第5章 「昨日と明日の間で」(1)
BACK | TOP | HOME いつもの朝だった。 セフィロトは時間どおりに私の寝室へ来て、キスをし、私を起こしてくれた。 観葉植物に水をやり、コーヒーを淹れて、忙しく立ち働いていた。 食事のときも私の隣に座って、いっしょにフレンチトーストを食べた。 「いってらっしゃい」 玄関まで見送りに出てくれた彼を見て、私はとうとう我慢できなくなり、持っていたバッグをことんと床に置いた。 「セフィ。話があるの」 「今からですか」 セフィロトは、困ったように口ごもった。「でも、もう6時45分です。遅刻してしまいますよ」 「少しならだいじょうぶ。もし、このまま【すずかけの家】に行っても、私は子どもたちの顔が見られない」 「……」 「アラタくんが、とても落ち込んでいるの。あなたを辞職に追い込んでしまったと、自分を責めている。ユキナちゃんも、入園したころに戻ってしまったみたい。ずっと泣いて、教師にしがみついているわ。ほかの生徒たちだって……」 私は、喉に涙がせりあがるのを感じて、ことばを切った。 「あなたの辞表は、水木園長が手元で保留している。正式な受理ではないとおっしゃっている。お願い。もう一度、【すずかけの家】に来て、副園長と話し合って。栂野先生は、筋道を通して話せば、わからないような人じゃないわ」 セフィロトは私から視線をはずして、うなだれている。 「それに、これは子どもたちのためでもあるのよ。子どもたちは今も、あなたを辞めさせたことを恨んで、栂野先生が訓話をする毎朝の朝礼をボイコットしているの。菜園にも、あれから近寄ろうともしない。このままでは、【すずかけの家】の何もかもが、おかしくなってしまうわ」 「すみません、わたしのせいですね」 セフィロトは消え入るような声で答えた。 「でも、わたしが教師を続けることは、余計に子どもたちのために良くないんです。【すずかけの家】の子どもたちは、人間の発達のもっとも大事な時期にいます。豊かな情緒を学ぶべき幼少期に、わたしのようなロボットに教えられるなど、あっていいことではありません」 「セフィ。誰にだって失敗はあるわ。私も、子どもたちにいっぱい間違った接し方をしてきた。どんなにすばらしい先生だって、たとえ園長先生にだって、失敗はあったの。でも、たった一度の失敗で、くじけてはダメ」 「違うんです」 セフィロトは微笑んだ。けれどそれは、いつもの優しい笑顔ではなく、うつろな、あきらめに満ちた笑顔だ。 「これは、わたしの根本にある問題なんです。わたしはいくら努力しても、ほんとうの愛情を心に持つことができない。いつも人間らしく見えるように計算して行動している。人間のように、衝動的になったり、取り乱したり、本能から出る行動ではないんです」 「だって、それは……」 「ロボットだから、しかたのないことかもしれません。でも、愛しているはずの自分の生徒が――アラタくんが危険なのを目の前にして、わたしが取った行動は、アラタくんの命を第一に考えたものではありませんでした。栂野先生に言われて、はじめてわかりました。わたしは、人間らしく見えるプログラムを搭載しているだけの、ただの機械だったんだと」 「セフィ」 「胡桃の脈拍が速くなるのが聞こえたら、キスをする。うるんだ瞳でこちらを見たら、『愛しています』とささやく。すべて計算づくで、それなのに、まるで自発的に望んでそうしているのだと――わたしが勝手に思い込んでいるだけなのかもしれないんです」 「やめて。そんな言い方をしないで」 私は、セフィロトの胸に飛び込んで、しがみついた。 「お願い、セフィ。自分を、そんなふうにイジメないで!」 「ごめんなさい。胡桃。あなたを泣かせるつもりで言ったんじゃありません」 私の背中に回された手は、暖かくてやさしかった。 「教職以外にも、わたしが世の中の役に立てる仕事はたくさんあります。とりあえずは、柏所長から与えられた任務を最後まできちんと果たすこと。あとは……それから考えます」 セフィロトは身体を離すと、つぶやくように言った。 「しばらく家でひとりにさせてください。ゆっくり考えてみたいんです」 「わかった」 私は涙を拭って、床に置いたバッグをふたたび手に持った。そして、まっすぐにセフィロトを見つめた。 「でも、これだけは忘れないで。セフィ。私はあなたを愛している」 「胡桃、わたしも……」 ことばは、そこで途切れた。 彼はとうとう、「あなたを愛しています」ということばを口にすることはなかった。 「朝早くから、起こしてごめんなさい」 首都高速に入ると、私は車の中から犬槙さんに電話した。 「セフィがやっぱり、どうしようもなく落ち込んでいるんです。落ち込むことは、今までにも何度もあったけど、今度のは違う気がするの」 私の視界は、まだ涙で揺れる。自動走行システムに入っていてよかった。 「結局は、万事うまく行ったんだろう? セフィロトのせいで、子どもたちの誰かが怪我をしたというわけでもないんだろう?」 「そういうことではないんです。ただ、そのときの行動の裏にあった自分のものの考え方が、根本的に間違っていると感じてしまったらしくて。……セフィは、自分に絶望しています。自分で自分のことが、赦せないのだと思います」 「人間なら、適当にヤケ酒飲んだり、デートで気分転換したり、精神安定剤を飲んで、一晩眠って気持がさっぱりするということもあるんだけど」 生来、あまり悩まないタイプの犬槙さんにとって、こういう問題は理解を超える範疇のようだ。 「あいつの場合は忘れるということがないから、一度マイナス思考に入ったら、無限ループを描いてしまうんだろうなあ」 「犬槙さん、なんとかセフィが楽になれる方法はないんでしょうか、たとえば、記憶の一部を改ざんするとか」 「精神分析医が使う催眠誘導みたいなもの? ムリだね。少しでも記憶回路に矛盾が生じれば、デバッグでたちまち、ウソの記憶は見破られてしまう。それに」 犬槙さんは、おどすような声で言った。 「そんな工作をされたことがバレれば、セフィロトは僕たちまで信じられなくなると思うよ」 「そうですね……」 「ポジティブな方向へ、自分で持っていければいいんだが。今度会ったら、そうアドバイスしてみるよ。僕にできるのは、せいぜいそれくらいかな。セフィの【創造者】と言っても、何の力もないよ」 「ありがとうございます」 なにか解決を得られたわけではなかったけれど、犬槙さんに相談することで、私は少し気分が楽になった。楽天的な性格の人と接することは、人生には必要だ。 犬槙さんは、突然何かを思いついたように笑い出した。 「結局これって、僕がいつも樹にしてやっていたアドバイスと、まったく同じじゃないか」 「そうなんですか?」 「きみと結婚してからも、『俺には女の気持がさっぱりわからない』だの、『俺は胡桃を傷つけてばかりいる』だの、僕は毎日カウンセラー役をさせられていたんだよ」 「ふふ……そんなことを言ってたんだ」 「苦労するな。お互いに、いつまでも」 私は、夫と過ごした日々のあまりのなつかしさに、つい新しい涙を誘われてしまった。 セフィロトは、公園を歩いていた。 結局、家でじっとしていても、何もすることがない。【すずかけの家】に行っていたころは、あれほど見たかった刑事ドラマも、今はちっとも見る気が起こらない。 夏の真昼の公園は、木の葉まで白ずんでいて、気温は高いのに妙に寒々としていた。 【すずかけの家】では今、何の授業中だろうか。 休み時間になると、園庭は、子どもたちの潮騒のような歓声に満ちるだろうか。すずかけの木の下では、遊び疲れた子どもたちが芝生に寝転んで、木漏れ日を手でつかまえようとしているのだろうか。 考えないように努めても、いつのまにか、そのことばかり考えている。 セフィロトの足は、近所の桑田さんのアパートに向かった。 ベルを鳴らすと、ドアを開けたのはCA4型介護ロボットのキヨだった。 「イラッシャイマセ」 心身に障害を負ってしまった桑田さんに代わって、日常の応対をしなければならないキヨには、新しく応対用の会話機能が付けられていた。 「キヨ、桑田さんのお見舞いに来たのだけれど、入ってもいい?」 「ハイ、ドウゾ」 桑田さんの部屋は、以前はひどく散らかっていたが、今は片付いていて、奥さんのベッドがなくなった分、広く感じられる。 桑田さんのベッドとテレビ。キッチンとテーブル。 奥に小さな茶箪笥があって、その上に、亡くなった奥さんの清美さんの写真とメダルが飾ってあった。 セフィロトは、ベッドにぼんやりと座っていた桑田さんのところに行き、「桑田さん」と呼びかけた。 「どなたさん、でしたかな」 「こんにちは。わたしは、近所に住むセフィです」 皺だらけの手を取って、握手した。「今日は、桑田さんとお話がしたくて、来ました」 「こーひーハ、イカガデスカ」 キヨがそう尋ね、やがて二人分のマグカップを持って戻ってきた。 泥のようなインスタントコーヒーが入っている。キヨは玉子焼きは上手だけど、コーヒーを淹れるのは、あまりうまくないみたいだ。 セフィロトは一口飲むと、カップを置いた。 「桑田さん、身体はだいじょうぶですか? どこか痛いところはありますか?」 「ああ。こっちの足がしびれて、往生してますわ」 「頼めば、キヨがさすってくれませんか?」 「キヨ?」 桑田さんはキョトンと不思議そうに問い直した。 「この介護ロボットのキヨです」 「ああ。これは、家内の清美です」 「奥さん、ですか」 セフィロトは微笑んだ。 記憶が定まらない桑田さんは、今日はキヨのことを奥さんだと思っているんだ。 「奥さんとふたりで暮らせて、よかったですね」 「いやいや、気のきかんヤツで、困ります」 しゃがれた笑い声には、亡くなった奥さんに対する深い愛情がこもっているような気がする。 「わたしも少しだけ、桑田さんの足をさすらせていただいて、いいですか?」 セフィロトはベッドのそばの床に腰を下ろし、しびれているという脚をさすった。 「今日、桑田さんにお会いできてよかった。話を聞いてもらいたかったんです」 桑田さんはじっと、されるがままになっている。 「わたしは、自分がこれからどうしたらいいのか、わからないんです」 単調な動作と言葉とを、織り合わせるように話し続ける。 「なんだか、疲れてしまいました。考えれば考えるほど、わからなくなってしまって。なにを見ても、【すずかけの家】のみんなのことを思い出して、会いたくてたまらないんです。ローレル博士の言うとおりでした。何にも執着しないように、プログラムを書き換えておけばよかった」 セフィロトは手を止め、桑田さんの半分目を閉じて眠っているような顔を見上げた。 「桑田さんは、苦しいことも寂しいことも忘れられたんですか? 忘れたら、楽になりますか?」 老人は、何も答えない。 セフィロトは桑田さんの痩せた膝に自分の両手を乗せ、祈るようにうずくまった。 「何のために、わたしは人間のようになりたいと願ってきたのでしょう。いっそのこと、キヨのように単純なプログラムになりたかった。誰のことも憎まないで、誰のことも妬まないで、胡桃のことだけ大切に見ていればよかった。そうすれば、自分のことを人間だと思い込むこともなかったのに」 しばらくして、桑田さんの手がセフィロトの頭にぽんと触れた。さっきまでのぼんやりした表情とは見違えるほど、心地良さそうな顔をしている。 「いやあ、そうしてくれると、いい気持だ」 セフィロトは一瞬あっけに取られたが、自分の両手が乗っていたところを見て、納得した。 「ああ、膝のすぐ上を押さえていたのが、気持よかったのですね」 セフィロトは、大腿骨の外側の筋を指の腹でさぐった。 「ここには、人体の胃経というツボがあるのです」 桑田さんは、お腹が冷えているのかもしれない。キヨに、桑田さんの食事やお風呂に気をつけるように、伝えておかなければ。 「おおう」 セフィロトの指が丁寧にツボを押さえると、満足そうな吐息が漏れる。 桑田さんの笑顔を見ているうちに、セフィロトは、しみじみと自分までうれしくなってくるのを感じた。 何もしていないわたしが、桑田さんの役に立つことができた。 特別なことはしなくてもいい。ただ黙ってそばに座っているだけで、誰かを喜ばせることがあるんだ。 セフィロトは立ち上がり、お辞儀をした。 「ありがとうございました。おかげで元気が出ました」 「こちらこそ、おかまいもしませんで」 桑田さんはよたよたと立ち上がり、驚くほどはっきりした言葉で答えた。 自分の気持をわかってもらえたという安堵感が、脳の機能を一時的に回復させたのだろう。 そして、「清美。お茶」と大きな声でキヨを呼んだ。 「気のきかんヤツで、困ります」 セフィロトと桑田さんは、顔を見合わせて微笑んだ。 アパートの建物から出たとき、腕にはめていた携帯に通信が入った。 柏所長から、すぐに来いという命令だ。【ユエ・コンツェルン】について彼が送った報告を、今から検討したいということだろう。 セフィロトは、その場に立ち尽くした。 (今のわたしにできることは、ひとつしかない。ロボットであるわたしだからこそ、どうしてもしなければならないこと) セフィロトは唇をきっと結ぶと、足早にモノレールの駅に向かった。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2007 BUTAPENN. |