第4章 「追憶のリフレイン」  (2)               BACK | TOP |  HOME




「園長先生! あのすずかけの木の下に立ってる思いっきりアヤしい男は、誰ですか!」
 息を切らせて園長室に駆け込んだ。
「思いっきりアヤしいとは、胡桃先生も言いますね」
「だって、そうなんですもの。三白眼でじろっとにらむし、髪の毛ぼさぼさで、この暖かさだというのに変な古ぼけたコートなんか着て。あの人をヘンタイと呼ばずに誰を呼ぶんですか」
 4年前の4月。
 私は、大学の教育実習生として【すずかけの家】で働き始めたばかりだった。
 教育実習は、1年間それぞれの学校に派遣され、実地に学ぶ制度だ。
 週に1日だけ大学に戻ってその体験をゼミで発表し合いながら、適切な指導を受け、卒業論文の形に仕上げていく。
 全く別の進路を選択する人もいるが、たいていは卒業後も、実習を受けた学校で続けて働くことが多い。
 3月生まれの私は21歳になったばかりで、今の北見さくらちゃんに3つぐらい輪をかけた、猪突猛進で失敗ばかりの新米教師だった。
「あの人は、アヤしい人なんかじゃありませんよ」
 父の恩師で、私の実習希望を喜んで引き受けてくださった水木園長は、目じりを下げてにっこり笑う。
「けっこう有名な人です。たしかこの前も、テレビに出てましたよ。なんとか賞という有名な賞をお取りになったとかで」
「まさかアカデミー賞ホラー部門じゃないですよね」
「むずかしい横文字なので、忘れてしまいましたねえ。胡桃先生、直接聞いてきてはどうですか」
「えー」
 私は思いっきり顔をしかめた。「なんかイヤ。そばに寄ると、変な瘴気が漂ってそう」
「はは。ばい菌じゃないんですから。ほら、子どもたちが近寄って、何か話しかけてますよ。胡桃先生、子どもたちを瘴気から守らなくちゃ」
「ああっ。大変。行ってきますっ」
 ――今から思えば、その頃の私は何かと、水木園長のおもちゃにされていたような気がする。
 あわてて庭に出て走っていくと、ヘンタイ男は【すずかけの家】の子どもたちの何人かに囲まれていた。
 とは言え、あいかわらずの無愛想ヅラ。油断すると、長い舌をぺろりと出して、2、3人食べられてしまいそうだ。
「ナリくん、マナちゃん、それからえっと、えっと、ヨシキくん」
「あ、くるみ先生」
「向こうで鬼ごっこするってみんなで騒いでたよ。行ってみたら」
「ええっ。早く行こうぜ」
 子どもたちがグラウンドの向こうに走って行くのを見届けると、私はその男の顔を挑発的に見上げた。
 「見上げた」というのは、近づくとかなりの長身だったからである。
 痩せてひょろ高く、茶色のコートと茶色のズボンを着て、まるで枯れ木みたい。
「あの、【すずかけの家】に何か御用ですか?」
 とりあえずは、懐柔策とばかりに微笑んで見せながら、私は問いかけた。
 男は私をじろりとにらみ、「あんた誰?」とひとこと。
「私、桐生(きりゅう)胡桃です」
「名前なんて、聞いてない」
「あ、あの、この4月からここに来ているN大学の教育実習生です」
「あ、そ」
 と言ったきり、待てど暮らせど自分は名乗る気配はない。
 カーッとなった私は、さきほどの微笑を帳消しにする般若の化生と化した。
「こっちが名乗ったんだから、自分も名乗りなさいよ!」
 ヘンタイ男は、心底イヤそうに私を見ると、
「俺は、【こどういつき】と言う」
 と名乗って、ぷいと横を向いた。
 コドウイツキ? 武士みたいな名前。
 でも、聞いたことがある。こどう、鼓動。古道。古洞――。
「あーッッ!」
 聞いたことがあるはずだ。
 古洞樹。1週間ほど前のトップニュースだった。もうひとりの同僚とロボット工学の分野でもっとも権威あるなんとか賞(実は私もわかっていなかった)を受賞した天才科学者。
 14歳で日本の大学を卒業したとか、アメリカに留学して18歳までに3つの博士号を取得したとか。
 すごい人もいるもんだと、教育者を目指す私はその部分の記事だけにしっかり目を通したのだけれど。
 その本人が、眼の前にいるヘンタイ男だったなんて。
 そのときの私の驚いた表情を見て、彼はにこりともせずに、こう言い放った。
「でかい口。まるで、カラスの雛が餌ねだってるみたい」
 樹と私の出会いは、ロマンチックなどとは程遠い、最低のものだった。


「ああっ。また来てる。あのインケン・ヘンタイ・枯れ木男」
 私は職員室の窓から、大声で叫んだ。彼が来るたびに、私が彼につける不名誉な称号はどんどん長くなってくる。
「樹くんですね」
 水木先生が、私の肩越しにのぞく。
「園長先生。彼がここの卒園生だって伊吹先生が言ってましたけど、本当ですか?」
「ああ、そうですよ。入園してきたとき私が担任だったんです」
「最高の保育者がどんなに愛情をこめても、インケンに育ってしまう子どもは、いるものなんですね」
「こらこら、胡桃先生。樹くんは陰険なんかじゃありませんよ。とても優しい子なんですから」
「ところで、あの人、どうしてしょっちゅう【すずかけの家】に来るんですか? 園長先生ともことばを交わすわけでもなし、ほかの誰かに会いに来るわけでもなさそうなのに」
「なんでも、仕事のことで考えがまとまらないときは、うちの森の木の下に立つと、よいアイディアが浮かぶって言ってましたよ」
「へえ。そうなんだ」
 私は子どもたちに声をかけながら、ぶらぶらと園庭を歩き、何気なく通りかかったふりをして彼に近づいた。
 なにしろ、このあいだ話しかけたときは、
「邪魔」
 最短の2文字で一刀両断にされてしまった。
 仕事のことを考えていたのか。それじゃ話しかけられるのをわずらわしく感じたのは、理解できる。
 でも、確か彼はロボット工学が専門のはず。木の下に立つと、どうやってロボットのアイディアなんかが浮かぶんだろう。
 私は、前回の教訓を生かして慎重に、将棋の角よろしく斜めから近寄った。
 彼は、私のことなど全然気づかなかった。
 梢をわたる風に聞き入っているように、顔を上に向けて、目を閉じている。
 なんだか、どきんとした。
 いつもとは別の存在が立っているようだ。
 きれいで、はかなくて、まるで透けていってしまいそう。
 言葉をなくして見つめていると、やがて彼は目を開けて、私のほうをうざったげにじろりと見た。
「カラス女」
 彼の側でも、私に不名誉な称号をつけて遊んでいるらしい。
 前言撤回。やっぱりこいつは、インケン・ヘンタイ・枯れ木男だ。
「あ、あのう!」
 私はけんか腰で話しかけようとした。
 そのとき、園庭の南側、藪の裏手のほうから、火がついたように泣き叫ぶ子どもの声がした。
 私は、はじかれたようにその方向に駆け寄った。
 5歳のノゾミくんだ。
「きゃあっ」
 私は悲鳴を上げた。ノゾミくんの肘から下が、ぱっくりと割れて血がどくどく流れ出ている。
 そばにいた同い年のリョウくんが、やはり大声を上げて泣きじゃくっている。
「チャンバラごっこ……してたら、木の枝が……折れて……」
 だが私は、リョウくんの声がほとんど聞こえてなかった。
「ノゾミくん、しっかりして!」
 叫ぶものの、どうしていいのかわからない。
「なにやってるんだ!」
 背後から、叱責が飛んできた。古洞樹だ。
 彼は私の手からノゾミくんを奪い取ると、
「ドクターは今日は在室か?」
「は、はい」
「すぐに呼べ。その腕の携帯で通じるんだろう?」
「はい」
「それから、そのエプロンを脱げ!」
 彼は私からエプロンを受け取ると、びりびりと横に裂いた。
 紐だった部分で、二の腕の脇に近い部分をきつく縛り、止血した。
 のこりの布は傷口にぴったりと包帯がわりに巻きつける。
 私は震える指で、どうにかドクターを呼び出して、事情を説明した。
「すぐに来るって」
「それなら、この子の手をしっかり握って、心臓より上に持ち上げててくれ」
 蒼白な顔のノゾミくんを腕に抱いて傷口を押さえている彼のコートは、もうすでに真っ赤な血で染まっていた。
 私は言われたとおり、怪我をした腕を手で支えて高く持ち上げた。
「おい」
「え?」
「教師だったら、べそかいてないで笑っていろ。怪我をした子も、させた子も、あんたがそんな顔じゃますます不安になるだろ。無理でも何でも、平気な顔していろ」
 彼はぎらぎら光る瞳で、私をにらんだ。
 あ……、そうだった。
「ノゾミくん、リョウくん、だいじょうぶよ。今すぐお医者さんが来るからね。血はあっというまに止まるよ」
 私は彼の瞳に励まされて、ドクターが来るまでのあいだ、ずっと子どもたちに声をかけ続けていた。


「あの……、ありがとうございました」
 ドクターが来てくださって、処置を終えたノゾミくんが園長先生に付き添われて病院に運ばれて行って、残った私たちはリョウくんの服を着替えさせたり、ほかの子どもを落ち着かせたり。
 すべてが終わったあと、私は食堂の外のベンチに座っている古洞樹のそばに立った。
 彼のそばには、血によごれたコートが丸めて置いてある。袖が汚れたシャツを腕まくりしていて、初めて見る彼の腕は驚くほど白く、青い静脈が浮き出ていた。
「古洞さんのおかげで、助かりました」
「別にあんたを助けようとしたわけじゃない」
 相変わらずぶっきらぼうな口調で。
「俺も昔、ここで怪我をしたことがある。なぜそうなったかは忘れたが、とにかく足の骨が折れて突き出すほどの大怪我だった。子ども心にもう死ぬと思った。そのとき、水木先生がにこにこしながら「樹くん、だいじょうぶですからね」と声をかけてくれたんだ。 死なないんだとほっとしたのを今でも覚えている」
 彼は口の端を不器用に少し持ち上げた。
「それを思い出しただけさ」
 それが彼の笑い方だと気づいたとき、おかしくてふきだしそうになった。
 そしてなぜか、もう一度その不器用な笑顔を見たいと思ったのだ。
「あのぅ」
 背筋をかちんこちんにしながら、私は大声で言った。
「あの、お礼にお食事に誘いたいのですが」
 彼は呆気にとられたように私を見つめた。
「……本気か?」
「本気です。……おいやですか?」
 彼はこめかみに片手を当ててうつむき、肩をふるわせて笑いをこらえている。
「おもしろい女だな、あんた」
 



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