第6章 「ゲブラー(峻厳)」 BACK | TOP | HOME 「副園長、あのちょっと」 廊下の隅から胡桃を手招きしたのは、楢崎(ならざき)先生だった。 五十代の女性教諭で、もう十年以上、【すずかけの家】の夜勤専任スタッフの主任として勤めている。 風呂や夕食、宿題の世話に始まり、夜泣きや夜尿などで先生の手をわずらわせた子どもたちは数知れず。成人した後でも、楢崎先生にだけは頭が上がらないという生徒も多い。 生徒たちの生活全般を知り尽くしている先生が、心配そうに眉をひそめながら、こう訴えたのだ。 「7歳児クラスの男子三人の様子が、どうもおかしいわ」 もちろん、例の問題児たち、タク、カイリ、エリヤの三人のことだ。 「今まで、部屋に服やおもちゃを散らかして、叱ることが多かったのに、この頃、そういうことがピタリとなくなって、ぴかぴかに片付いているの」 親や教師というものは、悪い変化だけでなく、良い変化にも不審な気持を抱くものらしい。 「まるで、先生に部屋に立ち入ってほしくないって感じですか?」 胡桃が水を向けると、「そうそう」と激しくうなずいた。 「私の勘によれば、あの三人は絶対、部屋に見られたくない何かを隠してるわね」 「わかりました。まかせてください」 部屋の捜索は、夜よりは昼間の授業中のほうが、ずっと容易だ。 胡桃はセフィロトを呼んで、その日の二時間目の授業時間に、7歳児たちのそれぞれの部屋に忍び込むことにした。 「うーん」 セフィロトはカイリの部屋の前に来て、扉の前で立ち止まる。「敵もさるものですね」 入口付近には、彼らの手製らしい隠しカメラが設置してある。さらに念の入ったことに、扉のすきまに髪の毛をはさむという、超古典的な防御戦法。 セフィロトはそれらすべてを慎重に処理すると、なんなく部屋に侵入した。 「どこから調べましょう」 「まず、クローゼットがあやしいわね」 部屋を見渡してから、胡桃は、セフィロトの黒の手袋に目を落とした。 「それ、なあに?」 「え、だってスパイ映画では必ずはめているじゃありませんか」 「……それって、指紋を残さないあなたには意味がないと思う」 ふたりはクローゼットを開けた。 中を調べるまでもなかった。見たこともない新しい服が数着、ぶらさがっていたのだ。 他にも高価なアクセサリ、ゲームなどが、あちこちの引き出しから出てきた。タクやエリヤの部屋も同様だった。 「どういうことですか」 栂野園長の顔は見る間に真っ赤になり、下手をすると、バッタリ仰向けに卒倒しそうなほどだ。「三人の口座に、入っているはずのない大金が入っている?」 「残念ながら、そのとおりです」 セフィロトは、財務省コンピュータとの交信の結果を、沈鬱な顔で報告した。 【すずかけの家】に限らず、日本に住むすべての18歳未満の児童は、国から全生活費を支給される。財務省からひとりひとりに与えられた社会保障口座を通じて、衣食住や娯楽にいたる全ての費用について、申請した金額が振り込まれる仕組みになっている。 だが、セフィロトが見つけたのは、その公の口座のほうではなく、いわば「裏口座」だった。7歳児三人の名義の裏口座に、国家公務員ひとりの数ヶ月分の給与にも匹敵する大金が預けられていたのだ。 「いったい、どこからそんな大金が振り込まれていたのですか」 「それが……株です」 「株っ?」 「三人の名前による株取引の記録が、金融省のコンピュータから見つかりました。この一ヶ月で数千円の利益をあげています」 「確かに株取引は、【すずかけの家】でも奨励していますが」 胡桃が口を添えた。教師の監督のもとで、一定のルールを守ることを条件に、子どもたちは株取引を許可されている。株を通じて、世界経済のしくみを学ぶことは、社会科の大切な単元だ。 「でも、通常の取引で、これほどの利益を上げることは決してできません」 「たまたま投機が当たったということでしょうか?」 「いえ、たぶん」 セフィロトは暗い表情で答えた。「不正がからんでいます」 「不正?」 「アフリカのある製薬会社が、新薬を開発したという発表の直後から株価が数倍にはね上がっています。タクやエリヤたちは、発表前にその株を大量に買っていたんです」 「インサイダー取引……」 「新薬の情報を、どこからか入手したに違いありません。おそらくコンピュータをハッキングして」 「クリフォト!」 栂野先生は、立ち上がって叫んだ。「彼ならば、そういうことも朝飯前ですね」 セフィロトは答えなかった。彼も口には出さないが、それしかないと思っている。だが、認めるのは辛いことだった。 クリフォトが日々【すずかけの家】に馴染んできたことを感じていた矢先だった。教師補助の仕事に就いても、相変わらず積極的には話そうとはしないが、子どもたちを見るときの彼の表情が、心なしか柔らかくなっているような気がするのだ。 彼が、そういう不正に彼らを巻き込んだと思いたくなかった。 「どちらにしろ、このことはいずれバレるでしょう」 園長は机の表面にじっと目を落としながら、うめくようにつぶやいた。 「騒ぎにならないうちに、金融省に届け出ることにしましょう。子どもが意味もわからずにしたことですから、寛大な処置をお願いできると思います。責められるべきは、監督不行き届きだった私です」 「栂野先生!」 胡桃とセフィロトは異口同音に叫んだ。 「クリフォトを預かることを決めたのは、私たちです。責任は私たちにあります」 「いいえ」 首を振って、栂野は微笑んだ。「最終的には、園長である私が引き受けたことなのですよ」 その日の午後いっぱいかかって、栂野園長は金融省庁を回って、園児たちによる株の不正取引について報告し、今後の方策を話し合った。 どうにか目途がついたあと、その足で古巣の教育省に行き、辞表を提出した。 今度の事件については、保育教師たちに対して厳重な箝口令がしかれていた。 『まったく何もなかったようにふるまってください。生徒たちを動揺させてはいけません。心配げな顔も、ひそひそ話も禁物ですよ』 もちろんクリフォトに対しても、何も知らせない。昼間の授業も通常どおりに行なわれ、40人の生徒たちは滞りなく夜勤スタッフに引き継がれた。 だから、教育省に勤務している水木元園長から栂野の辞職の知らせが入ったのは、胡桃とセフィロトが古洞家に戻ってきてからだった。 セフィロトはテーブルをばんと叩き、ぎりぎりと歯を噛みしめた。 「今から、教育省に行ってきます」 「セフィ、待って」 胡桃は激昂している夫を見て、冷静な引止め役を演じることにした。本当は彼女も、負けず劣らず腹を立てているのだが。 「水木先生が間に立って、辞表を保留してくれているの。明日もう一度、園長先生を交えて、教師みんなで話し合いましょう」 「でも、わたしは……わたしがクリフォトを預かるなんて言わなければ、こんなことにならなかったのに……」 耐えがたい後悔に、セフィロトは胸をかきむしらんばかりに身をよじっている。 「だいじょうぶ。私たち教師が、あの子たちの未来を守っていくの」 胡桃は、後ろから寄り添って、彼の背中を抱きしめた。「そのために、教師みんなで力を合わせましょう。栂野先生も説得すれば、きっとわかってくださる」 「はい……」 突然、【エリイ】が不吉な呼び出し音を上げた。 胡桃が通信回路を開くよう命じると、画面の向こうでは【すずかけの家】の楢崎先生が、引きつった顔でモニターに屈みこんでいる。 「タクくん、カイリくん、エリヤくんの三人が、行方不明です!」 「なんですって!」 「気がついたら、三人が夕食の席にいないんです。おまけにクリフォトも、どこにも見えません。今教師たち全員で、手分けして園内を捜しています。ネームタグの発信電波も入らないんです」 ふたりは夕食の準備も放り出し、部屋の明かりや空調もつけたまま、家から駆け出した。【エリイ】が主たちの不在を感知して、自動的にスイッチを切ってくれるはずだ。 車の運転席に飛び乗ったセフィロトは、デジタル音声でコンピュータに発進を命じた。 警察の監視システムをすり抜ける猛スピードで、自動車は【すずかけの家】向けて走り出した。 首都高速に乗ったころ、にわかな突風が起こり、西の夕焼け空がみるみる厚い雲に覆われ始めた。 園に到着したときは、すでに猛烈な風雨になっていた。 ヒートアイランド現象が激しくなった前世紀から、日本を時折り襲う都市型集中豪雨は、毎夏、全国の各都市を悩ませている。洪水による被害を防ぐため、東京では地表の大部分を森林で覆い、さらに四つの新都心の地下には、巨大な放水トンネルを備え付けている。 それでも、今日のような突然の豪雨には対応できず、被害を起こしてしまう場合も、しばしばあるのだ。 胡桃とセフィロトが着いたとき、【すずかけの家】の園庭はすでに、湖と見まごうばかりになっていた。遠くの雷光がときおり空を真昼のように照らし、木々の影を黒々と際立たせる。 「四人は見つかりましたか?」 「いいえ」 すでに他の教師たちも連絡を受けて、ぞくぞくと園に集まっていた。 栂野園長と水木先生も、ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら走ってきた。ふたりとも顔は蒼白で、小柄な水木先生などは、さらに縮んでしまったように見える。 「園から外に出ることは、できないはずですよ」 「でも、クリフォトがいれば、裏門の電子錠の開閉は可能です」 「それじゃ、園の外に出たかもしれないのか――」 教師たちは途方にくれる。 元園長の水木が、ぱっと顔を輝かせた。「セフィ先生。人工衛星を使って、この上空を探査させることはできませんか」 三年前のことになるが、アラタくんが園内で行方不明になったときに、セフィロトがその手段を取ったことがあったのだ。 「アラタくんがすでに、やってくれていました。でも今は折り悪しく、上空で雷雲が邪魔をしているんだそうです」 セフィロトが悔しげに言葉を切った。 捜索班のリーダーである椎名先生が、園舎に駆け込んできた。 「思い当たるところは全部捜したけど、いない」 生徒の名を叫び続けていたのだろう、嗄れきった声で報告する。彼のレインコートからは、流しっぱなしの蛇口のように水が床に伝い落ちている。 教員室のドアのところでは、生徒たちが不安におびえながら、教師たちの様子を見守っている。 胡桃がつぶやいた。 「もしかして、あの子たちは、事件が公の問題になっていることを知ってしまったんじゃないでしょうか」 はっと、一同は顔を見合わせる。 「だが、教師は絶対に誰もしゃべっていないぞ」 「クリフォトが、私たちの会話を盗聴していたということもありえます」 「じゃあ。タクくんたちは叱られると思って、それで【すずかけの家】を逃げ出したってこと?」 「三人には話しておくべきでした」 沈痛な調子で、栂野園長がうめいた。「前もって、私たちが怒っていないんだということを、よく言って聞かせるべきでした」 セフィロトは突然、部屋を飛び出した。 屋外に出ると、天の倉が壊れたような大雨を全身に浴びながら、彼は叫んだ。 「クリフォト!」 [わたしの声が聞こえるか。クリフォト。きみなら、きっと聞こえるはずだ。聞こえたら、返事をしてくれ。タクくんとカイリくんとエリヤくんと一緒に近くにいるんだろう?] 風雨と雷鳴の音が耳をつんざくばかりに轟いている。 だが、セフィロトは、その中でかすかな音を聞き取った。 「セフィ」 傘をさしかけようとする胡桃に、セフィは振り向いた。 「見つけました。胡桃、みんなと中で待っていてください。毛布と暖かいココアを用意して」 そして、水を跳ね上げながら雨の中に飛び出していった。 行く先は、新校舎工事現場だ。 地表はすでに濁流となって水が押し寄せていた。すべての工事ロボットは電源を切られた停止状態で、雨避けカバーの中に退避している。 セフィロトは上を見上げると、建設中のむき出しの建材をよじ登り始めた。流れ落ちる雨のせいで、つるつるとすべりやすい。工事はすべて専用ロボットが行なうために、建設現場では人間が登るための足場は一切ついていないのだ。 三階から四階に登ろうとしたときに、遠くの雲が光った。 【すずかけの家】の上空も、すでに雷雲に覆われている。電磁波を計測すると、いつ落雷があってもおかしくない状況だった。建設中の建物には、避雷設備はついていない。 (三人を落雷から守らなくては) セフィロトはとっさに建材にしがみつきながら、自分のありったけの電力を放出して、空気中に弱電離プラズマを作り出した。 間一髪、あたりを閃光が包む。百万ボルトの電流はそのプラズマに誘導されて、地上へと流れていった。 轟音と強い風圧が収まり、暗闇の中、雨だけが鋭い針のように落ちてくる。何度もすべりそうになりながらも四階にたどりついたとき、彼らを発見した。三人の子ども、そしてクリフォトが一箇所に固まって、じっとうずくまっている。 そばには一体の建設用ロボットがいる。クリフォトがロボットを起動させ、三人の子どもたちを上に避難させたのだろう。 少年たちは、ぼとぼとに濡れたセフィロトの黒い影を見て幽霊だと思ったのか、体を縮み上がらせた。そして彼だと分かると、大声で泣き始めた。 「セフィ先生」 「無事でよかったです」 彼は三人を腕の中に抱きしめる。 「【すずかけの家】のみんなが、とても心配していますよ」 「ごめんなさい……、オレたち」 「わかっています。園長先生が全部解決してくれましたから、あなたがたは何も心配しなくていいんです」 「でも、園長先生、辞めるって」 彼らは何本もの涙の筋をつけた汚れた顔を持ち上げた。「オレたちがお金をダマシ取ったから、責任を取って辞めちゃうって」 「園長先生が辞めるくらいなら、オレたちが【すずかけの家】を出るよ。そうみんなで決めて家を出たのに、結局どこにも行くところがなくって。ここで雨宿りしてたら、どんどん水が増えてきて」 「クリフォト」 セフィロトは、厳しいまなざしで【弟】を睨みつけた。「きみがついていながら、どうして、こんな状態になる前に止めなかったんだ」 「クリフは悪くないよ。オレたちが出て行くって言ったから、心配してついてきてくれただけなんだ」 「オレたち、クリフが着てたみたいなカッコいい服が欲しいって、わがままを言ったんだ。そしたら、子どもでもお金を手に入れる方法があるって」 子どもたちはセフィロトの袖にすがりついて、彼をかばおうと口々に訴える。 セフィロトと睨み合っていたクリフォトは、次の瞬間うっすらと笑みを浮かべた。 「違う。俺がこいつらを誘い込んだ。楽して金が手に入れられる方法があれば、誰だって人間は、楽なほうを選ぶ。俺は教師として、人生で一番大切なことを教えてやったつもりだ」 「……クリフ」 「真面目で優秀なおまえの期待を裏切った、出来損ないの生徒たちだ。無理に追いかけてこなくても、放っておけばいいじゃないか。どうせ、こいつらの代わりなんて、いくらでも試験管で作り直せる。俺がいつでも廃棄処分できるように」 セフィロトは立ち上がると、クリフォトの顔を殴りつけた。クリフォトは後ろに吹っ飛んで、床に叩きつけられた。 「代わりなんて、いない!」 頭上をおびやかす雷鳴よりも大声で、セフィロトは怒鳴った。 「誰も、タクくんやカイリくんやエリヤくんの代わりになんて、なれない。彼らはわたしたちにとって、誰よりも大切な、かけがえのない子どもなんだ」 彼の頬を雨に似たしずくが、ぽとぽとと伝い落ちた。 「そして、きみだって――きみだって、どうでもいい存在なんかじゃない。簡単に廃棄処分だなんて言うなよ。きみが生まれて、ここにいるために、どれほどの人々の思いが積み上げられてきたか、わかってくれよ」 クリフォトは殴られた頬を手で押さえながら、じっと動かない。 セフィロトは、震えている三人の少年をふたたび腕の中に受け入れた。 「さあ、【すずかけの家】に帰りましょう」 「セフィ先生――でも」 「あなたたちが帰るまで、先生たちは外をずっと探し回らなければなりません。前に話した羊飼いの話を覚えていますか。99匹の羊が囲いの中にいても、いなくなった最後の一匹が帰ってくるまで、羊飼いは野山をさまようんですよ」 「……」 「帰ってきてくれますね」 三人はおずおずとうなずいた。セフィロトは安堵した笑みを浮かべたが、次の瞬間、ずるずると体勢を崩し、膝をついた。 「セフィ先生! どうしたの」 「だいじょうぶ、少し疲れたみたいです。――クリフォト」 セフィロトは子どもたちの腕の中から、訴えるように彼を見上げた。 「お願いがある。三人を無事に園舎まで送り届けてくれないか。わたしはもうエネルギー切れで、停止するみたいだ」 クリフォトの冷え冷えとした黒い瞳に、わずかに感情の色が現われた。 「俺なんかに、あとをまかせていいのか」 「きみは【すずかけの家】の教師だ……きみを信じる」 伸ばした手が力なく垂れて、セフィロトは子どもたちの腕の中で昏倒した。 使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2009 BUTAPENN. |