第5章 「永久とわなる存在」  (2)                 BACK | TOP |  HOME




「よかったね、セフィ。犬槙さんが、今よりずっと力が出せるようになるって」
「ほんとうですか?」
 ソファの腕にぐったりもたれかかっていたセフィロトが、情けない顔を上げる。
「ただし、トレーニングが必要なんだって。どんなことでも努力しなきゃ、自分のものにはならないのよ」
「します! 努力します」
 彼はとたんに、はじけるように立ち上がった。
「胡桃。何か重いもので、運ばなければならないものはありませんか?」
「ああ、そう言えば」
 私は、今はセフィロトの部屋に使っている書斎に入って、壁の奥の収納スペースを開けた。
「このケースに、樹のコレクションしてた21世紀の本がたくさん入っているの。ずっと前に犬槙さんが見たいって言ってたから、これを玄関まで運んで、配達ボックスに入れてくれる?」
「はい、わかりました」
 これだったら、たぶん20キロそこそこの重さだし、ちょうどいい訓練になる。
 私は彼を残して部屋を出て、リビングの3Dテレビで楽しみにしていた連続恋愛ドラマを見始めた。
 1時間。2時間。
 いくら経っても、セフィロトは姿を見せない。
 どうしたのかと思って部屋をのぞくと、床に本をいっぱい広げて、腹ばいになって読みふけっている。
「セフィったら!」
 彼は「きゃ」と、飛び上がった。
「く、胡桃。ごめんなさい」
「いったい荷物運びはどうしたの?」
 自分でもどうしてこうなったのか、わからないという顔をしている。
「それが、あんまり重くて運べないので、半分ずつ運ぼうと思って中身を出したんです。そしたら」
「そしたら?」
「本の題名がおもしろそうなので、つい読んでしまいました」
 私はそれを聞いて、笑い転げた。
 20キロの荷物が運べないセフィロトの非力もさることながら、なんだかあまりにも樹に似ている。彼もいつもライブラリファイルの整理をする前に読みふけってしまう性分だったのだ。
 この子が歩く兵器だなんて、犬槙さんもおおげさすぎる。
 彼は笑われて、またしょげてしまった。
「わたしは、どうしてこんなふうに、胡桃の役に立てないのでしょう」
「セフィ。あなたはここにいるだけで、十分私の役に立っているのよ」
 だって、彼がいなければ私は今頃生きてはいなかったはずだから。樹が死んで何の希望もないはずだった私に、こんなにもいとおしい存在ができるなんて。
 私は思わず彼を抱きしめずにはいられなかった。


「胡桃。ここに座って、練習台になってください」
「はいはい」
 ソファに座った私の体を、彼は持ち上げようとする。人間がやるみたいに歯を食いしばり、力をこめているらしいのだけれど。
「はああ」
 5分後、ギブアップ。
「やっぱりまだ無理みたいねえ」
 私はため息をついた。
 こうしてひとつのことに一生懸命になっているセフィロトが、なんだかうらやましい。
 私自身大人になっていつのまにか、こんなにひたむきになる気持ちを忘れてしまったからかもしれない。
「力というより、バランスの問題なんじゃないかしら。何かすごくあぶなっかしいんだもの」
「だいたい胡桃は、重すぎます。あのおばあさんよりずっと重いです」
「失礼ね!」
 とんでもない禁句に、ムカッと来る。
「私は、ちっとも重くなんかないわよ」
「嘘です。【エリイ】のデータによると、わたしがここへ来てから2キロ太ったくせに」
「そ、そ、そんなことないったら」
 と言いながら、心当たりがある私は顔がひきつる。そう言えばこのごろ、ちょっとウェストがきついかも。
「あーあ。セフィといっしょに、私もトレーニング始めなくちゃだめかしら」
「じゃあ、明日からいっしょにしましょう!」
「へ?」
「だから、トレーニングです」


 翌日、私は朝の5時にセフィロトに叩き起こされた。
 セフィロトはどうも大昔のボクシング映画を見て感動して、最善のトレーニング法と言えば、生卵を飲むことと、朝日の中を走ることなのだと思い込んでしまったらしい。
 まだ薄暗い時間なのに、公園ではけっこうウォーキングしている人がいる。
 私とセフィロトは舗装道路に沿って、並んで走り始めた。
 早朝の空気は心地よいほど冷たかった。でも少し走ると、運動不足の私の全身から汗が吹き出てくる。口から吐き出した息が熱い。
 隣を走っているセフィロトにはそれがない。いくら走っても彼は、息があえぐということがなく、汗もかかない。
 こんなとき彼がロボットだということをあらためて思い出して、とても奇妙な気持ちになってしまう。それほど彼はふだん、人間にしか見えないのだ。
 コンクリートの高い堤防によじ登って、東京ベイの海から朝日が昇るのを静かに待つ。
 海の波がきらきらと、金色の小さな光の破片をまき散らしているのを、セフィロトの同じ金色の瞳が見つめている。
 いつかどこかで見た風景のようななつかしさと、初めてのものを発見したような感動。そのふたつが同居する、今という瞬間の不思議さ。
 このときを永遠に切り取って、心にしまっておけたらいいと思った。


「またおまえか」
 桑田さんはいつものように、ぎょろりとにらむ。
 あの老夫婦が桑田という名前だと、ようやく何回目かに会ったとき聞き出した。
 今日も穏やかな秋の日差しの中、介護ロボットと三人で公園を散歩している。
「相変わらず、何もしないでぶらぶらしてるんだな」
「いいえ、そんなことありません」
 セフィロトは、ちょっと自慢げに胸を張る。
「毎日、朝早くからトレーニングしています。ちゃんと仕事ができるように」
「ふん、職業訓練中か」
「桑田さんは若い頃、何の仕事をしていらっしゃったのですか」
「おまえの知ったことじゃない」
「セフィさんだったかしら」
 桑田さんの奥さんが車椅子の上から、とりなすように話しかける。
「ごめんなさいね。何度聞いてもお名前を忘れてしまって。物覚えが悪くて」
「いいえ、かまいません」
「主人はね、昔カーエンジニアだったんですよ」
「カーエンジニア?」
「F1レースというのをご存知?」
「はい」
 彼はあわててデータを探る。
「2115年に最後の大会がフランスで行われた、自動車のレースですね」
「主人はあの大会で、日本のチーフオペレーションエンジニアをしていたんですよ。若い頃からものすごい爆音の中で仕事をしていたので、それであんなに声が大きいのよ」
「そうなんですか」
「今は、自動車の速さを競う時代じゃないということで、レースも中止になってしまって、主人も今は引退してしまったけど、本当に根っから自動車の好きな人だったんですよ」
「こら。余計なことを言うんじゃない!」
 桑田さんは、振り返りもせずに怒鳴る。
「照れてるわ」
 奥さんは、くすくす笑った。
「桑田さんたちは、結婚して何年になるんですか」
「もう55年です」
「55年?」
 セフィロトは驚いて叫んだ。古洞博士と胡桃は結婚して3年だと言っていた。
「とても長く、いっしょに暮らしているんですね」
「これくらい長いと、もう何も言わなくても、考えていることがわかりますよ」
 彼女は皺だらけの顔に少女のような笑みを見せた。
「セフィさん、あなたは誰かといっしょに暮らしていらっしゃるの」
「はい、胡桃という人といっしょに暮らしています」
「日本の方ね。あなたの恋人?」
「いいえ、そうではありません」
 困った。マスターということばを使うと、おかしいだろうか。
「胡桃は……わたしの家族です」
「そう、それは良かったわね」
 桑田さんの奥さんは、納得していないはずなのに優しくうなずいてくれる。
「ひとりは寂しいわ。家族といっしょに暮らせるのが何よりよ」
「はい」
「こら! もっと丁寧にやれ!」
 桑田さんは、また舗装道路の段差で、介護ロボットを叱りつけている。
 いつも、「こら」とか「おい」とか呼ばれているだけなのが不思議だった。「彼女」のほうも、何も言わずにそれを受け入れている。
「そのロボットには、名前がないのですか?」
「は?」
 彼の問いに、老人は不機嫌に答える。
「確か、CA4型だ」
「それは、製造型番号です。このロボットだけの名前はないのですか?」
「たかがロボットに名前なぞあるか」
「でも、家族なのに」
「ロボットが家族のはずがないだろう。血も通っていないのに」
 せせら笑うように答える桑田さんに、彼はショックを受けた。
 ロボットは家族じゃない。
(もし、胡桃がわたしのことをAR8型としか呼んでくれなかったら。ロボットは家族じゃないと思っていたら)
 どんなに悲しいだろう。
[きみは、悲しくないの?]
 セフィロトは、デジタル信号でCA4型に話しかけた。
 答えはない。何も感じていないのだろうか。
 やっぱり、桑田さんのご主人は、嫌いだ。


「1……2……3……」
 セフィロトは力尽きて、私をどさりとベッドの上に置く。
「ふーっ」
「すごい、セフィ! 10秒持ち上げられたよ」
「これで第一目標クリアです」
「あとは、ちょっとふらつくのを直すのが課題かな。でも明日から歩く練習もしよう」
「うれしいです。これでわたしもあの介護ロボットに負けない仕事ができるようになります」
「そうね」
 私は彼の髪をなでて、言う。
「セフィ。ひとつ言っておくことがある」
「はい、何でしょうか」
「誰かに勝つとか負けるとかは、大事なことだけど、それだけではないのよ。他のロボットがあなたにできないことができても、それは気にする必要はないの。ただみんな持ってるものが違うだけ。
あなたには、あなたにしかできないことがある。それを忘れないでね」
「はい」
「でも、何かを目標にして努力するのは、いいことよ」
「わたしの最終目標は、あの桑田さんのおばあさんを、そっと気持ちよく抱き上げてさしあげることです」
「楽しみだね」
「待ち遠しいです。胡桃も早くおばあさんになったらいいなあ。そうしたら毎日お世話できるのに」
「ひどいっ。そんなこと願うのやめてよ」
「わたしも、桑田さん夫婦みたいに、50年も60年も胡桃のそばにいたいです」
 彼は不安そうに、私の顔を見た。
「胡桃。わたしは胡桃の家族ですか?」
「そうよ。私のとても大切な家族」
 セフィロトはいきなり、私の首に抱きついてきた。勢いあまって、ふたりはベッドに倒れこむ。
「胡桃がマスターでよかった。ほかの人のところへ行かなくてよかったです」
「セフィ」
「胡桃と会えて、幸せです。わたしは作られてきてよかった……」






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