第6章 「ふたりだけの誓い」(2)             BACK | TOP | HOME




 ニュージーランド南島南西端のフィヨルドランド国立公園。またの名をテ・ワヒポウナム(翡翠の水の地)。
 雄大な山河に、苔むした原生林。氷河という巧みなノミによって彫り出された手つかずの自然が、22世紀の今なお残っている。
 そこにある【ケプラー・トラック】というトレッキングコースに、私たちは来た。山小屋に泊まりながら三日で周回する全長60キロのルート。
 私たちが休暇の最後にここを選んだのには、理由がある。


「セフィ。全部断られたわ」
 私は、あっさりと受話器を放り出して、ベッドの上に寝ころんだ。
「この近くの教会、全部ですか」
「たぶん、世界中どこもダメだと思うわ」
 私たちはあれから、結婚式を挙げてくれる教会を探していた。
 だが、ふたりのIDカードの番号を告げたとたん、どこからも相手にされない。
 セフィロトのIDデータには、【ノット・ヒューマン】と特記されているからだ。
 今世紀になってから、IDカードが、昔の戸籍や住民票やグリーンカードの役割を果たすようになった。
 進学・就職・予防注射・旅行・結婚・出産、そして葬儀。あらゆる機会、あらゆる場所で、IDカードの提示が必要となる。
 結婚式を執り行う教会でも、IDカードによる身元確認が義務づけられているのだ。不法入国などを目的とする偽装結婚を取り締まるのが目的だ。
 私たちも、違法な目的と疑われたか、さもなくば冗談だと思われたのだろう。
 覚悟はしていた。
「もういいよ。式なんかしなくても、別にかまわない」
「ダメです!」
 セフィロトは、むきになって反論した。
「結婚は、神聖な儀式です。自分たちを創ってくれた創造者の前で、きちんと誓いを立てなければなりません」
「だって、どこの教会も式を認めてくれないのよ」
「なにも、宗教的施設の中で行なう必要はありません。要は、創造者の前に立てる場所ならばいいのです」
 熱っぽく語るセフィロトに、私はとまどった。
「もしかしてセフィは、創造者の存在を信じているの?」
「あたりまえじゃないですか」
 彼は、いかにも不思議そうに答えた。
「ロボットでさえ、創ってくれた存在がいるのです。ロボットよりずっと精巧で緻密で、すぐれた構造の人間に、創造者がいないはずはありません」


 かくて私たちは、創造者にもっとも近い場所を求めて、トレッキングに向かった。
 ブーツ、手袋、防水ジャケット、寝袋、食糧と水という重装備だ。セフィロトは充電装置を持っていく代わりに、食糧は持たない。
 テ・アナウの町を出発し、ルートをたどりながら、苔むしたブナの原生林と巨大な石灰岩の間の道を登っていく。
 森が切れ、いきなり視界が開け、四方を青空に囲まれた。雲が触れそうなほど、近い。
 その夜はハットと呼ばれるバンガローに泊まり、翌日の早朝、雲海の中を出発した。
 山腹の道を登っていくと、やがて私たちは長い稜線の上に出た。
 ここから、峰と峰の間の「鞍部」と呼ばれる頂上の道をずっと行くことになる。
 左右どちらを向いても、眼下に、氷河に削られた山々と湖との壮大なパノラマが一望できる。それだけに、吹き上げてくる風も冷気も、ハンパではない。
 「創造者に一番近い場所」というとき、私はどんな高い山々よりも、真っ先にここを思い浮かべた。
 山は頂上に登ればそれでおしまいだが、この長く続く稜線は、人生の旅路を思わせる。
 油断すると足元をすくわれそうな風の中で、私たちは互いを支え合いながら、稜線の真ん中に立った。
 私たち以外の人影は、まったく見えない。山と空と、そして私たちだけの世界。
「セフィ」
「はい」
 私たちは、向かい合って相手の手を取った。
「人間をお創りになった創造者よ」
 セフィロトは顔をまっすぐ上に向け、天に叫んだ。
「そして、人間の手を通してロボットを創られた方。私たちは、あなたの前に誓います。古洞胡桃と、AR8型セフィロトは、命の続く限り、互いを愛し、いたわり、敬います」
「健やかなるときも、病めるときも」
 私も、彼に唱和した。
「それに、故障のときも」
 私たちはお互いを見つめて、にっこり笑う。
「相手の愚かさに目をつぶり、自分の愚かさには目を開いて生活することができますように」
「わたしたちは、決して互いを愛することをあきらめたり、くじけたりしません」
「死がふたりを別つとも」
「創造者よ、守ってください」
 私たちは、目の前の伴侶を抱いて、口づけを交わした。
「胡桃。愛しています」
「セフィ。愛してる」
 立ち会う者のいない、ふたりだけの結婚式。


 雨が降り始め、私たちは原生林の木道を、ぴったりと寄り添って歩いた。
 呼吸するのが苦しいほど濃密な空気。ツタがからまり、シダが生い茂り、苔が地面や木々や岩、あらゆるものを覆う。
 完璧な静寂の中を歩いているうちに、ふたりの身体はゆっくりと周囲に溶け込み、どこまでが外界で、どこからが自分なのかわからなくなりそうだった。
 ロボットとか人間とか、そんなことで悩んでいたのがバカらしくなってしまうほど、私たちは自然に同化し、自然の一部となった。
 言葉も、いらない。
「セフィ」
「胡桃」
 ときおり微笑み合うだけで、相手の言いたいことがわかる。気持が通じる。
 私たちはともに歩きながら、ひとつの生き物となった。


 【ケプラー・トラック】を踏破し、テ・アナウのホテルの部屋に落ち着いた頃には、もう夜の帳が降りていた。
 暖かいシャワーを浴び、三日間の泥と汗を洗い流しながら、私は今から自分のすべきことを何度も確認した。
 こうやって自分の気持を試す儀式が、ぞくぞくするほど楽しい。
 私には、とっくに迷いはなくなっていたから。セフィロトと今まで過ごした二年間が、その迷いをすっかりぬぐい去ってくれていたから。
「セフィ。ついでに、犬槙さんにも報告したら?」
 部屋に備えつけのコンピュータを使って、東京の自宅の【エリイ】とデジタル言語で交信していたセフィロトは、「え?」という顔をした。
「だって、犬槙さんはセフィの創造者でしょう。彼からも、ちゃんと結婚の了解をとらなきゃ」
「でも、トレッキングに出発する前に、一度連絡を取りました」
「それでも、きちんと事後報告すべきよ」
 飽くまで主張する私に、いぶかしそうにしていたものの、彼は【国立応用科学研究所】に通信を入れた。
 私はこれからふたりの間で交わされる会話を予想し、恥ずかしさのあまり、そばにいるのがいたたまれなくなって、髪を乾かすためにバスルームに戻った。


「あの……犬槙博士」
「ああ、セフィか? 戻ってきたんだな」
「今、ホテルの部屋です」
 セフィロトは、居住まいを正した。
「博士。今までいろいろとお世話になりました。わたしたちは無事に、結婚式を挙げました」
「その挨拶はやめてくれ。なんだか、娘をヨメにやるような心境で、照れくさい」
「そうは思ったんですけど。でも、胡桃がどうしても、結婚の報告をきちんとするようにと」
「胡桃ちゃんがそう言ったのか?」
「はい」
「そうか」
 犬槙博士が、意味ありげな無言に落ちたので、セフィロトは何かがあることを敏感に感じ取った。
「あの、博士、いったいどういうことですか」
「胡桃ちゃんは、きみとひとつになることを受け入れた、ということだよ」
「え?」
「セフィロト。きみのボディには、まだ未使用の回路がひとつだけ眠っている」
「未使用の回路?」
「一年前、きみが眠っている間に、僕が埋め込んでおいたものだ。この一年間、自分の中に性的衝動が生まれたことに、気づいてはいただろう?」
「あ……」
「胡桃ちゃんも、その回路のことを知っている。もし胡桃ちゃんが望まなければ、僕は一生、解除コードを教えないつもりだった。だが、僕に結婚を報告しろと言ったのは、彼女がそれを望んでいるということなんだ」
「……」
「今から解除コードを教える。よく聞いて。デジタル音声方式になってるから」
 受話装置に耳を当てていたセフィロトは、思わずうめき声を漏らした。
 身体が熱い。荒々しく、たけだけしく、それでいて甘美な感覚。
「幸せになれよ。セフィ」
「……ありがとうございます」


 部屋に戻ったとき、セフィロトは目を宙に泳がせ、顔を赤く染めていた。
「胡桃……」
 頼りなげに私を見上げた彼の肩に、私はそっと腕をかけた。
「いいのですか?」
「そうでなければ、結婚しようとは言わなかったわ」
「ずっと願っていました。あなたとひとつになりたいと。でも、機械であるわたしには、言い出せなかった」
「私もよ、セフィ。ためらいはある。けれど、心のつながりの次に、身体のつながりを求めるのは当然のことだわ」
 背中に手を回すと、セフィロトはぶるりと震えた。
「ほんとうに……ロボットがマスターにこんなことをして、許されるのでしょうか」
「違うわ、セフィ。もう私はあなたのマスターじゃない。あなたの伴侶になったの」
「もうマスターじゃない――?」
「ええそう。だからもう、他人行儀な言葉使いはしないで。夫が妻に話すようなことばを使って」
「……そういう重大なプログラムの変更は一度には無理です。時間をください」
「時間なら、たっぷりあるわ」
 私たちは、互いの唇をむさぼった。丁寧に、そして次第に高まる衝動にまかせて、相手の身体を抱きしめあった。
「胡桃。これほどあなたが好きだということを、どうしたら伝えられるでしょう」
「わたしも……わたしもよ、セフィ。ことばじゃ到底、足りない」
 ベッドにゆっくりと倒れこんだあと、セフィロトはぴたりと動きを止めた。
「胡桃……わたしは、このあとどうしたらいいんですか?」
「……」
「犬槙博士のビデオファイルを見て知識はあったのですけど、はじめてなので……どうしたらよいかわかりません」
 私はそのことばを聞いたとき、思わず泣き出しそうになった。
 デジャヴュなんてものじゃない。セフィロトのことばは、あまりにも同じだった。武蔵野のペンションで、はじめて身体を通わせた日の樹に。
「胡桃。泣いているのですか」
「違うの。うれしくてたまらないの」


 樹。
 あなたはやはり私のそばにいてくれた。私をひとりにしなかった。
 私が新しい愛に生きられるように、セフィロトの中からいつも見守ってくれた。
 これからも私は、セフィロトという樹の下で、いつまでも生き続けます。
 ――ありがとう、樹。


 私は手の甲で涙をぬぐうと、不安げな表情をしている愛しい彼に、そっとささやいた。
「とりあえず、服を脱ぐところから始めない?」
 






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