第6章 「ふたりだけの誓い」(終)             BACK | TOP | HOME




 【すずかけの家】の園庭をぼんやりと窓から眺めていたセフィロトは、我に返った。
 ひとりの生徒が、ばたばたと、ものすごい勢いで走ってきて、園長室の扉を開けたからだ。
「園長先生!」
「どうしたんですか。そんなに急いで」
「モグラです。モグラの巣を見つけたんです。サンザシの植え込みの奥で」
「へえ、それはめずらしいですね」
「みんなが、園長先生に見せたいって。それでボク呼びに来たんです」
「ありがとう。タクマくん」
 セフィロトは、くりくりと目を見開いている男子生徒の頭を撫でようとして、バランスを崩した。
「あ……」
「園長先生!」
 生徒は、あわてて駆け寄ってくる。「だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶ。なんともありません」
 彼は、机のへりをつかんで身体を起こすと、にっこり笑った。
「あとから追いかけますから、先に行ってください」
「わかりました。サンザシの植え込みの奥ですからね」
 生徒が走り去ってしまうと、セフィロトはゆっくりと椅子に腰をおろした。
「もう、いよいよダメみたいですね。この身体も……」
 【国際ロボット統括機構】では35年前に、22世紀仕様のすべての純正部品の廃棄を決めた。
 セフィロトの身体を構成するパーツのほとんどが、耐用年数をとっくに過ぎていた。
 特別に発注すれば、再生産は可能だ。だが、セフィロトはそうしないことに決めたのだ。
「胡桃」
 愛する妻の名をつぶやきながら、セフィロトは窓の外のすずかけの木を見やった。
「そろそろ、あなたのもとに行ってもいいですか?」
 わたしは、もう十分にやったでしょう?
 この【すずかけの家】で、何千人という子どもたちを育て、送り出し、また最期を看取ってきました。
 すずかけの木が何百年も変わらずに、子どもたちの頭上にそよいでいたように、わたしもここで不変の存在でした。
 それは、とてもやりがいのある、忙しい仕事でした。あなたがいない寂しさを忘れさせるくらいに。
 でも、やはりわたしは寂しかった。
 もう、あなたの待つ国に旅立っても、いいでしょう?
「でも……わたしは天国に行けるのでしょうか」
 手を組んで、ゆっくりと目を閉じる。
 ロボットに、死後の生命はあるのだろうか。魂の代わりにニューロンチップがつまっている機械に、天国への門は開いているだろうか。
 ついに意識の混濁が始まり、彼は幻を見始めた。
 その幻影の中で、胡桃が立っている。かたわらで彼女を支えているのは、古洞樹博士。
「セフィ。よくやったわね」
 涙をいっぱいにたたえた目で、胡桃は言った。はじめて出会ったときの、あの若い姿のままで。
「早く、こっちにいらっしゃい」
 セフィロトは首を横に振った。
 胡桃。古洞博士。わたしは、そちらに行けるのですか? あなたたちのもとに行っていいのですか。わたしは――あなたたち二人にとって、邪魔な存在なのではないですか。
「バカ、何を言ってる」
 博士は、いつもの不器用な笑みを浮かべながら、セフィロトに向かって手を差し伸べた。
「こっちへ来たら、おまえと俺は、ひとつになるんだ」
――ああ、そうだったんですね。
 わたしと博士は、元からひとつの魂だった。ひとつになって、永遠に胡桃を愛していくのですね。
 セフィロトは目を閉じたまま、静かに、静かに微笑んだ。


 ベッドの上で跳ね起きた。
 淡い日の光が寝室の窓辺でたわむれ、鳥の音が早い朝を告げている。
 隣では、胡桃が健やかな寝息を立てている。
――夢だったんだ。
 わたしは深く安堵しながら、彼女を起こさないよう、そっとベッドを離れた。
 昨日、ニュージーランドから東京に戻ってきたばかりだった。コーヒーを飲みながら、夜遅くまで荷解きをしたり、おしゃべりをしたりしていたので、きっと胡桃はまだ疲れているだろう。
 居間に行き、ダイニングテーブルの椅子に腰をおろすと、さっき見た夢を思い出して、少しだけ泣いた。
 とは言っても、涙はあまり出ない。ロボットのわたしにとって、泣くことはまだまだ苦手なのだ。
 結婚式を挙げてわずか三日後という幸せの絶頂で、こういう悲しい夢を見る自分に、腹が立つ。夢を見るプログラムなんて、人工知能に組み込まなければよかった。
 そう遠くない未来に胡桃が年老い、亡くなって、わたしは彼女のいない世界で何百年もひとりで生きなければならないことを、夢は思い出させた。こうやって、たったひとりでテーブルに座って朝を迎えなければならない日々が確実にやって来ることを。
 それは、考えれば考えるほど恐ろしいことだった。
 人間はいったいどうやって、この孤独を乗り越えていくのだろう。いつか愛する者と別れる日が来ることを知りながら、どうして人を愛せるのだろう。
 なるべく考えないように、ごまかして生活している? そうかもしれない。
 でも、古洞博士は生きている間じゅう、自分の死と向き合わざるを得なかったはずだ。博士は、どうやって胡桃の前からいなくなる恐怖に打ち勝ったのだろうか。
 わたしという存在を創り出すことで自分の死に続く未来を手に入れようとしたのだろうか。それでは、創られたわたしは、何によってそれと同じものを得ればいいのだろう?
 【テルマ】や【レイチェル】が何百年計算したとしても、この命題の答えは決して出ないだろう。
 わたしにも、わからない。
 永遠の命を与えられている機械が、永遠について知ることなく、死すべき運命の人間が、永遠を知っている。なんとこの世界は不思議に満ちていることか。
 わたしには、まだまだ人間について学ばなければならないことが多すぎる。


 レースのカーテン越しに、窓の高い位置から朝の光が射し込んで来たのに気づいて、立ち上がった。
 考え込んでいる間に、いつのまにか、こんな時間になっていた。
「クリン」
 円い頭のクリーナーロボが、するすると壁の収納場所から出てきた。
「オハヨゴザイマス。今日モイチニチ、ガンバリマショ」
「うん、がんばろうね」
 クリンに負けずに、わたしは動き回ることにした。まず家中の観葉植物の水やり。
 しばらく放ったらかしだった家の植物たちは、少し元気がないようだった。ニュージーランドで見たあの濃密な緑の洪水に比べて、なんと色が薄くてひ弱なのだろう。あんな強く雄雄しい木々を育てたい。古洞家がジャングルになってしまうと、胡桃が悲鳴を上げるに違いないけれど。
 生き物を育てるのが好きだ。それは、ロボットの自分には本当の生命がないからかもしれない。生き物の命に触れるとき、その細胞が震えるのを感じるとき、わたしも彼らといっしょに生きて、呼吸し、鼓動できるような気がする。
 ――ああ、今、少しわかったかもしれない。
 木はそれ自体が枯れても、また芽を吹き出す。動物たちは自分の命を賭して子を産み、養い育む。どんなに小さくても、すべての生き物は永遠を求めて生きているのだ。
 永遠でなければ、すべてのものは、むなしい。もし、愛がどんなものよりも尊いのだとすれば、愛は死を越えて永遠へとつながっていく力なのにちがいない。


 すべき朝の大仕事をし終えると、わたしはもう一度テーブルの前に座り込んだ。
 そう言えば、胡桃に対する丁寧な言葉づかいを改めなければならないんだった。でも、夢に見た数百年後の未来でも、ちっとも直っていなかったから、無理かもしれないな。
 なんだかおかしくなって、ひとりで笑ってしまった。
 もう胡桃は、わたしのマスターではない。ただひとりの伴侶。
 マスター不在のプログラムに書き換えるのは、ちょっと厄介な作業だ。ロボットは誰でも、マスターがいることがプログラムの大前提となっているから、可変領域のほとんどを書き換えなければならない。
 それは不安でもあり、晴れがましい気分でもあった。人間がおとなになるというのは、こういう気分のことを言うのだろう。
 自律改革型ロボットAR8タイプは、【成長するロボット】と呼ばれる。そうだとすると、わたしの成長は、ひとつの終着点にたどり着いたのかもしれない。そして、それは新しいスタートラインでもある。
 わたしは、もう一度ふたりの寝室に向かった。
 ニュージーランドに行く前に、別室にあった充電装置をこちらに移したので、部屋全体がちょっと狭く感じられる。
 クリンはまだ部屋から部屋へと掃除に駆け回っている。その騒音にもかかわらず、胡桃は安らかな眠りをむさぼっていた。
 そろそろ起きないと、今日はしなければならないことが山ほどある。
 午後は、【すずかけの家】で、みんなが披露宴のパーティを開いてくれる予定だ。卒業生たちも集まって、にぎやかな会になるのだろうな。
 それが終わったら、すぐにスキー合宿の準備が始まる。クリスマスが来て、年が明けたら、すぐ園長・副園長職の引継ぎと、卒業式の計画。
 こうやってゆっくりと感傷にひたっていられるのも、今だけなのかもしれない。二十四時間じゅう胡桃だけを見ていられるのも。
 胡桃が目を覚ましたら、たくさんキスをしよう。そして念入りにおいしいコーヒーを淹れよう。明日も、そしてあさっても。
 胡桃がこの世に生きている限り、愛し合い、労わり合って、ふたりに与えられた時間をせいいっぱい生きよう。永遠の時間をふたりで過ごしたいと願いながら。
 たぶんそれが、永遠につながる唯一の方法。
 ベッドの端に座って、声をかけようとした。夫が妻を呼ぶように。でもやっぱりためらってしまう。
(どうしよう。思い切り、照れくさい)
 長い時間思い悩んだあげく、そっと「胡桃」と名前を呼んだ。


 その瞬間、古洞樹博士が自分の中にいるのを感じた。今までに感じたことがないほどの、一体感。
 わたしは故郷へ帰ったような激しい喜びをもって、その感覚を受け入れた。
 ああ、お帰りなさい。博士。わたしたちは、ようやくひとつになったのですね。
「胡桃」
 そして、ゆっくりと彼女の額に口づけをするために屈みこむ。
「起きて。胡桃、朝だよ」
     




                   「セフィロトの樹の下で」    了





第二部あとがき


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