第5章 「昨日と明日のはざまで」(5)             BACK | TOP | HOME




「今日で、おまえはクビだ」
「ありがとうございます」
 木枯らしが吹き始める頃、【国立・応用科学研究所】の所長室で柏所長とセフィロトは、なごやかな会話を交わした。
 これまでにクーデタ計画の全貌がほぼ明らかになり、セフィロトはめでたく、所長直属の特別任務官を解任されることになったのだ。
「柏さんは、これからどうなさるのですか」
「来年四月の移動を待たずに、どこかまたキナ臭い匂いのするところへ行くことになるだろうよ。まったく年寄りをこき使いやがって」
 と口では言いながらも、うれしそうだ。根っから平和が性に合わないのだろう。
「あの、それで……武藤さんのことは、何かご存じですか?」
「さあな。【ユエ・コンツェルン】関係者の裁判は長引いているようだが、国家機密漏洩罪っていうのは、なかなか厳しくてな。相当な刑期は覚悟せねばならんだろう」
「そうですか……」
「出所したら、俺の部下にまた雇ってやるよ。まあ、俺がそれまで生きていればの話だが」
 柏所長は、にやりと笑った。武藤に対しては今でも、まったく悪い感情を持っていないようだ。
「新任地で何かあれば、おまえも呼ぶからな」
「遠慮します。こんな人使いの荒い上司のもとで働く気は、二度とありません」
「夜も、未亡人のお相手が満足にできないってか」
 最後まで、からかう口調を崩さなかったものの、柏所長のセフィロトを見送る目は暖かく、また名残惜しげだった。
 所長室を辞するとき、木田勇人が握手の手を差し伸べてきた。
「おまえは、いい相棒だったよ。ロボットにしてはな」
「木田さんもいいパートナーでしたよ、人間にしては」
「ははっ。所長の口の悪さが移ったのは失敗だったな」


 9階の「犬槙・古洞ロボット工学研究室」に入ったとき、セフィロトは別の部屋に来たのかと思った。
 作業台の上には部品が整然と並び、テーブルには花が置かれ、女性らしい気遣いが部屋のあちこちに満ちていた。
「セフィ、いらっしゃい」
 シーダが、口を少し開けた彼女らしい微笑み方で、迎えてくれた。
「すごいよ、シーダ。あの部屋をここまで片付けるのには、苦労したろう」
「コツさえわかれば、どうってことないわ。――待ってて。今コーヒーを持ってくるから」
 シーダの淹れたコーヒーは、すばらしくコクがあった。
「おいしいよ」
「サントスをベースに、コナとキリマンジェロをブレンドしてあるわ」
 誇らしげに、シーダは胸をそびやかした。
「犬槙博士の味覚の嗜好パターンを、研究したのよ。ときどき家に行って、食事も作ってあげてる」
「あのね、シーダ」
 セフィロトは眉をひそめた。
「家に行くのはいいけど、博士がきみにビデオファイルを見せようとしたら、絶対に見ちゃだめだよ」
「そうなの?」
「それに、まさかとは思うけど……なるべくベッドルームには近づかないほうが」
「なんだ、そういうことね」
 シーダは、いかにも楽しそうな笑い声をあげた。
「だいじょうぶ。犬槙博士は心を入れ替えて、すっかりおとなしくなられたわ」
「え?」
「あまたの女性からの誘いも断って、ひたすらAR9型の開発にいそしんでる」
 そして、急にトーンを落として、ささやく。
「犬槙博士は、ローレル博士にプロポーズしたの」
「ほ、ほんと?」
「まだ返事はノーなんだけど、相手はどこへも逃げられないから、何度でも挑戦するんだって。そのあいだは禁欲生活に徹するみたいよ」
「うわあ。信じられない。あの博士が」
「もっとも、オーケーが得られたら、安心して浮気するかもしれない。だから、ローレル博士も当分はイエスと言わないんじゃない?」
「まったく、きみたちの会話と来たら」
 呆れたようなポーズで、犬槙博士が扉のところに立っていた。
「まるでコーヒーショップで友だちのうわさ話をしているティーンエイジャーだ。ロボット同士の会話とは思えんな」
 セフィロトとシーダは顔を見合わせて、にっこり笑った。
「育て方を間違ったんじゃないですか?」


 建物を出たとき、セフィロトは高い秋色の空に向かって、ため息をついた。
 本当は、AR9型の開発を手伝わせてくれるように犬槙博士に申し出るつもりだった。けれど、その仕事は、これからシーダが担うことになっているらしい。
「困った。これで完全に、することがなくなってしまった。明日から毎日何をしよう」
 D号棟の前庭に、ニセアカシアの木が一本植えてある。
 なぜだか心を魅かれ、近づいて、その木陰に座り込んだ。
 見上げると、さやさやと円い葉が揺れ、木漏れ日が顔に当たった。
 不意打ちのフラッシュに思わず目を閉じたとき、記憶回路の中に、過去の光景が浮かんできた。
 創られた最初の日々。
 古洞家の観葉植物に、丁寧に水をやる。クリンがあちこちの部屋を掃除して回っている。
 美味しいコーヒーを淹れて、ソファにじっと座りながら胡桃の帰りを待って。
 あの頃は、それが彼の生活のすべてだった。今は日常で当たり前になっているひとつひとつのことが、大冒険のように感じた。毎日が、わくわくと期待に満ちていた。
 だが月日が経つにつれて、だんだんとそういう気持を失ってしまった。退屈することを覚え、不安を覚え、自分と他人を比べることを覚えた。
 何かの役に立たなければ、自分はダメなのだと思うようになった。
 成長とは、なにかを得る代わりに、なにかを失うこと。自律改革型ロボットとして、わたしは何を得て何を失ったのだろうか。
 もう一度、あの頃の生活に戻って、そのことを考えてみるのもいいかもしれない。公園を散歩したり、雲や小鳥を一日ながめていたり、桑田さんとキヨの家に遊びに行ったり、何も特別なことはせずに、当たり前の生活を楽しみながら。
 人は何かの役に立つから、価値があるのではない。ただそこにいるから、貴い。そのことが、二年経った今、ようやくわかったような気がする。
 空を見上げながら、いつのまにか笑顔を取り戻したセフィロトのもとに、通信が入った。
 【すずかけの家】の水木園長だった。「なるべく早く、園長室まで来てください」とある。
 まるで、狙いすましたようなタイミングだった。


 四ヶ月ぶりの【すずかけの家】に足を踏み入れるとき、なつかしさで身体が震えた。
 園庭に、子どもたちの姿は見えない。四時間目の椎名先生の授業は、体育館を使っているのだろう。
 赤や黄に染まった木の葉が、セフィロトの頭の上に、静かな歓迎の紙吹雪のように舞い落ちてくる。
 園長室に入ると、正面の机に水木園長。そのかたわらに栂野副園長が素知らぬ顔で立っていた。そして、ソファには胡桃が、不安な面持ちで座っていた。
「お久しぶりです。園長先生」
 頭を下げたセフィロトに、園長先生はいつもの勾玉のような目で笑いかけた。
「クーデタ騒動の後始末に、大活躍をなさっていたと聞きました。さぞお疲れでしょう」
「いえ、たいしたことはありません」
「そのお仕事も終わったと柏所長から連絡をいただいたので、さっそくこうして来てもらったのですよ」
 水木園長は、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がった。
「実は、私は来年の三月で退職することになりました」
「ええっ」
 セフィロトは驚愕に目を見開いた。
「まさか。だって先生はまだ」
「定年までには、まだ間があるのですがね。もう身体が言うことを利かなくなってきました。一番小さな四歳児を追いかけても、つかまえられなくなってしまいました。これは、【すずかけの家】の園長としては、大変に不名誉なことです」
 そろそろ貴重になってきた頭頂の髪を、そっと撫でつける。
「とは言っても、後進の指導という立場で、引き続き教育には関わっていくつもりですよ。教育大学講師への招聘話がありましてね。それをお引き受けすれば、教育実習の打ち合わせなどで、またちょくちょく、ここにも寄せていただくことになりそうです」
「それでも、園長先生のお姿がどこにも見えない【すずかけの家】は、……寂しいです」
 胸がふさがれる思いがして、セフィロトは言った。
 いつも園長室の窓から、藤棚の下から、水木園長は子どもたちと教師を、やさしい目で見守っていてくれた。
 それは、セフィロトの記憶の中の風景でもあり、同時に樹の記憶にある風景でもあった。
「セフィ先生。ものごとは変わり、人もまた移ろっていくのですよ。それを受け入れる勇気は必要です」
「はい……」
「それで、後のことを、ここにいる三人の皆さんに託したかったのです」
 園長は、セフィロト、胡桃、そして栂野副園長をゆっくりと見回した。
「栂野先生。あなたにここの園長職をお願いいたします」
「はい――ふつつか者ですが、慎んで承ります」
 栂野先生は、お辞儀をした。ふたりの間で、すでに話は済んでいたのだろう。
「それから、胡桃先生。セフィ先生。あなたたちふたりに、副園長の役をお願いしたいのです」
「ええっ」
 胡桃は、はじけるようにソファから立ち上がった。こちらは何も聞いていなかったようだ。
「私とセフィが、副園長ですか?」
「はい。そうです」
「待ってください。それはいくらなんでも」
「まだ若すぎるとか、そういう抗議なら受け付けませんよ。新園長と熟慮した上の選任なのですから。ねえ、栂野先生?」
「はい。年功序列制の廃止は、2086年の旧文部省通達事項です」
 栂野先生は、しかつめらしい顔で補足した。
「胡桃先生はともかく、わたしが副園長になるなんて、おかしいです」
 セフィロトも、うろたえて抗議の声を上げた。
「だって、わたしは……正保育教師の資格さえ、持っていないんですよ」
「それが都合のいいことに、園長・副園長職に就くには、教員資格はまったく必要ないのですよ」
 水木園長は、いたずらっぽい笑みに頬をゆるませた。「ついでに申し上げれば、人間でなければならないという条項も、どこにもありません」
「……」
 ふたりはもう、返すことばもない。
「セフィ先生。私はこう思うのですよ」
 園長は窓に顔を向け、園庭を見やった。
「私のわずか四十年余の教員生活のあいだに、何百人という子どもたちの成長を見てきました。大人になり、結婚し、子どもが産まれる――残念ながら、樹くんのように見送ることになった生徒たちも何人かいますが。彼らは、人生の節目ごとに【すずかけの家】に遊びに来たり、メールやカードを送ったりしてくれます。ここは、親のいない彼らにとって、故郷であり、家そのものなのです」
「はい」
 セフィロトはうなずいた。
「もしあなたが副園長として、そして将来は園長として、ずっとここに留まってくださるなら、それは、どれほど子どもたちにとって心強いことでしょう。子を為し、孫が産まれ、やがて年老いて、この世を去っていくとき、変わらずに自分を見守ってくれる目があれば、どれほど彼らの慰めになるでしょう」
 水木先生は、目の淵に涙のしずくを溜めて、セフィロトを振り返った。
「セフィ先生。わたしはあなたに、開園からずっとこの園の象徴だった、あのすずかけの木のような存在になってほしいのですよ」
「わたしが、すずかけの木?」
「ずっと変わらずに、子どもたちをあなたという木の下で憩わせてください。そして、それはあなたにとっても大切なことだと思います。胡桃先生を失ったあと、あなたが長い時間を生きていくための、心の拠り処になるのではないでしょうか」
 セフィロトも胡桃も、ハッと驚いて園長を見つめた。
 園長先生は、すべてをご存じだったのだ。胡桃とセフィロトが結婚を望みながらも、お互いの寿命の違いに悩んでいたことを。
「わかりました」
 セフィロトは長い沈黙の末に、答えた。
「未熟なわたしに、どんなことができるかはわかりません。でも、子どもたちのそばにいられるのなら、どんなことでもします。やらせてください」
「セフィ先生」
 栂野教諭は、すっと照れくさげに手を差し伸べた。
「失敗は幾度してもいいのですよ。問題は、よい教師になりたいと願うかどうかです」
「栂野先生」
「あなたには、そう願う心があります。これからも【すずかけの家】のために、ともに働きましょう」
 ふたりは、ぎゅっと互いの両手を握りしめた。
 園長室の外の廊下から、四十人の子どもたちと教師たちの大歓声が、海のとどろきのように響いてきた。


 家に戻ると私は真っ先に窓のブラインドを開けて、夫の自慢だった東京ベイの夜景を見た。やがて、ベランダに出る窓をがらりと開けた。
「胡桃、外は寒いですよ」
「いいの、セフィ。こっちに来て」
 セフィロトは部屋から出てくると、自然と私の風上側に立った。
 私を寒さから守ろうとしているのだ。樹も、ベランダでは必ずこうやって風除けになってくれたっけ。
 一体いつからセフィロトはこうしていたのだろう。もしかして、二年前この家に来た始まりのときから、この位置に立っていた?
 それに気づいたとたん、目眩のようなものに襲われた。
 創られたばかりでまだ何も知らないセフィロトを教え、育み、守ろうと、私はこの二年間必死だった。
 でも、そうではなかったのかもしれない。守られていたのは、私のほうだった。
 セフィロトに導かれ、人間として成長してきたのは、私のほうだった。
 夕闇の空を書割にした冬の海。遠くに新羽田国際空港の白と青の点滅灯が見え、近くは赤や緑の灯標や、航行する船の灯火が、クリスマスのイルミネーションさながらに揺れている。
「来月になったら、一週間の冬の休暇がもらえるわね」
「そのことですが、わたしは今度の休暇を断ろうと思います」
 セフィは控えめに言った。
「四ヶ月も休んで戻ったばかりですし、早く慣れるためにも、一日でも多く出勤したほうがいいと思うのです」
「セフィ、私の話を聞いて」
 私は、彼の胸にぎゅっと顔を押しつけて、耳を当てた。
 心臓の打つ音は聞こえない。当たり前だ。セフィロトには心臓はない。血液も、肺も胃も。
 彼のうちにあるのは人工の機械。彼は人間ではない、ロボット。
 私はその事実を確かめるように、幾度も心の中でつぶやいた。
 ――迷いはない。
 私は顔を上げた。
「ふたりで休暇をとって、いっしょにニュージーランドに行きたいの」
「桐生さんの牧場ですか?」
「そう。そして、両親に結婚の報告をする」
 セフィロトはきゅっと唇を結んで、それから言った。
「わたしがロボットであることも、桐生さんに話すのですね」
「ええ」
「もし、反対なさったら?」
「時間をかけて説得する。でも、もしどうしても許しを得られなくても、気持は変わらない」
「いいのですか」
「いいの」
 暗闇で見つけたただひとつの灯標のように、彼の瞳を見つめ続ける。
「私はこれまで十分に待った。もう待たないわ」
「わたしも、これ以上待ちたくありません。胡桃」
「たとえ何があっても、あなたから二度と離れない」
 唇を触れ合わせた。幾度も触れながら、声にならないことばを形作った。
「ア・イ・シ・テ・ル」
「ア・イ・シ・テ・マ・ス」
 私たちは、抱擁とキスをいつまでもやめなかった。互いのシルエットが夜空に溶け入ってしまうまで。





                第五章 終





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