第6章 「からみあう想い」  (5)                 BACK | TOP |  HOME




 イブの夜、セフィロトは北見さくらと【カジノシティ】を訪れた。
 東京都営【カジノシティ】は、21世紀中盤にベイエリアの西側一帯の2万平方メートルの新埋立地に建設された、ラスベガスを真似た総合娯楽施設。ショースペースとカジノとホテルの織り成す、きらびやかな不夜城。
 カジノのおかげで都の財政は潤い、雇用は促進されたものの、そこから吐き出される富を目当てにする不穏な輩たちも世界中から集まったと言われる。もっともそこに遊びに訪れる一般人には彼らの姿は見えないのだが。
 美しいイルミネーションの目抜き通りを見下ろすレストランで向かい合って食事をした。
 彼の食物摂取用のタンクはフルコース料理を全部収めるには小さすぎたが、それでもうまくやれば、食事や酒を楽しんでいるふりはできるようになった。
 さくらは、美味しいワインに頬をピンク色に染めている。今晩の彼女は【すずかけの家】で汗だくで駆け回っている彼女とは全然別人だ。ショートの髪の毛を内側にカールし、アイシャドーを入れた濃いめの化粧もドレッシーな服装に似合っている。
 きれいだった。胡桃とはまた別の種類の美しさだと思う。
 彼女との会話に、セフィロトは以前からずっと興味を引かれていた。
 さくらの話す音節ごとの速度は、胡桃に比べておよそ32%速かった。平均2分25秒に一回話題が切り替わる。その内容も胡桃とは全然違う。若者のあいだで流行りの音楽やファッション、人気俳優のゴシップなど。
 人工知能に新しい知識が書き込まれ、思考ルーティンが揺さぶられる。一種の快感だ。
「セフィ、私といるのって楽しい?」
「とても、楽しいです」
 さくらはそれを聞いて、うれしそうに微笑む。
「私も。だけど、その丁寧なことばづかい、他人行儀だからやめてほしいなあ」
「でも、人に対してはそう話すようにプログラムされているので」
「日本語学校のプログラムだったの? 今どきずいぶん厳しいんだね」
 食事が終わると、ふたりは照明を落とした回廊を歩き出した。彼女はセフィロトの腕に自分をからめるようにぴったりと寄り添ってくる。
 ふたりで過ごすクリスマス・イブ。
 眼下の街はいつもにまして華やいで、回廊には幻想的なキャンドルを模したホログラフィーがあちこちに浮かんでいる。ところどころに置かれたベンチでは、恋人たちが語らっているのが見える。
 さくらは突然立ち止まり、小柄な身体をうんと伸ばして彼の首に両手を回した。
「さくら先生」
 驚いている彼に、
「ああん、せめて、さくら先生はやめてよ。さくらって呼んでくれる?」
「さくら。あの、ちょっとくっつきすぎです」
「デートなんだもん。これくらい当然よ」
「でも、女性にむやみに抱きついてはいけないと胡桃に言われています」
「それって150年も前の話。日本はもう欧米と同じなんだよ。それに恋人同士だったら当たり前でしょ」
「恋人?」
 さくらは次のことばを継がせずに、唇を押し当ててきた。
 キスが終わったとき、彼女の目は照明を映してきらきらと輝いていた。
「恋人になっちゃだめ? 私、セフィのことが好き」


 どう答えたらいいのだろうか。
「よくわかりません。さくらの言っている……恋人になるという意味が」
「英語だと『ビー ラバーズ』、だよ。互いに恋愛感情を持って付き合うこと」
「恋愛感情……」
 人工ニューロンが『恋愛』について情報を集めようと、記憶の断片をやりとりしている。
「セフィは誰かを好きになったことはないの?」
「それは……」
 みんなのことが好きだ。犬槙博士も、さくらも、水木園長も、【すずかけの家】の先生や子どもたちみんな。
「そうじゃなくて、たったひとりの女性を愛したことはないの?」
「たったひとりでなくてはいけないのですか?」
「そりゃふたり同時に愛する場合もあるかもしれないけど……。なんだかセフィって変」
 さくらはくすくす笑った。
「一度も恋をしたことがないみたいだよ」
「恋をしたことは、ありません」
「え? ほんとうに?」
「ほんとうです。恋という気持ちがどんなものかわかりません」
 彼女は目を見開いて絶句すると、ほうっと大きなため息をついた。
「セフィって、ときどき天使みたいだね。純真で無垢で。胡桃先輩があなたのことをいとおしそうにいつも見ている気持ちがわかる。いいなあ。恋をしたことがないと、誰かを独り占めにしたいとか、横取りしてやろうとか、醜い思いを持たなくてすむんだろうな」
 彼女はうつむいて、泣きそうに唇を噛みしめた。
「私、自分でもヤな女だと思う。今日のデートのこと、強引に先輩にOKを言わせたの。胡桃先輩は、あなたのことを愛してるってわかってたのに」
「そんなはずはありません。胡桃が愛しているのは、亡くなられた古洞博士だけです」
 セフィロトは微笑んだ。
「そう、いつも言っています。人間はたったひとりのことしか愛せないのなら、胡桃が愛しているのはわたしではありません」
 自分の聴覚でその声を認識した途端、セフィロトの中で苦痛が走った。
「あ……」
「どうしたの?」
「痛い……。身体のどこかが痛くなったんです。物理的刺激は何もなかったはずなのに」
 一瞬、混乱して思考できない。
 情報をすべて中枢に集めようとして、バランス制御がおろそかになった。がくんと膝が折れ、セフィロトはベンチに崩れるように座り込んだ。
「セフィ、だいじょうぶ?」
 からだを折り曲げるセフィロトに、さくらが心配そうに横に座る。
「なぜかわかりません。胡桃のことを考えたとき、突然痛いと感じて……」
 胡桃が愛しているのは、わたしではない。
 そのことばが、彼の回路の中で解けない命題としてうねりながら、行き場を失っている。
「あなたは、胡桃先輩のことをどう思ってるの?」
 さくらが真剣なまなざしでのぞきこんできた。
「胡桃は……わたしの家族です」
「それだけ? ただいっしょに住んでいるっていうだけ?」
 胡桃の笑顔が彼の人工の視神経の中に幻の画像を結んだ。16、64、分割された数え切れないほど多くの胡桃の笑顔。
「大切な人です。どんな危険からも守りたい。いつもそばにいて、胡桃が感じていることを知りたい」
 作られてからずっと彼女を見て、彼女の声を聞いていた。
「胡桃が笑っていれば、わたしもうれしいし、泣いていれば悲しくなります」
 少しでも役に立ちたい。彼女が寂しければ、慰められるように。辛ければ、少しでも心が和むように。
「わたしは胡桃のために生まれたと思っています」
「なあんだ」
 拍子抜けしたようにさくらは天井を見上げて、やがておかしそうにクスクス笑い始めた。
「そんなんじゃ、かないっこないわ」
「さくら?」
「セフィ、まだわからないの?」
 彼女の投げかける微笑みは茶目っ気たっぷりなのに、どこか悲しげだった。
「あなたは胡桃先輩に恋をしている。それほど一途に想う気持ちは、恋なんだよ。
だから、さっき痛いと感じたの。胡桃先輩はまだ亡くなったご主人を愛していると言ったとき。
……痛んだのは、身体のどこかじゃなくて、心だったんだよ」


 真っ暗な部屋の中、ダイニングテーブルの前にひとりで座っている。
 ひいらぎの蜀台に乗せた赤いキャンドルは、もう半分以下になった。【エリイ】から流れていたクリスマスソングも、うるさくて消してしまった。
 たったひとりのクリスマスイブ。
 前の日の残りものでディナーを済ます、そんなクリスマスの過ごし方なんてある?
 でも何よりも一番聖夜にふさわしくないのは、こんな自分の心。
 セフィロトを連れて行ってしまったさくらちゃんを恨む気持ちが、渦を巻いている私の心。
 本当なら、彼とふたりでこの夜を過ごすはずだったのに。
「あ、そう言えば……」
 私は突然去年のクリスマスのことを思い出した。
「なんだ。去年も同じように待ちぼうけだったんじゃない」
 思わず笑いがこぼれる。
「私ってクリスマス運、最低」
 去年、夫の樹はなんと、クリスマスイブだということをすっかり忘れて夜中まで研究室に籠っていたのだった。
『どんなに怒鳴っても、ディスプレイの前から離れないんだよ』
 犬槙さんが時間刻みの忙しいデート先から、呆れ果てたように連絡をくれたっけ。
 今から考えれば、あのときの樹は残り少ない自分の時間をセフィロトの完成のために使おうと必死だったのだろう。
 冷め切ってしまったご馳走を眼の前に待って、待ち続けて、樹が息を切らして私のもとに帰ってきたのは、もう12時を過ぎていた。
『胡桃、ごめん』
 そう言って私を抱きしめた彼のぬくもりだけで、待っているあいだの悲しい思いはすっかり消えてしまったけれど。
 キャンドルの光があれほど美しくにじんで、私たちを包んでくれたことはなかった。
「樹……」
 ぽとぽとと、目に当てたこぶしの隙間から雫が落ちる。
 樹。樹。
 帰ってきて。こんな夜に私をひとりにしないで。
 あのときみたいに私を抱きしめてよ。
 食いしばった歯のあいだからとめどなく嗚咽が洩れ、私はテーブルの上に泣き伏した。
 どれくらいそうしていただろうか。
 玄関で物音がしたかと思うと、リビングに続くドアが開け放たれた。
 セフィロトが立っていた。
「胡桃!」
 息が切れているはずもないのに、彼の声は苦しげだった。
「……泣いていたのですか?」
 彼はゆっくりと歩み寄ると、驚いて椅子から立ち上がった私を無言で抱きすくめた。
「ごめんなさい、胡桃」
「セフィ、いったいどうしたの?」
 彼は腕をほどくと、私の頬を伝う涙を指先でぬぐった。
「食事が終わって、すぐ帰ってきました」
「だって、予定では夜遅くまでショーを見るって」
「さくらが、今すぐ胡桃のところに帰れって言ってくれたんです」
 彼がそう言って微笑むのを見たとき、全身に痺れが走った。
 からだがヘン。足が宙に浮いているみたい。彼の瞳は熱を帯びて、私を目に見えない鎖でがんじがらめに縛っていくようだ。
「胡桃。分析不能だった自分の感情の意味を、今日やっと知りました」
 彼の感情の意味?
 ぼんやりと思う。
 その……その次のことばが恐い。でも……聞きたい。
「わたしは、胡桃を愛しています」




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