第4章 「追憶のリフレイン」  (5)              BACK | TOP |  HOME




 頭の上をそして四方を、色づいたブナの木に囲まれている。
 まぶしく輝く秋色の子宮の中。
 耳が痛いほど冷涼な朝の空気を何度も吸い込み、カサカサと枯葉を踏みしめて歩く。
 ペンションのロッジの建物が見えるところまで降りると、ちょうど下の駐車場から樹が走ってきたところだった。
 激しくあえいで息をつくと、私を見上げる。私は微笑み返す。


「俺の回りにいる連中は、ほらふきばかりだな」
 樹は、苔むした岩に手をつき、汗で濡れたぼさぼさの髪を風になぶらせた。
「園長先生?」
「ああ。『桐生先生は当分来ませんよ。心に大きな痛手を受けたらしく、もう誰にも会いたくないと山の中に消えていかれました』だと? くそっ」
「それで、血相を変えて追いかけてきてくれたんですね」
「誰が血相を変えたって?」
「だって、水木先生がそう電話でおっしゃってたもの、今から樹くんが血相を変えてそっちに行きますからねって」
 私はくすくす笑った。
「本当はここに来た理由は何なんだ?」
「【すずかけの家】恒例・紅葉狩りハイキングのコースの下見です。週末だからついでに2、3泊しておいでって園長先生が」
「俺がいたときは、そんなものはなかったな」
「今年が第8回だと言ってましたよ」
 私はひょいひょいと山肌を降りていく。
「ちょっと待て。こんなところを4歳の子が歩けるのか」
「だいじょうぶですよ。みんな古洞さんよりずっと元気ですから」
「ちぇっ」
 樹は枝に足をとられて、木の幹によりかかって息をついた。
「だいじょうぶですか」
「大人になってから、ろくに歩いたことがなかったからな」
「それに、そんなコートと革靴じゃ歩けませんよ。私みたいな格好でないと」
「慣れてるのか」
「ニュージーランドにいたときは、父とふたりでコップランドトレッキングコースを5日間で走破しました。好きなんです、山歩き」
 一休みしましょう、と提案して、手ごろな岩を見つけてふたりで腰かける。
 樹はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「俺は人より体温が低い。真夏以外はいつもコートが手放せない」
「はい」
「それでも今は普通の人間と変わらない。だがやがてある日突然、老化が急激に始まる。細胞が死滅し始め、内臓が縮む。反対に心臓は肥大し、動脈硬化や心筋梗塞を起こす。見た目にも一気に老人になる。数日も立たずに老衰死する。いつそうなるかはわからない。だが、DNAにプログラムされていることで、決して変更はできない」
「どんなに願っても、ですね」
「そうだ」
「わかりました」
 私は立ち上がり、山鳥がはるか上空の木の梢で仲間を呼ぶ啼き声に耳をすました。
「私は傲慢な人間です。運命は努力次第でいくらでも変えられると思ってきました。私がそばにいることであなたが苦しんでいるなんて、考えてもいなかった。ごめんなさい」
「胡桃さん」
「あなたをこれ以上苦しめたくはありません。ここへ来てそう決心したのに。やっと決心できたのに、あなたのほうから来ちゃうんですもの。また心がゆらぐじゃありませんか」
 私は口元を両手で押さえて、小さく笑った。
「また、一からやり直し、……です」
 私の体を、彼はうしろからぎゅっと抱きしめた。
「胡桃」
「古洞さん……」
 私たちは、ブナの白くなめらかな幹に体を預けて、互いの唇をむさぼりあった。
 風が吹き、色づいた落ち葉が私たちの肩や頭に次々と舞い降りてくる。
 そのまま並んで幹にもたれながら、頭上でちかちかと瞬く木漏れ日を見上げた。
「木の寿命は長い。平気で何十年、何百年と生きる」
「樹齢何千年という木も見たことがあります」
「たとえ、枯れて倒れても、そのすぐそばからまた芽を出す。そうやって永遠の生命をつないでいるんだな」
「そうですね」
「俺はロボットの研究をしながら、自分にはない永遠の生命にあこがれていたのかもしれん。ロボットに俺の思いを託して、俺の代わりに永遠に生き続けてほしい。そう願っていた」
 まぶしげに目を細めながら、樹は私に優しく微笑みかけた。
「この半年ずっと、ひとつのプロジェクトの構想を魁人と作り上げていた。もし、それが実現すれば……」
 樹は私とつないでいた手に力をこめた。


 地球温暖化による海面の上昇によって、東京は都市部を中心に大規模な再開発が行われた。都市機能は、東西南北4箇所の新都心に集約し、その周辺は緑化地帯に生まれ変わった。
 武蔵野台地周辺はかつての原野の風景を取り戻し、落葉樹の森が超高層ビル群をいつくしむように広がって、人々の憩いの場となっている。
 樹と私は吊り橋を渡って、渓流を沢伝いにくだり、ススキの原を横切り、やがて大きな滝壺に降り立った。
 白い飛沫が大気を潤し、轟々たる水の響きが、脳を心地よく酔わせてくれる。
 滝のそばに小さな売店があった。
「あ」
 中に入った途端、私の目を射るように、正面中央のテーブルにかわいい木彫りの置物が置かれてあった。
 ログキャビン風の家の前に、二羽の小鳥が仲睦まじく、くちばしを寄せ合っている。小鳥は夏の渡り鳥のオオルリらしく、体が美しい青で塗られてある。
「オルゴールなんだ……」
 家の扉を開けると、音があふれ出した。
「何の曲だ?」
「ショパンの幻想即興曲」
 せつないメロディが心を揺すぶる。
「この小鳥たちは、きっと夫婦ですね」
 そしてこの丸太の家の中で、幸せに暮らしているんだ。いつまでも一緒に。
 目のまわりが熱くなってきて、私はあわてて睫毛をしばたいた。
 樹は何も言わず、私からそれを取り上げて、レジロボットに渡した。
 数分後、きれいなリボンをかけた箱が私の手に乗せられる。
「これを、私に……?」
 樹は照れくさそうな顔をそむけると、店を出てずんずん行ってしまった。


 私はリボンをほどき、箱からそっとプレゼントを取り出して、サイドテーブルに置いた。
 ねじを巻くと、夕闇のペンションの部屋に美しいオルゴールの音色が満ちる。
 ベッドに座っていた樹がつぶやいた。
「俺は自分が家庭を持つなんて、今まで一度も考えたことがなかった」
「これから、考えればいいんです」
「あんたを不幸にしてしまうことが、目に見えているのに」
「不幸になることをおそれて、幸せを逃してしまうのは愚かな人のすることだわ」
 私は彼ににじりよって、首に手を回した。
「私が今どんなに幸せか、教えてあげます」
「胡桃……」
「樹……」
 私たちは唇を合わせながら、ベッドの上に横たわった。
「ところで」
 しばらくすると暗がりで彼は、とまどうように起き上がった。
「このあと、いったいどうすればいい?」
「……」
「本当に、俺ははじめてなんだ」
「安心してください。私もです」
 ふたりは忍び笑った。
「とりあえず、服を脱ぐところから始めません?」


「樹はそれから数週間して、指輪を持って正式にプロポーズしに来てくれたわ」
 胡桃は、セフィロトの腕の温かさに心地よく抱かれながら、話を終えようとしていた。
「それが、あなたの設計図が完成した日だったことをあとから聞いた。でも、私にとって、彼の本当のプロポーズは、このオルゴールを買ってくれたときだったの」
 彼女は手に持っていた、もう壊れた機械をじっと見つめた。
「結婚式は簡単なものだったわ。私の希望通り、海のそばの白い教会で。……ああ、でもその前に父と大変なすったもんだがあったんだけどね。そのことはセフィがこのあいだ父から聞いたわね。最後にはしぶしぶっていう顔で母とふたりで出席してくれたわ。
結婚して3年間、幸せだった。
私は【すずかけの家】で働いていたし、彼は研究室に泊まりこむことも多くて、いっしょにいる時間は少なかったけど、毎日が楽しかった。
樹は結婚後もとても元気で、老化の兆候なんか全然なくて、私は神さまが奇跡を起こして彼の寿命を延ばしてくださるんだって思い始めた。
もちろん、一生懸命栄養のあるものを選んで料理した。老化を遅らせるのにいいと言われることなら、何でもやったわ。
本当に、……この日々がずっと続くんだって、信じかけていたの……」
 胡桃はしばし黙り込んで、唇をゆがませようとする力になんとか抵抗していた。
「樹は研究室で何日か泊り込んだあとに、倒れた。
もう全身の細胞が死滅を始めていて、手のほどこしようがなかった。髪の毛が真っ白になって、死ぬ前の日には、百歳の老人のようだった。
弱々しい声で、最後に私にこう言ったの。
『胡桃。泣くな。俺はずっとおまえと一緒にいるから。おまえをひとりにしないから』
それから、2時間ほどして彼は息をひきとった。
私は、葬儀の支度をするために家に戻ったの。今みたいに真っ暗な夜だった。薄明かりの中で、棚に置いてあったこのオルゴールが見えて、青い鳥たちが幸せそうに寄り添っていて……。
嘘つき。一緒にいるって、ひとりにしないって言ったくせに。
私はどうしようもない怒りに囚われて、そう叫びながらオルゴールを床に叩きつけてしまったの。
オルゴールが悪いわけじゃないのに。樹が悪いわけじゃないのに……。自分でも何に怒っているかわからなかった」
「胡桃……」
「次の日、ばらばらになった家や鳥たちを拾い集めて、元通りにそこに置いたの。樹の思い出をいつまでも残しておけるように、そしてその思い出を怒りにまかせて破壊してしまった自分の罪を思い出せるように」
「ごめん」
 セフィロトは、彼女の小刻みに震える体を腕に抱き取った。
「胡桃、……ごめん」
「だからセフィ、あなたが悪いんじゃないわ。謝らなくていいのよ」
「……」
 彼はそれには答えなかった。その代わりにオルゴールを持っていた胡桃の手に自分の手を重ねると、静かにその唇を彼女の唇の上に置いた。
 まるで、くちばしを寄せ合う二羽の青い小鳥のように。
   



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