第7章 「憎しみの紋章」  (1)                 BACK | TOP |  HOME




「どうしたらいいでしょう、犬槙さん」
 失敗したと思った。
 研究室の作業台に肘をついて、犬槙さんの淹れてくれたコーヒーを飲みながら、母親が子どもの話をするような調子で話そうと思っていたのだ。苦笑をこらえるふりをして。
 でも、最後の最後に来て、失敗した。
 声が震えた。どれだけ私が動揺しているかがはっきりわかってしまうくらい。


 クリスマスイブの夜。
 セフィロトは、愛していると確信を持った声で言った。何度も何度も、大切なものを包む優しさで私に口づけした。もし私が彼を突き放さなかったらそのキスは、テーブルの赤いキャンドルが溶けて燃え尽きるまで続いていただろう。
『どうしたの、急に』
『さくらが教えてくれたのです。わたしの胡桃に対する気持ちは恋なのだ、と』
 その夜遅く、さくらちゃんに連絡した。彼女はいつもの溌剌とした調子で、こう言い切った。
『だって、胡桃先輩、セフィったら堂々と宣言するんですよ。わたしは胡桃のために生まれたって。どんな危険からも守りたいって。もうそんなのバレバレじゃないですかぁ。セフィは胡桃先輩に恋焦がれてるんです』
 そして最後は、彼女らしくない消え入るような声で、こう締めくくったのだ。
『ごめんね。先輩。セフィを取ろうとして。私、もうあきらめました。だから、セフィの気持ちを真剣に受け止めてあげて』
 さくらちゃんが誤解するのも無理はないと思う。
 樹との思い出話の端々から自分が造られた経緯を知ったセフィロトが、自分は胡桃のために生まれた、と考えたのは理解できる。それに、ロボットとしての彼が、マスターである私を守ろうとするのは当たり前のことだ。
 でも、それをひとりの人間の男性の発することばとして聞いたらどうだろう。とんでもなく情熱的な恋の告白、としか受け止められないではないか。
 さくらちゃんのその思い込みに、セフィロトは影響されてしまった。
「彼は、私に恋をしていると錯覚してしまったんです。なんとかそうではないことを説得しようとしたんだけど、うまくいかなくて」
「錯覚……ねえ」
「なんとか犬槙さんのほうから、説明してもらえないでしょうか」
 そこまで続けて、正面の椅子から私の顔をじっと見つめている犬槙さんに気づいた。
「セフィロトのその状態が問題なんじゃないと思う。むしろ……」
 額に指を当てるようなゆっくりした仕草で、眼鏡を押し上げる。
「問題なのは、胡桃ちゃんの気持ちじゃないのかな?」
「え?」


 セフィロトはひとりで、自宅そばのモノレールの駅に降り立った。
【すずかけの家】が冬休みに入り、保育教師たちも普段とは違う変則的なシフトを組んでいる。今日はセフィロトが出勤で胡桃が休みだった。
 高層ビル群へと通じるチューブ型の歩道を辿りながら、セフィロトは重苦しいほど難解な命題を抱えていた。
 胡桃は彼を避けているのかもしれない。今日のシフトも急に変更して、休みを取ったのだ。
 透明な遮光性のチューブを通して、灰緑色に曇った冬空を見上げる。
 あれ以来、胡桃は心からの笑顔を見せてくれない。
 きっと困っているのだ。
 胡桃の愛しているのは古洞博士だけだから、わたしではないから、だから返事ができなくて困っているのだ。
 人間は、たったひとりの人しか愛せない。
 自分が愛している人が自分を愛してくれる確率というのは、どれほど小さいのだろう。そしてその陰に、一方通行のまま捨てられた気持ちがどれほど天文学的な数で存在するのだろう。
 思い合った同士が結婚までいたるカップルというのは、きっとロボットである自分には想像もつかないような強い愛情があるのに違いない。古洞博士と胡桃のように。桑田さん老夫婦のように。死という永遠の別離の壁さえ超えるほどに。
 歩道がそれぞれのビルへと枝分かれするその角に、ひとりの男が彼を待ち構えるように立っていた。
「あ、あなたは……」
「久しぶりだね。AR8型」
 記憶中枢の中から、彼の顔と声のイメージが取り出された。科学省の監査官。セフィロトの面接審査のとき、委員長の隣に座っていた男。胡桃がのちのちまで憤慨していた、彼女に対して『機械とキスをするのは気持ち悪くないですか』と嘲った男だ。
「お久しぶりです。柏審議官」
 嫌悪的な思考を慎重に取り払って、彼は会釈した。
「ほう、さすが優秀なロボットだ。一度会っただけなのに、僕の名前まで覚えているとは」
 彼の方は、嫌味たらしい皮肉を隠そうともしない。
「それに、5ヶ月前はまだ赤ん坊のようにおどおどしていたのに、今はいっぱしの好青年じゃないか。自律改革型というのは能書きだけじゃないね」
「何か、御用でしょうか」
 無感動な視線を返す。胡桃や犬槙博士、【すずかけの家】の人たちの前ではあれほど表情が豊かなセフィロトも、この科学省の役人の前では、まるで冷たい機械に戻ったようだ。
『人はものとして扱われれば、ものとして答える』
 胡桃があのとき言ったことばは本当なのだ。
「いや、近くまで来たついでに、古洞胡桃さんにお会いしたくなったんだよ。目の覚めるような美人さんで忘れられなくてね」
 セフィロトの中に、歯をきしませる衝動が生まれた。それは憎しみと呼んでよいほどの強い怒り。
「冗談を言うためにいらしたのですか。本当の目的は何です?」
「ほう」
 柏は、少し感心したように彼を見つめた。
「本当に、まるで人間のようだな。AR8型。どんな膨大なコンピューター解析を費やしても、きみの今の複雑な表情は判読できないだろう」
「……」
「僕が今日来た本当の目的は、きみを科学省に連れて行くことだ」
「え?」


「私の気持ち……」
「そう。きみがセフィロトのことをどう思っているか、だよ」
 私は、ゆっくりと犬槙さんのことばを反芻していた。
 私のセフィロトに対する気持ち。
 それはもちろん、彼のことを愛している。でもそれは、子どもに対する愛情だ。男性として愛しているのではない。
 第一、――第一、私は古洞樹の妻なのだ。愛するのは一生樹だけと決めたのだ。
「どうなの?」
「セフィは樹がくれた子どもです。私にはそれしか考えられません」
「それでは、そのことをきちんとセフィロトに伝えればいい。揺るぎのない気持ちで。そうすれば彼も納得する」
「でも、納得してくれなかったんです」
「それは、きみの中に迷いがあるからだ。セフィロトはずっときみを観察しているんだよ。偽りがあればたちどころに見抜く」
「迷い……、私が?」
「ないとは言わせないよ、胡桃ちゃん。僕の目から見ても、きみはセフィロトに恋している」
「うそ……」
 犬槙さんの優しいけれど、射抜くようなまなざしに私は動揺した。
 なぜ、みんなそんなことを言うの?
 父といい、さくらちゃんといい、犬槙さんといい。みんな私がセフィロトを想っていると。
 そんなに私に隙があるように見えるの? 樹のことを忘れたがっているとでも思うの?
「誤解、です」
 かたくなに答える私に、犬槙さんはため息をついた。
「それなら、ほうっておけばいいよ。セフィロトも一時的な熱情だと気づいて、元のマスターとロボットの関係に戻れるだろう。
恐がることはない。彼は胡桃ちゃんのことをどうこうできるわけじゃない」
 最後に付け足すようにつぶやいた。
「セフィロトの身体にはもともと、男性の機能はないんだ」
「い、犬槙さん!」
 私はパニックに陥り、思わず椅子を蹴って立ち上がった。膝がわなわなと震え、目のまわりがかっと熱くなった。
「ひどい。……私、そんな。そんな!」
 そして、その激昂が何よりも自分の本心を表わしてしまったことに気づく。


 今の日本には、ロボットを性的な対象として扱う店があると言う。それを聞いたとき、そのおぞましさに身震いしたことがある。
 それなのに、私は。
 セフィロトにキスをされたあと、あわててバスルームに飛び込んだ。
 服を全部脱ぎ捨てシャワーを浴びたとき、思い知らされたのだ。どれほど自分の肉体が熱くなっているかを。
 誰よりもおぞましい欲望を持っているのは、この私だ。


「ごめん、胡桃ちゃん」
 犬槙さんは私が涙を浮かべていることにうろたえ、私の身体を引き寄せた。
「ひとこと多いのが僕の欠点だ。ごめん。今のは、なしにしてくれ」
「はい……」
「セフィロトのことは少し様子を見よう。きみさえその気がなければ、そう正直に言いなさい。いやならキスは禁止すればいい。ロボットはマスターの命令に逆らうことはできない」
「はい」
 犬槙さんの腕の中で少し落ち着いた私は、目をぬぐおうとして、うつむけていた顔を少し脇にそらした。
 そのとき泳いだ視線の隅で、妙なことを発見した。
 私がさっきまでコーヒーを飲んでいた作業台。そういえば、いつもはガラクタが山積みなのに、今日は妙にすっきりと片付いている。
 どうして?
「犬槙さん。AR9型の開発は……」
 顔を上げた途端に、唇に暖かいものが触れた。
 犬槙さんがにっこり笑う。
「人間の男のキスの味も、忘れないでもらいたいね」
「きゃ……っ」
 一瞬のち、私は彼の頬に思い切り平手打ちを食らわしていた。


「セフィ」
 私は夕暮れの真っ暗な家の中へ入って不思議に思い、家にいるはずのセフィロトの名を呼んだ。
「セフィ、いないの?」
 数秒遅れて、彼が自分の部屋から出てきた。
「おかえりなさい、胡桃」
 私はそのとき、なぜかほっとした。まるでセフィロトがいなくなってしまったような気がしたのだ。
「どうしたの? いつもなら、すぐ迎えに出てくれるのに」
「すみません、少し考え事をしていて」
 そう微笑みながら、彼は私に抱きつく。
 でも、キスはしなかった。私の身体がぎゅっと緊張したのを感じとったのだろう。
 私たちは表面上はいつものとおり、おしゃべりをしながら食事の支度を整え、隣り合って食事をした。
 お皿を重ね、片付けるために立ち上がったとき、セフィロトはふと思い出したように言った。
「そういえば、今日科学省の人がこの家に訪ねてくる途中で出会いました」
「え。何の用で?」
「わたしを科学省専属のロボットにしたいそうです」
「え?」
「5ヶ月前の審査のときから討議されていたらしいのです。人間にとっては非常に危険だが、従来のロボットでは咄嗟の対応ができない深海や地底や宇宙の探査に、これからわたしを使っていきたいと。
犬槙博士の返事はノーだったのですが、わたしのマスターである胡桃の了承を得られれば博士の気持ちも変わるはずだと言っていました」
 セフィロトは、不安のにじんだ笑顔で私を見下ろした。
「胡桃は、わたしに行ってほしいですか?」
 



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