第4章 「追憶のリフレイン」  (1)              BACK | TOP |  HOME




「セフィ!」
 胡桃は部屋の壁を突き抜けるような大声を出した。
「なんですか」
「どうして、これがゴミ箱の中にあったの?」
「壊れているからです」
 すました顔で答える。
「ずっと前から、壊れたままで棚の上に放置してあったので、もういらないと判断しました」
「でも、私は捨てていいとは言わなかった」
 彼女の声は何かを押し殺すようにかすれていた。頬は紅潮し、目が見開かれている。
「今まで、私に何も聞かないでこんなことはしなかったじゃない」
「胡桃がこれに触ったのを一度も見たことがありません。何の役にも立たないものを置いておくのは無駄です」
「無駄……」
 胡桃は、その言葉にショックを受けたらしかった。
 のろのろと視線を落とすと、手の中のものをじっと見つめた。
「そうね。あなたの言うとおり、もう何の役にも立たないものを置いておくのは、無駄なのかもしれない」
 そう言って寂しげに微笑む。
「でもね、セフィ。人間には、壊れていても、何の役に立たなくても、手元に残して置きたいと思うものがあるの。
それを覚えておいてほしい……」
 その瞳が悲しそうにうるんでいて、セフィロトは自分のからだのどこかで電流がスパークしたような気がした。


 自分のうちに生まれた衝動を、ややもてあましている。
 胡桃に言われたことに、ときどき素直に従えないことがある。
「セフィ、 外に出るときは気をつけてね」
「食器洗いの途中で、マシンの扉を開けちゃだめよ」
 彼女はいつもそんな初歩的な注意を繰り返す。一度聞けばわかっていることなのに。
 わざと逆らいたくなってしまう。
 胡桃がいないところで、ついクリーナーロボに怒鳴ったりしている。クリンは八つ当たりされていることなどわからず平気な顔をしているので、よけい気分が乱される。
 怒りという新しい感情。もやもやと心を汚していく雲。
[エリイ]
 彼は途方に暮れて、ホームステーションの前に立った。
[エリイ。怒りって何?]
[怒りとは]
 【エリイ】は、無感動に答えた。
[扁桃体で認知される感情です。アドレナリンとノルアドレナリンの分泌によって、心拍数が減り、瞳孔は拡大、最高血圧と最低血圧が上昇し、血糖値が下がります]
[ちがう。わたしにはそんなものはない。ロボットはどうして怒るの?]
[その質問は、回答不能です]
 セフィロトは、ため息をついた。本当は彼には呼吸する機能はない。胡桃が何かを諦めるときにしている仕草を真似ているだけだ。
 そのとき、【エリイ】のメールポストの中に、犬槙博士からのものが入っているのに気づく。
 今朝、胡桃が出勤の前にチェックしていたものだ。
『セフィロトのIDカードが科学省から届いた。いつでも都合のいいときに取りに来てくれ。今日は夜9時くらいまで研究室にいる』
 その返信として、胡桃は【すずかけの家】の帰りに寄ると答えている。
 それを読んだセフィロトは、また感情が乱れるのを感じた。
 彼女がわざわざ自分で取りに行かなくても、わたしにひとこと命じたら済むことなのに。
 そんなに頼りないと、胡桃に思われているのか。どうして彼には何も相談しないで秘密にするのだろう。
 相手が犬槙博士だから? 犬槙博士に会いたいから?
 気に食わない。
 セフィロトは、壁にかけていた彼の上着をひっつかむと、荒々しい足音をたてて家を出た。


「あれ。きみが来たんだ」
 犬槙博士はドアを開けて、愉快そうな表情をして彼を招じ入れた。
「今朝の胡桃ちゃんからのメールでは、夜に取りに来ると行っていたんだけどね」
「わたしの使うIDカードなのですから、わたしが取りに来るのは当然です」
 彼は努めて冷静に答えた。
「胡桃はわたしを馬鹿にしています。これくらいの用さえ足せないと思っているんです」
 犬槙博士はその様子を見て、笑い出す。
「機嫌が悪いって本当だな」
「え?」
「胡桃ちゃんが言ってたんだ。セフィロトがこの頃反発ばかりするって。最初はニュージーランドに行けなくなったことを怒っているんだろうと思った。でもだんだん、どうもそれだけじゃないことがわかってきたらしい」
 セフィロトはそれを聞いて、黙り込んだ。
 確かに、最初に怒りという感情を覚えたのは、ニュージーランド旅行の中止を胡桃から言い渡されたときだったと思う。
 例の【テルマ】不正アクセス事件で、AR8型の機密が外部に洩れることを恐れた科学省のお達しらしい。渡航先で万が一トラブルが起こったら、日本政府は手の打ちようがないからだ。
 結局あれから、呉中博士の件はうやむやに処理されてしまった。彼の真の動機も、共犯者がいるかどうかも、霧の中だ。トップの近くに事実を握りつぶそうとしている人間がいるかもしれない、という犬槙博士の考えはあながち、はずれてはいないのかもしれない。
 その代償に、政府の特別な計らいでIDカードを発行してもらったわけだが、ニュージーランドに行けなくては何の意味もない。
「冬か春にも一週間の休みがもらえるから、そのときに行こうね」
 と胡桃に慰められても、彼の不機嫌は直らなかった。
 まるで怒りを学習したことで、彼の中のリミッターがはずれてしまったかのように、胡桃の言動の何もかもが腹立たしく感じた。
「そんな状態のきみのことを相談したくて、胡桃ちゃんは内緒で今日ここに来るつもりだったと思うよ。決してきみを馬鹿にしているわけじゃない」
「犬槙博士」
 セフィロトは、消え入るような声でつぶやいた。
「わたしは、役に立たない故障したロボットなのでしょうか。何かプログラムに欠陥があるのでしょうか。マスターである胡桃のいうことが素直に聞けない。わたしには一度、オーバーホールが必要な気がします」
「ぶはっ」
 犬槙博士は、思わず飲んでいたコーヒーを噴きだしそうになった。
「ほんとに可愛いなあ、きみって。たまんねえよ。胡桃ちゃんがときどき腰がぬけそうになるって言ってたけど、本当だな」
 よくはわからないが、誉められているのではないことはわかる。
「またそんな顔でにらむ。いい表情をするようになったな、セフィロト。さんざん迷ったけど、きみを胡桃ちゃんのもとに預けてよかったよ」
 そう言いながら犬槙博士は、彼の頭をいとおしげになでた。
「心配することはない。きみは今、順調な成長の過程にいるんだよ。胡桃ちゃんのことばを借りれば、児童心理学でいう【第1次反抗期】なんだそうだ」
「え?」
「樹も僕も、ただマスターの命令をきくロボットを作りたかったんじゃない。自分で考え、自分から行動するロボット。そのためには感情を持つことが不可欠だった」
「怒りも、ですか?」
「怒りは、人間を強い興奮状態に導き、やる気を起こさせる自己保存の感情なんだよ。きみは胡桃ちゃんの決定に怒りを感じたからこそ、今日ここへひとりで来たわけだ。感情を持たないロボットには、自分の行動を自分で決めることができない」
「……」
「納得していない顔だな」
「犬槙博士は、信用できません。ときどき嘘をつきます」
「はは。ひどい言い草だな」
「だって、女性はああいうことをすれば喜ぶというのは、真っ赤な嘘でした」
「へえ、ああいうことってどういうことだったっけ?」
「今はその話をしているのではありません」
 口ごもっている彼に、元マスターはにやにやといたずらな視線をよこす。
「それより、わたしの今の状態と、【第1次反抗期】がどう似ているのですか?」
「胡桃ちゃんによると人間の子どももね、それまでの親に守られているだけの存在から、自分で自分の行動を決める時期が来るそうなんだ。親の言うことにことごとく反発し、親の目から見てできないことでも、どんなにまどろっこしくても、懸命にひとりの力でやり遂げようとする」
「それはよいことなのですか」
「とてもよいことだと思う。きみの場合は人間の子どもとは違って、いろんなことができる能力を持っているから、ただ反発しているだけのように見えるけど、それは健全な成長なんだよ」
 犬槙博士は眼鏡の奥から、セフィロトをじっと見つめた。
「……ただ、きみの成長は、それだけじゃ説明できない部分もあるんだけどね」
「それは、どういうことですか?」
 次の瞬間、彼は元通りの笑顔に戻って、
「何でもないよ。IDカードを取ってこよう」
 と立ち上がる。
「コーヒーも飲んでいくといい。せっかく食物摂取用の小型タンクを取り付けたんだからね」


「はい、これ。なくすなよ。これが日本では、身分証明も金の代わりも果たす」
 IDカードを渡されたセフィロトは、後悔しているように睫毛を伏せた。
「どうした?」
「これを受け取ったら、勝手に行動したことがバレてしまいます。胡桃は悲しまないでしょうか」
「きみが自分で考えて行動したことを、むしろ喜んでくれると思うよ」
「でも、きのうわたしが壊れたものをゴミと判断して捨てたとき、胡桃は悲しそうな顔をしました。人間には、無駄のように見えても大切なものがあるんだと言って」
「それはそうかもしれないな」
 犬槙博士はそう言って、壁にかかっている白衣を指差した。
「あれは、死んだ樹のものだ。あいつは僕よりずっと痩せていたから、置いといても僕には着られないんだけどね。でも処分することもできないんだ。あの白衣を見ると、樹を思い出すから。
人間は、「思い出」というはかりしれない値打ちを、何かつまらないものに与えることだってあるんだよ」
「思い出……」
「胡桃ちゃんもたぶん、そのガラクタに子どもの頃の思い出かなんかがあったんじゃないかな」
「製造年はそれほどは古くなかったと思います」
「どんなもの?」
「オルゴールというものでしょうか。小さな家の形をしていて、真ん中からふたつに割れているので音は出ません」
 セフィロトがふと気づくと、犬槙博士が眉じりを険しくして彼を見ていた。
「それって、もしかして家の前に2羽の木彫りの小鳥がなかったか?」
「ご存知なんですか?」
 犬槙博士は彼から視線をそらすと、低く答えた。
「……そのオルゴールは、樹が胡桃ちゃんに贈った最初のプレゼントなんだ」


「ただいまぁっ」
 胡桃の元気な声。
 いつものように、彼女を迎えに玄関に出る。
「ただいま、セフィ。今日はわざわざ、犬槙さんのところにIDカードを取りに行ってくれたんだって? 助かったわ、ありがとう」
 ひとことも責めようとしない彼女の優しい笑顔を、なぜか正視することができない。
「胡桃……、ごめんなさい」
「なに?」
「勝手に家を出ました。メールを勝手に見て、命令ではないことをしてしまいました」
「セフィ」
 彼女は柔らかい体を押し当てて、彼の背中をなでた。
「いいのよ、セフィ。自分でできると判断して、きちんとやりとげたんだもの。えらいわ」
「でも……」
「そうね。本当だったら、ひとこと相談してほしかったかな。もしものときにとても心配するから。次からはそうしてね」
「はい」
「じゃあ、晩御飯にしましょう。支度を手伝って」
「胡桃」
 セフィロトは、離れようとする彼女の腕を、ぎゅっとつかんだ。
「もうひとつ、あやまらなければならないことがあります」
「え?」
「これを捨てたことです」
 セフィロトは棚に近づくと、木彫りの小鳥のついた家の形をしたオルゴールを取り上げた。
「これは、古洞博士の大事なプレゼントだったのですね。これを見たら、古洞博士のことを胡桃は思い出せるのですね」
「……」
「できるだけ直そうとしました。外側は元通りになりましたが、中のシリンダーが変形していて、どうしても回転しません」
「セフィ、ありがとう」
 胡桃は、ふふっと小さく笑った。
「でもね。直らなくていいの。これは私が悪いのよ。私が床に叩きつけて壊してしまったんだから」
「胡桃が? なぜ」
「なぜかしら」
「だって、古洞博士のことを大好きだったんでしょう? その人から贈られた大事なものだったんでしょう?」
「そうよねえ」
 胡桃はきれいな横顔をめぐらせて、窓の向こうの夜景を見つめて、微笑んだ。
 セフィロトはその微笑みを見ていると、また体のどこかに電流が走ったようになって、自分でも止められない力で彼女にすがりついた。
「なぜなんですか。教えてください」
「え?」
「わたしには、理解できないのですか? わたしは何の役にも立たないのですか?」
「そんなことないわ」
「理解したいのです。胡桃のことを知りたいのです。わたしに古洞博士との思い出を教えてください」
「セフィ」
 胡桃は、彼の頬にキスした。
「わかったわ。聞いてくれる?」
「はい」
 ふたりは薄闇の中、わざと灯りをつけないまま、ソファに座った。
 胡桃はセフィロトの肩に頭をもたせかけ、手の中のオルゴールを見つめながら話し始めた。
「はじめて樹と出会ったのは、【すずかけの家】の園庭だったの――」




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