第2章 「彼のいる風景」  (4)                  BACK | TOP |  HOME




 朝、私はベッドに起き上がり、昨晩した約束をいやでも思い出して、頭を抱える羽目になった。
 今までそんなことは一度もなかったのに、セフィロトが私の寝室に入ってきて私を叩き起こしたのだ。
「胡桃。早くしてください。今日はいっしょに【すずかけの家】に行くんですよ」


  朝の光の中でつらつら考えると、なぜあんなことをしたのだろうと、自分のしたことが信じられなくてぼう然とするときがある。
 ゆうべがいい例だ。眠くて判断力が鈍っていたのだろう、と言い訳してみても何にもならない。
 私は昨日の晩、セフィロトの1日の様子を聞いてひどく後悔したのだ。
 いろいろな体験をさせてやってほしいと犬槙さんに頼まれているのに、私は彼をほとんど毎日、昼間ひとりで過ごさせてしまっている。
 彼が誕生してから、まだ5ヶ月。
 私は、まだセフィロト一人でどこかに外出することも許していなかった。万一の事故に巻き込まれて身元をたずねられたり、不審に思われて警察に通報されたりしたら、取り返しがつかないことになる。
 心を持つヒューマノイド、AR8型の存在は、まだ応用科学研究所の最重要機密なのだと犬槙さんからくれぐれも念を押されているからだ。
「そうだ、セフィ。明日、私といっしょに【すずかけの家】に行ってみない?」
 私は罪悪感から、思わずそう言ってしまった。
「たくさんの子どもたちが暮らしているの。きっと楽しいよ。人間の子どもに触れるのは初めてでしょう」
「いいのですか」
「うん。じゃあ明日、いっしょに出かけるよ。今夜は早く寝よう」
 それが私が覚えている会話のすべてだった。
 それ以来、セフィロトはもうすっかり有頂天になってしまっているらしい。
 いつもなら私が寝る時間に合わせて、自主的に充電装置で半停止状態になることになっているのだが、ゆうべはきっと一晩中起きていたに違いない。
 これだけ喜んでいる彼に、今さらだめだとは言えない。
 ただ、あの40人のパワフルな子どもたちにいきなり囲まれると、資格を持った保育教師でさえ面食らうのだ。まして子どもという存在に接したことがない彼が混乱してしまうのではないか。
 見かけはともかく、セフィロトはあの4歳の子どもたちより幼いのだ。


 結局私たちは、私の運転する車で【すずかけの家】に出発することになった。
「いい? セフィは私の家に下宿している、ニュージーランドからの留学生」
「はい。わたしは胡桃のご両親の紹介で、日本に来ました」
 私たちは、あくまで彼がロボットであることを隠すために、スタッフや子どもたちに説明するための打ち合わせをした。
 私の両親は、ニュージーランドで教師をしている。だから彼が両親の教え子で、その縁でうちに下宿しているという筋書きを立てたのだ。
 それに、彼は日本人とは少し違う容姿をしている。あえて言えば、白人と中東人とアジア人がミックスしたような感じだ。
「はは。過去に僕が付き合った美人の写真を適当に合成したら、こうなっちゃった」
 と笑っていた犬槙さんのことばが冗談かどうかはともかくとして、留学生だという説明はとても説得力がある。
 ただ、しかたないとは言え、セフィロトに嘘をつくように教えるのは心苦しい。嘘が平気になってしまわないかと心配だった。
 そのことを言うと、
「だいじょうぶです。胡桃。誰かのためにつく嘘は悪い嘘ではないです」
「セフィ。誰から教わったの、そんなこと」
 彼は、「誰にも」と笑った。
 ときどき、幼い子どもは一日のうちに成長するように見えることがある。セフィロトも同じだ。


 15分ほどで、【すずかけの家】に着いた。
「広いのですね。木がたくさんあります」
 自動車を降りたセフィロトは、一面緑の樹木におおわれた園庭を見て、そう感想を述べた。
「そう、まるで森みたいでしょう。樹(いつき)も、ここが大好きだったわ」
 私たちが門をくぐると、わっと庭にいた子どもたちが走り寄って来た。
「くるみせんせい!」
「くるみせんせい、おはよう!」
 そして、私の後ろのセフィロトに気づいて、いっせいに黙り込む。
「誰なの、そのおにいちゃん」
「セフィっていうの、私の家で暮らしているのよ」
「はじめまして」
 セフィロトは、家で練習してきた、とびきりの笑顔であいさつする。
「えー、くるみせんせいと、いっしょに住んでるの?」
「いいなあ」
 無邪気にうらやましがる子どももいるし、私の夫が死んだことを知っている年長の子どもはびっくりした様子だ。
 人だかりができているのを見て、私と同じ保育教師の北見さくらと伊吹織江が近づいてきた。
「胡桃先輩。だ、だ、だれですか! その男性!」
 さくらちゃんが、目をひんむいている。
「うちで預かっている、ニュージーランドからの留学生。セフィっていうの。今日は日本の保育施設を見学したいっていうんで、連れてきたの」
 嘘は真実よりなめらかに口から出るというのは、本当だ。
 私はふたりにセフィロトをお願いして、園長室へ向かった。
「すみません。今朝いきなり電話でこんなことをお願いして」
 水木園長は、いつもの鷹揚な微笑みで答えてくれた。
「いいんですよ。子どもたちにとってもお客さまの訪問は、いい刺激になります」
「ただ、園長先生。ひとつお話しておきたいことがあるんです」
 私は、彼が亡くなった夫の作ったロボットであることを打ち明けた。
「ロボット」
 園長は、驚いたように太い白眉の下の目を見開いた。
「とても、そうは見えません。冗談だと思いますよ」
「先生。くれぐれもこのことは他の人には秘密にお願いします」
「わかっています。でも、樹くんはすごい研究をしていたのですね」
「はい。セフィロトは彼の遺した研究の集大成です」
「なんだか、そう聞くと感慨深いものがあります。樹くんは僕の大切な教え子でしたから」
「はい」
 私たちは、並んで窓から園庭を見やった。
「ごらんなさい、もうあんなに子どもたちに囲まれていますよ」
「園長先生。セフィロトは子どもたちに危害を加えるような恐れは絶対にありません。でも万一のことを考えて、先生だけは本当のことを知っておいていただきたかったんです。私も今日一日、できるだけ彼から目を離さないようにしていますから」
「胡桃先生。心配なさらなくても」
 水木先生は、私をじっと見た。
「私は樹くんの作った彼を信じていますよ。それに私はうれしいのです」
「え?」
「あなたが彼を見るときの目が、そんなにも優しく微笑んでいるのを。あなたが樹くんの死の悲しみを乗り越えられたのは、彼のおかげなのですね」
「……はい。園長先生」
 私は、はにかみながらうなずいた。「セフィは、私と樹の子どもなんです」
「それでは、私にとっても孫のようなものですねえ」


 ふたたび園庭に出ると、セフィロトは子どもたちの質問攻めに合っていた。
「くるみ先生もニュージーランドから来たんだよ、セフィも英語が上手に話せるの?」
「話せますよ」
「歳はいくつなの?」
「18歳です」
「くるみ先生の新しいご主人?」
「そうではありません。部屋を貸してもらっているだけです」
「セフィはサッカーが得意?」
「いいえ、サッカーはしたことがありません」
 子どもたちの矢継ぎ早の質問に、うまく受け答えしている様子にほっとした。
 さくらちゃんと織江さんは、そばで熱にうかされたような顔をしていた。
「セフィさんて、すてきですぅ。なんだか恋に落ちそう……」
「ほんとに、母性愛をそそるタイプだよな……」
 なぜかしっかりと手を握り合ってうっとりとしているふたりの同僚を見て、ふきだした。
「胡桃先輩! セフィさんに紹介してください! 私、猛然とアタックします」
「お、俺も旦那と離婚する!」
「やめてくださいってば。ふたりとも」
 私は大笑いした。
「さくらちゃん、あなた犬槙さんにアタックするんじゃなかったっけ?」
「あれはあれ、これはこれ、です。なんだか胡桃先輩の回りにだけ、いい男が集まるみたいで、ずるいですぅ」
「さあ、もう朝礼の時間よ、子どもたちを整列させましょ」
 すったもんだをした挙句、40人をグループごとに分けると、水木園長が朝のあいさつで、もう一度セフィロトを紹介した。
 9時から始まった授業では、私の担当するクラスのうしろで彼はずっと見学していた。
 英語が正式に国際公用語と認められた21世紀から、初等学校の正式科目として英語が採用されている。また国語以外のすべての授業は、一定の割合で2ヶ国語を使って教えることと定められている。
 私の担当は、社会と英語。
 打ち合わせの時間はほとんどなかったが、セフィロトはスピーチ練習の相手役になったりしてくれた。
 彼の人工知能には、世界のほとんどの言語が入っているのだ。
 2時間目の休憩時には、子どもたちは一斉に園庭に出て、サッカーや思い思いの遊びを始めた。
 セフィロトがいつのまにか子どもたちの輪の中から抜け出して、園庭の隅に歩いていくことに、私は気づいた。
 そこには、ひとりでぽつんと遊具の上に座っているアラタくんがいた。
「はじめまして」
 セフィロトは、アラタくんの脇に立って話しかける。
「なんだよ」
 アラタくんは彼を見上げて、じろりとにらむ。
「名前を教えてください」
「は?」
「39人の名前は覚えました。あとひとり、あなたの名前だけをまだ聞いていません」
「……」
「教えてください」
「いやだ」
「じゃあ、これを見ます」
 彼は、アラタくんの手首をさっと握り、そこにはめてある金属製のネームタグを見た。
「木暮アラタくん、ですね」
 アラタくんは、黙って体をねじって手をふりほどく。
「アラタくん、わたしはセフィといいます」
「……」
「名前を呼ぶことは、仲良くなるために大切なことですね」
 私はふたりのやりとりを、はらはらしながら遠くで見ていた。
 アラタくんは、【すずかけの家】に入園して3ヶ月経った今でも、ここの生活に溶け込もうとしない。自由時間も誰とも遊ばないで、いつも今みたいにひとりでぽつんとしている。
「なぜ、みんなと遊ばないのですか?」
 彼は辛抱強く、アラタくんに話しかけている。
「サッカーはきらいですか?」
「……」
「わたしも、サッカーをしたことがありません。ふたりで一緒に、みんなから教えてもらいませんか?」
「サッカーくらい、知ってるよ!」
 アラタくんが、むきになって答えた。
「ヘンなやつ! 大人なのにサッカーも知らないのかよ!」
「それじゃ、アラタくんがわたしにサッカーを教えてください」
「え?」
「ボールは、足の爪先で蹴るのですか、それとも横で蹴るのですか? ヘディングは頭のどこを使うのですか?」
「教えない!」
 大声で叫ぶと、アラタくんは校舎のほうに駆けて行ってしまった。


     



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