりは、試すまでもないな」 彼女らを無表情に見下ろしながら、クリフォトは宣告した。 「口腔の中は、食べ物の臭気と細菌だらけだ。頭の中身は、さらに腐っている。見かけは飾っているが、おまえたちは醜い」 20分後、胡桃の大好物のチョコレート菓子やクロワッサンの入った買い物袋を両手に山ほど抱えて戻ってきたセフィロトは、「ええっ」と目を丸くした。 「もう買い物は終わったのかい」 「こんなことに時間をかける意味が見出せない」 「わ、わたしだったら、きっとまだ、あれこれ迷っているのに」 セフィロトは、マネーカードの残高を確かめ、次にクリフォトの着ている服をまじまじと見つめた。 「ファッションセンスも、わたしよりずっと上みたいだね」 「そんなことは、あたりまえだ」 いらいらした調子でことばを吐き、さっさとひとりで歩き出すクリフォトの後姿に、セフィロトは首をかしげた。「何かあったのかな?」 そのままふたりは、【すずかけの家】に帰った。 「あ、セフィ先生、クリフ、おかえりなさーい」 「げえっ。クリフすげえ」 園庭で遊んでいた子どもたちが、大騒ぎで集まってきた。 「高そうな、かっこいい服。ねえ、いくらした?」 「本当に先生みたい」 ベタベタとまとわりついてくる生徒たちに、不思議と嫌悪感を感じない。汗臭さも、汚れた顔も、それほど気にならない。 (このうるさい連中のほうが、自分の汚さを隠さないだけ、あの人間たちよりずっとマシだな) 彼らを見つめるうちに、かすかな笑みを浮かべている自分に気づき、もう少しでクリフォトは、人工知能が故障したかと疑うところだった。 使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2009 BUTAPENN. |