第2章 「彼のいる風景」 (3)
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HOME 「じゃあ、行ってくるね。セフィ」 胡桃は靴を履いて、あたふたと出て行く。 「いってらっしゃい」 今日は、彼女は早出の当番の日だ。40人の子どもが暮らす【すずかけの家】では、起床時に合わせて夜勤スタッフと昼勤スタッフが交代する。 家を出るのは、夏とは言え東京ベイの海の上に昇った朝日がまだ低い時分だ。 セフィロトひとりが残された。 3時に胡桃が帰ってくるまでのあいだ、古洞家には彼ひとりだ。 朝食のテーブルを片付け、食器をウォッシングマシンに入れてしまうと、彼はあたりを見回した。 何をしよう。 「クリン。おいで」 呼びかけると、壁の一部がするすると開き、中から小さなクリーナーロボが出てくる。 「オハヨゴザイマス。今日モ一日ガンバリマショ」 甲高い声でお決まりの挨拶をする。 クリンは、セフィロトを仲間だとは思っていない。人間だろうがロボットだろうが、命令さえもらえば忠実に働く。 「クリン。「前」にゴミが落ちているよ」 そのことばに、クリンはセンサーを点滅させながら、360度ぐるりと回って、ようやくゴミを認識した。 彼に「前」という概念はないのだ。 お椀を伏せたようなボディには確かに顔らしきものはついているのだが、それは単なる飾り。前後も左右も関係なく、どの方向も彼には均等に認識される。そうやって家中をきれいに掃除するのが彼の役目なのだ。 セフィロトは今度はホームステーション【エリイ】の前に行った。 [エリイ。オープン] 口を開いて、コンピューター言語をデジタル音声信号にしたものを発する。もちろん、人間の耳には聞こえない音だ。そのほうが人間のことばを使うより短時間に直接的に多くの情報をやりとりすることができる。 起動した【エリイ】から気温や湿度のデータ、その他世界の最新のニュースについての主な情報を得たあと、セフィロトは少し考えてから問いかけた。 [エリイ。右はどっち?] ディスプレイ画面に右向きの矢印が映る。もちろん、セフィロトから見ての右向きだ。 [エリイから見た右はどちらか教えて] 【エリイ】は、やはり同じ方向の矢印を頑なに表示する。 彼女には、質問者の位置からディスプレイを見るという視点しかプログラムされていない。 セフィロトは、また考え込んだ。 【エリイ】には、自分の体という意識はないのだ。いつのころからか、彼にはその意識がある。 自分にとっての右と、向かい合っている胡桃にとっての右は違うことを知っている。 コンピューターには自分の「立場」というものがないが、人間にはそれぞれの「立場」があり、それによって見えるものが違うということ。 これはとても難しいことだった。 しばらく、じっと考えたのち、彼は立ち上がって窓を見た。いい天気だ。【エリイ】は今日は27度まで気温が上がると言っていた。 彼はじょうろを取り出すと、日課の観葉植物への水やりを始めた。 部屋のあちこちにあるポトスやファーンやシュロチクに、土の中の湿度を計算しながら、適量の水を遣る。彼があちこちの部屋に移動している最中も、クリンは足元でカラカラと軽やかな音を立てながら動き回っている。 セフィロトはもう一度居間に戻ってきて、今度は外の植木に水をやるためバルコニーの窓をがらりと開けた。 おとといの夜の激しい風雨のため、窓には水滴の跡が点々と残っている。 胡桃は以前、彼に言ったことがある。 「あまり、ぴかぴかでないほうが好きなの。窓は少し曇ったり、雨の跡がついているほうが窓らしくていい。 それに、あまり透き通っていると鳥が間違ってぶつかってしまうでしょう」 だから、窓磨きはとても汚れたときだけでいい、と。 セフィロトはまた考え込んだ。 「とても」汚れているのと、「少し」汚れていることの違いは何だろうか。人間はどこでその違いを認識しているのだろうか。 彼は考えたすえ、クリンを呼んだ。 「クリン。この窓を磨いてくれる?」 「ハイ。ショウチシマシタ」 クリンの丸っこい頭がぱかんと割れて、中から、長い柄のモップ上のものがするすると出てくる。洗剤を吹きつけて、きゅっきゅっと磨く。 セフィロトはそれを横目で見ながら、バルコニーに出て、彼の背丈くらいある山茶花やコニファーに水をやった。 空はあくまでも青く、上空は風があるのか雲がゆっくりと西から東へ流れている。 小鳥が数羽ピチピチさえずりながら、高層ビル群のあいだを飛び回っている。 セフィロトは空を見上げながら、雲の分類、偏西風や紫外線の数年分のデータ、果ては太陽系の惑星軌道といった情報が人工知能の中で次々と浮かび上がってくるのを、ときどきひょいと拾い上げては投げ捨てていた。 胡桃だったら、 「わあ。白くてきれいな雲。どこへ行くんだろう」 と言うはずだ。 なぜ人間はそういうことを考えるのだろう。 知りたい。何が自分と違うのか。感じてみたい。胡桃が感じていることを。 「あ」 セフィロトは、視界の隅で何かが横切るのに気づいた。 もう一度情報を再生する。 さっきまであたりと飛び回っていた小鳥のうちの一羽が、急激に高度を下げていく。2,3度力なく羽ばたいたものの、そのまま地面近くまで落ちていった。 彼は小鳥が何らかの危機に瀕していることを知った。ひとつの可能性は、どこかの家でぴかぴかに磨き上げられた窓にぶつかってしまったということ。 「どうしよう」 すべての命は大切なもので、それが危険にさらされているときは最優先で助けるべきことを彼はプログラムされている。 しかし、助けに行くためにはこの家を出なければならない。 胡桃には、ひとりで家を出てはいけないと命令されている。彼にとって、マスターの命令も最優先で守るべきものだ。 どちらも同じくらい大事だとしたら、いったいどちらの行動を優先させればいいのか。 困った。 セフィロトが0.1秒ほどパニックに陥りかけたとき、彼の人工知能は新しい問いかけを始めた。 『もし胡桃なら、いったいどうするだろう?』 次の瞬間、彼の心は決まっていた。 「クリン。窓拭きが終わったら、窓を閉めて今日はおしまい」 「ハイ。ショウチシマシタ」 彼は古洞家を飛び出した。 エレベーターに乗って、グラウンドフロアに着き、ビルの外に出て見回す。15階から見た風景と目の前の公園を照合して、一気に走る。 芝生の上に、舞い降りた小鳥がうずくまっていた。 まだ子どものツバメだ。嘴を大きく開けて、警戒の叫びを上げている。 「チィッ、チィッ」 セフィロトは、記憶ファイルにあるツバメの鳴き声を真似た合成音を口から発した。 ツバメの子どもはそれで大人しくなって、彼の手の平に包まれた。 脚にも翼にも、どこにも破損箇所は見られない。ただ驚いたあまり、一時的なショック状態だったようだ。 彼は手の体温を局部的に上げて、小鳥を暖めた。 そうしているうちに、ツバメは彼の手からさっさと飛び立って行った。 家に戻ると、クリンは言いつけどおり、自分の格納場所に戻っていた。 宅配の食糧がキッチンの保冷ポストに届いていたので、冷蔵庫にきちんと並べて入れておく。 セフィロトはすることがなくなって、ソファに腰かけた。 さっきの出来事を考える。 胡桃だったら、きっと小鳥を助けただろう。胡桃がするのと同じようにしたいと思った。 でも、その結果、ひとりで外へ出てはいけないという命令にそむいたのも事実だ。 胡桃はこれを聞いて、「とても」喜ぶだろうか。「とても」悲しむだろうか。 それとも、「少し」喜ぶと同時に「少し」悲しむのだろうか。 胡桃が悲しむなら、何も言わないほうがいい。たとえそれが嘘をつくことであっても。 嘘をつくことは悪いことだが、胡桃のためにつく嘘なら悪いことではない。 セフィロトは目を閉じた。 彼の人工知能に、今日学んだいろいろなことばが書き加えられていった。 「セフィは、私がいないあいだ、今日は何をしてたの?」 その晩、胡桃は3Dテレビを見ながら、そうたずねた。 夕食をいっしょに作って食べたあと、彼女は風呂に入り、ゆったりした夜着を着てソファの上でお気に入りのクッションを抱きながら、早番の疲れで少しまどろみかけているようだった。 セフィロトは、彼女の隣に行儀よく座っていた。 「そうですね。まずクリンを動かして、家中の葉に水をやりました」 「うん」 「それから、バルコニーに出て空や鳥を観察しました。それから宅配されてきた買い物を冷蔵庫に入れました」 「それだけ?」 「あ、【エリイ】と話しました」 「それで退屈しないの?」 「退屈、ですか?」 彼はにっこり笑った。 「退屈、はしません。毎日はとても楽しいですから」 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003 BUTAPENN. |