第5章 「永久とわなる存在」  (1)                 BACK | TOP |  HOME




 重低音の振動が床を走る。
「セフィ。ちょっと小さくしてくれないかな」
 私はネックレスの留具をはめながら、リビングに入った。
 セフィロトは、ホームステーション【エリイ】の前で胡坐をかきながら、うっとりしたような表情を浮かべている。
「ね、セフィったら」
「胡桃。今せっかく、オーボエの音と人工知能の波長が、うまくシンクロしていたのに」
 彼は抗議の声を上げる。
「そ、そうなの?」
「シンクロすると、すごい快感なんですよ。人間はそうは感じないんですか」
「いい音楽を聞くと、確かに気持ちはよくなるけど」
 私は首をひねった。
「でも、とりあえず朝からその音は大きすぎるよ。音の大きさ、測ってみた?」
「90デシベル」
 彼はあわてて【エリイ】に、ボリュームを下げるよう命じた。
「確かに人間の聴覚には大きすぎました。すみません」
「いいよ。じゃあ朝ごはんにしよう」
 セフィロトは、この頃クラシック音楽にはまっている。
 きっかけは、例のあの壊れたオルゴール。ショパンの「幻想即興曲」がどんな曲かを知りたくて、【エリイ】の音楽ファイルをひもといたら、すっかりお気に入りになってしまったというわけだ。
 彼の聞き方と、人間の聞き方は少し違っているようだけど、音楽を楽しむ心のゆとりがあるのはいい。
 そのおかげか、彼の【第1次反抗期】はすっかり影をひそめたようだ。
「今のは、何の曲だったの?」
 食卓の話題はもっぱらクラシックのこと。
「シューベルトの交響曲第4番ハ短調です。シューベルトはとてもいいと思います。ロマン派ではほかに、メンデルスゾーンも好きです。古典派は形式的ですが、モーツァルトはシンクロしやすいです」
「ふうん」
 私はくすくす笑った。
「樹に聞かしてあげたいわ。彼はすごい音痴で、しかもショパンの名前すら知らなかったんだから」
「そうですか」
「自分に興味のないことは徹底して覚えようとしないからね。こんなことも知らないの、ってことがよくあったわ」
「……胡桃は、いつも古洞博士のことを話すのですね」
「え?」
 セフィロトはサラダのブロッコリを、つまらなさそうにフォークでぐさぐさ突き刺している。
「どんなことが話題でも、いつも最後は、樹はこうだった、樹だったらこうしたって。なんだかあまり聞きたくありません」
 ははあん。
 セフィロトは、やきもちを焼いているんだ。
 小さい男の子が母親をひとりじめしたくて、父親に嫉妬する気持ちは、俗に【エディプス・コンプレックス】と言われている。時期で言うと、3歳から6歳。その葛藤を乗り越えつつ社会性を身につけるという、幼児にとってはとても大切な時期だ。
「ごめんね。セフィ。でもあなたのことを誰かと比べるとしたら、私は樹のことしか知らないから」
 私は横にいる彼の頭をなでる。
「本当は、あなたの成長がとってもうれしかったの。わかってね」
「はい」
 彼は機嫌を直して、にっこりと微笑む。
 ああ、この笑顔を見ちゃうと、またお仕事に行きたくなくなるなあ。
 と後ろ髪ひかれる思いで、私はその日も【すずかけの家】に出勤した。


 セフィロトは朝の日課を済ますと、下の公園に散歩に出かけた。
 気温が毎日少しずつ下がっていく。晴れて湿度も低く、人工皮膚を撫でる風が心地よい。
 これが、作られて初めて体験する、日本の秋。
 薄い灰色をしたシオカラトンボがすいと空を舞う。彼はその4枚の羽のステンドグラスのような模様をスローモーションで再生して確かめると、また歩き出した。
 公園には、この高層ビル群に住居のあるお年寄りたちが、たくさん散歩している。
 堤防の近くまで来ると、いつも決まったようにこの時間に公園を歩いている三人連れに出会った。
 ひとりは80歳くらいの男性。もうひとりはその伴侶らしき女性で、車椅子に乗っている。
 そしてその車椅子を押しているのは、介護ロボットだ。
 つるりとした白い外装の、ヒューマノイド。優しい女性の顔をしているが、目はトンボの目のようで瞳がない。
 在宅介護のほとんどを担っているのが、この介護ロボットだ。要介護度に応じて政府から貸与され、日々の移動、トイレ、食事や入浴を介助し、体温や血圧を測定・記録して病院のコンピューターにデータを送る。
 今や日本の総人口の三分の一を占めるという65歳以上の高齢者が、自立して生活するための支援策のかなめとなる、最新型のロボットだった。
「スコシ、ユレマス」
 たどたどしい合成音声が、口から発せられる。車椅子が芝生から舗装道へ乗り上げるときに、小さくカタンと音をたてた。
(親切だなあ)
 セフィロトが感心して見ていると、車椅子の横をぴったり歩いていた男性が、怒鳴り始めた。
「おいっ。乱暴にするな。ばあさんが怪我をするだろうが!」
「命令ヲ、モウイチド、オ願イシマス」
「うるさいっ、この馬鹿ロボット!」
 近くにいるハトがびっくりして飛び立つような大声。
(うわ。95デシベルだ)
 そう思って見ていると、老人はじろりとにらみ、
「何をじろじろ見とる!」
 今度は、セフィロトに向かって怒鳴り始めた。
「あ、あの」
 彼はわずかにどもる。顔の表皮を紅潮させる。
 人間は恥ずかしいと感じたときそうなるのだ。だから彼も自分のプログラムに、そう書き加えた。
「すみません。でも、そのロボットは悪くないと思います」
「なんだと」
「車椅子を静かに動かしていたし、揺れると注意もしました。それから、声を大きくするよりもゆっくりと話したほうが、ロボットの音声認識率が上がります」
「なんなんだ、おまえは。えらそうに」
「おとうさん、外国の方ですよ。この人は」
「そんなこと、言われなくてもわかっとる!」
 夫は、病気の妻にもつっけんどんに怒鳴る。きっといつもこんなふうに誰彼かまわず怒鳴っているのだろう。妻は慣れているのか、にこにこしながら、「すみませんねえ」と謝ってくれる。
 このおばあさんは好きだけど、おじいさんは嫌いだ。
 彼らは舗装道路を横切って、中央の芝生に着くと、夫が花模様のシートを木陰に敷いた。介護ロボットが老妻を軽々と抱きかかえ、シートの上に座らせる。
「スコシ、寒イデス」
 と言いながら、毛糸のひざ掛けを掛けてあげる。
(すごい)
 ロボットの無駄のない動作に、目を見張った。
 彼よりずっと簡素な人工知能なのに、こうしていろんなことができて人間の役に立っている。
(わたしは何もできないのに。胡桃を困らせる余計なことばかりしてしまうのに)
 彼の眼の前で老夫婦は、いつもの日課どおりにお弁当を広げ始めた。病気のほうの妻が、夫にお茶やおにぎりを甲斐甲斐しく差し出す。
 お弁当。いいな、いつか胡桃とふたりでこんなふうに遊びに来たいな。
「まだ、何か用か」
 いつまでも立ち去らないセフィロトに、また夫が怒鳴る。
「よかったら、おひとついかが?」
 妻がおにぎりをひとつ、彼に差し出す。
「いえ、おなかがいっぱいなので」
 彼は、あわてて断った。
「でも……、その小さな黄色のものはなんですか?」
「これは、卵のだし巻きですよ。どうぞ」
 シートの上に座ると、おばあさんの手から楊枝にさした卵焼きが渡される。
「……甘くて、おいしいです」
「それはよかった。お口に合って」
 彼女はうれしそうに、にっこり笑った。
「このだし巻きもタコウインナーもおにぎりも、ここにいるロボットさんが作ったのよ」
「え……。すごいです。信じられない」
「毎日、よくしてくださるのよ。ロボットさんのおかげでとても助かっているわ」
 介護ロボットは車椅子のそばで、自分が話題になっているのにまったく素知らぬ様子で立っている。会話に加わるようにはできていないのだろう。
「あんた、いつもこの公園をうろついてるな」
 男のほうは、ふきげんそうにおにぎりを頬張っている。
「はい、雨の日以外は、たいてい」
「他にすることはないのか?」
「え?」
「仕事はしとらんのか? 学生か?」
「いいえ、学生ではありません」
 セフィロトは返答に困った。
 9月から大学に行くと、【すずかけの家】のスタッフや胡桃のお父さんにも嘘をついてしまった。大学に行っても勉強することなどない。こうして人間を観察することが、彼の勉強なのだ。
「いい若いもんが、仕事もせずにふらふらしおって」
「仕事、ですか」
 彼には、仕事というものもない。
 クリンには、部屋中を掃除するという仕事がある。この介護ロボットには、おばあさんの世話という仕事がある。どのロボットも何かのために作られているのに、わたしには何もない。
「おとうさん、失礼ですよ」
「仕事、させてください」
 彼は、ムキになって言った。
「何でも手伝います。なにか、させてください」
「そうか。いい心がけだ」
 老人は、白い不精ひげだらけの顔でにやにや笑った。
「それじゃ、手始めにばあさんを車椅子に乗せてやってくれんか。ただし、そこのロボットよりずっと丁寧にそっと、だぞ」
「おとうさんてば!」
「わかりました」
 セフィロトは、おばあさんの背中と膝の下に手を差し入れて、ぐっと持ち上げた。
 ――持ち上げようとした。
「あれ??」
「わはは」
 いくら力を入れても、彼女はびくともしなかった。


「犬槙さん、何とかして。セフィったらすごく落ち込んじゃって」
 私は、セフィロトを作ったロボット工学博士の犬槙さんに電話で訴えた。
「介護ロボットに楽々持ち上げられたおばあさんを、5センチも持ち上げることができなかったんですって。私が帰ってきたら、彼の回りの空気がどんよりと暗いの。食欲もなくて、晩御飯も食べられなかったわ。……て、もともと食欲なんてないんだけど」
「ふうん」
「最新の技術で作られたとずっと聞かされて、自分でもそう信じていたらしいのよね。でも、今日のことで自分の能力に自信がなくなっちゃったみたい」
「そうだろうな」
 と画面の中の犬槙さんは、涼しい顔だ。
「どうして、もうちょっとセフィを性能よく作ってあげなかったんですか。確かに彼、力なさすぎですよ。
おまけに【すずかけの家】で子供たちとサッカーしても、めちゃくちゃ下手だし。樹もスポーツは苦手だったけど、まさかその呪いですか?」
「あのねえ。そんなわけないだろ。僕たちを誰だと思ってる。セフィロトの人工筋肉の力は成人男性の3倍、反応速度は5倍に設定してあるんだぜ」
「とても、そんなふうには見えません」
「最初は幼児並みに力を抑えてあるんだ。まだ何もわからない初期段階のうちからフルパワーが出せたら、大変なことになるだろ?」
 私は想像してみた。
「胡桃。おはようございます」
 セフィロトが、朝のあいさつで私を抱きしめる。
 ぐしゃ。あばら骨がぽっきり。
「そ、その通りです」
「だろう? 人間も成長にしたがって、神経のシナプスがつながっていき、より強く素早い動作ができるようになる。セフィロトも同じだよ。人工ニューロンが学習と訓練によって結合を深めるにしたがって、本来の能力が出せるようになる」
「じゃあ、セフィが本来の力を発揮したら、今とは比べ物にならないくらいすごいんですか」
「あたりまえだ」
 それから、ちょっとためらったように付け加える。
「――使いようによっては、歩く兵器になる」


     



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