第3章 「秘密を知る者」  (5)                  BACK | TOP |  HOME




「それってどういう意味?」
 と聞きながらも、私はすでに答えを知っていた。
 応用科学研究所のD号棟は全体が5つのブロックに分かれている。それぞれのブロックに専用のエレベーターと非常階段がある。
 そして「犬槙・古洞ロボット工学研究室」のある9階Aブロックには、3つの研究室しかない。
 しかもうちは、エレベーターホールから見て一番奥。
 誰かがひょいと通り過ぎるような場所ではないのだ。
「誰かがこの部屋に興味を持って立っていた。もしくは認証システムをなんらかの方法で破壊して侵入しようとしていた、と考えるのが自然だろうな」
 犬槙さんが厳しい表情で答えた。
 私は身震いした。
「もしかして、この中にもう……」
「まさかとは思うが――」
 彼は振り向いた。
「セフィロト、この中に赤外線反応は?」
「ありません」
 壁の向こうを見晴るかすような金色の瞳で、セフィロトは答える。
「だいじょうぶだ、胡桃ちゃん。入るよ」
 犬槙さんがあらためて手の甲をかざすと、ドアがすっと開いた。
 照明が私たちの移動に合わせて、淡くともる。
「荒らされてはいないようだ。侵入直前に、僕たちが帰ってきたのに気づいてあわてて逃げ出したか」
 犬槙さんは、部屋を見回してそう結論した。うず高く積まれた研究書類や工具類が散乱している荒れ放題の部屋を見ると、私には泥棒が入ったとしか見えないのだが。
「テルマ」
 彼は壁にはめこまれたコンピューターの端末にむかって呼びかけた。
「IDナンバー9024。たった今この研究室の外で、不審者の形跡を発見した。調査を頼む」
「声紋照合。ID9024確認。承知しました」
 【テルマ】の柔らかいアルトの合成音が響く。
「やっぱりな」
 犬槙さんは苛立たしげに、椅子にどしんと腰をおろした。
「今度の犯人はD号棟内部の人間だ。しかも、狙いはうちの研究だ」


「そ……そんな」
 最悪の事態にことばをつまらせながら、それでも頭に浮かんだ疑問を口にする。
「なぜ内部の人間だとわかるの?」
「ここのセキュリティシステムは万全を期している。たとえもっともらしい理由をつけて入り込んでも、外部の人間には、エレベーターはその申請した階にしか止まらないし、非常階段のロックもはずれない」
「それじゃあ、犯人が他の階に行くふりをして、うちに来ることはできないわけですね」
「それに、たとえ9階にしのびこんだヤツが、僕たちが帰ってきたことを知らされ、あわててエレベーターを使って降りようとしても、他の階で降りるわけには行かないんだ。1階まで直行して僕たちと鉢合わせしていただろう。内部の人間なら、他の階で降りることも非常階段を使うことも可能だけどね」
「だから、犯人の少なくともひとりはこの研究所のIDを持っている人間……」
「そうではないかと思っていたんだ。【テルマ】への侵入をこれだけいともたやすく実行できたのは、【テルマ】の端末を使ったからではないか、とね。しかも同じセグメント同士の端末。外部からのアクセスと違って、ファイアウォールシステムが数段働きにくくなる」
「えっ?」
 内部のほうが侵入しやすい? 犬槙さんのことばは、私にはまるで逆に聞こえた。
「でも、自分の端末が使われれば、【テルマ】だってそのことに気づくでしょう?」
「そうでもない。優秀なハッカーなら、本体に何も気づかれずに端末を作動させることも可能になる。【テルマ】は巨大になりすぎているんだ。太った女が自分の足元がまったく見えないのと同じなんだよ」
 私は不思議な思いに打たれた。コンピューターは万能ではない。人間なら、自分の手を他人に勝手に使われて自分の財布を盗まれるようなことはない。
 知識は比べ物にならないくらい膨大でも、このマザーコンピューターは、自分の肉体を持っているセフィロトよりはるかに劣っているのだ。
「テルマ」
 犬槙さんは、再び呼びかける。
「調査の結果はまだか?」
「不審者は発見されませんでした」
「緊急コードX02を要請する。全セキュリティデータの分析をしてほしい」
「申請は却下。不服があるならば、24時間以内に審査委員会に抗告してください」
「ちぃっ」
 犬槙さんは舌打ちをして、髪の毛をくしゃくしゃとかきむしった。
「どういうことなんですか?」
「コードX02は不審人物が侵入したときの緊急コードなんだ。申請が受理されると、所内の認証装置、防犯ビデオ映像のチェックが行われる。ところが、それが適用されない」
「じゃあ、この研究室の前にいた人物を捜してもらえないわけですね」
「ああ、そういうこと。……こうなったら」
 彼は眼鏡の奥の瞳を細めながら、顔を上げた。
「セフィロト。手伝ってくれ。こうなったら、どんな手段を使ってでも自分で犯人を見つけてやる」


 犬槙さんとセフィロトはしばらくひそひそと打ち合わせをしていた。
 やがて、犬槙さんは端末のカバーを外し、束になっていた色とりどりのコードの中から一本を引っこ抜いて、代わりにキーボードのようなものをつないだ。
「準備OK。行くぜ」
「はい」
 セフィロトはそう答えると、壁のCPUに向き合って立った。
 彼の目がまた金色に光りだした。コンピューターのランプの明滅に同調して、その光は強く弱く輝く。
 口からはデジタル信号を発しているのだろう。
 その姿はまるで、耳に聞こえない子守唄を歌いながら、機械たちを慰めている吟遊詩人のようだ。
 端末のディスプレイには、目に見えないほどの速度で文字が流れている。
「いったい何を……」
 つぶやいた私の声に、床にあぐらをかいて座っていた犬槙さんがにっこり笑いかけた。
「きのうのハッカーと原理的には同じだ。【テルマ】に目を回してもらう」
「え?」
「【テルマ】の頭脳は8つのセグメントに分かれている。今セフィロトに、そのセグメントのひとつにアクセスして、処理しきれないほどの膨大なデータを注入させてるんだ。多重積分とか、それこそありとあらゆるやっかいな命題のオンパレードをね。
やがて【テルマ】は一時的にオーバーフローを起こす。もちろん他のセグメントに応援を頼むことで解決をはかる。
その一瞬の隙をついて、こっちは保守回線から侵入する」
「……」
「ああ、昔を思い出して燃えるなあ。まあ、きのうのプロの仕業に比べたら子供だましみたいな方法だが、防犯ビデオの映像記録を盗み見るだけなら、これで十分さ」
「あ、あの」
 彼のいたずらっ子のような嬉々とした表情に、私は呆れた。
「犬槙さんて、もしかすると十代の頃、こういうことばかりやってたんじゃ」
「当たらずと言えども遠からず、かな。まあ、若気の至りってやつでね」
 やがて、彼の言うその「一瞬」が来たらしい。
 膝の上のキーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
 普段はとても天才科学者とは思えない言動の犬槙さんだが、こういうときは別人のように見える。
「よし、来たっ!」
 大声で叫ぶと、キーボードのケーブルを引っこ抜き、ディスプレイに飛びつく。
 数百枚の何の変哲もない廊下の風景。やがて、ひとりの男の映像を画面は映し出した。


 薄暗い廊下。私たち三人は壁の柱部分の影にじっと身を潜めていた。
 もう1時間近くこうしている。
 はじめのうちは、
「ニンジャみたいです」
 とはしゃいでいたセフィロトも、すっかり退屈して口を聞かなくなった。
 D号棟Aブロックの3階。廊下の反対側の扉には、「呉中応用生物学研究室」という看板が掲げてある。
 画面に映ったのはここの室長である呉中という人の映像だった。顔だけは見たことがあるが、話したことはないと犬槙さんは言っている。
 セフィロトの赤外線透視では、中にまだ人間がいるとのことだった。
 もう11時近い。
 私はあくびを噛み殺して言った。
「でも、内部の犯行であることを、今までどうして誰も気づかなかったんだろう。端末のアクセスログを片っ端から調べて、不正なデータの改ざんを見つけることなんて、その気になれば【テルマ】なら簡単なんでしょう」
「うーん、胡桃ちゃんはときどき鋭いねえ」
 犬槙さんと背中をぴたりとくっつけ合いながら、ひそひそと言葉を交わす。
「だれかが、【テルマ】にそれをさせないようにしているっていうのはどうかな?」
「内部にそうさせない協力者がいるということですか」
「それはまだわからないけどね。……それより、ひとつ質問していい?」
「なに?」
「胡桃ちゃんはどうして僕たちについてきちゃったのかな。危ないからセフィロトだけでいいって言ったのに」
「だって、私はセフィの保護者ですよ。彼を守るのが私の役目です」
「人間がロボットを守るなんて、なんだか反対だ」
「でも、彼はまだ子どもなんです」
「なんだか、妬けちゃうなあ」
「え?」
「セフィロトのことになると、きみはまるで恋する乙女みたいでさ」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。……それより、私もひとつ質問していいですか」
「どうぞ」
「どうして、いつのまにかこんなに接近してるんですか」
 会話に気を取られてるうちに、いつのまにか私は犬槙さんの腕の中に、背中からすっぽり抱きとられる格好になっていた。
「あらら。クセなんだよなあ。暗がりで近くに女性がいたら、つい本能的に抱いちゃうの」
「すけべ」
「胡桃ちゃんて、暖かくて柔らかいよ」
「犬槙さんたら、いい加減にして」
 私の髪に顎が触れる。肩を抱く手にいっそう力がこもる。
 耳元で犬槙さんの声が聞こえた。
 吐く息にかすかに混じり合ったと言ったほうがいい、音のない声。
「好きだよ」
 え?
 私はあわてて体を離して、ぽかんと彼の顔を見つめた。
「何か言いました?」
「何にも」
 犬槙さんは、いつもと変わらないまなざしで、くつくつ笑っている。
 私は、セフィロトのほうを見た。
 彼は一心に壁を見ているところだった。
「出てきます」
 ドアが開いて、小太りの人の良さそうな中年の男が出てきた。
「呉中さん」
 犬槙さんが、柱の影からすっと姿を現わす。
 あっと叫びが上がり、男の顔がみるみるひきつった。
「少し、話したいことがあるんですが」
「か、勘弁してくれ!」
 呉中という研究者は、おろおろと首を振った。
「しかたなかったんだ。言うことを聞くしか」
「なんのことです?」
 それには答えず、隙をついて、彼は脱兎のごとくエレベーターホールの方へ駆け出した。
「追わないんですか?」
 と問い正すと、犬槙さんは肩をすくめた。
「そんな必要はない。今の様子を見たら、彼が犯人だという証拠は十分だ」


 興奮して夢ばかり見る一夜を明かし、次の日になっても、犬槙さんからの連絡は何もなかった。
 結局、一週間ほどして事件のことを忘れかけたころ、ようやく電話が入った。
「あの日以来、呉中博士の姿は研究所から消えてしまったよ」
 憂鬱そうに眼鏡を拭きながら、犬槙さんは報告してくれた。
「今日、彼の研究室も解体された。【テルマ】への不正アクセスという理由だけが公表された」
 ついでに、うちの不正アクセスもばれて、たっぷり始末書を書かされたけどね、とぼやく。
「結局のところ、真相は闇の中だ」
「でもこれでもう、安心なんですね」
「一応はね。でも、生物が専門だった呉中博士がうちのセフィロトのデータを盗みたがるなんて、僕にはどうしても解せないんだ」
「ほんとですね……」
「彼は脅かされて誰かの駒にされていただけ。本当の黒幕はどこかにいる。それも、もしかすると案外、研究所のトップの近くにいる人物かもしれない。……なあんて、僕の勝手な想像だけどね」
 何も心配しないで、このことは忘れてくれ、と言い残して彼は通信を切った。
 このことは忘れてくれ。
 何の関係もないのに私には、彼が耳元でささやいたことばのことを指しているように思えてしまう。
『好きだよ』
 そんなはずはない。犬槙さんがそんなことを言うなんて。何かの間違いだ。
 顔が火照るのを感じた。私は首を振って変な考えを振り払うと、ダイニングテーブルに戻った。
 セフィロトは、無心にプリーツレタスを頬張っていた。


 いつもと同じ、平和な朝。
 いつもと同じ隣り合った椅子に座っているセフィロトと私。
 彼の秘密を知ろうとしている人たちがいる。そんなことは考えたくなかった。
 彼を守りたい。
 彼との生活を守りたい。もう二度と何かに、この平和を奪われたくない。


「胡桃。犬槙博士はなんとおっしゃっていたのですか?」
「あ、ああ。呉中という人は研究所を辞めてしまったって。もう安心していいと言ってたわ」
「そうですか」
 彼は、私のカップにコーヒーのおかわりを注いでくれる。
「胡桃は、なぜ嘘をついたのですか?」
「え?」
「犬槙博士が好きだとおっしゃったとき、胡桃の心拍数が跳ね上がりました。本当は聞こえていたのに、なぜ聞こえないふりをしたのですか?」
 私は手が震えて、思わず持っていたスプーンをかちゃりとソーサーの上に落とした。
 セフィロトはやわらかく微笑みながら、私を見つめる。
 でも、その瞳にいつもと違った光が宿っているのに、気づかずにはいられなかった。
 



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