第4章 「追憶のリフレイン」  (3)              BACK | TOP |  HOME




「小食なんですね」
 数日間のしつこいアプローチのすえ、私は古洞樹をようやく食事の席に引っ張り出すことに成功した。
 都内のホテルの最上階のレストラン。
 ノゾミくんの命の恩人である彼のためにフルコースを奮発するつもりだった私は、パスタとコーヒーだけでいいという彼を、最初は遠慮していると思ったのだ。
「ふだんから、あまりものは食べない。いつもは【ニュートリファスト】を朝晩1パックずつ」
 彼は、一日に必要なカロリーと栄養素が凝縮されているという健康食品の名前を挙げた。
「それで、お腹がすかないんですか」
「忙しくて、それどころじゃない」
「勤務時間ってないんですか。いつ電話しても研究室にいるみたいだし」
「そんなものはないよ。このところ、ずっと泊り込んでる」
「え? 家に帰ってないの? お風呂とかは?」
「さあ、最後に入ったのはいつだったかな」
「げっ。き、きたない!」
「冗談だよ。研究室にもシャワーくらいある」
「冗談を言うんだったら、そうとわかる表情をしてください!」
 相変わらずの仏頂面。でもネクタイを締めて髪の毛を梳かしている分、ちょっとかっこよく見えてしまう。
 一応デートのつもりで来てくれた……のかな。
「私って、みんなに比べて表情がおおげさですか?」
「どうして、そんなことを聞く?」
「私、8歳のときに家族でニュージーランドに移住したんです。10年間向こうで暮らしてたせいなのか、オーバーアクションで日本人らしく見えないってよく言われる」
「それは、あんたの個性だろう。日本人らしくないと言われると気になるのか」
「やっぱり気になります」
「不思議だな」
「え?」
「日本という国の閉鎖性。これだけ人口が激減しても移民を受け入れず、日本人らしさを頑なに守ろうとする。日本だけは大昔の鎖国みたいに、世界から遠く離れて孤立しているように思える」
「そうですね。そういえば、古洞さんもアメリカに留学していたんですよね」
「留学していたわけじゃない。遺伝子治療のついでに、少し暇つぶししていただけだ」
 暇つぶしで、3つも博士号を取れるなんて、やっぱり並みの人間じゃない。
「遺伝子治療って?」
「20××年の核攻撃以来、世界で一番遺伝子治療の研究が進んでいるのはアメリカなんだ」
 そこまで話して、彼はいぶかしげに私の顔を見た。
「水木園長から、何も聞いてないのか?」
「何を、ですか?」
「……俺が、第12ロット世代だということ」


 雨が毎日降り続いて、園庭に大きな水たまりができている。木々がせいいっぱい枝を伸ばして、つややかな葉で水滴を受け止めている。
 古洞樹は、あれから2ヶ月近く、【すずかけの家】に姿を見せなかった。
 私は職員室の窓から、あのすずかけの木を見るたびに彼のことを思うのが日課になってしまった。
 彼が第12ロット世代だと知って動揺を隠せなかった私を、席から立ち上がって見下ろすときの彼の冷ややかな目が頭に焼きついて離れない。
「もうこれで気が済んだだろう。これからは二度と俺に話しかけないでくれ」
 第12ロット世代。
 遺伝子操作の弊害で、優れた頭脳とひきかえに短命を強いられた人々。
 私は水木園長に彼のことを聞いた。
「第12ロット世代の悲劇が公になったのは、彼らが生まれて3年後。その異常な死亡率が明らかになってからでした」
 園長先生は、静かな口調で語ってくれた。
「24年前、この【すずかけの家】の乳幼児棟に来た第12ロット世代は、樹くんをふくめて4人でした。そのうち3人が6歳になるまでに亡くなってしまったのです。残されたのは樹くんだけだった。知能の高い子だけに自分に同じ運命が待ち受けているかもしれないことを、すでに悟っていたと思いますよ」
 そんなに小さいときから、彼は死というものに直面しなくてはならなかった。
「樹くんがロボット工学を学び始めたとき、私には彼が、まるでロボットに命を与えることで自分の死に打ち勝とうとしているように思えましたよ」
「これだけ科学が発達しても、彼の寿命を延ばすことはできないのですか」
「この百年間に核兵器によって数百万人の人々が死にました。人間の作り出した突然変異種のウィルスによって全世界で90万人が死にました。
胡桃さん。科学の力よりも、人間の罪の力のほうがずっと強く大きいんだと、私は思います」
「そんな……」
 ぽろぽろと涙をこぼす私を、水木先生は慈しみに満ちた目でじっと見下ろした。
「胡桃さん。樹くんのことをどう思っているのですか」
「わかりません」
 私はかすかに首を振った。
「あなたはご両親の愛情を一身に受けて育った方です。良くも悪くも、人を傷つけることも、人に傷つけられることも知らない。
もしあなたの気持ちが同情からのものならば、もう会うのはやめておおきなさい」


「少しだけお会いしたいんです」
 私は応用科学研究所の門まで押しかけて、彼に電話をかけた。
 彼は最初とまどったようだったが、自分のほうから出てきてくれた。
 私たちは、近くのコーヒーショップで向き合った。
「何かまだ用があるのか」
 樹は、いつもにまして無表情だった。
「あの食事で、あんたの借りは十分返してもらった。まだ気がすんでいないとでも?」
「借りとかそういうことではなくて」
 窓の外を伝い落ちる無音の雨にさえ、私の声は消されていきそうだ。
「ただ、お話がしたかった。それではいけませんか」
「あんたのあふれる慈愛は、【すずかけの家】の子どもたちにそそいでやってくれ。俺は間に合ってる」
 私は、きっと顔を上げた。
「そんな言い方、ひどいと思います」
「じゃあ、別の言い方をしよう。あんたは俺をあわれんでいるだけだ。余命いくばくもない男に、善意の押し売りをしてるだけだ」
「私のことを何も知らないくせに」
「あんたの気持ちくらい、ひとめ見ればわかる」
 彼の視線はまるで鋭い氷のとげのようだった。
「何百回と俺はあんたのような偽善者に会ってきたからな。悲痛な面持ちでちょっぴり瞳をうるまして、『最後まで希望を捨てちゃだめよ。神さまはあなたを最後までお見捨てにならないわ』と来る。そして心の底では自分の家族が第12ロット世代でないことを感謝している。『あの子に比べたら、わたしたちは幸せだわ』とね」
「やめて……」
 私は、まぶたの裏が涙で膨れ上がるのを感じながら、彼をにらんだ。
「人が人を思う気持ちをそんなふうに言わないで。そんなふうに人間を貶めないで。
確かに私は弱いから、100%純粋な愛で人を愛することなんてできません。優越感や劣等感、独占欲、思い込み、外側の見てくれだけへのあこがれ。
あなたのことをあわれむ気持ちがあるのかないのかも、正直言って自分ではわかりません。だから、私のことをどう思ってくれてもいいです。
でも、私はあなたに会いたかった。この2ヶ月、あなたのことばかり考えていた。
……そのことだけは信じてください」
 最後はしぼりだすようにそう言うと、彼を残して雨の中に飛び出した。


 その夜遅く、樹から電話がかかった。
「今日は、すまなかった」
 画面の向こうが、わざと部屋の照明を落としているのがわかる。私も同じだったから。
「どんな理由があれ、あんたをあれだけ傷つける権利は俺にはない。あんたの顔を見るまではあんなことを言うつもりじゃなかった。……俺はどうかしている。勘弁してくれ」
「そんな口先だけの謝罪で、赦せるはずがないでしょう」
「……」
「一回や二回、食事をおごってもらうだけの貸しを作ったと思うんですけど」
「はあ?」
 彼は呆れたような声をあげた。
「あんた、まだ俺につきまとう気か?」
「あ、またそんな失礼なセリフを。三回目はケーキ付きフルコースですね」
 しばらく絶句したあと、ようやく言う。
「もう、勝手にしてくれ」


 夏が訪れる頃。
 私たちはとてつもなくゆっくりとしたペースで交際を続けていた。
 自分からはちっとも連絡をくれない彼に業を煮やして、いつしか私は【すずかけの家】が休みの日には、彼の研究所まで押しかけていくようになった。
 研究室の建物の外の涼しい木陰にふたり並んで座る。
 手作りのサンドイッチを差し出すと、彼は人工知能のプログラムのことでいっぱいの頭を抱え、上の空でそれを口に押し込む。
 互いに、ひとこともしゃべらない。風がただ頭上の濃い緑の葉をゆらして過ぎていくだけ。
 彼は私のことを、まだ風変わりな偽善者だと思っているのかもしれない。1ミリだって心を許してくれてなんか、いないのかもしれない。
 でも、それでよかった。彼のそばにいることができたら。彼の胸が呼吸で膨らみ、喉が食べ物を飲み込んでくれるのを見ることさえできたら。
「さて、問題です。今日のサンドイッチの具はなんだったでしょう」
「……え?」
 この質問に、ちゃんと「きゅうりとハム」と正答できるようになった頃は、もう気の早い秋風が吹き始めていた。
 樹は私をはじめて、彼の研究室に招待してくれた。
 入り口の念入りな検査に悲鳴をあげ、9階に上がる。
 『犬槙・古洞ロボット工学研究室』
 ドアが開くと、そこには別世界のような光景が広がっていた。
 壁一面に明滅するコンピューター。壁に立てかけてあるカプセルには、鈍く光るメタルカラーのロボットたち。
「うわあ」
 私は博物館に来た子どものように、きょろきょろ見回す。
「へえ。なかなか美人だねえ」
 隣室とのドアが開き、映画俳優のように綺麗な、白衣の男性が入ってきた。
 それが、犬槙魁人とのはじめての出会い。
 いまどきめずらしい眼鏡をかけているので、彼が新聞に写真が載っていた樹の共同研究者であることがわかる。
 互いの名前を名乗ると、
「こいつの餌付けは大変でしょう、胡桃ちゃん。カモやハクチョウよりニブいですからね」
 とおかしそうに笑った。
「誰が、餌付けだ」
 樹は、犬槙さんの首を後ろからはがいじめにする。
 樹が奥のユーティリティスペースに入って行ったあと、犬槙さんはこっそりとささやいた。
「どうぞ、今のうちになんでも聞いてください。あいつは自分のことは何も言わないだろうから、いろいろ聞きたいことがあるでしょう」
「え。ええ、あの……」
「ああ、先にひとつだけ。ヤツは間違いなくドーテイですから、ご心配なく」
「魁人!」
 奥から、空き缶が飛んでくる。
「あんなふうなんだ……」
 私はくちびるを噛みしめた。
「私といっしょにいるときと全然ちがう、楽しそうで……。私にはむっつり黙ったきりで、あんな顔一度も見せてくれたことがないのに」
「胡桃ちゃん、それは違うと思うよ」
 犬槙さんは私の顔をのぞきこんで、にっこり笑った。
「あいつは、僕の前でもいつも自分を作っていますよ。ほんとうに自分の素顔を見せているのは、むしろあなたの前のほうじゃないかな」
「そうでしょうか」
「今日だってあなたが来るというので、朝からそわそわしっ放しだ。やつはあなたに惚れてる。同僚の僕が保証しますよ」
「何を保証するって?」
 樹がトレイにカップを載せて戻ってきた。
「おまえの淹れたコーヒーの味のことだよ」
「おいしい」
 ひとくち飲んで、私は叫んだ。
「こんな美味しいコーヒーを飲んだことないわ」
 樹は、少しだけ口元を緩めた。もう一度見たいと願ってきた、あの不器用な笑顔に私はようやく会えた。


 



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