第1章 「微笑む機械」  (2)                    BACK | TOP | HOME



 樹の後を追って死のう。
 それが夫が亡くなったあと、私の毎日を支えていた想いだった。
 今すぐ、というわけではなかった。一人娘の私を愛していてくれる両親の顔を思い浮かべると、決心はゆらいだ。
 でも、私は家や職場、あらゆる場所をこっそり整理していたのだ。
 明るくふるまいながら、心はマヒしたように何も感じていなかった。
 この世につなぎとめるものより、愛する人のもとへいざなわれる気持ちのほうが、ずっと強かった。
 ある日、気持ちのバランスが崩れたら、いつでも死のう。
 そう決意できる瞬間が来たときのために、私はいつもバッグに薬を入れて用意していた。


 広い敷地にいくつもの建物が点在する「国立・応用科学研究所」。
 ここでは、有益性と実用性を見込まれると審査されたあらゆる科学プロジェクトが、研究規模の大小と完成時期を問われることなく、政府の補助金によって進められている。
 D号棟の入り口で手荷物類の念入りな検査を受け、空気シャワーによっておおまかな埃を取ってから、中に入る。
 9階。そのワンブロックに「犬槙・古洞ロボット工学研究室」があった。
 入り口で犬槙さんが手の甲をかざして静脈パターン認証をすませると、ドアが開き、柔らかな間接照明が部屋を明るくする。
 中央に人目を引く大型の機械。壁のはめ込み型コンピューターと何本かの太い回線で結ばれている。壁際にはロボット用のカプセルがいくつか立てられた状態で並び、部品のちらばる作業台、モニターの並ぶデスクがある。
 ハンガーには、樹の着ていた白衣が、まだ脱いだときの皺もそのままに掛けられていた。
 それを見た瞬間、喉にこみあげる衝動を必死で押さえた。
「胡桃ちゃん。これが今日見せたかったものだ」
 犬槙さんは中央の機械に近づくと、小さな声で「ライト」とつぶやいた。
 彼が手をかざそうとしていたカプセルが、照度の上がった室内で銀色の光を放つ。
「僕と樹がずっと取り組んでいたプロジェクト。自律改革型ロボットAR8型、セフィロトだ」
 彼の指がスイッチに触れると、カプセルの蓋が左右にしりぞいた。


「これが……ロボット?」
 私はおっかなびっくり歩み寄って、カプセルの中に横たわるものを見つめた。いや、「もの」と呼ぶのも抵抗があるほど。
 それは人間そのものだった。
 それで語弊があるとすれば、『人間の肉体』そのもの。
 犬槙さんが開いたのはほんの数十センチ、頭部から胸部までだったが、それで十分だった。
 強い照明に照らされて、白く輝いているような肌から私は目を離せなかった。皮膚はうっすらと赤みが差している。しかも、のっぺりとした金属のようななめらかさではなく、じっとよく見れば、毛穴も細かい網目模様もある。
 頭部に生えている濃い栗色の髪。細く密集して、ところどころもつれている。こめかみには産毛まで生えている。いったいどんな名工がこれだけの植毛をしたのだろう。
 形の良い眉毛も申し分なく、睫毛に縁取られた目は虚空に向かって開かれていて、瞳は薄い茶色、いや照明の中では金色とも言える不思議な光を放っていた。
 顔のラインは成人男性と呼ぶには少し幼いつくりをしていて、唇も少女のようにふっくらした形をしている。
 18歳くらいの少年。
 セフィロトは、まさにそうとしか呼べない存在だった。
「触ってみる?」
 犬槙さんが私の驚くようすを見ながら、愉快そうにそう尋ねた。
「いいの?」
「まだ電源を入れていない。彼は何も「感じ」ないよ」
 そっと手を伸ばして、私に近いほうの肩から腕のあたりを触れた。
「ひっ……」
 思わず声が出た。柔らかい。本物の人間に触れたときの感覚と比べて、まったく遜色がない。
「……すごい」
「すごいだろう。人工皮膚と人工毛。まばたきもするし、瞳孔の対光反応縮度も人間と同じに設定してある。内部構造にも、最新のバイオロボティクスを応用した。見かけだけでセフィロトをロボットと判断することは、まず難しいだろうね」
「これが、あなたと樹がずっと研究していたロボット」
 彼は、こっくりとうなずいた。
「樹は君に、何も話していなかったのかい?」
「ええ、詳しいことは何も」
「そうか」
 犬槙さんは大きな吐息をつくと、カプセルの中に静かに仰臥するセフィロトの髪の毛をいとおしげに撫でた。
「僕たちは、こいつに4年の歳月をかけていた。4年前、樹は君と知り合ったばかりだった。
彼は君と出会って君を愛して、でもそのためにずっと苦しみ続けていたんだ。第12ロット世代である自分の命が、もうそんなに長くないことを知っていたからね。
わずか数年しか生きられないかもしれない自分が君と結婚できるはずはない。君の幸せのために別れるしかない。そう頑なに思い込む樹を説得するのは、大変だったんだぜ」
「ええ……」
「そのときに、この共同プロジェクトの話が持ち上がったんだ。僕のロボット工学の技術と、樹の人工知能の最先端の研究。それを合わせた最高のヒューマノイド(人間型ロボット)を作ろうってな。
樹はこの設計図ができあがった日に、君にプロポーズしたんだ。彼を胡桃ちゃんに遺そうと。君と一生寄り添うことのできない自分がこの世に残すことのできる、たったひとつのものだと。ひたすら心血をこいつに注いだ」
 私はセフィロトの顔をもう一度見下ろした。
 涙が重力にさからわず、銀色のカプセルの上にぽたりと落ちる。
「結局、樹は研究の完成を見ることはなかった。でもセフィロトは、樹の生涯をかけた夢なんだよ。こいつを置いて君が死んでしまったら、樹の想いは誰が見届けるんだ」
「樹……」
 私は顔を両手でおおって、泣き始めた。
 樹は、病院の酸素ドームの中で、苦しい呼吸の下で、私に呼びかけた。
『胡桃、泣くな。俺はいつまでもおまえといっしょにいるから。決してひとりにしないから』
 嘘だと思った。結局私をひとり残して逝ってしまったのに。
 彼を恨んだ。生きていく意味なんか、もうないと思った。
 でもそうじゃなかった。
 樹は私に大きな役目を託していってくれたのだ。彼の分まで生きて、その夢の実現をいつか彼に報告できるようにと。
 セフィロトがいる限り、私はひとりではない。
 夫が死んで初めて、私は大声をあげて泣いた。


 それから、三ヶ月が過ぎた。
 私は毎日、【すずかけの家】で多忙な日々を送っていた。
 ここには、4歳から9歳までの40人の子どもたちが暮らしている。私やさくらちゃんなど10人の昼勤スタッフで起床時から6時まで、交替で40人の日常生活から授業までを担当し、6人の夜勤スタッフがそのあとを引き継いでいる。
 家庭を持たない彼らは、9歳まで自然に育まれた【すずかけの家】の中で、生活に即した初等教育を受けることになる。
 そのあとは4年間の中等教育。そして進路選択後、5年間の職業訓練もしくは高等教育。
 21世紀終わりから導入されたこの5・4・5制は、幾度かの変更を加えながらも、新しい日本の教育システムとして今日まで続いてきた。
「くるみせんせえ〜」
「先生〜! こっち来てぇ」
 この三ヶ月、無我夢中だった。
 片時もじっとしていない子どもたちとの目の回るような日々の生活が、私を樹を失った悲しみから次第に癒してくれた。
 40人の眼が私を見つめている前で、めそめそ泣くわけにはいかない。その気の張りがともすれば崩れそうな私を支えてくれる。彼らの成長を見る喜びが、後ろばかり振り向こうとする私を、否応なしに前に押し出してくれたのだと思う。
 今日の課程をすべて終えて、職員室で日誌を書いているところに、電話の受信を左手の腕時計型の端末の振動で知った。
 さっきまで使っていたデスクのモニターを切り替え、通信画面を表示する。
「やあ、胡桃ちゃん」
「犬槙さん」
「実はちょっと君に相談したいことがある。セフィロトのことで。今日か明日こっちに来てもらえるかな」
「わかりました。今からだと、6時には着けると思います」
「悪いな、急で」
「大事な息子のことだもん。当たり前ですよ」
「息子ってなに、胡桃先輩! お子さんがいらしたんですか?」
 職員室の向こうの端にいたはずの北見さくらが、耳聡く聞きつけて走ってくる。
「ちがうわよ。ちょっとした冗談」
「先輩、犬槙さんとこの頃しょっちゅう連絡とってますよね。あやしい〜」
「何にもないったら」
「胡桃先輩、まだまだ若くて綺麗なんだから、もっとおしゃれして新しい恋を見つけてくださいよ」
 私は苦笑した。彼女の無神経なくらいの無邪気さがいとおしい。
 さくらちゃんには、私がいつのまにかなくしてしまった底抜けの若さと前向きの気持ちがある。私はいつもその元気を分けてもらっているのだ。
 夜勤のスタッフとの引継ぎが終わると、いそいそと自動車に乗り込んだ。
 まるで、恋人に会いに行くみたいだと思う。
 セフィロトに会える。私はそれだけで有頂天になっていた。
 この三ヶ月ものあいだ、犬槙さんは一度として私を研究所に招いてくれなかった。
「セフィロトはまだ調整中なんだよ。コンピューターと何本もの回線でつながれて、がんじがらめになってる。運動機能も言語機能も完全というには程遠い。そんな彼を見たら、君は泣くと思うよ」
 せっかく生きる気力を取り戻した私に、不完全な状態の彼を見せてがっかりさせたくないという思惑が、犬槙さんには働いているらしい。
 三ヶ月経った今、ようやく彼は完成の域に達したということだろうか。
 研究所の入り口の検問は厳しい。犬槙さんが私の名前を訪問者リストに登録しておいてくれたが、それでも念入りなIDチェックと身体や車両検査が課せられる。
 ようやく中に入ると、緑化された広大な敷地に研究所が点在する、その一画のD号棟の前で車を降りた。
 建物の前で、ニセアカシアの木の円い小判のような若緑の葉が風で揺れている。
 付き合い始めたころ、樹はデートにも誘ってくれなかった。唯一恋人らしかったことと言えば、私が作ってきたお弁当をあの木陰で食べたくらい。
 会話なんか全然なくて、黙ってサンドイッチを頬張りながら設計図のことばかり考えている彼のぼさぼさの髪に、木漏れ日が模様を作る。
 私は今でも見慣れたものを見るたび、夫のことを思い出しては毎日立ちすくんでしまう。
 無理やり気持ちを奮い立たせて、D号棟に入る。空気シャワールームを出たところで、犬槙さんが待っていてくれた。
「いきなり呼び出して、ごめん」
「ううん。でもセフィロトをひとりにしてだいじょうぶなんですか?」
「平気だよ。君が来るというので、さっきまで掃除をさせてたんだ。作業台でニッパーひとつ捜すのに考古学の発掘騒ぎだったのが、あっという間にぴかぴかになったよ」
「もうそんなことができるんですか」
「会ったらきっと、腰を抜かすよ」
 研究室に招じ入れられた私は、「ちょっとここで待っててね」と犬槙さんに言われて、部屋に取り残された。
 確かに、部屋の中はきれいに片付いていた。
 中央のカプセルが空であることを確かめると、所在無く手近にあったデスクチェアに腰を下ろす。
 相変わらず観葉植物ひとつ置いていない、殺風景な灰色の部屋。
 かすかな機械のうなりが床を這い、壁一面のランプがせっかちに点滅している。
 以前の私は、ここに座ってコーヒーを飲みながら、白衣を着た樹と犬槙さんが新開発のニューロンチップを取り付けたり、膨大な出力値のデータと格闘しているのを見るのが好きだった。
 樹はもうここにはいない。
 漂う静寂がそれを教えてくれる。
 目じりを伝おうとする新たな涙を指の腹で堰き止めていると、突然、後ろから声をかけられた。
「胡桃さん」
 私は椅子から飛び上がった。
 まさか、樹の声?
「古洞、胡桃さん」
 振り向いた私に、立っていた人物はもう一度繰り返して、にこりと笑った。
「はじめまして。セフィロトです」




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